阿斗、あなたは姉の事を覚えておいでですか?
劉明珠でございます。
弟の阿斗が、皇帝になりました。
たいへん喜ばしいことでございます。
すると玉珠が、
「では、わたしは皇帝の姉ですね」
と胸を張ったそうです。
その右手で鼻をほじりながら……
夫君に叱られてやめたそうですが、しばらくするとまた右手が鼻へ向かい、
「まだ入れてません」
と申したとか。
環珠と同じ言い訳を、元祖が使わないでくださいませ……
皇帝の姉としての威厳より先に、まず右手の統制が必要なようです。
さて――
玉珠も私も、たしかに阿斗の姉でございます。
こちらは覚えております。
では――
阿斗……
あなたは、私たちのことを覚えておいでですか?
弟が皇帝になりました。
たいへん喜ばしいことでございます。
父上が亡くなられて間もなく、劉禅が成都で帝位を継いだという知らせは、すでにこちらにも届いております。
まだ十七ほどの若者です。
あの長坂で趙子龍殿に抱えられていた赤子が、今では冠を戴き、群臣から陛下と呼ばれている。
十五年という年月は、ずいぶん妙なことをするものですね。
私も十三歳の娘ではなくなりました。
玉珠も、鼻をほじって元譲様に叱られていた幼女ではありません。
今では立派に夫を持ち、子まで身籠っております。
鼻は、まだほじります。
年月にも、できないことはあるようです。
「母上、叔父上が皇帝なの?」
寧珠が聞きました。
「そうですよ」
「じゃあ、すごい人?」
「皇帝でございますから、少なくとも今は誰もがそう申すでしょうね」
「母上よりえらい?」
「それを母本人に尋ねますか?」
寧珠は悪気なく頷きました。
環珠まで隣から顔を出します。
「こうてい、つよい?」
「強さで決める役職ではございません」
「じゃあ、はなほじる?」
なぜ皇帝の資質をそこで測るのですか。
「それは存じません」
「おばさまはするよ」
「玉珠を皇帝の基準にしないでくださいませ」
世の中には、比べてはいけないものがあります。
弟と玉珠の鼻は、その一つです。
私は肇から届いた文をもう一度開きました。
そこには劉禅の即位と、父上亡きあとの漢の様子が記されております。
父を失ったばかりで帝位を継いだ弟を、丞相となった孔明殿が支え、弟自身も群臣の言葉を聞きながら務めを果たしているそうです。
肇の文を読む限り、今の弟は真面目に皇帝をやっているようでした。
私でしたら断ります。
丁寧に。
できれば三回ほど。
しかし弟には、その自由すらなかったのでしょうね。
「明珠」
文烈様が向かいから私を見ました。
「何です?」
「さっきから同じところを読んでいる」
「ええ」
「何か気になるのか?」
私は文から目を上げました。
「劉禅が、私たちのことを知っているのかと思いまして」
文烈様の眉がわずかに動きました。
「知らない可能性はあるな」
「やはり、そう思われます?」
「あの時は赤子だった」
そうなのです。
長坂の時、弟はまだ自分の名すら理解していなかったでしょう。
当然、私の顔など覚えているはずがございません。
玉珠のことも同じです。
問題は、そのあとです。
「では、誰かが教えているでしょうか?」
文烈様は答えませんでした。
答えなかったということは、私と同じところへ考えが行ったのでしょう。
弟の周りには、私たちの存在を知る人間が何人もおります。
孔明殿。
趙子龍殿。
古くから父上に仕えていた者たち。
長坂で何が起きたのかを知る者が、一人もいないわけではありません。
むしろ、おります。
たくさん。
それなのに、弟が自分を父上の長子だと思っていたとしても、不思議ではない。
「文烈様」
「何だ?」
「もし劉禅が、自分には弟しかいないと思っていたらどうしましょう?」
「どうもしないだろう」
「私は姉ですよ?」
「そうだな」
「玉珠もおります」
「いるな」
「しかも二人とも生きております」
「知っている」
「片方はあなた様の妻でございます」
「それも知っている」
「もう片方は夏侯家に嫁いでおります」
「明珠」
「はい」
「俺に説明するな」
失礼いたしました。
つい、事実を並べれば並べるほど状況がおかしくなるものですから。
弟は皇帝。
姉二人は魏におります。
一人は曹休の妻。
もう一人は夏侯家の嫁。
これを成都の朝廷で紹介する者がいたら、場の空気はたいへん愉快なことになるでしょう。
おそらく、誰もやりたがりません。
私でもやりません。
孔明殿なら、なおさらでしょう。
あの方は馬鹿ではございません。
むしろ、賢すぎるくらいです。
先帝には、長坂で置き去りにした娘が二人おりました。
その娘たちは曹軍に捕らえられました。
しかも生き延び、今では魏の一門へ嫁いでおります。
これを新帝即位の祝いの席で申し上げる意味が、どこにございましょう。
『陛下、ご即位おめでとうございます。ところで、陛下には魏に姉君が二人おられます』
お祝いなのか嫌がらせなのか、分からなくなります。
「孔明殿は黙るでしょうね」
私が言うと、文烈様は少し考えてから頷きました。
「俺でも黙る」
「あなた様までですか?」
「知らせて何になる」
実にもっともです。
「陛下が会いたいと仰ったら?」
「会えるのか?」
「難しいでしょうね」
「なら余計に知らせる理由がない」
「正論でございます」
本日二度目です。
正論というものは、いつも私が言い返しにくいところへ置かれておりますね。
だからと言って、胸の奥が何も感じないわけではありません。
弟は私を忘れたのではない。
忘れる以前に、知らないのです。
それは責めようがありません。
赤子だったのですから。
父上を恨むことはできても、弟を恨む理由はない。
だから余計に困ります。
怒りの置き場所がございません。
「母上」
寧珠がまたこちらへ来ました。
「どうしました?」
「叔父上に、お手紙書かないの?」
私は思わず黙りました。
子供というものは、こちらが避けていたところへ裸足で踏み込みますね。
「書いて、何と?」
「わたしがお姉さんですって」
たいへん簡単です。
国境も、政治も、父上の過去も、すべて寧珠の頭の中には存在しません。
「それだけでよいのですか?」
「うん」
環珠も手を上げました。
「わたしもかく」
「あなたは何を書くのです?」
「はな、まだはいってない」
書かなくて結構です。
漢の皇帝へ最初に送る文がそれだったら、母は寿春から逃げます。
「でも、知らないなら教えたらいいのに」
寧珠が言いました。
私は返事をしませんでした。
まったく、その通りだからです。
知らない。
なら教える。
子供なら、それで終わります。
大人になると、そこへ国が入り、立場が入り、死んだ父の名誉まで入り込んでくる。
そして最後には、誰も何も言わなくなる。
便利なものですね。
政治というものは。
人間一人を、存在しなかったことにするくらい簡単にできます。
二人でも変わりません。
そこへ、玉珠から文が届きました。
ちょうどよいですね。
もう一人の、存在しない姉からです。
私は封を開きました。
『姉上、阿斗が皇帝になったそうですね』
そこまでは普通でした。
『ということは、わたしも皇帝の姉です』
ええ……
この間も同じことを言っておりましたね。
『夫に、もう少し偉そうにした方がよいでしょうかと聞きました』
やめなさい……
『そうしたら、まず鼻をやめろと言われました』
夫君は、たいへん正しいです。
『なので、今日はまだ二回です』
増えているではございませんか。
私は額へ手を当てました。
「どうした?」
文烈様が聞きます。
「玉珠が、皇帝の姉としての威厳を身につけようとしております」
「無理だろう」
即答でした。
「少しくらい可能性を残してあげてくださいませ」
「何をした?」
「鼻を二回」
「無理だな」
私もそう思います。
しかし、その先を読んだところで、笑いが少し止まりました。
『ところで姉上、阿斗はわたしたちのことを覚えているのでしょうか?』
私は文を持ったまま、動けなくなりました。
玉珠は知らないのです。
弟が私たちを覚えていない可能性ではなく、最初から知らない可能性があることを。
玉珠は長坂の時にも幼かった。
私よりずっと。
だから、弟が赤子だったことは分かっていても、その後、誰が何を弟へ話したのかまでは考えたことがないのでしょう。
さらに続きがありました。
『会ったら、わたしが姉だと言えば分かりますか?』
分かりませんよ。
おそらく。
私はすぐには返事を書けませんでした。
玉珠へどう説明すればよいのでしょう。
弟はあなたを忘れたのではない。
たぶん、知らない。
私のことも。
長坂で父上が娘を二人置いていったことを、誰も教えていないのかもしれない。
そんなことを、そのまま書けばよいのでしょうか……
「明珠」
文烈様の声がしました。
私は顔を上げます。
「玉珠も、気づいていなかったようです」
「そうか」
「どう返事をしましょう?」
「お前が決めることだ」
また、それですか。
この方は大事なところになると、決して私の代わりに答えを決めません。
ありがたいのですが、少々困ります。
私はしばらく筆を持ったまま考えました。
やがて、最初の一行だけを書きます。
『玉珠、たぶん阿斗は私たちを覚えておりません』
そこで止まりました。
違いますね。
私はその文字を見つめ、ゆっくり線を引きました。
覚えていないのではない。
知らないのです。
その違いは、とても大きい。
そして私は初めて考えました。
もし、劉禅が本当に何も知らないのなら。
いつか誰かが教えなければ、一生知らないままなのではございませんか?
父上には、娘が二人いた。
長坂で置いていかれた。
それでも生きた。
それぞれ夫を持ち、家族を持ち、今もここにいる。
そのことを。
私は筆を置きました。
「文烈様」
「何だ?」
「もし弟が、本当に何も知らないのなら――」
その時、廊下の向こうから足音がしました。
肇からの文を持った使いの者でした。
またですか……
私は受け取った文を開きます。
そして、一行目を読んだところで、玉珠への返事を忘れました。
そこには、こう書かれておりました。
『母上、少し妙なことが分かりました。こちらへ来た漢の者たちの話をいくつか確かめたのですが――』
私はそこで眉を寄せました。
『漢では、劉公嗣殿に姉君がおられるという話が、ほとんど伝わっていないようです』
……ほとんど?
私は、その文字をもう一度読みました。
父上――
私たちは、置いていかれただけでは足りなかったのでしょうか……
今度は、最初からいなかったことになっているようでございます。
劉玉珠です。
姉上から文が来ました。
阿斗は、わたしたちのことを知らないかもしれないそうです。
それは少し困ります。
だって、わたしは阿斗の姉です。
皇帝の姉です。
夫にそう言ったら、
「まず鼻から指を抜け」
と言われました。
まだ入れてません。
入れようとはしましたけど……
姉上にも、
「そこを威厳の基準にしないでくださいませ」
と書かれました。
厳しいです。
でも、阿斗。
もし本当に知らないなら、いつか教えてあげたいです。
姉は二人います。
一人は寿春で皮肉を言っています。
もう一人は――
「玉珠」
あ……
夫が見ています。
……まだ入れてません。




