若君、お菓子で挨拶なさるのですか?
劉明珠でございます。
前回、文烈様のお屋敷へ移されました。
また車でした。
長坂からこちら、私は荷車、護送の車、子和様のお屋敷へ向かう車、そして文烈様のお屋敷へ向かう車と、たいへん車輪に縁のある人生を送っております。
そろそろ車輪の方から、何かしら謝罪があってもよいのではないでしょうか?
さて、文烈様は優しい方でした。
優しい方でしたが、ただ優しいだけの方ではございません。
こちらが欲しい言葉を先に出し、逃げ道を塞がないように見せながら、屋敷の中の距離を静かに測っておられる。
たいへん困る方です。
そして今回は、文烈様のご子息とのお話でございます。
昨日、玉珠が手を振っただけで逃げた幼い若君が、翌朝、私たちの部屋の前に立っておりました。
手には菓子の皿。
顔には不満。
挨拶はございません。
曹家の若君ともなると、お菓子で外交をなさるのでしょうか?
なお、玉珠はすでに陥落寸前でございます。
敵地における妹の防衛線は、砂糖にたいへん弱いようです。
菓子の皿を差し出す幼い若君から、ここまで強い不本意を感じ取る日が来るとは思いませんでした。
文烈様のご子息は、部屋の前に立っておりました。
昨日は、こちらと目が合っただけで逃げました。
本当に逃げました。
玉珠が手を振っただけで、兎のように姿を消したのです。
その若君が、今朝は逃げておりません。
ただし、挨拶もしません。
手には菓子の皿。
顔には不満。
足は、今にも後ろへ下がりそうです。
たいへん分かりやすい状態でございました。
玉珠が、私の後ろから顔を出します。
「姉上」
「何です」
「あの子、お菓子持ってる」
「見れば分かります」
「くれるの?」
「本人にお尋ねください」
「聞いていい?」
「初対面の若君に菓子を催促する妹を持つ姉の気持ちも、少しは考えてください」
玉珠は、まったく考えていない顔で若君を見ました。
「くれるの?」
直球です。
弓も槍も不要です。
玉珠は時々、正面から城門を叩き割ります。
若君は口を結びました。
皿を少し前へ出します。
「……父上が」
「文烈様が?」
「持っていけと……」
「じゃあ、くれるんだね」
「まだ、そうは言ってない……」
「でも、持ってきたよ?」
「……」
若君は負けました。
早い……
玉珠の攻城速度は、丞相様の南征より速いかもしれません。
玉珠は両手で皿を受け取りました。
「ありがとう!」
「……別に」
「昨日のお菓子と違うね」
「知らない……」
「若君は食べないの?」
「いらない……」
「おいしいのに?」
「知ってる……」
「じゃあ食べようよ」
「いらない……」
五つか六つほどの幼い子です。
けれど、意地だけは立派に曹家の若君でした。
私は膝を少し折り、目線を下げました。
「若君、おはようございます」
返事はありません。
目は合いましたが、すぐに逸らされました。
昨日よりは進歩しております。
昨日は目が合った瞬間、足だけが大変よい働きをしましたので……
「昨日は、たいへん足がお速うございましたね」
若君の眉が動きました。
玉珠が感心したように言います。
「姉上、この子、足速いの?」
「ええ、玉珠が手を振っただけで、見事に逃げました」
「すごいね!」
「褒めてよいかは分かりません」
若君はむっとした顔になりました。
「逃げてない……」
「昨日は?」
「……昨日は、行っただけだ……」
「どこへ?」
「向こうへ……」
「それを世間では逃げたと申します」
若君は黙りました。
幼い方を追い詰める趣味はございません。
けれど、事実は事実です。
もっとも、私も長坂以来、事実というものに何度も殴られておりますので、幼い若君相手に振り回しすぎるのは控えるべきでしょう。
私は少しだけ声を和らげました。
「若君、無理にご挨拶くださらずとも結構です」
若君が、ちらりとこちらを見ました。
「父君のお屋敷に、丞相様の命で、劉備玄徳の娘が妹付きで運ばれてきたのです。戸惑う方が自然でございます。初日から満面の笑みで迎えられたなら、私はそちらの方を疑いました」
若君は、半分ほどしか分かっていない顔をしました。
玉珠は、菓子を選ぶのに夢中です。
おそらく一割も分かっておりません。
それでよいのです。
子どもが、丞相様の命だの、劉備玄徳の娘だの、漢室の血だのをすぐ理解し始めたら、世の中が嫌になりすぎます。
玉珠は一つ取って、私へ差し出しました。
「姉上も食べる?」
「いただきます」
私が受け取ると、若君の視線が私の手元に向きます。
「食べるのか……」
「差し出されたものを、いつまでも眺め続ける趣味はございません」
「毒かもしれない……」
「若君は、ご自分で毒をお持ちになったのですか?」
「違う……」
「では、ありがたくいただきます」
口に入れると、昨日のものより香ばしい味がしました。
悔しいことに、おいしい……
玉珠はすでに二つ目を食べています。
「甘いね」
「そうですね」
「文烈様のおうち、すごいね!」
「評価が砂糖に偏りすぎています」
若君は、玉珠の食べる様子をじっと見ておりました。
不満そうではあります。
けれど、逃げません。
玉珠は皿を少し持ち上げました。
「若君も食べる?」
「いらない……」
「じゃあ、玉珠が食べるね」
「全部食べるな……」
「若君も食べる?」
「いらない……」
「じゃあ、どうして全部だめなの?」
「……あとで……」
玉珠は目を丸くしました。
「あとで来るの?」
「……」
「一緒に食べる?」
「違う……」
「見に来る?」
「違う……」
「じゃあ、あとで逃げる?」
「逃げない!」
声が少し大きくなりました。
廊下の空気が止まります。
若君自身も驚いたような顔をしました。
玉珠は平然としております。
この妹は、人の地雷を裸足で踏み抜いた後、花でも咲くと思っているところがあります。
「じゃあ、あとで来るんだね」
「……行く……」
若君は小さく言いました。
玉珠は満足そうにうなずきます。
「待ってるね」
若君は返事をしませんでした。
その代わり、皿の上の菓子を一つだけ指差しました。
「それは残せ……」
「これ?」
「うん……」
「若君の分?」
「違う……」
「じゃあ誰の?」
「……」
言えないらしいです。
私は助け舟を出しました。
「玉珠、若君にもご都合がございます」
「お菓子にも?」
「お菓子にもです」
「分かった。これは残すね」
玉珠は素直に菓子を皿へ戻しました。
若君の肩から、ほんの少し力が抜けます。
その時、侍女が廊下の向こうから近づいてまいりました。
「若君、旦那様がお呼びでございます」
若君は、ほっとしたような、残念なような顔をしました。
幼い顔の中で、感情が忙しく動いております。
玉珠が手を振りました。
「またね」
「……」
「逃げないでね」
「逃げない……」
「昨日は逃げたよ」
「今日は逃げない!」
玉珠は、にこりと笑いました。
「えらいね!」
若君の頬が赤くなりました。
褒められたのが恥ずかしいのか。
玉珠に言われたことが不服なのか。
逃げなかったことを褒められる立場が屈辱なのか。
おそらく全部です。
若君は侍女について歩き出しました。
数歩進んでから、ぴたりと止まり、振り返りました。
見ているのは、私ではありません。
玉珠です。
「……来る」
小さな声でした。
玉珠は首をかしげました。
「若君が?」
「うん……」
「あとで?」
「うん……」
そこまで言って、若君は今度こそ廊下の先へ消えました。
玉珠は菓子皿を抱えたまま、私を見上げます。
「姉上」
「何です?」
「若君、うさぎじゃなかったね」
「少なくとも、菓子を持って戻ってくる兎はあまり聞きません」
「じゃあ、何?」
「巣穴から半分だけ出てきた小動物でしょうか」
「それ、やっぱりうさぎじゃない?」
「近いかもしれません」
玉珠は楽しそうに笑いました。
子和様の屋敷では、こういう笑い方をする日が少なかった気がいたします。
それだけで、私は少しだけ息をつけました。
少しだけです……
妹が笑うことと、この屋敷を信用することは、まったく別でございます。
昼前、文烈様がお見えになりました。
戸の外で声がします。
「明珠殿、入ってよいか?」
この方は、必ず尋ねます。
屋敷の主であれば、本来は不要な手順でしょう。
不要なことをあえてする方は厄介です。
こちらの警戒を、礼儀という形で少しずつ削っていくからです。
「どうぞ」
文烈様は入ってくると、皿の上を見ました。
菓子がかなり減っております。
犯人は言うまでもありません。
「肇が来たそうだな」
「肇様と仰るのですか」
「本人は名乗らなかったか」
「名乗りより先に菓子が届きました」
「肇らしい」
文烈様は、困ったように笑いました。
父親の顔でした。
玉珠が身を乗り出します。
「文烈様、若君、あとで来るって」
「そうか」
「今日は逃げないって」
「大きな進歩だ」
曹家の若君の進歩が、逃げないことで測られております。
人の家には、それぞれ事情があるものです。
文烈様は、玉珠へ視線を向けました。
「玉珠殿」
「はい」
「肇は少し人見知りをする」
「人見知り?」
「知らぬ者の前で、うまく話せぬことだ」
「玉珠は知らない人でも話せるよ」
「玉珠殿は強いな」
「玉珠、強い?」
「強い」
玉珠は胸を張りました。
「姉上、玉珠、強いって!」
「菓子の前では特に」
「うん!」
否定しないのですね……
文烈様が小さく笑いました。
その笑い方に、私はまた困りました。
子和様は、何もしないことで私たちを守りました。
文烈様は、何かをしながら、逃げ道だけは塞がないようにしています。
優しさにも種類があるようです。
分類表が欲しくなります。
もっとも、分類できたところで、私の立場が変わるわけではございません。
その日の午後、約束どおり曹肇様は来ました。
今度は菓子を持っておりません。
手ぶらかと思えば、片手に小さな木の馬を握っています。
玉珠はすぐに気づきました。
「馬?」
「……」
「くれるの?」
「違う……」
「じゃあ、見せに来たの?」
「……うん……」
曹肇様は、ほんの少しだけうなずきました。
玉珠が床に座ると、曹肇様も迷った末に、少し離れて腰を下ろしました。
二人の間に、木の馬が置かれます。
妙な光景でした。
劉備玄徳の娘。
文烈様の子。
小さな木馬。
半分残した菓子。
戦の外側なら、ただの子どもの時間なのでしょう。
けれど私には、余計な札が見えてしまいます。
丞相様の命令、劉備玄徳の血、曹家の若君、捕らえられた娘。
大人は、人の背に札を貼ります。
子どもは、菓子と木馬を間に置いて座るだけです。
その無邪気さが、時々いちばん残酷です。
しばらくして、玉珠が木馬を動かしました。
「ぱかぱか」
「そんな音じゃない……」
「じゃあ、どんな音?」
「……もっと強い」
「どんどん?」
「違う……」
「ばたばた?」
「違う……」
「若君、難しいね」
「馬が変なんだ」
「馬、怒られた」
曹肇様は口を結びました。
それから、木馬を手に取り、自分で少し動かします。
「こう……」
「おおー」
「……」
「上手!」
「当たり前だ」
当たり前と言いながら、耳が赤い。
玉珠は、曹肇様の扱いが妙に上手でした。
たぶん、何も考えておりません。
考えていないから、うまくいくこともあるのでしょう。
夕暮れ近く、曹肇様は木馬を抱えて立ち上がりました。
玉珠もつられて立ちます。
「また来る?」
「……来てもいい」
「じゃあ来てね」
「玉珠も来い」
「どこに?」
「こっち……」
「こっちって?」
「本邸……」
私は顔を上げました。
曹肇様は私の視線に気づき、少し怯えたように木馬を握りました。
けれど、逃げません。
そして、小さな声で言いました。
「……曹肇」
玉珠が首をかしげます。
「なに?」
「名だ」
「曹肇様?」
「様はいらない」
「姉上、様いらないって」
「いります。若君ですから」
曹肇様は、不満そうに唇を結びました。
「曹肇でいい……」
「じゃあ、玉珠は玉珠でいいよ!」
「知ってる……」
「知ってるなら大丈夫だね!」
何が大丈夫なのか、私には分かりません。
けれど曹肇様は、ほんの少し笑いました。
笑ったと言ってよいか迷うほど、小さな変化です。
その直後、廊下の向こうから文烈様の声がしました。
「肇」
曹肇様の肩が跳ねます。
叱られると思ったのでしょうか?
文烈様は近づき、木馬と玉珠と私を順に見ました。
それから、静かに言います。
「明珠殿」
嫌な予感がいたしました。
文烈様が丁寧に名を呼ぶ時は、たいてい何かが動きます。
「肇が、玉珠殿を明日も本邸へ連れて来たいと言っている」
玉珠は目を輝かせました。
「本邸、お菓子ある?」
「ある」
「姉上!」
早い――
本当に早い。
曹肇様は、木馬を抱えたまま、玉珠の袖を小さくつかみました。
「来い……」
命令です。
ただし、声は震えております。
たいへん幼い命令でございます。
玉珠は笑いました。
「いいよ!」
私は、すぐには返事ができませんでした。
文烈様は私を見ています。
命令ではありません。
尋ねる形です。
けれど、若君は玉珠の袖を握っている。
玉珠はもう行く気です。
菓子もあるそうです。
包囲とは、こういう形をしていることもあるのですね。
丞相様の軍勢より、よほど静かです。
私は口を開きかけました。
その時、玉珠が無邪気に言いました。
「姉上、玉珠、明日は若君のお部屋に行ってくるね」
若君のお部屋。
その言葉が、妙に重く落ちました。
私は文烈様を見ました。
文烈様は穏やかな顔をしています。
けれど、その目はすでに、次の配置を考えている目でした……
劉玉珠です。
文烈様のおうちで、若君に会いました。
昨日は、玉珠が手を振ったら逃げました。
本当に逃げました。
だから玉珠は、若君はうさぎなのかもしれないと思いました。
でも、今日は違いました。
若君は、玉珠たちのお部屋の前に立っていました。
逃げませんでした。
ご挨拶もしませんでした。
そのかわり、お菓子を持っていました。
文烈様のおうちは、やっぱりお菓子でお話しするおうちなのかもしれません。
若君は、文烈様が持っていけと言ったから持ってきたそうです。
でも、玉珠が食べても怒りませんでした。
少し怒っている顔はしていました。
でも、本当に怒っているわけではなさそうでした。
若君は、お菓子を全部食べるなと言いました。
あとで来るからだそうです。
玉珠は、ちゃんと一つ残しました。
自分でも、えらいと思います。
姉上は、若君はうさぎではなく、巣穴から半分だけ出てきた小動物だと言いました。
それは、やっぱりうさぎに近いと思います。
午後、若君は本当に来ました。
今度はお菓子ではなく、木の馬を持っていました。
玉珠が「ぱかぱか」と言ったら、若君は違うと言いました。
馬の音は、若君にはもっと強いそうです。
若君は少し難しいです。
でも、木の馬を動かすのは上手でした。
それから、若君は名前を教えてくれました。
曹肇様というそうです。
玉珠には、曹肇でいいと言いました。
でも姉上は、若君だから様をつけると言っていました。
姉上は、そういうところがきちんとしています。
そして、若君は玉珠に、本邸へ来いと言いました。
命令みたいでした。
でも、声は少し震えていました。
だから、こわくありませんでした。
本邸には、お菓子があるそうです。
玉珠は明日、若君のお部屋へ行くことになりました。
姉上は、少し難しい顔をしていました。
文烈様も、静かな顔をしていました。
玉珠にはよく分かりません。
でも、若君はもう逃げませんでした。
だから、うさぎではないと思います。
たぶん――
少しだけ……




