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8/18

若君、お菓子で挨拶なさるのですか?

劉明珠でございます。


前回、文烈様のお屋敷へ移されました。

また車でした。

長坂からこちら、私は荷車、護送の車、子和様のお屋敷へ向かう車、そして文烈様のお屋敷へ向かう車と、たいへん車輪に縁のある人生を送っております。

そろそろ車輪の方から、何かしら謝罪があってもよいのではないでしょうか?


さて、文烈様は優しい方でした。

優しい方でしたが、ただ優しいだけの方ではございません。

こちらが欲しい言葉を先に出し、逃げ道を塞がないように見せながら、屋敷の中の距離を静かに測っておられる。

たいへん困る方です。

そして今回は、文烈様のご子息とのお話でございます。

昨日、玉珠が手を振っただけで逃げた幼い若君が、翌朝、私たちの部屋の前に立っておりました。

手には菓子の皿。

顔には不満。

挨拶はございません。

曹家の若君ともなると、お菓子で外交をなさるのでしょうか?


なお、玉珠はすでに陥落寸前でございます。

敵地における妹の防衛線は、砂糖にたいへん弱いようです。

菓子の皿を差し出す幼い若君から、ここまで強い不本意を感じ取る日が来るとは思いませんでした。

文烈様のご子息は、部屋の前に立っておりました。

昨日は、こちらと目が合っただけで逃げました。

本当に逃げました。

玉珠が手を振っただけで、兎のように姿を消したのです。

その若君が、今朝は逃げておりません。

ただし、挨拶もしません。

手には菓子の皿。

顔には不満。

足は、今にも後ろへ下がりそうです。

たいへん分かりやすい状態でございました。

玉珠が、私の後ろから顔を出します。

「姉上」

「何です」

「あの子、お菓子持ってる」

「見れば分かります」

「くれるの?」

「本人にお尋ねください」

「聞いていい?」

「初対面の若君に菓子を催促する妹を持つ姉の気持ちも、少しは考えてください」

玉珠は、まったく考えていない顔で若君を見ました。

「くれるの?」

直球です。

弓も槍も不要です。

玉珠は時々、正面から城門を叩き割ります。

若君は口を結びました。

皿を少し前へ出します。

「……父上が」

「文烈様が?」

「持っていけと……」

「じゃあ、くれるんだね」

「まだ、そうは言ってない……」

「でも、持ってきたよ?」

「……」

若君は負けました。

早い……

玉珠の攻城速度は、丞相様の南征より速いかもしれません。

玉珠は両手で皿を受け取りました。

「ありがとう!」

「……別に」

「昨日のお菓子と違うね」

「知らない……」

「若君は食べないの?」

「いらない……」

「おいしいのに?」

「知ってる……」

「じゃあ食べようよ」

「いらない……」

五つか六つほどの幼い子です。

けれど、意地だけは立派に曹家の若君でした。

私は膝を少し折り、目線を下げました。

「若君、おはようございます」

返事はありません。

目は合いましたが、すぐに逸らされました。

昨日よりは進歩しております。

昨日は目が合った瞬間、足だけが大変よい働きをしましたので……

「昨日は、たいへん足がお速うございましたね」

若君の眉が動きました。

玉珠が感心したように言います。

「姉上、この子、足速いの?」

「ええ、玉珠が手を振っただけで、見事に逃げました」

「すごいね!」

「褒めてよいかは分かりません」

若君はむっとした顔になりました。

「逃げてない……」

「昨日は?」

「……昨日は、行っただけだ……」

「どこへ?」

「向こうへ……」

「それを世間では逃げたと申します」

若君は黙りました。

幼い方を追い詰める趣味はございません。

けれど、事実は事実です。

もっとも、私も長坂以来、事実というものに何度も殴られておりますので、幼い若君相手に振り回しすぎるのは控えるべきでしょう。

私は少しだけ声を和らげました。

「若君、無理にご挨拶くださらずとも結構です」

若君が、ちらりとこちらを見ました。

「父君のお屋敷に、丞相様の命で、劉備玄徳の娘が妹付きで運ばれてきたのです。戸惑う方が自然でございます。初日から満面の笑みで迎えられたなら、私はそちらの方を疑いました」

若君は、半分ほどしか分かっていない顔をしました。

玉珠は、菓子を選ぶのに夢中です。

おそらく一割も分かっておりません。

それでよいのです。

子どもが、丞相様の命だの、劉備玄徳の娘だの、漢室の血だのをすぐ理解し始めたら、世の中が嫌になりすぎます。

玉珠は一つ取って、私へ差し出しました。

「姉上も食べる?」

「いただきます」

私が受け取ると、若君の視線が私の手元に向きます。

「食べるのか……」

「差し出されたものを、いつまでも眺め続ける趣味はございません」

「毒かもしれない……」

「若君は、ご自分で毒をお持ちになったのですか?」

「違う……」

「では、ありがたくいただきます」

口に入れると、昨日のものより香ばしい味がしました。

悔しいことに、おいしい……

玉珠はすでに二つ目を食べています。

「甘いね」

「そうですね」

「文烈様のおうち、すごいね!」

「評価が砂糖に偏りすぎています」

若君は、玉珠の食べる様子をじっと見ておりました。

不満そうではあります。

けれど、逃げません。

玉珠は皿を少し持ち上げました。

「若君も食べる?」

「いらない……」

「じゃあ、玉珠が食べるね」

「全部食べるな……」

「若君も食べる?」

「いらない……」

「じゃあ、どうして全部だめなの?」

「……あとで……」

玉珠は目を丸くしました。

「あとで来るの?」

「……」

「一緒に食べる?」

「違う……」

「見に来る?」

「違う……」

「じゃあ、あとで逃げる?」

「逃げない!」

声が少し大きくなりました。

廊下の空気が止まります。

若君自身も驚いたような顔をしました。

玉珠は平然としております。

この妹は、人の地雷を裸足で踏み抜いた後、花でも咲くと思っているところがあります。

「じゃあ、あとで来るんだね」

「……行く……」

若君は小さく言いました。

玉珠は満足そうにうなずきます。

「待ってるね」

若君は返事をしませんでした。

その代わり、皿の上の菓子を一つだけ指差しました。

「それは残せ……」

「これ?」

「うん……」

「若君の分?」

「違う……」

「じゃあ誰の?」

「……」

言えないらしいです。

私は助け舟を出しました。

「玉珠、若君にもご都合がございます」

「お菓子にも?」

「お菓子にもです」

「分かった。これは残すね」

玉珠は素直に菓子を皿へ戻しました。

若君の肩から、ほんの少し力が抜けます。

その時、侍女が廊下の向こうから近づいてまいりました。

「若君、旦那様がお呼びでございます」

若君は、ほっとしたような、残念なような顔をしました。

幼い顔の中で、感情が忙しく動いております。

玉珠が手を振りました。

「またね」

「……」

「逃げないでね」

「逃げない……」

「昨日は逃げたよ」

「今日は逃げない!」

玉珠は、にこりと笑いました。

「えらいね!」

若君の頬が赤くなりました。

褒められたのが恥ずかしいのか。

玉珠に言われたことが不服なのか。

逃げなかったことを褒められる立場が屈辱なのか。

おそらく全部です。

若君は侍女について歩き出しました。

数歩進んでから、ぴたりと止まり、振り返りました。

見ているのは、私ではありません。

玉珠です。

「……来る」

小さな声でした。

玉珠は首をかしげました。

「若君が?」

「うん……」

「あとで?」

「うん……」

そこまで言って、若君は今度こそ廊下の先へ消えました。

玉珠は菓子皿を抱えたまま、私を見上げます。

「姉上」

「何です?」

「若君、うさぎじゃなかったね」

「少なくとも、菓子を持って戻ってくる兎はあまり聞きません」

「じゃあ、何?」

「巣穴から半分だけ出てきた小動物でしょうか」

「それ、やっぱりうさぎじゃない?」

「近いかもしれません」

玉珠は楽しそうに笑いました。

子和様の屋敷では、こういう笑い方をする日が少なかった気がいたします。

それだけで、私は少しだけ息をつけました。

少しだけです……

妹が笑うことと、この屋敷を信用することは、まったく別でございます。

昼前、文烈様がお見えになりました。

戸の外で声がします。

「明珠殿、入ってよいか?」

この方は、必ず尋ねます。

屋敷の主であれば、本来は不要な手順でしょう。

不要なことをあえてする方は厄介です。

こちらの警戒を、礼儀という形で少しずつ削っていくからです。

「どうぞ」

文烈様は入ってくると、皿の上を見ました。

菓子がかなり減っております。

犯人は言うまでもありません。

「肇が来たそうだな」

「肇様と仰るのですか」

「本人は名乗らなかったか」

「名乗りより先に菓子が届きました」

「肇らしい」

文烈様は、困ったように笑いました。

父親の顔でした。

玉珠が身を乗り出します。

「文烈様、若君、あとで来るって」

「そうか」

「今日は逃げないって」

「大きな進歩だ」

曹家の若君の進歩が、逃げないことで測られております。

人の家には、それぞれ事情があるものです。

文烈様は、玉珠へ視線を向けました。

「玉珠殿」

「はい」

「肇は少し人見知りをする」

「人見知り?」

「知らぬ者の前で、うまく話せぬことだ」

「玉珠は知らない人でも話せるよ」

「玉珠殿は強いな」

「玉珠、強い?」

「強い」

玉珠は胸を張りました。

「姉上、玉珠、強いって!」

「菓子の前では特に」

「うん!」

否定しないのですね……

文烈様が小さく笑いました。

その笑い方に、私はまた困りました。

子和様は、何もしないことで私たちを守りました。

文烈様は、何かをしながら、逃げ道だけは塞がないようにしています。

優しさにも種類があるようです。

分類表が欲しくなります。

もっとも、分類できたところで、私の立場が変わるわけではございません。

その日の午後、約束どおり曹肇様は来ました。

今度は菓子を持っておりません。

手ぶらかと思えば、片手に小さな木の馬を握っています。

玉珠はすぐに気づきました。

「馬?」

「……」

「くれるの?」

「違う……」

「じゃあ、見せに来たの?」

「……うん……」

曹肇様は、ほんの少しだけうなずきました。

玉珠が床に座ると、曹肇様も迷った末に、少し離れて腰を下ろしました。

二人の間に、木の馬が置かれます。

妙な光景でした。

劉備玄徳の娘。

文烈様の子。

小さな木馬。

半分残した菓子。

戦の外側なら、ただの子どもの時間なのでしょう。

けれど私には、余計な札が見えてしまいます。

丞相様の命令、劉備玄徳の血、曹家の若君、捕らえられた娘。

大人は、人の背に札を貼ります。

子どもは、菓子と木馬を間に置いて座るだけです。

その無邪気さが、時々いちばん残酷です。

しばらくして、玉珠が木馬を動かしました。

「ぱかぱか」

「そんな音じゃない……」

「じゃあ、どんな音?」

「……もっと強い」

「どんどん?」

「違う……」

「ばたばた?」

「違う……」

「若君、難しいね」

「馬が変なんだ」

「馬、怒られた」

曹肇様は口を結びました。

それから、木馬を手に取り、自分で少し動かします。

「こう……」

「おおー」

「……」

「上手!」

「当たり前だ」

当たり前と言いながら、耳が赤い。

玉珠は、曹肇様の扱いが妙に上手でした。

たぶん、何も考えておりません。

考えていないから、うまくいくこともあるのでしょう。

夕暮れ近く、曹肇様は木馬を抱えて立ち上がりました。

玉珠もつられて立ちます。

「また来る?」

「……来てもいい」

「じゃあ来てね」

「玉珠も来い」

「どこに?」

「こっち……」

「こっちって?」

「本邸……」

私は顔を上げました。

曹肇様は私の視線に気づき、少し怯えたように木馬を握りました。

けれど、逃げません。

そして、小さな声で言いました。

「……曹肇」

玉珠が首をかしげます。

「なに?」

「名だ」

「曹肇様?」

「様はいらない」

「姉上、様いらないって」

「いります。若君ですから」

曹肇様は、不満そうに唇を結びました。

「曹肇でいい……」

「じゃあ、玉珠は玉珠でいいよ!」

「知ってる……」

「知ってるなら大丈夫だね!」

何が大丈夫なのか、私には分かりません。

けれど曹肇様は、ほんの少し笑いました。

笑ったと言ってよいか迷うほど、小さな変化です。

その直後、廊下の向こうから文烈様の声がしました。

「肇」

曹肇様の肩が跳ねます。

叱られると思ったのでしょうか?

文烈様は近づき、木馬と玉珠と私を順に見ました。

それから、静かに言います。

「明珠殿」

嫌な予感がいたしました。

文烈様が丁寧に名を呼ぶ時は、たいてい何かが動きます。

「肇が、玉珠殿を明日も本邸へ連れて来たいと言っている」

玉珠は目を輝かせました。

「本邸、お菓子ある?」

「ある」

「姉上!」

早い――

本当に早い。

曹肇様は、木馬を抱えたまま、玉珠の袖を小さくつかみました。

「来い……」

命令です。

ただし、声は震えております。

たいへん幼い命令でございます。

玉珠は笑いました。

「いいよ!」

私は、すぐには返事ができませんでした。

文烈様は私を見ています。

命令ではありません。

尋ねる形です。

けれど、若君は玉珠の袖を握っている。

玉珠はもう行く気です。

菓子もあるそうです。

包囲とは、こういう形をしていることもあるのですね。

丞相様の軍勢より、よほど静かです。

私は口を開きかけました。

その時、玉珠が無邪気に言いました。

「姉上、玉珠、明日は若君のお部屋に行ってくるね」

若君のお部屋。

その言葉が、妙に重く落ちました。

私は文烈様を見ました。

文烈様は穏やかな顔をしています。

けれど、その目はすでに、次の配置を考えている目でした……

劉玉珠です。


文烈様のおうちで、若君に会いました。

昨日は、玉珠が手を振ったら逃げました。

本当に逃げました。

だから玉珠は、若君はうさぎなのかもしれないと思いました。

でも、今日は違いました。

若君は、玉珠たちのお部屋の前に立っていました。

逃げませんでした。

ご挨拶もしませんでした。

そのかわり、お菓子を持っていました。

文烈様のおうちは、やっぱりお菓子でお話しするおうちなのかもしれません。

若君は、文烈様が持っていけと言ったから持ってきたそうです。

でも、玉珠が食べても怒りませんでした。

少し怒っている顔はしていました。

でも、本当に怒っているわけではなさそうでした。


若君は、お菓子を全部食べるなと言いました。

あとで来るからだそうです。

玉珠は、ちゃんと一つ残しました。

自分でも、えらいと思います。


姉上は、若君はうさぎではなく、巣穴から半分だけ出てきた小動物だと言いました。

それは、やっぱりうさぎに近いと思います。

午後、若君は本当に来ました。

今度はお菓子ではなく、木の馬を持っていました。

玉珠が「ぱかぱか」と言ったら、若君は違うと言いました。

馬の音は、若君にはもっと強いそうです。

若君は少し難しいです。

でも、木の馬を動かすのは上手でした。

それから、若君は名前を教えてくれました。

曹肇様というそうです。

玉珠には、曹肇でいいと言いました。

でも姉上は、若君だから様をつけると言っていました。

姉上は、そういうところがきちんとしています。

そして、若君は玉珠に、本邸へ来いと言いました。

命令みたいでした。

でも、声は少し震えていました。

だから、こわくありませんでした。

本邸には、お菓子があるそうです。

玉珠は明日、若君のお部屋へ行くことになりました。

姉上は、少し難しい顔をしていました。

文烈様も、静かな顔をしていました。

玉珠にはよく分かりません。

でも、若君はもう逃げませんでした。


だから、うさぎではないと思います。

たぶん――

少しだけ……

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