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子桓様、もう長江へは行かれないのですか?

劉明珠でございます。


昨年、子桓様は長江へ向かわれ、氷に止められました。

今年は、もう長江へは行かれないそうです。


それを聞いた私は少し安心したのですが、今度は許昌へ向かわれたところ、城門が崩れたとか。


文烈様には、


「今年は城門に止められた、とか言うなよ」


と先に釘を刺されました。

まだ何も申しておりません。


玉珠へ知らせましたら、


『門は子桓様が嫌で逃げたのでしょうか?』


と返ってきました。

門は逃げません。


その説明をしている間にも、あの子の右手は鼻へ向かい、夫につかまれたそうです。


ともかく、今年は長江も氷も関係ございません。

ですから今度こそ、何事もなく終わると思っておりました。


……本当に、そう思っていたのでございます。

翌年、子桓様は長江へ向かわれませんでした。

代わりに許昌へ向かわれたのですが、今度は城門が崩れました。

「文烈様」

「言うな」

まだ何も申しておりません。

正月、子桓様が許昌へ行幸なさろうとしたところ、城の南門が何の前触れもなく崩れたそうです。

子桓様は不吉に思われ、結局、城へは入らず洛陽へ戻られたとか。

私は文烈様の顔を見ました。夫もこちらを見ます。

「今年は城門に止められた、とか言うなよ」

「私はそのような失礼なことを申し上げる女に見えますか?」

「見えるな」

即答されました。

夫婦というものは、長く一緒にいれば信頼が深まると聞いておりますが、私たちの場合は、相手が何を言い出すかという警戒心まで順調に育っているようです。

「そもそも私は、昨年だって子桓様を笑っていたわけではございません」

「長江遊覧と言っただろ」

「軍事的には正しい撤退だったと、きちんと理解しておりました」

「そのあと遊覧と言った」

よく覚えていらっしゃいますね……

もっとも、今回は昨年までとは少し違いました。

氷なら春になれば解けますし、呉の守りなら軍を退けば離れられますが、理由もなく城門が崩れたという話には、妙に笑い切れないものが残ります。

「本当に、何もなければよいのですが……」

そう申すと、文烈様は少しだけ目を細めました。

「珍しいな」

「何がです?」

「陛下のことで、お前が普通に心配してる」

「私を何だと思っておられるのですか?」

「長江遊覧と言った女」

言い方が悪いですね。

寧珠は、もう私たちの声色だけでも何かを察するようになっております。

「陛下、病気なの?」

「今のところ、そのような知らせはありませんよ」

「じゃあ、大丈夫?」

「大丈夫であってほしいですね」

環珠は少し考えたあと、

「門、なおすの?」

と尋ねました。

「直すでしょうね」

「陛下が来たら、また落ちない?」

縁起でもないことを言わないでください。

この家には、私以外にも先のことを妙に嫌な方向へ考える者が育っております。

和珠は城門より父親の方が気になるらしく、文烈様の袖をつかみました。

「父上、洛陽いく?」

「そのうちな」

「また帰る?」

「ああ」

それを聞くと安心したように頷きます。

この子は父親が出かける話を聞くたび、まず帰ってくるかを確かめるようになりました。

誰に似たのでしょうね。

あまり考えたくありません。

数日後、洛陽の玉珠から文が届きました。

『姉上、許昌の門が壊れたそうですね。子桓様がお入りになる前でよかったです』

そこまでは普通でした。

『夫に、陛下が来るのが嫌で門が逃げたのではないかと聞きましたら、門は逃げないと言われました』

当然です。

『それでは、どうして勝手に壊れたのでしょう?』

それが分かれば、子桓様も不吉に思われなかったでしょう。

最後には、

『考えていたら鼻がかゆくなりました。右手は夫につかまれています』

とございました。

洛陽は今日も平和なようです。

少なくとも、その時はそう思いました。

春が過ぎる頃、文烈様は軍務の報告もあり洛陽へ向かわれました。

今回は戦ではございません。

それだけで、見送る側の胸はずいぶん違います。

「早く帰ってきてくださいませ」

「分かってる」

「長江へ寄り道などなさらずに」

「しない」

「もし子桓様に誘われても――」

「陛下を何だと思ってるんだ」

昨年までなら、ここで口を塞がれていたかもしれません。

けれど、この時は文烈様も苦笑しただけでした。

それからしばらくして、子桓様が病に伏されたという知らせが届きました。

皇帝であろうと人である以上、病になることはございますから、休んで薬を飲めばよいのだと、その時の私はまだ考えておりました。

ところが、次に届いた文では病状が思わしくないとあり、その次にはさらに悪いとございました。

文烈様からの文も、急に短くなりました。

『まだ戻れない』

それだけの日が続いたあと、届いた文には、いつものような事情の説明すらありませんでした。

『明珠、娘たちを連れて来い』

私はその一行を、何度も読みました。

寧珠は何も尋ねませんでした。

環珠も、いつもの木の実を握ったまま黙っております。

和珠だけが、

「父上、帰ってこないの?」

と聞きました。

「私たちが、父上のところへ行くのですよ」

そう答えると、和珠は少し安心したようでした。

寿春を発って洛陽へ向かう道中、私は一度も子桓様の長江遊覧を思い出しませんでした。

嘘です。

何度も思い出しました。

けれど、もう笑えませんでした。

洛陽へ着くと、肇と纂、それに肇の妻も迎えに出てくれました。

「母上」

そう呼ばれた瞬間、私はようやく帰ってきた気がしました。

「文烈様は?」

「宮中です」

肇の答えは短く、それだけで十分でした。

娘たちは肇たちへ預け、私は宮中へ向かいました。

玉珠も途中まで一緒に来ましたが、いつもなら鼻へ向かう右手は膝の上に置いたままです。

「姉上」

「何です?」

「わたし、今日は大丈夫です」

何が、と聞く必要はございませんでした。

隣にいる夫も、今日は玉珠の手をつかんでおりません。

嘉福殿へ入った時、最初に見えた文烈様の顔を、私は忘れられません。

戦場から戻った時よりも、ずっと疲れて見えました。

そして寝台には、子桓様が横たわっていらっしゃいます。

数か月前まで大船団を率いて長江へ向かっていた方とは思えないほど、身体が小さく見えました。

私が近づくと、子桓様がゆっくり目を開けます。

「……明珠か」

「はい」

しばらく私の顔をご覧になってから、ほんの少しだけ口元を緩められました。

「また会ったな」

胸の奥が痛みました。

肇の婚礼でも、寿春でも、そうおっしゃいましたね。

私はいつもなら、何か余計なことを返したでしょう。

けれど、この時だけは、

「はい……お会いできました」

それしか申せませんでした。

その日のうちに、元仲様が皇太子に立てられました。

昨日まで平原王だった方です。

肇とも親しく、婚礼の席ではまだ父君の隣にいた若者が、今は寝台のそばで、帝国そのものを渡されようとしております。

そして子桓様は、曹子丹殿、陳長文殿、司馬仲達殿、それから文烈様を呼ばれました。

私は少し離れたところへ下がりました。

これは妻として口を挟む場面ではございません。

子桓様の声は弱く、それでも言葉だけははっきりしていました。

「元仲を、頼む」

文烈様は深く頭を下げました。

「はい」

私はその背中を見ておりました。

夫が選ばれたことを、誇らしいとは思えませんでした。

こんな役目は、子桓様が生きておられるうちは必要ないのです。

夜が明けても、私は宮中に残りました。

子桓様の呼吸は、少しずつ浅くなっていきます。

長江がお好きなのですか、と。

行幸で遊覧に来られたのですか、と。

私はずいぶん好き勝手に申し上げました。

次にお会いする時は、もう少し少人数でお願いいたします、とまで申しました。

そして最後にお会いした時、本当に部屋にはわずかな人しかおりませんでした。

こんな形で願いを叶えていただきたかったわけではございません。

やがて、子桓様の呼吸が止まりました。

誰かが陛下と呼び、文烈様が頭を垂れるのを見ても、私はその場で何もできませんでした。

泣いたのは、少し後です。

玉珠が私のところへ来た時、右手はまだ膝の上にありました。

「姉上」

「はい」

「子桓様、もう長江へ行かないのですね」

あの子なりに、ずっと考えていたのでしょう。

私は泣きながら、少しだけ笑いました。

「ええ……もう、行かれません」

玉珠も泣きました。

鼻は、ほじりませんでした。

その日のうちに、元仲様は皇帝になられました。

つい昨日まで平原王だった方が皇太子となり、その翌日には帝位へ就かれたのです。

人が悲しみ終わるまで、天下は待ってはくれません。

宮中を出たあと、文烈様と二人になったところで、夫がぽつりと申しました。

「託された」

「元仲様を、でございますね」

「ああ」

私は文烈様の手を握りました。

子桓様――

あなたは最後まで、私の夫へたいへんなものを残していかれましたね。

それでも、責める気にはなれません。

文烈様はきっと、頼まれなくても元仲様を支えたでしょうから……

その年の冬、寿春へ戻った私たちのもとへ届いた新しい詔には、文烈様を大司馬とする、と記されておりました。

子桓様は、亡くなられてからも、私の夫を休ませてくださらないのでございますね。

劉玉珠でございます。


子桓様が亡くなられた日は、姉上と一緒に泣きました。

その日は、鼻をほじりませんでした。


夫には、


「珍しいな」


と言われました。

珍しいとは何でしょう?


それから元仲様が皇帝になられ、文烈様は大司馬になられたそうです。


姉上も、


「子桓様は亡くなられてからまで、夫を休ませてくださらないのですよ」


と、いつもの調子に戻っておりました。

それなら私も、そろそろ普段通りでよいのでしょう。

そう思い、久しぶりに右手を鼻へ――


届きませんでした。

夫につかまれております。


「もう喪は明けたのでは?」

「お前の右手だけ、まだだ」


え?

私の右手だけ、服喪が延長されました。


いつまででしょう?

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