文烈様、戸の外が静かすぎるのですが?
劉明珠でございます。
前回、玉珠の本邸のお部屋を見に参りました。
曹肇様のお部屋に近く、曹纂様の乳母の控える場所にも近く、侍女の目も届く、たいへん安全なお部屋でございました。
安全すぎて、文句の置き場所に困るほどでございます。
玉珠本人は、お菓子が冷めない距離だと喜んでおりました。
妹の世界地図には、どうやら菓子皿と私と曹肇様が大きく描かれているようです。
曹纂様にも会いました。
まだ幼い若君です。
木の駒を持ち上げ、玉珠はなぜか菓子を持ち上げました。
曹家式の外交は、思ったより甘いようでございます。
そして午後には、文烈様とともに丞相様へ婚姻の御礼に伺いました。
婚姻の御礼――
たいへん立派な響きです。
なお玉珠は、丞相様にお菓子を持って行くべきか真剣に悩んでおりましたが、持って行きませんでした。
すると、丞相様がお菓子をくださるのです。
世の中、何が正解なのか分からなくなります。
丞相様は、怖い方です。
小さい方でもあります。
そして、器の大きい方でもありました。
玉珠はそのあたりを、たいへん元気よく口に出しました。
私は何度か息を止めました。
生きて帰れて何よりでございます。
今回は、それから少し月日が流れます。
玉珠は本邸へ通うようになり、曹肇様と曹纂様に懐かれました。
私の部屋は少し静かになります。
静かというものは、よいものだと思っておりました。
ですが、静かすぎる部屋では、人は余計なことを考えてしまうようです。
そして文烈様は、相変わらず戸の外で声をかけてくださいます。
入ってよいか、と。
毎回です――
約束を守られる方というのは、たいへん厄介でございます。
疑い続けるこちらの方が、だんだん意地悪に見えてくるのですから。
そんな日々の先で、丞相様が西へ向かわれることになります。
馬超、韓遂、関中。
私には遠い名ばかりです。
けれど、その遠い名が、文烈様をこの屋敷から連れていこうとしております。
今回は、文烈様が出征される前のお話です。
そして私が、たいへん不本意ながら、文烈様の声が戸の外にないことを気にし始めるお話でもございます。
玉珠が本邸へ通うようになってから、私の部屋は少し静かになりました。
静か――
たいへん上品な響きでございます。
ただし、実際のところは、妹の声がしない部屋というものは、妙に広く、妙に寒く、妙に私の考え事を増やします。
考え事が増えると、ろくなことがございません。
父上のこと。
長坂のこと。
子和様のこと。
文烈様のこと。
どれを思い出しても、たいへん気分が晴れません。
いっそ玉珠が隣で「姉上、お菓子は丸い方と四角い方、どちらがえらいの?」などと聞いてくれている方が、よほど平和でございます。
「姉上、行ってまいります!」
朝になると、玉珠はたいへん元気よく本邸へ向かいます。
最初は侍女に手を引かれておりました。
次は曹肇様が迎えに来るようになりました。
その次には、玉珠の方が曹肇様を迎えに行くようになりました。
「曹肇、今日は遅いです」
「遅くない」
「お菓子が待っています」
「菓子は歩かない」
「でも、寂しいかもしれません」
「菓子は寂しがらない」
「曹肇は、お菓子の気持ちが分かるのですか?」
「分からない」
「では、分からないのに言ってはいけません」
曹肇様は黙りました。
負けたようです。
曹家の若君が、菓子の気持ちをめぐる議論で劉備の娘に敗北いたしました。
たいへん平和な敗戦でございます。
父上――
あなたの娘は、敵地で曹家の若君を論破しております。
内容は、お菓子の寂しさについてです。
ご安心ください。
軍略とはまったく関係ございません。
曹肇様は、もう玉珠から逃げません。
以前は玉珠が手を振っただけで逃げました。
今では玉珠の足音がすると、廊下の端で待っています。
顔は少し不機嫌です。
腕には木馬があります。
足は完全に玉珠の方を向いています。
不機嫌な待ち伏せ……
若君の情緒は、たいへん複雑に育っております。
曹纂様も玉珠に懐きました。
まだ幼いので、懐くというより、見つけると手を伸ばす、に近いのですが。
玉珠の袖。
玉珠の髪飾り。
玉珠の菓子。
だいたいこの三つを狙います。
「姉上、曹纂様が玉珠を好きみたいです」
「それはよろしゅうございます」
「でも、お菓子も好きみたいです」
「では、玉珠とお菓子が同じ場所にある限り、曹纂様は幸せですね」
玉珠は真面目に頷きました。
「玉珠も幸せです」
そうでしょうね。
曹纂様は小さな手で玉珠の袖をつかみ、反対の手で菓子を握ります。
曹肇様が慌てて言いました。
「纂に全部渡すな」
「全部は渡していません。これは一つです」
「一つずつ渡して、最後には全部なくなる」
「曹肇、賢いですね」
「当たり前だ」
「では、曹肇も一つ食べますか?」
「……食べる」
結局、食べるのですね……
本邸の廊下には、玉珠の声がよく響くようになりました。
玉珠が笑うと、曹纂様も笑います。
曹肇様は笑わないふりをして、口の端だけ少し動きます。
たいへん分かりやすい子どもたちです。
そして、なぜか私まで本邸へ呼ばれる回数が増えました。
玉珠が髪紐をなくしたから。
曹纂様が玉珠の袖を離さないから。
曹肇様と玉珠が「馬の音はぱかぱかなのか、もっと強い音なのか」で言い争ったから。
最後の件については、私を呼ばずに馬へ聞いていただきたいところです。
「明珠殿」
文烈様は、そのたびに私を迎えてくださいました。
「すまぬ。また呼び立てた」
「玉珠がご迷惑をおかけしております」
「迷惑ではない。肇も纂も、以前よりよく笑う」
そう言われると、こちらの怒りの置き場所がございません。
文烈様は、怒る前に出口を塞ぐ方です。
しかも、丁寧に……
私が転ばないよう、段差まで均してくださる。
たいへん困ります。
春の初め、玉珠は本邸の部屋を珍しがっておりました。
春の半ば、曹肇様は玉珠を迎えに来る時、逃げも隠れもしなくなりました。
花が少なくなり、風に夏の湿りが混じる頃、曹纂様は玉珠の足音を聞き分けるようになりました。
そして私は、文烈様が戸の外で声をかけることに、少しずつ慣れていきました。
「明珠殿、入ってよいか?」
その声は、必ず戸の外から聞こえます。
返事をすれば入る。
返事をしなければ退く。
文烈様は、最初に交わした約束を一度も破りませんでした。
約束を破らない方というのは、たいへん厄介です。
こちらが疑い続けるには、少々こちらの心が狭く見えてしまいます。
「文烈様は、毎回お尋ねになるのですね?」
ある日、私はそう申し上げました。
文烈様は、当然のように答えました。
「約したからな」
「約束とは、守られないことも多いものでございます」
「そうだろうな」
「ずいぶん簡単に仰いますね?」
「私が、そなたの過去の約束を守り直すことはできぬ。だが、私が新しく破らぬことはできる」
困ります……
本当に困ります……
皮肉とは、斜めに投げるから皮肉なのです。
正面から受け止められたうえ、丁寧に畳まれて返されると、こちらの手元に残るのは妙な恥ばかりでございます。
文烈様は、外の話もしてくださいました。
荊州のこと。
丞相様の動き。
西の不穏。
馬超という名。
韓遂という名。
関中という遠い土地。
どれも、私には遠い名です。
けれど文烈様が話すと、その遠い名が、この屋敷の戸を叩く音に変わります。
「馬超という方は、強いのですか?」
「強い。騎兵をよく用いる」
「丞相様は勝たれますか?」
「曹公は勝つために動かれる」
「文烈様は?」
文烈様は、少しだけ目を伏せました。
「命じられれば従う」
当然の答えでした。
文烈様は武人です。
丞相様に信を置かれている方です。
戦に出るのは、何もおかしいことではありません。
おかしいのは、その答えを聞いた私の胸の方です。
小さな石が落ちたように、重くなりました。
その日から、私は文烈様の足音を少し気にするようになりました。
たいへん不本意です。
文烈様が来れば身構えます。
文烈様が来なければ、なぜ来ないのかと思います。
来ても困る。
来なくても困る。
これはもう、文烈様という存在そのものが問題なのではないでしょうか?
父上――
敵とは、もう少し分かりやすく悪い顔をしていていただきたいものです。
そうでなければ、娘が判断を誤ります。
なお、すでに少し誤り始めております。
ある日、文烈様はいつもの時刻に来られませんでした。
たったそれだけです。
それだけなのに、戸の外が静かすぎました。
侍女の足音はあります。
遠くで玉珠の声もします。
曹肇様が何か言い返し、曹纂様が泣き、乳母が慌てる気配もします。
屋敷は十分に騒がしい。
それなのに、私の戸の外だけが静かでした。
その時、気づいてしまいました……
文烈様の声は、いつの間にか、この屋敷の日常の一部になっていたのです。
たいへんまずいことです……
敵地で、敵方の男の声を日常として数える。
これは、敗北ではないでしょうか……
いえ、まだ敗北ではありません。
少し足元が柔らかくなっただけです。
沼に足を入れてから「まだ沈んでいない」と言っているようなものですが、そこは考えないことにいたします。
夜になって、ようやく文烈様が訪ねてこられました。
「明珠殿」
いつもの声です。
けれど、少し硬い。
私は返事をしました。
「どうぞ」
文烈様は部屋へ入り、いつもより少し間を置いて座りました。
「遅くなった」
「お忙しかったのでしょう?」
「丞相のもとへ行っていた」
丞相様――
その名が出た瞬間、胸の奥の石がまた重くなりました。
「西のことでございますか」
文烈様は頷きました。
「近く、丞相は西へ向かわれる」
西――
馬超、韓遂、関中。
それらの名が、いっせいに私の前へ並びました。
遠いはずの名です。
見たこともない土地です。
私の手が届くことなど、何一つない場所です。
それなのに、その遠い名が、目の前の方を連れていこうとしております。
「文烈様も、行かれるのですね……」
「従うことになる」
やはり――
分かっていたはずです……
分かっていたのに、言葉になると、息が少し詰まりました。
文烈様は私の顔を見ておられました。
「明珠殿、そなたと玉珠殿の守りは整える。玉珠殿は昼の間は本邸、夜はそなたの近くでよい。そなた自身も、私が不在の間は本邸へ移ってもらうつもりだ」
「私も、本邸へ?」
「その方が守りやすい。肇と纂もいる」
文烈様は、そこで少し声を落としました。
「肇と纂を、頼みたい」
私は目を上げました。
頼む――
私を守る、ではありません。
玉珠を守る、でもありません。
曹肇様と曹纂様を、頼む――
文烈様は、私を守られるだけの場所に置こうとしているのではありませんでした。
家の内側へ置こうとしている。
「私で、よろしいのですか?」
「そなたがよい」
すぐに答えないでいただきたいものです。
こちらには、受け止める準備というものがございます。
「私は、劉備玄徳の娘でございます」
「知っている」
「捕らえられた娘です」
「それも知っている」
「文烈様の家の者として、最初から育ったわけではありません」
「今、この屋敷にいる」
文烈様は、静かにそう仰いました。
「肇は玉珠殿を待つようになった。纂は玉珠殿を見ると手を伸ばす。そなたは、その二人を叱ることも、笑うこともできる」
「笑っておりますか、私……」
「時々」
困ります……
自覚のない笑みほど、扱いに困るものはございません。
「明珠殿、無理に母になれとは言わぬ」
文烈様の声は低く、穏やかでした。
「ただ、私が不在の間、あの二人のそばにいてほしい」
胸の奥が熱くなりました。
この方は、いつもそうです。
私から何かを奪うのではなく、何かを預けてくる。
預けられたものは捨てにくい。
守りたくなる。
そうなれば、私はますますこの家から動けなくなります。
正しい檻には、時々、小さな子どもの手がついております。
「……承知いたしました」
声は、思っていたより静かに出ました。
文烈様が、わずかに安堵した顔をなさいました。
その顔を見た瞬間、私はまた一つ余計なことに気づきました。
この方が安心すると、私も少し安心するのです。
危険です。
たいへん危険です。
敵の安心にこちらの胸が軽くなるなど、戦としては負け筋でございます。
けれど、ここは戦場ではありません。
部屋の灯は静かで、戸の外には侍女の気配があり、遠くで玉珠の笑い声が聞こえています。
文烈様は立ち上がりませんでした。
私も、すぐには言葉を出せませんでした。
やがて、文烈様が言いました。
「怖いか?」
私は答えようとしました。
怖くありません。
文烈様ならご無事でしょう。
丞相様もおられます。
馬超という方が強くとも、曹公は勝つために動く方でしょう。
そう言えばよかったのです。
けれど、口から出た言葉は違いました。
「……帰ってきてください」
言ってから、自分で驚きました。
これは礼ではありません。
義務でもありません。
皮肉でもありません。
願いです――
願いなど、久しぶりに口にした気がいたします。
文烈様の目が、少し揺れました。
「明珠殿」
その声が近くなります。
文烈様の手が、ゆっくりと私の肩に触れました。
逃げる時間はありました。
私は逃げませんでした。
文烈様は、私を抱き寄せました。
強い腕でした。
けれど、閉じ込める腕ではありません。
長坂で玉珠が私の袖を握った時、私は妹を離すまいと思いました。
今、私は文烈様の衣をつかんでおります。
離すな、と言いたいのか?
帰ってきて、と願っているのか?
自分でも分かりません。
ただ、この方がいなくなることが怖い……
それだけは、もうごまかせませんでした。
文烈様は、私の髪に触れることもなく、ただ静かに抱いておられました。
急かさず、踏み込まない。
それなのに、遠くもない。
たいへん困る距離です。
「戻る……」
文烈様が穏やかに、しかし力強く仰いました。
「必ずとは、戦に出る者が軽く言うべきではない。だが、戻るために戦う」
私は頷きました。
声は出ませんでした。
その夜、玉珠は本邸で曹肇様と曹纂様の間に座り、明日も来ると約束しておりました。
私は本邸へ移る荷を少しずつ整え始めました。
文烈様は、西へ向かわれます。
馬超、韓遂、関中――
私には遠い名ばかりです。
けれど、その遠い名が、文烈様をこの屋敷から連れていく……
その夜、私は文烈様の帰還ばかりを願っていました。
劉玉珠です。
今回は、本邸へ通う日が増えました。
玉珠のお部屋は、昼の間だけ本邸です。
夜は姉上の近くに戻ります。
どちらも好きです。
本邸には曹肇がいます。
曹纂様もいます。
お菓子もあります。
だから、玉珠は忙しいです。
曹肇は、もう逃げません。
前は玉珠が手を振ると逃げました。
今は廊下で待っています。
でも、待っているのに、少し不機嫌そうな顔をしています。
玉珠には少し難しいです。
待っているなら、嬉しい顔をすればよいと思います。
曹肇は、嬉しい顔が下手なのかもしれません。
曹纂様は、小さい若君です。
玉珠を見ると、手を伸ばします。
玉珠の袖をつかみます。
髪飾りもつかみます。
お菓子もつかみます。
たぶん、玉珠とお菓子のことが好きなのだと思います。
曹肇は、纂に全部渡すなと言います。
玉珠は全部は渡していません。
一つずつです。
でも、一つずつ渡すと、最後には全部なくなるそうです。
曹肇は賢いです。
それから、姉上も本邸へ来ることが増えました。
玉珠の髪紐がなくなった時。
曹纂様が玉珠の袖を離さなかった時。
曹肇と馬の音でお話しした時。
姉上は、馬に聞けばよいと言いました。
それはそうかもしれません。
でも馬は、お部屋の中にいません。
だから姉上に聞くしかありません。
姉上は、少しずつ本邸に慣れてきたようです。
でも、慣れてきたのに、困った顔をします。
文烈様が来ると困るそうです。
文烈様が来ない時も困るそうです。
玉珠には、とても難しいです。
来ても困る。
来なくても困る。
では、どうすればよいのでしょうか?
文烈様は、いつも姉上のお部屋の外で声をかけます。
入ってよいか、と聞きます。
毎回です。
姉上は、それがたいへん厄介だと言います。
約束を守る方は厄介なのだそうです。
玉珠は、約束を守る方はよい方だと思います。
でも姉上は、よい方でも困るそうです。
姉上の困るところは、時々、形が難しいです。
今回は、西のお話もありました。
馬超、韓遂、関中。
玉珠は、まだよく分かりません。
馬超という方は、馬がすごいのでしょうか?
韓遂という方は、韓というところの方なのでしょうか?
関中というところには、関がたくさんあるのでしょうか?
分からないことばかりです。
でも、分かることもあります。
文烈様が、西へ行くそうです。
丞相様について行くそうです。
戦だそうです。
姉上は、それを聞いて静かになりました。
とても静かでした。
玉珠は、少し怖くなりました。
姉上が静かな時は、たいてい、心の中でたくさん考えている時です。
文烈様は、姉上に言いました。
玉珠と姉上の守りは整える、と。
それから、姉上も本邸へ移るそうです。
曹肇と曹纂様もいるから、その方が守りやすいそうです。
玉珠は、それならよいと思いました。
姉上が近くにいるのは嬉しいです。
曹肇もいます。
曹纂様もいます。
お菓子も近いです。
でも姉上は、嬉しいだけではない顔をしていました。
文烈様は、姉上に曹肇と曹纂様を頼むと言いました。
頼む――
玉珠は、その言葉を聞いて、少し不思議でした。
姉上は、守られる方だと思っていました。
でも、文烈様は、姉上に若君たちを頼みました。
姉上は、少し驚いていました。
それから、静かに承知しました。
姉上は、やっぱり姉上です。
玉珠だけではなく、曹肇も曹纂様も見てくれるのだと思います。
最後に、姉上は文烈様に言いました。
帰ってきてください、と。
玉珠は、その声を聞いていません。
でも、たぶん姉上は本当にそう思ったのだと思います。
姉上は皮肉を言う時と、本当にお願いする時で少し声が違います。
玉珠には、少しだけ分かります。
文烈様は戻ると言ったそうです。
でも、戦に出る方は、必ずとは軽く言わないそうです。
それは、少し怖いです。
だから玉珠も思いました。
文烈様、ちゃんと帰ってきてください。
曹肇が待っています。
曹纂様も待っています。
姉上も待っています。
玉珠も、待っています。
次回は、文烈様が西へ行くお話でしょうか?
それとも、姉上が本邸へ移るお話でしょうか?
どちらにしても、玉珠はお菓子を用意しておこうと思います。
帰ってきた時に、お菓子がある方がよいです。
たぶん、文烈様も嬉しいと思います。




