文烈様、今日は誰も死なないので祝ってもよろしいですか?
劉明珠でございます。
最近、戦の知らせがございません。
たいへん結構なことでございます。
誰も討たれず、文烈様も出陣せず、娘たちは元気に騒いでおります。
環珠は相変わらず鼻をほじっておりますが、そこまで平穏でなくても結構です。
ちなみに玉珠へ、
『最近は何も起きません』
と書いたところ、
『では、何をしているのですか?』
と返ってきました。
普通に暮らしているのですよ。
あなたも一度、鼻から指を抜いて普通に暮らしてみてくださいませ。
さて――
ようやく手に入った、何も起きない日々……
その平穏を次に壊したのは、戦でも呉でもございませんでした。
――息子です。
戦がありませんでした。
……いえ、天下のどこを探しても誰一人争っていない、などという意味ではございません。
ただ少なくとも、ここしばらく我が家へ届く文には、「誰それが討たれました」「どこそこへ軍を出します」「呉がまた何かしました」といった、読む側の胃を痛めつける文字が見当たらなかったのです。
たいへん喜ばしいことでございます。
最近の私は、平穏に対する基準がずいぶん低くなりました。
父上が東へ進んでいた頃など、肇から文が届くたびに、開ける前から誰が死んだのかを考える癖までついておりましたから、それに比べれば「本日は特に何もございません」と書いてあるだけで祝杯を挙げてもよい気がいたします。
もっとも、文烈様へそう申し上げたところ、
「昼から飲む理由を探すな」
と却下されました。
「理由ならございますよ。誰も戦で死んでおりません」
「それを毎日祝うのか?」
「毎日続くなら、たいへん結構ではございませんか」
文烈様は返事をせず、手元の書状へ視線を戻しました。
揚州牧になられてからというもの、本当にお忙しくなりました。
軍だけを見ていればよいわけではなく、土地を治める以上は役人や民のことまで考えなければならない。
以前、本人が「仕事が増えた」と申しておりましたが、あの一言だけは実に正確でした。
環珠と玉珠には申し訳ありませんが、牛も羊も増えておりません。
増えたのは書状だけです。
「母上」
寧珠が私の横へ来ました。
今年で数え十二ほどになります。
少し前までは何かあるたびに私の袖を掴んでいた気がするのに、今では和珠の世話を手伝うことも増えました。
顔立ちはやはり文烈様によく似ておりますが、ときどき妙なところで核心を突くので油断できません。
「父上、今日もお仕事?」
「ええ、残念ながら牧は羊を眺める役ではございませんから」
「母上、それまだ言ってるの?」
「言いますとも」
あれだけ綺麗に同じ間違いへ到達されたら、簡単には忘れられません。
その時、少し離れたところから環珠がこちらを見ていました。
寧珠より二つほど下で、もう幼子と言い切るには少々大きくなっております。
だからこそ私は期待していたのです。
そろそろ鼻をほじるのも卒業するのではないか、と。
期待とは、裏切られるためにある言葉なのでしょうか。
環珠の右手が、たいへん自然な動きで鼻へ向かっています。
「環珠」
ぴたりと止まりました。
「なあに?」
「その右手はどちらへ?」
環珠は自分の手を見てから、
「ほっぺ」
と答えました。
「では、なぜ小指だけが鼻の高さにあるのです?」
「まだ、はいってない」
最近、この言葉を免罪符だと思っている節があります。
「入る前に止めているのです」
「じゃあ、だいじょうぶ?」
「何ひとつ大丈夫ではございません」
私たちがそんなやり取りをしていると、和珠が環珠をじっと見ていました。
今年で数え四つ。
歩くのも喋るのもずいぶん達者になりましたが、まだ姉たちのすることなら何でも真似したがる年頃です。
嫌な予感がしました。
案の定、小さな右手が顔へ上がります。
「和珠」
私が呼ぶと、和珠はびくりとして止まりました。
環珠も止まっています。
姉妹そろって、何をしているのでしょうね。
「和珠……環珠姉上の真似をするなら、そこ以外になさい」
「はないがい?」
「そうです。もっと良いところがたくさんございます」
和珠は環珠を見ました。
環珠は困った顔をしています。
そこへ寧珠が助け舟を出すように、背筋を伸ばして座りました。
「こうしたら?」
和珠も真似して、ちょこんと背筋を伸ばします。
「そうです。寧珠姉上を見習いなさい」
すると環珠まで背筋を伸ばしました。
「あなたまで何をしているのです?」
「わたしも、おねえさま」
「その自覚があるなら、和珠へ鼻の技術を継承しないでくださいませ」
文烈様の卓から、笑い声が聞こえました。
私は振り返ります。
「文烈様……笑っていないで、ご自分の娘を何とかしてくださいませ」
「お前の娘でもあるだろう?」
「鼻に関しては、私は無実でございます」
「玉珠の姪だ」
言い返せませんでした。
たいへん卑怯な攻撃です。
血筋というものは、時として本人の努力ではどうにもならないところから襲ってまいります。
和珠はそんな両親の会話など気にもせず、今度は文烈様の座り方を真似していました。
足を揃え、真剣な顔でこちらを見ています。
「似ていますね」
私が言うと、
「まだ小さい」
と文烈様が答えました。
「小さくても似ておりますよ」
「お前にも似るだろう」
「そうでしょうか?」
和珠を見ます。
今のところ、ずいぶん文烈様が優勢に見えます。
寧珠も環珠も基本的には父親似ですから、三人そろって並ばれると、私が文烈様を三人産んだような気分になることがあります。
もちろん、そんな覚えはございません。
「母上」
寧珠がまた声をかけてきました。
「肇兄上と纂兄上は、元気かな」
「洛陽から文が来ておりますよ。二人とも元気です」
「帰ってこないの?」
「二人とも、もう子供ではございませんからね。洛陽でやることもございます」
寧珠は少し残念そうな顔をしました。
環珠も会話を聞きつけて、
「肇兄上、おとな?」
と尋ねます。
「とっくに大人です」
「纂兄上も?」
「ええ」
「じゃあ、父上とおなじ?」
私が文烈様を見ると、ちょうど向こうもこちらを見ていました。
「同じと言えば同じですが……」
「何だ、その間は?」
「いえ、大人にも色々ございますので」
「俺は何色だ?」
そこまで聞いておりません。
寧珠がくすくす笑っています。
環珠はまだ真剣でした。
「じゃあ、肇兄上もおよめさんくる?」
私は一瞬、返事を止めました。
「どうでしょうね?」
「父上には母上がいるよ」
「おりますね」
「肇兄上には?」
「まだおりません」
「じゃあ、さがす?」
まるで落とし物を探すように言わないでくださいませ。
「それは肇本人や周囲が考えることです」
「母上は?」
寧珠が尋ねました。
「わたしだったら、母上に見てほしいけど」
不意を突かれました。
私はしばらく寧珠を見ましたが、本人は何気なく言っただけのようです。
「そうですね。もし肇が望むなら、もちろん」
そこまで言ったところで、文烈様がこちらを見ているのに気づきました。
「何です?」
「いや」
「何でしょう?」
「お前はもう完全に母親だなと思っただけだ」
何を今さら……
「肇も纂も、私を母上と呼んでおりますよ」
「知っている」
「なら、今さら確認する必要がございますか?」
「ないな」
文烈様はまた書状へ戻りました。
本当に、この方は時々、こちらが返答に困ることを平然と申します。
曹肇も曹纂も、私が産んだ子ではございません。
けれど、それを意識して接していた時期がいつまでだったのか、もう思い出せません。
病になれば心配しましたし、無茶をすれば腹も立ちました。
洛陽から文が遅れれば気になり、届けばまず無事を確認する。
それを母親と呼ばないのであれば、何と呼べばよいのでしょう。
夕方になると、文烈様もようやく仕事を切り上げました。
五人で食卓を囲みます。
寧珠が和珠の器を寄せ、環珠が隣の皿を気にし、和珠は環珠が何を見ているのか気になって同じ方向を見ています。
「環珠」
私が呼ぶ前に、文烈様が先に言いました。
「人の皿を見るな」
環珠は慌てて自分の前へ視線を戻しました。
「みてない」
「見ていた」
「まだ、とってない」
鼻以外でも使えるのですね、その言葉……
「環珠」
「なあに?」
「『まだ』をつければ何でも許されるわけではございませんよ」
寧珠が吹き出しました。
和珠も意味は分からないまま、一緒になって笑っています。
文烈様まで口元を緩めていました。
私はその光景を見ながら、箸を止めました。
今夜は誰一人、戦場にも病床にもおらず、文烈様と娘たちは私のそばにいて、洛陽では肇と纂も無事に暮らしております。
父上のことを考えれば、今でも胸のどこかが痛みます。
けれど、その痛みだけで一日が終わることは、いつの間にか少なくなっていました。
こんな日が続けばよい。
文烈様が帰ってきて、娘たちがくだらないことで騒ぎ、私はそれに文句を言う。
たまに洛陽から息子たちの文が届けば、それを読んで安心する。
天下がどうなるかなど、私には分かりません。
けれど、この程度の願いなら許されてもよいでしょう。
「明珠」
文烈様に呼ばれました。
「何です?」
「ぼんやりしているぞ」
「少し幸せだっただけでございます」
口に出してから、自分でも驚きました。
文烈様も少しだけ目を見開きます。
ですが、笑いませんでした。
「そうか」
文烈様は、それ以上何も申しませんでした。
私には、それで十分でございました。
翌朝――
洛陽から届いた文の差出人は、肇でした。
私はすぐに封を開きます。
いつものように、自分も纂も変わりなく過ごしていることが最初に書かれています。
私は安心しながら続きを読みました。
ところが、最後の数行に差しかかったところで手が止まりました。
「文烈様」
「どうした?」
私はもう一度、同じ文字を読みました。
見間違いではございません。
『母上、父上にもお伝えください。婚姻の話がまとまりました』
私はしばらく黙りました。
「明珠?」
「……肇が」
「肇が?」
私は文烈様を見ました。
父上――
戦でも病でも訃報でもございません。
もっと大変な知らせが来ました。
「肇が、結婚するそうでございます」
劉玉珠です。
肇が結婚するそうです。
姉上から、
『ようやく平穏になったと思ったら、今度は息子が結婚すると申しております』
と文が来ました。
めでたいことです。
なので夫に、
「わたしたちも、お祝いした方がよいでしょうか?」
と聞いたら、
「まず今していることをやめろ」
と言われました。
見れば、小指が鼻に入っていました。
結婚のお祝いと鼻は関係ないと思います。
そう言ったら、夫は深く息をついて、
「それさえなければ、お前も相応の美人なのにな」
と言いました。
失礼です。
わたしは今も美人だと思います。
「鼻をほじりながら言うな」
今回は肇の話です。
ですから姉上へ、
『おめでとうございます。わたしも鼻をほじらずお祝いします』
と書こうと思います。
……あ。
もう無理でした。




