文烈様、揚州牧とは羊を追うお仕事でございますか?
劉明珠でございます。
文烈様が、揚州牧になられました。
たいへん喜ばしいことでございます。
すると環珠が辞令を見て、
「父上、うし?」
と申しました。
違います。
さらに玉珠から、
『牧ということは、牛か羊も増えるのでしょうか』
と文が届きました。
どうして姉妹でも親子でもない二人が、同じ間違いへ迷わず到達するのでしょうね。
なお玉珠は、夫君に訂正されて安心した直後、鼻をほじって叱られたそうです。
そちらは何も安心できません。
さて、揚州牧――
文烈様が任されたその土地の向こうには、呉がございます。
父上――
……この二文字、最近たいへん縁起が悪くございませんか?
文烈様が、牧になりました。
……羊を追う方ではございません。
念のため最初に申し上げておきます。
洛陽から届いた辞令には、文烈様を揚州牧に任ずると記されておりました。
洞口から戻られてしばらく経ち、ようやく我が家にも戦の匂いが薄れてきたと思っていたところへ届いた知らせです。
私は文面を二度読み、それから文烈様の顔を見ました。
「文烈様」
「何だ?」
「揚州牧でございます」
「見れば分かる」
「もう少し嬉しそうになさいませんか?」
「嬉しくないとは言っていない」
「では、顔にも知らせてあげてくださいませ」
相変わらずです。
勝って帰ってきた時も、娘が生まれた時も、今回のように大きな役目を任された時も、この方は顔だけ見れば昨日と大して変わりません。
よくこれで寧珠や環珠が父親の機嫌を読み取れるものですね。
もっとも、二人とも文烈様の顔を読むことなど最初から諦めている可能性もございます。
「父上、えらくなったの?」
寧珠が辞令を覗き込みながら尋ねました。
「仕事が増えた」
「文烈様」
私はすぐ横から口を挟みました。
「娘の夢を壊さないでくださいませ」
「嘘は言っていない」
「本日くらいは『そうだ』だけでよろしいでしょう?」
寧珠は父と母を交互に見てから、もう一度聞きました。
「じゃあ、えらくなったけど、たいへんになったの?」
文烈様が頷きます。
「そうだ」
「母上」
「何でしょう?」
「父上、最初からそう言えばいいのに」
まったくですね。
十一になった娘に会話のまとめを任せる父親というのも、なかなかどうかと思います。
そこへ環珠がやってきました。
和珠も後ろからついてきます。
和珠はまだ小さく、姉たちが何を騒いでいるのか十分には分かっていないようですが、何か祝い事らしいということだけは察したのでしょう。
環珠は辞令の文字を眺めてから、首を傾げました。
「ぼく?」
「何です?」
「父上、ぼく?」
私は一瞬意味が分かりませんでした。
寧珠が先に気づきます。
「牧だから?」
環珠は大きく頷きました。
「うし?」
違います。
「文烈様は牛を追う仕事になったわけではございません」
「ひつじ?」
「羊でもございません」
「うま?」
「だんだん近づいているようで、まったく近づいておりませんね」
文烈様は黙っております。
嫌な予感がして横を見ると、口元がわずかに動いていました。
「文烈様」
「何だ?」
「笑っておりますね?」
「笑っていない」
「最近、その言い訳が多くございませんか?」
環珠はまだ諦めません。
「じゃあ、なにするの?」
これは意外と難しい質問です。
揚州牧というものを幼い娘へ説明するとなれば、朝廷から州を任され、民を治め、役人を監督し、さらにはこの土地が呉と向かい合う重要な場所である以上、軍のことも考えなければならない。
そんな説明をしたところで、環珠は途中で鼻をほじるでしょう。
「この辺りを守ったり、治めたりする方ですよ」
なるべく簡単に言いました。
環珠は父を見上げます。
「父上、ここ守るの?」
「ああ」
「母上も?」
「守る」
「ねえさまも?」
「守る」
「わたしも?」
文烈様は少しだけ間を置きました。
「お前はまず鼻を守れ」
環珠の右手が止まりました。
すでに鼻の手前まで来ております。
「まだ、はいってない」
「入れるな」
たいへん立派な揚州牧でございます。
就任初日の最初の仕事が、娘の鼻孔防衛になりました。
私はその日のうちに、ささやかな祝いを用意させました。
文烈様は大げさにする必要はないと申しましたが、そういうところまで本人の言う通りにしていては、我が家では一生祝い事が地味になります。
肇と纂にも声をかけ、久しぶりに家族が一つの卓を囲みました。
肇は辞令を改めて見ながら、
「父上、おめでとうございます」
と素直に頭を下げました。
纂もそれに続きます。
「おめでとうございます、父上」
文烈様は二人へ頷いただけでした。
ですが、私は知っております。
ほんの少しだけ、いつもより目元が柔らかい。
この方は、喜ぶ時まで見つける側へ努力を要求してきます。
妻としては少々不親切ですね。
「文烈様」
「何だ?」
「本日はお祝いなのですから、もう少し胸を張ってもよろしいのですよ?」
「張っている」
「どこを見れば分かるのでしょう?」
「知らん」
本人まで分からないのでございますか。
寧珠が笑いました。
環珠もつられて笑い、何が面白いのか分からない和珠まで笑います。
結局、文烈様も少しだけ口元を緩めました。
それで十分でした。
私は杯を持ち上げます。
「では、改めまして。文烈様、揚州牧ご就任、おめでとうございます」
寧珠たちも真似をして声を上げました。
肇と纂も笑っています。
文烈様はしばらく私たちを見回したあと、
「ありがとう」
とだけ言いました。
短いですね。
ですが、この方の場合、それ以上を求めると逃げます。
私は杯を口へ運びながら、少しだけ誇らしい気持ちになっていました。
長坂で曹軍に捕らえられた十三歳の娘が、十五年後には揚州牧の妻です。
人生とは分からないものです。
父上も、さすがにここまでは予想なさらなかったでしょう。
もっとも、父上ご自身もあの頃から随分と遠くまで行かれました。
徐州を失い、荊州へ流れ、益州を得て、漢中王となり、最後には皇帝にまでなられた。
そして、呉へ向かわれました。
そこまで考えて、私は杯を置きました。
……呉。
嫌な文字が混ざりましたね。
せっかくの祝いです。
今は忘れましょう。
そう思ったところへ、使いの者が一通の文を持ってきました。
玉珠からでした。
どうして、こういう時だけ妙に間がよいのでしょう。
私は封を切ります。
『姉上、文烈様が揚州牧になったと聞きました。おめでとうございます』
珍しく普通だったので、かえって不安になりました。
玉珠からまともな文が届いた時ほど、次の行を読むのが怖くなります。
『牧ということは、牛か羊も増えるのでしょうか』
やはり来ました……
「どうした?」
文烈様が尋ねます。
「玉珠も環珠と同じところへ到達いたしました」
「何がだ?」
「あなた様が牛か羊を飼うと思っております」
肇が俯きました。
肩が震えております。
「肇」
文烈様が呼ぶと、肇はすぐ顔を上げました。
「何でしょう、父上?」
「笑うなら笑え」
「申し訳ございません」
言いながら笑っております。
私は続きを読みました。
『夫に聞いたら、そういう牧ではないと言われました』
夫君――
ありがとうございます。
『それで安心したので鼻をほじっていたら、安心するところが違うと言われました』
安心した時に鼻をほじる習慣は、いつ身についたのですか……
『姉上も、文烈様がお忙しくなると思いますが、お身体に気をつけてください』
そこはまともなのですね。
私は少し笑いました。
玉珠なりに心配してくれているのでしょう。
最後にもう一行ありました。
『わたしも鼻をなるべく気をつけます』
そこは努力目標にしないで、今すぐやめなさい。
「玉珠叔母上、なんて?」
寧珠が聞いてきました。
「あなた方の父上が牛か羊を飼うのかと」
「環珠と同じだ」
「そうですね」
環珠が嬉しそうに胸を張りました。
「おばさまといっしょ!」
喜ぶところではございません。
その右手まで一緒にしないでくださいませ。
祝いの席は、思ったより賑やかなまま終わりました。
子供たちを寝かせ、肇と纂も下がったあと、私は文烈様と二人になりました。
卓にはまだ酒が少し残っています。
「本当に、おめでとうございます」
もう一度言うと、文烈様は今度は素直に頷きました。
「ああ」
「嬉しいですか?」
「責任の方が重い」
やはり、そう言いますか。
「ですが、子桓様があなた様へ揚州を任せたということでしょう?」
「そうなるな」
「でしたら、少しくらい誇ってくださいませ」
文烈様は杯を置きました。
「誇るのは、守ってからでいい」
その言葉だけは、妙に文烈様らしいと思いました。
この方は、勝ったから偉いとも、役目を与えられたから誇ってよいとも考えていないのでしょう。
任された以上は果たす。
それが文烈様にとっては当たり前なのです。
だから私は、この人を誇らしいと思うのです。
「では、守ってくださいませ」
「守る」
「私も?」
「守る」
「寧珠も、環珠も、和珠も?」
「ああ」
「肇と纂も?」
文烈様は少し呆れたように私を見ました。
「全部だ」
私は笑いました。
その答えを聞きたかっただけです。
「では安心いたしました」
「何がだ?」
「文烈様が揚州牧になられたことが、です」
そこで私は、ふと卓の端に置かれた地図へ目をやりました。
寿春から合肥、その先へと揚州の地を辿っていけば、さらに南には見慣れた一文字がございます。
呉――
私は少しだけ黙りました。
父上も、最後はその方角を見ておられました。
帰ってくださいと何度願っても帰らず、そのまま東へ進み、敗れ、ついには永安で亡くなられました。
そして今度は、私の夫が揚州牧です。
「明珠?」
「文烈様」
「何だ?」
「一つ、お願いがございます」
「言ってみろ」
私は地図の南を指しました。
「できれば、あちらとはあまり仲良くなさらないでくださいませ」
文烈様も地図を見ます。
「呉とか?」
「はい」
「揚州牧に何を言っている」
分かっております。
分かっているから困っているのです。
「父上が呉へ向かわれて、ろくなことになりませんでしたので」
「俺は玄徳殿ではない」
「それは存じております」
「ならいいだろう」
よくありません。
父上も、負けるつもりで呉へ向かわれたわけではございません。
私はしばらく地図を見つめてから、ため息をつきました。
父上――
どうやら、あなた様が散々な目に遭われた国を、今度は私の夫が見張ることになったようでございます。
まったく、どうして私の家の男たちは、揃いも揃って呉の方角を向くのでしょうね。
「明珠」
「はい?」
「鼻をほじるなよ」
私は思わず文烈様を見ました。
「誰がですか?」
「お前の妹からの文を読んでいたら、念のため言っておこうと思った」
「私はいたしません!」
「ならいい」
たいへん失礼な揚州牧でございます。
私は文烈様を睨んでから、もう一度地図へ目を落としました。
祝いの夜は、まだ終わっておりません。
ですが――
揚州牧。
その役目の向こうに呉があることだけは、どうしても忘れられそうにございませんでした。
劉玉珠です。
文烈様が揚州牧になりました。
姉上、おめでとうございます。
わたしは牧と聞いたので、牛か羊が増えるのかと思いました。
夫に聞いたら、
「増えない」
と言われました。
少し残念です。
環珠も同じことを考えたそうなので、たぶんわたしたちは気が合います。
姉上は嫌がりそうですけど……
それより、姉上からの文には、
『文烈様の向こうに、また呉がございます』
と書いてありました。
父上も呉へ行って、たいへんなことになりました。
では、文烈様は大丈夫でしょうか?
そう夫に聞いたら、しばらく考えてから、
「お前は他人の心配より、まず右手を止めろ」
と言われました。
大丈夫です。
まだ鼻には――
「玉珠」
……入りました。




