文烈様、出立前に抱きしめるのは反則ではありませんか?
劉明珠でございます。
前回より、玉珠が本邸へ通う日が増えました。
曹肇様は、もう逃げません。
たいへん大きな進歩でございます。
ただし、玉珠を待っている時でも、なぜか少し不機嫌そうな顔をしています。
嬉しいなら嬉しい顔をすればよいと思うのですが、若君にも若君なりの事情があるようです。
曹纂様も、玉珠に懐いております。
玉珠の袖をつかみ、髪飾りをつかみ、お菓子もつかみます。
小さな手は、思ったより忙しゅうございます。
文烈様のお屋敷では、幼い若君たちと玉珠と菓子皿が、たいへん複雑な外交を繰り広げております。
私は本邸へ移ることになりました。
文烈様が西へ向かわれるためです。
玉珠と私の守りを固めるため。
曹肇様と曹纂様の近くにいるため。
理由は分かります。
分かりますが、理由が正しいことと、心が素直に納得することは、まったく別でございます。
文烈様は、相変わらず困った方です。
戸の外で声をかける。
約束を破らない。
こちらが警戒している理由を否定しない。
そして、守ると言いながら、守るものまで私へ手渡してくる。
曹肇様と曹纂様を頼む、と仰いました。
私は捕らえられた娘で、守られる側であったはずなのですが、いつの間にか若君たちを頼まれる側になっております。
たいへん困ります。
人の立ち位置というものは、本人の許可なく変わるようです。
今回は、文烈様が出立される朝のお話です。
馬超、韓遂、関中。
私には、まだ遠い名ばかりです。
けれど、その遠い名が、文烈様をこの屋敷から連れていこうとしております。
私は静かに見送るつもりでした。
文烈様の妻として。
留守を預かる者として。
きちんと頭を下げて、お気をつけて、と申し上げるつもりでした。
ええ――
つもりだけなら、人はたいへん立派に生きられます。
なお、玉珠は今回も玉珠です。
姉がそれなりに大事な場面にいる横で、妹は妹なりにたいへん真剣なことをしております。
真剣であることと、正しいことは、やはり別でございます。
父上――
あなたの娘たちは、敵地でそれぞれ忙しく生きております。
一人は、敵であったはずの方を待つ女になりかけております。
もう一人は、たぶん今日も、お菓子の心配をしております。
文烈様が西へ向かわれる朝、屋敷は夜明け前から動いておりました。
馬の嘶き。
革具の鳴る音。
兵たちの足音。
下男や侍女の慌ただしい気配。
どれも、これまで何度も聞いたことのある音ではありません。
それでも私は、すぐに分かりました。
これは、誰かが出ていく音です。
たいへん嫌な音でございます。
出ていく音というものは、戻ってくる音よりずっと大きいのです。
戻ってくる時は、まだかまだかと耳を澄ませなければ聞こえません。
出ていく時だけは、こちらが聞きたくなくても勝手に耳へ入ってきます。
世の中は、そういうところだけ律儀です。
私はすでに本邸へ移っておりました。
文烈様が不在の間、玉珠と私の守りを固めるため。
曹肇様と曹纂様の近くにいるため。
理由は分かっております。
分かっておりますが、自分の荷が本邸の部屋へ運ばれていくのを見ると、妙な気持ちになりました。
守られているのか。
預けられているのか。
それとも、文烈様の家の内側へ、また一歩入れられているのか。
たぶん、全部です。
たいへん困ります。
一つの出来事に意味が多すぎると、文句をつける箇所が散ってしまいます。
玉珠は朝から元気でした。
「姉上、今日は文烈様がお出かけですか?」
「そうです」
「遠いところ?」
「西だそうです」
「西には、お菓子がありますか?」
「存じません」
「では、文烈様は何を食べるのですか?」
「兵糧でしょう」
玉珠は眉を寄せました。
「兵糧は、お菓子ではありませんよね?」
「お菓子ではありません」
「かわいそうです」
西へ征く武人への感想が、それでよいのでしょうか。
父上――
あなたの娘は、敵将の食生活を心配しております。
内容は、菓子不足です。
戦局には何の影響もございません。
曹肇様は、いつもより口数が少なくなっておりました。
木馬は持っていません。
代わりに、きちんとした衣を着て、背筋を伸ばしています。
子どもが無理に大人の顔をしている姿は、見ていて少し苦しくなります。
「肇様」
私が声をかけると、曹肇様はすぐこちらを見ました。
「父上は戻る」
自分に言い聞かせているような声でした。
「はい、戻られます」
「泣かない」
「それは立派でございます」
「纂は泣く」
「曹纂様はまだ幼いですから」
「玉珠は?」
玉珠は、隣で首を傾げました。
「玉珠は泣くの?」
「自分のことを私に聞かないでください」
「文烈様が帰ってくるなら泣かないです」
「戻る」
曹肇様が即座に言いました。
玉珠はにこりと笑いました。
「じゃあ、泣きません」
単純です。
けれど、その単純さが少しだけ羨ましくもありました。
戻るなら泣かない。
戻らないかもしれないから怖い。
私は、そちら側を考えてしまいます。
曹纂様は乳母に抱かれたまま、すでに泣きそうな顔をしておりました。
何が起きるか、すべてを分かっているわけではないのでしょう。
けれど、屋敷の空気が違うことくらいは感じ取っているようです。
小さな手が、宙をつかみます。
玉珠がその手に菓子を渡そうとしました。
「玉珠」
私はすぐに止めました。
「今ではありません」
「でも曹纂様、泣きそうです」
「出立の場で菓子を握らせると、後で乳母が困ります」
「じゃあ、帰ってきた時?」
「それならよろしいでしょう」
玉珠は真剣に頷きました。
「帰ってきた時のお菓子を用意します」
帰ってきた時――
その言葉に、胸の奥が少し痛みました。
誰かが帰ってくる前提で、菓子を用意する。
玉珠にとっては、それが一番自然な願い方なのです。
門前には、すでに馬が整えられていました。
文烈様は鎧姿でした。
いつもの穏やかな衣とは違います。
背筋は伸び、腰には剣があり、兵たちがその周囲に控えています。
文烈様は、屋敷の主であり、父であり、私に戸の外から声をかけてくださる方です。
そして、武人でした。
当たり前のことです。
けれど、その当たり前が鎧の形をして目の前に立つと、私は言葉を失いました。
文烈様がこちらを見ました。
「明珠殿」
いつもの声でした。
出立の朝だというのに、こちらを慌てさせない声です。
たいへん困ります。
ここで少しでも乱暴な声を出してくだされば、私はいつものように警戒できるのです。
優しくされると、怒りの支えが折れます。
「お気をつけて」
それだけ言うつもりでした。
きちんと頭を下げて、文烈様の妻として、留守を預かる者として、静かに見送るつもりでした。
ええ――
つもりは立派でした。
つもりだけなら、人はたいへん立派に生きられます。
文烈様は曹肇様の前に膝を折りました。
「肇、纂を頼む」
「はい」
曹肇様の声は少し震えていました。
文烈様はその頭に手を置きます。
「明珠殿と玉珠殿の言うことをよく聞け」
「玉珠の言うことも?」
そこは疑問なのですね。
玉珠が胸を張りました。
「玉珠は良いことを言います」
「菓子の話ばかりだ」
「菓子は大事です」
「父上、玉珠の言うことは、選んで聞きます」
文烈様の口元がかすかに緩みました。
「それでよい」
よいのですか……
玉珠の言葉を選別して聞く若君。
たいへん賢明です。
人の成長は、時に菓子皿から始まるようでございます。
次に文烈様は、乳母に抱かれた曹纂様の頬へ手を伸ばしました。
曹纂様は泣きました。
遠慮のない泣き声です。
文烈様は困ったように笑い、額をそっと撫でました。
「戻る」
曹纂様に言っているのか。
ご自分に言っているのか。
私には分かりませんでした。
最後に、文烈様は私の前へ来ました。
「明珠殿」
「はい」
「肇と纂を頼む」
「承知しております」
「玉珠殿も」
「そちらは、できる限り回収いたします」
「回収?」
「主に菓子皿の周囲で発生します」
文烈様は少し笑いました。
こんな時に笑わないでいただきたい……
こちらは笑われると、ますます困るのです。
「そなた自身も、無理をするな」
「無理をするほど、何かができる立場でもございません」
「そなたは、できる」
その一言で、胸の奥がまた熱くなりました。
この方は、私を弱いまま置いておいてくれません。
捕らえられた娘としてだけ扱ってくれません。
守ると言いながら、守るものまで手渡してくる。
卑怯です。
たいへん卑怯です。
優しさに重さを混ぜて渡してくる方など、扱いに困ります。
文烈様が馬へ向かいました。
その背を見た瞬間、足が動きました。
誰の足かと思いました。
私の足でした。
持ち主の許可を得ずに動くとは、足というものも案外不忠でございます。
「文烈様……」
声が出ました。
か細い声でした。
文烈様が振り向きます。
振り向かないでください。
いえ、振り向いてください。
どちらなのか、自分でも分かりません。
私は駆け寄っておりました。
侍女が息を呑みました。
曹肇様が目を見開きました。
曹纂様は泣いております。
そして玉珠は、たいへん真剣な顔で鼻をほじっておりました。
姉の人生が一歩進んでいる横で、妹の指もまた、別の方向へ進んでおります。
しかも、その指を口へ運ぼうとしていました。
「玉珠」
私は文烈様の前で足を止めたまま、声を落として呼びました。
「はい?」
「それは、食べ物ではありません」
玉珠は指を止めました。
「違うの?」
「違います」
「でも、取れたよ?」
「報告しなくて結構です」
文烈様の肩が、わずかに震えました。
笑わないでいただけますか。
今、私はそれなりに大事な場面にいるはずなのです。
恋なのか、別れなのか、願いなのか、自分でもよく分からないものを抱えて、必死に立っているはずなのです。
その横で妹が鼻をほじり、さらに食べ物かどうかを確認している。
これが劉備玄徳の娘二人でございます。
父上――
ご覧になっていないことを、心より幸いに存じます。
私は息を吸いました。
何を言えばよいのでしょう。
行かないでください。
それは言えません。
文烈様は丞相様に従って西へ向かわれる方です。
私一人の不安で、馬の向きが変わるはずもありません。
ご武運を――
それは正しい言葉です。
けれど、今の私には少し遠すぎます。
帰ってきてください。
それはもう言いました。
言葉が足りなくなった私は、ただ文烈様の腕をつかみました。
文烈様の目が揺れます。
人前でした。
門前でした。
兵も、侍女も、子どもたちも見ております。
それでも文烈様は、私を退けませんでした。
ゆっくりと手が伸び、私の背に回ります。
抱き寄せられました。
昨夜、文烈様に抱き寄せられた時とは違い、部屋の中ではありません。
戸の外の声でもありません。
朝の光の中です。
出立の場です。
それでも、その腕はやはり強く、閉じ込めるものではありませんでした。
「戻る」
文烈様が、低い声で仰いました。
「戻るために戦う」
私は頷きました。
声は出ません。
出せば、何か余計なものまで出てしまいそうでした。
文烈様の鎧は冷たく、衣はいつもの香ではなく、革と鉄の匂いがしました。
この方は本当に戦へ行くのだと、そこでようやく実感しました。
たいへん遅い理解でございます。
私は、父上の軍の荷車に乗っていた娘です。
戦の中で落ちた娘です。
なのに、今さら戦へ行く男の匂いに怯えております。
人は、自分が失うかもしれないものを持ってから、ようやく戦を怖がるのかもしれません。
文烈様は私を離しました。
すぐに離すのではなく、ほんの少しだけ、名残を残すように……
そのわずかな遅れに、胸が締めつけられました。
たいへん困ります。
遅れて離すくらいなら、いっそもっと乱暴に離してくださればよいのです。
そうすれば、私は怒れます。
怒れば、寂しさの置き場所ができます。
けれど文烈様は、怒る場所を作ってくださいません。
「明珠殿」
「はい」
「待っていてくれ」
それは、命令ではありませんでした。
願いでした。
私は、先に願った側です。
帰ってきてください、と……
今度は、文烈様が願う。
待っていてくれ、と……
ずるい方です。
そんなことを言われて、待たないでいられる女がいるのでしょうか。
「お待ちしております」
私は、そう答えました。
文烈様は一度だけ頷き、馬に乗りました。
曹肇様は唇を強く結んでいます。
曹纂様は泣いています。
玉珠は、鼻をほじった指を侍女に拭かれております。
たいへんな見送りです。
文烈様は門を出ていきました。
馬の蹄の音が、少しずつ遠ざかります。
出ていく音です。
戻ってくる音ではありません。
それでも、私は耳を澄ませました。
今はまだ聞こえない、戻ってくる日の音を、勝手に探しておりました。
玉珠が袖を引きました。
「姉上」
「何です?」
「文烈様、帰ってきたらお菓子食べる?」
「食べるかもしれませんね」
「では、取っておく?」
「腐ります」
「じゃあ、新しいのを用意します」
「それがよろしいでしょう」
玉珠は真面目に頷きました。
「文烈様が帰ってくる日のお菓子です」
帰ってくる日――
その言葉だけで、私は少しだけ息ができました。
曹肇様が小さく言いました。
「父上は戻る」
「はい」
私は答えました。
「戻られます」
本当にそうかは分かりません。
戦に出る方について、必ずなどとは軽く言えません。
文烈様もそう仰いました。
けれど、言わなければ立っていられない言葉もございます。
私は曹肇様の頭に手を置きました。
曹纂様はまだ泣いております。
玉珠は、すでに帰還祝いの菓子について考え始めております。
そして私は、門の向こうを見つめておりました。
文烈様は、西へ向かわれました。
馬超、韓遂、関中。
私には遠い名ばかりです。
けれど、その遠い名が、私の待つ人を連れていったのです。
その日から私は、戻ってくる音を待つことになりました。
たいへん困ります。
敵であったはずの方を待つ女になるなど、長坂の荷車にいた頃の私は、まったく考えておりませんでした。
劉玉珠です。
今回は、文烈様が西へ行きました。
西です。
馬超、韓遂、関中です。
玉珠には、まだよく分かりません。
馬超という方は、馬に乗るのが上手そうです。
韓遂という方は、韓というところの方かもしれません。
あれ?
前にも言ったかも……
関中というところには、関さんが、たくさんいるのだと思います。
でも、分かることもあります。
文烈様は、お出かけしました。
戦へ行くそうです。
戦は、ただのお出かけではありません。
姉上の顔が、とても静かだったからです。
姉上が静かな時は、心の中が静かではない時です。
玉珠は、少し分かります。
曹肇は、泣かないと言いました。
曹肇はえらいです。
でも、少しだけ声が震えていました。
泣かないと言っている人は、泣きたい時があるのかもしれません。
曹纂様は泣きました。
小さいので、それでよいと思います。
泣きたい時に泣けるのは、たぶんよいことです。
曹肇は泣きませんでした。
曹纂様は泣きました。
姉上は泣きませんでした。
でも、姉上は泣くより難しい顔をしていました。
文烈様は、姉上に曹肇と曹纂様を頼みました。
それから、玉珠のことも頼みました。
玉珠は、頼まれるものなのでしょうか。
少し不思議です。
玉珠はちゃんとしています。
たぶん――
お菓子の場所も覚えています。
曹肇の木馬の音も覚えています。
曹纂様が袖をつかむ力も覚えています。
だから、たぶんちゃんとしています。
姉上は、文烈様を見送るつもりだったそうです。
静かに。
きちんと。
文烈様の妻として。
留守を預かる方として。
でも、姉上は走りました。
玉珠はびっくりしました。
姉上は、走るのが遅いので、あまり走りません。
しかも走る前に、だいたい皮肉を言います。
でも今回は、皮肉より先に足が動いたようです。
姉上の足は、姉上より正直なのかもしれません。
姉上は文烈様の腕をつかみ、文烈様は、姉上を抱きしめました。
玉珠は、それを見ていました。
たぶん、大事な場面だったのだと思います。
曹肇も目を丸くしていました。
侍女たちも静かになりました。
曹纂様は泣いていました。
玉珠は、鼻が少しかゆかったです。
だから、少しだけ触りました。
でも、姉上に見つかりました。
姉上は、文烈様の腕の中にいるのに、玉珠を叱りました。
姉上はすごいです。
文烈様と抱き合っていても、玉珠の指を見ています。
姉上の目は、たぶん二つより多いのだと思います。
「それは、食べ物ではありません」
姉上はそう言いました。
食べ物ではないそうです。
取れたのに……
でも姉上が言うなら、食べ物ではありません。
侍女に拭かれました。
文烈様は、少し笑っていました。
笑っていない顔をしていましたが、肩が揺れていました。
文烈様は、笑うのを我慢するのが上手です。
でも姉上には、たぶん見つかっていました。
姉上は、文烈様に帰ってきてほしいのだと思います。
前にも言っていました。
今回も、言葉ではなくても、そう思っていたと思います。
文烈様は、戻ると言いました。
戻るために戦う、と言いました。
玉珠は、その言葉を覚えておきます。
戻るために戦う。
少し怖い言葉です。
でも、少し安心する言葉でもあります。
文烈様が帰ってきたら、お菓子を用意します。
今日のお菓子を取っておこうかと思いましたが、姉上に腐ると言われました。
腐るのは困ります。
だから、新しいお菓子にします。
曹肇も待っています。
曹纂様も待っています。
姉上も待っています。
玉珠も待っています。
待つ人が多いので、文烈様はきっと帰ってくると思います。
帰ってきたら、姉上はまた困る顔をするのでしょうか。
文烈様が来ても困る。
文烈様が来なくても困る。
文烈様が出かけても困る。
文烈様が帰ってきても、たぶん困る。
姉上の困ることは、増えている気がします。
でも、玉珠は知っています。
姉上が困る時は、嫌いな時だけではありません。
好きな時も、たぶん困るのです。
次回は、文烈様がいないお屋敷のお話でしょうか。
姉上が本邸で曹肇と曹纂様を見るお話でしょうか。
玉珠は、姉上のお手伝いをします。
たぶん――
まずは、帰ってきた時のお菓子を考えます。
甘いものがよいと思います。
文烈様が帰ってきたら、姉上も少し甘い顔をするかもしれません。




