文烈様、今日は纂の婚礼の日ですよね?
劉明珠でございます。
今年は、纂の婚礼です。
昨年は子桓様を見送りましたので、今年くらいは穏やかな祝い事だけで終わってほしいものですね。
玉珠へ知らせましたら、
『纂殿がお嫁に行くのですか?』
と返ってきました。
行きません……
問題は文烈様です。
新郎の纂より、寧珠をご覧になっております。
いえ、正確には寧珠ではございません。
寧珠の隣に男が立てば睨み、少し近づけばさらに睨み、寧珠が笑おうものなら、相手が何をしたのか確かめるようにもっと睨んでおります。
ついには、寧珠を見ているだけの男まで睨み始めました。
文烈様――
それはもう見守りではなく、監視でございます。
今日は纂の婚礼の日ですよね?
昨年、私たちは子桓様を見送りましたが、今年は別の意味で息子を送り出すことになりました。
ただし、あの世へではございません。
婚礼です。
「文烈様、その顔をおやめくださいませ」
「何だ?」
「今日は纂の婚礼ですよ。呉を攻める軍議ではございません」
洛陽へ向かう支度を整えながら申し上げると、文烈様は露骨に嫌そうな顔をなさいました。
大司馬になっても、このあたりは以前と何も変わりません。
「普通の顔だ」
「その普通の顔で纂を見ましたら、本人が『何か失敗したか』と考え始めました」
「してないなら気にするな」
息子の婚礼くらい、もう少し喜んでいただけませんか。
肇が妻を迎えた時にも思いましたが、文烈様は身内の祝い事になると、戦場とは違う意味で落ち着かなくなるようです。
昨年は子桓様のことがございましたから、祝い事を急ぐ気にはなれませんでした。
けれど年が改まり、いつまでも家の中だけ時間を止めておくわけにもまいりません。
亡くなった方を忘れることと、生きている者が先へ進むことは、同じではないのでしょう。
「母上、兄上のお嫁さんも母上って呼ぶの?」
寧珠が尋ねてきました。
「おそらくそうなるでしょうね」
「また?」
「また、とは何ですか」
肇の妻が私を母上と呼び始めた時には、思わず後ろを振り返りました。
今回は大丈夫です。
私も姑として成長したようですが、あまり嬉しくない成長ですね。
環珠は婚礼そのものより、髪飾りをどうするかで寧珠と相談しております。
最近は以前より少し落ち着いたと思っていたのですが、考え込むと右手が顔へ近づく癖はまだ残っていました。
「環珠」
「まだ、はいってない」
何も聞いておりません。
十三になっても、その言い訳だけは成長しないようです。
和珠はもっと分かりやすく、
「洛陽、お菓子ある?」
と聞いてきました。
「ございますよ」
「いっぱい?」
「婚礼ですからね」
それだけで洛陽行きに全面的な賛成を表明しました。
七つの娘に政治的判断を求める気はございませんが、もう少し兄の婚礼そのものにも興味を持っていただきたいところです。
洛陽へ着くと、玉珠も一家で顔を見せました。
「姉上、今日は纂殿のお嫁入りですか?」
「纂が嫁いでどうするのです」
「では、お婿入り?」
「どちらでもございません」
開始前から疲れますね。
玉珠の夫君はいつものように無言で妻の右側へ立っております。
あれは夫というより、右手専門の近衛ではないでしょうか。
婚礼そのものは、無事に始まりました。
纂は普段よりずっと緊張していましたが、花嫁が現れた途端、それまでの顔が少し緩みました。
あら……ちゃんと嬉しいのですね。
それなら母として安心です。
儀礼が進み、ようやく私たちの前へ二人が来ました。
花嫁が丁寧に頭を下げます。
「母上、これからよろしくお願いいたします」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
今度は振り返りませんでした。
三年前の私とは違います。
隣で文烈様が笑いを堪えているのが分かりました。
「何がおかしいのでございますか?」
「いや」
「今、絶対に肇の婚礼を思い出しましたね?」
「思い出してない」
「嘘がお下手ですね」
息子が二人とも妻を迎えました。
こうして並んでみると、ずいぶん家族が増えたものです。
長坂で妹と二人、置き去りにされた頃には想像もしておりませんでした。
だからでしょうか?
祝いの席に家族が揃っているだけで、私は時々、妙に落ち着かなくなります。
失う前に数えておかなければならないような気がして。
その考えを振り払おうと、私は娘たちの方を見ました。
寧珠は環珠と和珠を連れ、少し離れたところにおります。
姉らしくなりましたね。
和珠が何か食べたいと言えば取り分け、環珠の右手が危険な位置まで上がれば、会話を続けながらさりげなく手首を下ろしています。
玉珠の夫君と同じ技術を身につけなくてもよろしいのですが……
――寧珠――
和珠の口の端に菓子がついていたので、布で拭いてやりました。
「姉上、まだ食べる」
「さっき食べたでしょう?」
「まだ食べられる」
それは聞いていません。
環珠を見ると、今度は髪飾りが気になるらしく、右手がまた顔の近くまで上がっています。
「環珠」
「鼻じゃないよ」
何も言っていないのに。
母上が普段どれだけ苦労しているのか、最近少し分かるようになりました。
その時、何となく誰かに見られている気がして顔を上げました。
少し離れたところに、知らない男の人がいます。
目が合うと、その人はすぐに視線を外しました。
何でしょう。
私の髪飾りがおかしいのでしょうか。
もう一度見ると、また目が合いました。
今度は向こうが少し笑います。
悪い感じはしませんでした。
「姉上、誰見てるの?」
環珠が聞きます。
「知らない人」
「知り合いじゃないの?」
「知らないって言ったでしょう?」
和珠まで振り返ろうとしたので、頭をこちらへ戻しました。
「和珠はお菓子を食べてなさい」
「うん」
素直ですね。
私はもう一度だけ、その人の方を見ました。
今度は、その人ではなく父上と目が合いました。
怖い顔をしています。
なぜでしょう。
私は何もしておりません。
――劉明珠――
そこで私は、寧珠たちとは別の方向から向けられている視線に気づきました。
若い男が一人、こちらを――正確には寧珠を見ています。
一度なら偶然でしょう。
二度なら、まあ。
三度目になると、母親は気づきます。
「文烈様」
「何だ」
「今日は纂の婚礼ですよね?」
「ああ」
「では、どうして別の縁談が始まりそうなのでしょう?」
夫の眉が動きました。
「何の話だ?」
私は目だけで方向を示しました。
若者はちょうど寧珠から視線を外したところでした。
遅いですね。
文烈様が見ました。
先ほどまで息子の婚礼を見守っていた父親の顔が、見る見るうちに大司馬へ戻っていきます。
「……誰だ、あれは?」
声に迫力が増しています。
「文烈様、呉将を見つけたわけではございませんよ?」
「分かってる」
本当でしょうか……
近くにいた肇が私たちの会話を聞きつけました。
「あれは司馬子初殿ですね」
文烈様が肇を見る速度が速い。
「知ってるのか?」
「もちろんです。司馬伯達殿の家を継がれた方ですから」
肇の話では、司馬子初殿は司馬仲達殿の弟である司馬叔達殿の子として生まれ、伯父の司馬伯達殿の家を継いでおられるそうです。
家柄だけを申せば、文烈様が文句をつけるところはございません。
問題は、いま文烈様が家柄など見ていないことです。
「先ほどから寧珠を見ておりますね」
私が申し上げると、
「見てたな」
と即答しました。
怖いですね。
「父上」
声をかけてきたのは纂でした。
今日の主役です。
「どうした」
「それは私の台詞です。今日は私の婚礼ですよね?」
「分かってる」
「では、なぜ父上は司馬子初殿を睨んでいるのですか?」
ごもっともです。
肇が弟の肩を軽く叩きました。
「諦めろ。父上はいま、お前の婚礼どころではない」
「私の婚礼なのですが?」
「寧珠を見ている男がいる」
「……誰です?」
あなたまでそちらへ行かないでください。
男三人が揃って司馬子初殿を見るものですから、さすがに本人も気づきました。
目が合うと、司馬子初殿は一瞬だけ驚いたあと、こちらへ歩いてきました。
逃げないのですね。
それだけでも少し感心いたしました。
「大司馬」
「何だ?」
文烈様、怖い、怖すぎです……
祝いの席で出す声ではございません。
司馬子初殿は文烈様へ礼を取り、私にも丁寧に頭を下げました。
「本日は曹纂殿のご婚礼、まことにおめでとうございます」
「ありがとう」
文烈様の返事が短い。
隣で纂が遠い目をしております。
自分への祝いの言葉なのに、父親のせいで空気が重いのですから気の毒ですね。
私は助け舟を出すことにしました。
「子初殿は、肇や纂とは以前から?」
「はい、幾度かお話しする機会をいただいております」
受け答えは落ち着いておりますし、礼も崩れません。
何より、文烈様にこれだけ睨まれても逃げないところは悪くありません。
そう考えたところで、私は自分が何を審査しているのかに気づきました。
まだ何も始まっておりません。
寧珠本人は、この騒ぎにも気づかず、和珠の口元についた菓子を拭いております。
「姉上、まだ食べる」
「和珠、さっき三つ食べたでしょう?」
「四つ」
増えておりますね。
司馬子初殿が、そちらを見て少し笑いました。
文烈様の目が細くなりました。
「文烈様」
「何だ」
「笑っただけですよ」
「分かってる」
分かっている方の顔ではございません。
婚礼が終わる頃には、纂よりも文烈様の方が疲れておりました。
宿へ戻ってからも夫は妙に静かです。
「文烈様」
「何だ?」
「司馬子初殿のことを考えていらっしゃるのでしょう?」
「考えてない」
「では、先ほどから同じ文を逆さにご覧になっているのはなぜです?」
文烈様は黙って文を持ち直しました。
図星ですね。
「まだ寧珠が気に入られたと決まったわけではございませんよ」
「分かってる」
「まして縁談が来たわけでも――」
数日後、寿春へ戻る支度を始めた頃でした。
「大司馬、河内司馬氏より使者が参っております」
私は夫を見ました。
文烈様も私を見ました。
数年前、肇の婚礼で私は二十九にして姑になりました。
そして今回は、纂の婚礼へ来ただけのはずなのですが。
どうやら今度は――
十五になった娘の縁談まで、始まってしまったようでございます。
劉玉珠でございます。
今日は纂殿の婚礼でした。
ですが文烈様は、新郎の纂殿より、娘の寧珠を見ておられたそうです。
正確には、寧珠に近づく男をひたすら睨んでおられました。
夫に、
「文烈様は、寧珠がそんなに大事なのですか?」
と尋ねましたら、
「娘だからな」
と答えられました。
なるほど。
父親というものは、娘に男が近づくだけであれほど怖い顔になるのですね。
では私も、夫に大事にしていただこうと思い、右手を鼻へ――
つかまれました。
「何をなさるのです?」
「それは大事にするのとは違う」
違うのですか?
その数日後、河内司馬氏から使者が来たそうです。
文烈様――
今度は、睨むだけでは済まないのでは?




