阿斗、知らない姉の夫の仕事を増やさないでいただけますか?
劉明珠でございます。
父上が呉へ攻め込み、散々な目に遭われました。
その父上が亡くなったあと、今度は阿斗が呉と仲良くするそうです。
たいへん結構なことでございます。
戦わずに済むなら、その方がよろしいでしょう。
ただし――
私の夫は揚州牧でございます。
阿斗と孫仲謀殿が仲良くなればなるほど、文烈様のお仕事が増えるのですが、これはどういうことでしょうね。
ちなみに玉珠へその話を書いたところ、
『阿斗が呉と仲良くすると、文烈様が忙しくなるのですか? では、少しだけ仲良くすればよいのでは?』
と返ってきました。
そのあとには、
『夫に、国同士はそんな調整をしないと言われました』
とも。
ええ、その通りです。
なお、その説明を聞きながら鼻をほじっていたそうです。
玉珠――
まず、あなた自身の外交問題を右手と鼻の間で解決してくださいませ。
文烈様が揚州牧になられてから、以前よりお忙しくなりました。
ご本人が辞令を受け取った時に、
「仕事が増えた」
と申しておりましたので、たいへん正確な予言だったことになります。
できれば、もう少し外れていただきたかったところです。
朝早くから人が出入りし、各地から届いた文が卓の上へ積まれ、軍のことだけではなく、役人や民のことまで確認しなければならない。
揚州牧とは、牛や羊を追う仕事ではございません。
環珠と玉珠には、改めて申し上げておきます。
ただし、文烈様自身は忙しくなったことを不満には思っていないようでした。
「少しは休まれてはいかがです?」
そう言うと、
「休んでいる」
と答えます。
「いつです?」
「今」
私と話をしている時間を休息に含めないでくださいませ。
たいへん安上がりな休み方ですね。
そこへ寧珠がやってきて、父親の卓を覗き込みました。
「父上、またお仕事?」
「ああ」
「母上といるのに?」
「これも休みだ」
寧珠は私を見ました。
「母上、休みなんだって」
「母も初めて知りました」
どうやら私には、夫を休ませる効果があるそうです。
今度から薬と一緒に棚へ置いていただきましょうか。
環珠も寄ってきましたが、卓上の文より別のものが気になるらしく、しばらく父親の顔を眺めていました。
「父上、つかれた?」
「少しな」
「はな、かゆい?」
「なぜそうなる」
「わたし、つかれるとかゆい」
初耳です。
疲労と鼻孔の間に、どのような道が通っているのでしょう。
「環珠」
「なあに?」
「疲れていなくても、あなたはほじっておりますよ」
環珠は少し考えてから、
「うん」
と素直に認めました。
そこは否定してくださいませ。
そんな我が家へ、肇から新しい文が届いたのは、その数日後のことでした。
最近の私は、肇の文を受け取っても以前ほど身構えなくなっています。
父上の東征中は、文を開くたびに誰かが亡くなったか、軍がさらに東へ進んだか、そのどちらかに近い有様でしたから、それに比べれば今は随分ましだと思っておりました。
私は封を開きます。
『母上、漢の丞相諸葛孔明殿が、鄧伯苗殿を呉へ遣わしたとのことです』
そこで一度、読む手が止まりました。
また呉ですか。
最近、あの国の名を見ない期間が短すぎませんか?
「文烈様」
「何だ?」
「孔明殿が、鄧伯苗殿を孫仲謀殿のところへ遣わしたそうです」
文烈様は驚きませんでした。
「関係を固めるつもりだろうな」
「そんなに簡単に仰らないでくださいませ」
「何がだ?」
「父上があれだけ大騒ぎして戦った相手でございますよ?」
もちろん、夷陵のあとには父上の側でも呉とのやり取りはございました。
父上とて、死ぬまで孫仲謀殿を相手に戦い続けるつもりだったわけではないでしょう。
分かっております。
分かっておりますけれど、父上が亡くなられたあと、阿斗と孔明殿の政権が考えることの一つが、
「呉との関係をきちんと固めておきましょう」
なのです。
たいへん正しい。
正しすぎて腹が立ちますね。
「阿斗は即位したばかりだ」
文烈様が言いました。
「ええ」
「南では反乱も起きている。魏と呉の両方を相手にする余裕はない」
「ええ」
「なら、呉との関係を固めるのは当然だろう」
「文烈様」
「何だ?」
「本日も正論が絶好調でございますね」
「褒めているのか?」
「いいえ」
父上が生きていた頃なら、私はもっと単純に腹を立てられたかもしれません。
けれど今では、弟が私たち姉二人の存在すら知らないらしいことを知っております。
その弟は若くして父を失い、皇帝になり、いきなり国まで背負わされました。
そんな阿斗が呉と手を結ぼうとすることまで責める気にはなれませんし、だからこそ余計に困るのです。
父上にも事情があり、阿斗や孔明殿にも、それぞれ国を背負う立場があります。
孫仲謀殿だって、きっとご自分なりの事情がおありなのでしょう。
世の中、事情のある方ばかりでございますね。
そうなると困るのは、私の事情をいったいどこへ持っていけばよいのか、ということですが。
私は続きを読みました。
鄧伯苗殿が呉へ赴いたものの、孫仲謀殿はすぐには会おうとしなかったそうです。
それも無理はないでしょう。
父上が亡くなったばかりで、新しい皇帝はまだ若い。
魏と関係を切ってまで漢と組んで、本当に大丈夫なのかと疑うのは分かります。
「こちらも分かってしまうのが腹立たしいですね」
「今度は誰だ?」
「孫仲謀殿です」
「忙しいな、お前も」
おかげさまで。
ですが、鄧伯苗殿はそこで引き下がらなかったようです。
漢のためだけではなく、呉のためでもある。
魏へ従い続けても、いずれ孫仲謀殿ご本人の入朝や太子を差し出せとまで言われ、それを断れば今度は逆らったと言われる。
だったら漢と組んだ方がまだましだ――鄧伯苗殿は、おおよそそのように説いたのでしょう。
私はしばらく文を眺めました。
「文烈様」
「何だ?」
「この鄧伯苗殿、ずいぶん口がお上手ですね」
「使者だからな」
「私なら途中で嫌味を挟みます」
「お前を使者に出す国はない」
失礼ですね。
私も必要なら、きちんと外交くらいいたします。
相手が父上でなければ。
たぶん。
そこへ寧珠がやってきました。
「母上、誰のお話?」
「あなたの叔父上の国が、呉と仲良くしようとしているのですよ」
寧珠は首を傾げます。
「呉って、おじいさまが戦ったところ?」
「そうです」
「もう戦わないの?」
「少なくとも、今はその方がよいと考えているのでしょうね」
寧珠は少し考えてから、
「じゃあ、いいこと?」
と尋ねました。
難しい質問です。
戦わずに済むなら、もちろんよいことでしょう。
父上の時のように多くの兵を失わず、阿斗は国を立て直す時間を得られますし、孫仲謀殿にとっても魏と向き合うには都合がよい。
誰も間違っておりません。
そう思いながら文烈様を見ると、どうやらただ一人、揚州牧だけは事情が違うようですが……
「文烈様にとっては?」
寧珠も私の視線を追って尋ねました。
文烈様は、あっさり答えました。
「面倒だな」
ですよね……
どうして我が家だけ話が変わるのでしょう。
弟と孫仲謀殿が仲良くなればなるほど、魏と呉の間は悪くなり、その呉と正面から向き合う土地を任されているのが文烈様です。
阿斗――
あなたは姉の存在をご存じないそうですね。
それは仕方ございません。
ですが、知らない姉の夫へ間接的に仕事を増やすのは、できればやめていただきたいところです。
「母上」
いつの間にか環珠まで来ておりました。
「叔父上となかよくしたら、父上いそがしいの?」
「叔父上と呉が仲良くすると、ですね」
「じゃあ、やめてもらう?」
「そう簡単にはいきません」
「お手紙かく?」
この子たちは、何でも文で解決できると思っておりますね。
先日も寧珠が、阿斗が姉の存在を知らないなら教えればよいと言っておりました。
今回も、
『阿斗叔父上へ。父上のお仕事が増えるので、孫仲謀殿とあまり仲良くしないでください』
とでも書くのでしょうか。
漢の朝廷へ届く前に、どこかで止められることを願います。
「環珠」
「なあに?」
「あなたは外交より、まず右手を何とかしてくださいませ」
見ると、案の定、鼻へ向かっています。
「まだ、はいってない」
本当に便利な言葉ですね。
残念ながら、母はもう騙されません。
その数日後、また肇から文が届きました。
開く前から何となく嫌な予感がしていたのですが、こういう時に限って昔からよく当たります。
『母上、鄧伯苗殿の話を受け、孫仲謀殿は魏との関係を絶ち、漢との結びつきを強めることにしたようです』
私は読み終えてから、静かに文を畳みました。
「文烈様」
「今度は何だ?」
「孫仲謀殿が、こちらと縁を切ったそうです」
文烈様の手が止まりました。
さすがに今度は、少しだけ顔が変わります。
「そうか」
「それだけですか?」
「予想できたことだ」
「私は予想したくありませんでした」
文烈様は私から文を受け取って目を通し、読み終えると以前とほとんど変わらない顔で卓へ置きました。
「仕事が増えるな」
聞き覚えがございます。
私は目を細めました。
「揚州牧になられた時も、それを仰いましたね」
「ああ」
「本当に増えましたね」
「ああ」
「嬉しそうにしないでくださいませ」
「していない」
しておりますよ。
ほんの少しだけ。
この方は難しい役目を任されると、なぜか目が生きるのです。
武人とは、たいへん困った生き物ですね。
私はため息をつきながら、肇の文をもう一度見ました。
父上が呉へ攻め込んで敗れ、そのまま帰れず亡くなったあとを継いだ阿斗は、孔明殿とともに今度はその呉との関係を固めました。
孫仲謀殿も魏から離れましたから、政治としてはきっと正しいのでしょう。
そして、そのたいへん正しい判断の結果、私の夫の仕事が増えました。
父上――
あなた様が呉で散々な目に遭われたと思ったら、今度は弟が呉と手を結び、その正面にいる文烈様が忙しくなるそうです。
どうして私の実家は、死後まで嫁ぎ先へ迷惑をかけるのでしょうね。
「明珠」
「何です?」
文烈様が地図を広げました。
嫌な予感がします。
「しばらく合肥方面の備えを見直す」
ほら。
もう始まりました。
「文烈様」
「何だ?」
「昨日、私と話している時間は休みだと仰いましたね?」
「ああ」
「本日は?」
文烈様は少し考えました。
「これから休む」
「どちらへ?」
「お前のところへ」
そんなことを真顔で言わないでくださいませ。
怒る場所を失うではございませんか。
私は笑いそうになるのを堪えながら、広げられた地図へ目を落としました。
そこには昨日までと同じように寿春があり、合肥があり、その向こうに呉があります。
地図は何も変わっていないのに、人の関係が変わっただけで戦の近さまで違って見えるのです。
阿斗――
あなたが皇帝として正しい判断をしたことは分かっております。
姉としても、あなたが父上と同じ戦へ突っ込まなかったことには安心しております。
ですから、これはただのお願いでございます。
次に国同士のお付き合いを決める時には、ほんの少しだけ思い出してくださいませ。
魏の寿春には――
あなたの知らない姉の夫がいるのですよ。
劉玉珠です。
姉上から、
『あなた自身の外交問題を、右手と鼻の間で解決してくださいませ』
と書かれました。
なので夫に聞いてみました。
「右手と鼻は、仲が悪い方がよいのでしょうか?」
しばらく黙ったあと、
「その二国は永久に国交を断絶しろ」
と言われました。
なるほど。
では今日から、右手と鼻は敵国です。
ところが、しばらくすると右手が勝手に鼻へ近づいていきました。
「玉珠」
見つかりました。
「何をしている」
「和平交渉です」
「するな」
厳しいです。
そのまま止めようとしたのですが――
「あ」
指が入りました。
夫が額を押さえています。
「国境を越えたぞ」
違います。
これは侵略ではありません。
たぶん……
占領です。




