子桓様、今度は軍船まで連れていらしたのですか?
劉明珠でございます。
子桓様が寿春へいらっしゃるそうです。
数か月前には肇の婚礼へお越しになったばかりですので、今度も少しくらい穏やかな再会になるのかと思っておりました。
軍船を連れてくるとは聞いておりません。
皇帝というものは、再会するたびに規模を大きくしなければならないのでしょうか。
なお、玉珠からは、
『陛下の前では鼻をほじらない方がよいと思います』
という文が届きました。
あなたにだけは言われたくございません。
さて――
本日は皇帝陛下をお迎えいたしますので、呉軍への備えも寿春の警備も、もちろん大切でございましょう。
ですが私は、そのどちらより先に環珠の右手を見張っております。
国家の威信が、小指一本に脅かされておりますので。
皇帝をお迎えする朝に、私が最も警戒していたものは、呉の軍でも寿春の警備でもございませんでした。
環珠の右手です。
「環珠」
「まだ、はいってない」
何も聞いておりません。
最近この子は、私が名前を呼んだだけで鼻の状況を報告するようになりました。
「本日は子桓様へご挨拶するのですから、右手は大人しくしていてくださいませ」
「なんで?」
「皇帝の御前だからです」
環珠は右手を眺め、それから私を見ました。
どうやら本人の中では、皇帝と鼻の穴にどのような関係があるのか分からないようです。
寧珠が妹の袖をつかみました。
「わたし、みてる」
「お願いいたします」
娘に娘の鼻を監視させながら皇帝をお迎えする母親が、魏にほかにもいるのでしょうか。
いないことを願います。
和珠は朝から屋敷の外が気になるらしく、何度も戸口へ顔を向けていました。
「母上、陛下もう来た?」
「もう寿春へ入られておりますよ」
「ふね?」
「ええ、大きな船でいらしたそうです」
「おうちより?」
そこを比較する必要はございますか?
今回、子桓様は気軽に寿春へ遊びにいらしたわけではありません。
水軍を率い、ご自身も船に乗って淮水を下ってこられました。
数か月前、洛陽でお会いした時には肇の婚礼でした。
あの時でさえ、息子の婚礼へ皇帝が現れるというだけで十分に大事だったはずなのです。
それなのに次は軍船まで連れてこられました。
再会するたびに規模を大きくするのは、おやめいただけませんか。
文烈様は夜明け前から屋敷におりません。
揚州牧として、そして征東大将軍として、子桓様を迎える側には仕事が山ほどあるそうです。
昨夜は、
「明日は早い」
と申して私より先に横になったくせに、目を覚ました時にはもういなくなっておりました。
肇へ、
『夜は眠りなさい』
などと書いた直後に、今度は父親が眠らなくなっております。
あの親子は、私を何だと思っているのでしょう。
そんなことを考えていると、昨日届いた玉珠の文を思い出しました。
『姉上のところへ陛下が行くそうですね。陛下も姉上のお家で寝るのですか?』
宿屋ではございません。
さらに、
『陛下の前では鼻をほじらない方がよいと思います』
と書かれていました。
私は生まれて初めて、玉珠から鼻について注意されました。
たいへん屈辱的です。
その下には、
『これを書いている途中で鼻を触ろうとしたら、夫に右手を押さえられました』
と付け足されております。
まず自分を何とかしてくださいませ。
やがて使いが来て、私たちも子桓様へご挨拶できることになりました。
もちろん、文烈様たちが官吏や将兵とともに正式に奉迎した場へ、私と娘たちが紛れ込むわけではございません。
公の迎えが済んだあと、寿春に設けられた御座所へ伺います。
出る前に娘たちの衣を確かめましたが、寧珠は何も言わなくても整っており、和珠も今日は大人しく私の手を握っています。
問題は、やはり一人でした。
「環珠」
「まだ」
ですから、まだ何も聞いておりません。
「寧珠と右手をつないでいなさい」
「左じゃだめ?」
「右です」
鼻へ近い方ですから。
御前へ進むと、子桓様は私たちを見てすぐに気づかれました。
当然でしょう。
この前、洛陽でお会いしたばかりなのですから。
「また会ったな」
「はい、私もそう思っております」
「不満そうだな?」
「前回は息子の婚礼でございました」
「今回は違うな」
「ええ、今回は軍船まで連れていらっしゃいました」
子桓様が笑われました。
その傍らに控えていた文烈様が、わずかに眉を寄せます。
何でしょう。
私は事実を申し上げただけですよ。
「相変わらずだな、明珠」
「子桓様もお変わりないようで安心いたしました。ただ、次にお会いする時は、もう少し少人数でお願いいたします」
「帝に兵を連れるなと言うのか?」
「婚礼へいらした時くらいが、ちょうどよろしかったのでございます」
「文烈」
「はい」
「よく相手をしているな?」
なぜ文烈様へ同情するのです?
「陛下……私にも聞こえております」
「聞こえるように言ったのだが?」
やはり子桓様です。
皇帝になられても、この辺りだけは昔と変わりません。
その時、和珠が私の手を引きました。
「母上」
「何です?」
「あのおふね、陛下の?」
御座所から見える淮水の方角が気になっていたようです。
私が答えるより先に、子桓様が口を開かれました。
「そうだ」
和珠はしばらく考えました。
「おっきいね」
「そうだな」
「ねるところ、ある?」
子桓様が一瞬だけ黙りました。
皇帝になってから、幼い娘に船の寝床を心配されたことはなかったのでしょう。
「あるぞ」
「おふとんも?」
「ある」
和珠は満足そうに頷きました。
最近、この子の中では人がちゃんと眠れるかどうかが、たいへん重要な問題になっております。
原因は肇です。
文烈様が横から私を見ました。
「何だ?」
「いいえ。親子だと思いまして」
「何の話だ」
お分かりにならなくて結構です。
その間、寧珠はきちんと礼を崩さず、環珠の右手まで握ってくれております。
さすが姉ですね。
そう安心した瞬間でした。
環珠の右手が、寧珠の手からするりと抜けました。
「環珠」
「まだ!」
御前で大きな声を出さないでくださいませ。
周囲の視線が一斉に集まりました。
子桓様までこちらを見ておられます。
「何がまだなんだ?」
「何でもございません」
「はな――」
「環珠」
寧珠が妹の口を塞ぎました。
よくやりました。
長女というものは、こうして育つのでしょう。
子桓様は私と環珠を交互に見てから、何かを察したように視線を外されました。
皇帝には、知らなくてもよいことがございます。
ご挨拶が終わった後も、少しばかり家族として話す時間がありました。
けれど、子桓様が寿春まで来られた目的は、私たちの顔を見るためではありません。
御座所の外では絶えず人が動き、文が運ばれ、川には船が並んでおります。
昨日までと同じ寿春のはずなのに、街そのものが少しずつ戦の顔へ変わっていく。
私は、その空気を知っております。
長坂でも、その後の寿春でも、何度も味わいました。
人が増え、外が騒がしくなるほど、家の中では誰も先の話をしなくなるのです。
その夜、文烈様が屋敷へ戻ってきた頃には、娘たちはもう眠っていました。
「お帰りなさいませ」
「ああ」
疲れているように見えます。
私は食事を勧めましたが、
「向こうで食った」
とだけ答え、持ち帰った文へ目を落としました。
「まだお仕事ですか?」
「少しだけだ」
私は黙って文烈様を見ました。
「何だ?」
「その言葉を、つい先日どなたかが使っていた気がいたしまして」
文烈様も気づいたようです。
「肇と一緒にするな」
「肇も同じことを申すでしょうね」
返事がありません。
やはり親子です。
私は隣へ腰を下ろしました。
「子桓様は、このまま広陵まで行かれるのでございますか?」
「ああ」
「文烈様も?」
文烈様の目が、文からこちらへ移りました。
「ああ」
分かっていたはずなのに、聞かなければよかったと思いました。
「先ほど寿春へいらしたばかりではございませんか」
「陛下は東征のために来られたんだ。寿春で終わるわけがない」
「存じております」
だから腹が立つのです。
ほんの数か月、婚礼だの息子の寝不足だのと騒いでいたせいで、文烈様が征東大将軍であることまで忘れそうになっておりました。
「戦になるのですか?」
「まだ分からん」
たいへん便利な言葉ですね。
まだ分からないと言ってしまえば、戦にならない可能性も、すぐ帰れる可能性も、その中へ全部押し込めることができます。
けれど私は、そういう曖昧な安心を以前ほど上手に信じられなくなりました。
それでも出ていく方を困らせたところで、何も変わりません。
「分かりました」
「明珠」
「何です?」
「そんな顔をするな」
「どのような顔でしょう?」
「俺が死にに行くような顔だ」
少し腹が立ちました。
「では、必ず帰ってきてくださいませ。そうすれば私の顔が間違っていたことになります」
文烈様はしばらく私を見てから、
「帰る」
と答えました。
それで十分です。
翌朝、出立の支度をしている文烈様のところへ娘たちも起きてきました。
寧珠は邪魔にならないよう少し離れて父親を見ています。
環珠は両手を握りしめておりました。
嫌な予感がします。
「何を持っているのです?」
「二つだけ」
掌を開くと、木の実が二つ。
増えたり減ったりしますね。
「父上にあげる」
「前は三つではありませんでしたか?」
「こんどは、すぐかえるから二つ」
数にどのような理屈があるのか、もう私には分かりません。
文烈様は何も言わず受け取りました。
そこへ和珠まで、小さな布を抱えて近づきます。
こちらは見ただけで分かりました。
「父上」
「何だ?」
「おふとん」
やはり。
文烈様は布切れを受け取りました。
「持っていく」
「本当に?」
思わず私が聞いてしまいました。
「娘がくれた」
そういうところだけ妙に素直なのですね。
環珠の木の実二つと、和珠の布切れ。
征東大将軍が広陵へ持っていく物として正しいのかは分かりませんが、本人がよいのでしたら構いません。
外から出立を告げる声が聞こえました。
私は文烈様の袖を整えます。
「行ってらっしゃいませ」
「ああ」
「子桓様にもお伝えください」
「何を?」
「次に寿春へいらっしゃる時は、軍船なしでお願いいたします、と」
文烈様が笑いました。
「自分で言え」
「では、お二人とも無事に戻っていただかないと困りますね」
文烈様は答えず、私の頭へ軽く手を置いてから出ていきました。
つい数か月前には、肇の婚礼で子桓様をお迎えしました。
今度は寿春で同じ方をお迎えしたはずなのに、気がつけば夫まで見送っております。
淮水の先には広陵があり、その先には長江がある。
そして長江の向こうには、孫仲謀殿がいる。
その日の夕方、広陵へ向かう軍を追うように、南から新しい知らせが届きました。
呉から降ってきた者の話を、文烈様が得たそうです。
孫仲謀殿は――
すでに濡須口にいる、と。
劉玉珠でございます。
子桓様が姉上のいる寿春へ、大きな船でいらしたそうです。
ですので姉上には、
『陛下の前では鼻をほじらない方がよいと思います』
と教えておきました。
夫に話したところ、
『お前が言うな』
と言われました。
なぜでしょう?
わたしは陛下の前でほじったことはありません。
たぶん……
ところで、姉上からは環珠も危なかったと聞きました。
やはり親子ですね。
……あれ?
環珠は姉上の娘でした。
では、誰に似たのでしょう?
考えていたら鼻がかゆくなってきました。
「玉珠」
夫が右手をつかみました。
まだ何もしていないのに、ずいぶん疑われております。
……まだ。




