父上、私には迎えに来てくださる方がおりますが?
劉明珠でございます。
最近、文烈様の帰りが早いのです。
何かあったのかと思いましたが、何もおっしゃいません。
慰めの言葉もございません。
ただ帰ってきて、和珠を抱き、寧珠と環珠の相手をしております。
……文烈様。
そういう気遣いは、たいへん困ります。
私が皮肉を申し上げにくくなるではございませんか。
しかも環珠が鼻へ手を伸ばせば、
「明珠」
と、なぜか私を呼びます。
私にどうしろと?
止めますけれども。
さて――
父上については、まだ文烈様に聞いていないことがございます。
少々、意地の悪い質問をしてみましょうか。
文烈様。
もし私が、どこか遠くへ行ってしまったら――
どうなさいます?
父上が亡くなられたとの知らせを受けてから、屋敷の中が妙に静かに感じられました。
実際に静かだったわけではございません。
和珠は泣きますし、環珠は相変わらず鼻へ右手を伸ばしますし、寧珠はそんな妹を止めながら私の顔まで気にしております。
いつもと同じです。
違うのは、父上がもうこの世にいないということだけでした。
たった一人いなくなっただけで、世の中というものはずいぶん違って見えるのですね。
「母上」
寧珠が私の隣へ座りました。
「何ですか?」
「お祖父様のこと、考えてた?」
「……分かりますか?」
「ずっと同じところ見てるから」
これはいけません。
数え十一にもなる娘の目は、母親が思っているよりずっとよく見えているようです。
「少しだけですよ」
「少し?」
「たくさんかもしれません」
寧珠は何も言わず、私の袖を握りました。
こういうところは、誰に似たのでしょう。
少なくとも父上ではないと思いたいところですが、亡くなった直後くらいは悪口を控えた方がよいでしょうか。
……三日ほど。
それくらいなら、私にもできそうです。
玉珠ではございませんので。
その玉珠からも文が届きました。
『姉上、大丈夫ですか?』
最初の一文は普通でした。
父上が亡くなった直後くらいは、玉珠も最後まで普通なのでしょうか。
そう思って続きを読みます。
『わたしは父上のために三日間、鼻をほじりませんでした』
知っております。
『でも治らなかったので、願掛けは効かなかったようです』
それも、たぶん鼻とは関係ございません。
さらに、
『夫には、そのまま一生続ければよいと言われました』
とも書かれておりました。
玉珠の夫君も、まだ諦めていなかったのですね。
頑張ってくださいませ。
応援だけはいたします。
最後には、
『姉上が一人で泣いていないか心配です。文烈様がおられるから大丈夫だと思いますが、もし足りなければ、わたしも行きます』
とありました。
私はそこで少し笑いました。
玉珠――
あなたが来たら、たぶん私は泣く暇より先に、あなたの右手を見張ることになります。
それでも、来てくれると言ってくれたことは嬉しかったですよ。
返事には、そのことだけ書きました。
鼻の話は書きませんでした。
珍しいですね。
私にも、そういう日があるのです。
父上が亡くなってから数日、文烈様は、私が泣いたのか、父上をまだ恨んでいるのか、それとも許したのか、何一つ尋ねませんでした。
ただ、普段より少し早く屋敷へ戻り、和珠を抱き、寧珠と環珠の相手をしておられました。
それだけです。
最初は、何も言わないのだと思いました。
けれど違いました。
言わなくてもよいことを、言わないのでしょう。
「文烈様」
夜になり、子どもたちが眠ってから、私は隣に座る夫を呼びました。
「何だ?」
「父上のこと、何もおっしゃいませんね」
「何を言えばいい?」
「慰めるとか」
「慰めてほしいのか?」
聞かれて、困りました。
「……分かりません」
「なら、言わない」
あまりにも簡単です。
「普通は、もう少し気の利いたことをおっしゃるものでは?」
「俺は玄徳殿ではない」
「それは存じております」
「お前と玄徳殿のことに、俺が勝手な答えをつける話でもない」
私は文烈様の顔を見ました。
この方は時々、ずるいですね。
こちらが欲しい言葉を探している時に、探してもいなかったところから答えを持ってきます。
「私は、父上を恨んでおりました」
「ああ」
「今でも、たぶん恨んでおります」
「ああ」
「亡くなったからといって、長坂のことまで美談にするつもりはございません」
「する必要はない」
その返事が、あまりにも早くて笑いそうになりました。
「父上ですよ?」
「父でも、やったことは消えない」
文烈様はそれ以上、劉備を悪く言いませんでした。
褒めもしません。
ただ、私が恨んでいることを否定しない。
それでよいのです。
父上を許せと言われたら困ります。
忘れろと言われても困ります。
死者だから綺麗な思い出だけ残せと言われたら、もっと困ります。
私の十三歳は、そんなに都合よく消えてはくれませんから。
「文烈様」
「何だ?」
「父上は、一度も私を迎えに来てくださいませんでした」
口にすると、思っていたより静かな声になりました。
責める相手はもうおりません。
父上へ向けるはずだった言葉だけが、行き先を失って残っております。
「十五年です」
「ああ」
「一度くらい来てもよかったと思いませんか?」
文烈様は少し黙りました。
「思う」
それだけでした。
慰めでも、劉備への非難でもありません。
けれど私には十分でした。
「私がどこかへ行ってしまったら」
言ってから、何を聞いているのだろうと思いました。
「文烈様は、迎えに来てくださいますか?」
文烈様がこちらを見ました。
「行く」
迷いませんでした。
「遠くても?」
「行く」
「敵の中でも?」
「行く」
「たいへん面倒な場所でも?」
「明珠」
「はい」
「お前がどこにいても迎えに行く」
そこで終わりました。
それ以上、何も言いません。
この方は、本当にずるいですね。
そんなことを平然と申しておいて、本人は大したことを言った顔すらしておりません。
「文烈様」
「何だ?」
「今の言葉、あとで忘れたとは申しませんよね?」
「言わない」
「肇にも聞かせておけばよかったでしょうか?」
「なぜ肇が出てくる」
「証人です」
「要らん」
「寧珠でも」
「寝かせておけ」
「環珠は?」
「もっと要らん」
それは同感です。
環珠を証人にした場合、肝心なところで鼻をほじっていた可能性がございます。
私は少し笑いました。
父上が亡くなってから、初めて無理をせずに笑えた気がします。
文烈様は何も言いませんでしたが、私が笑ったのを見て、ほんの少しだけ表情を緩めました。
この人でよかった。
ふと、そう思いました。
捕虜になった十三歳の私に教えても、たぶん信じないでしょう。
父上に置いていかれた先で夫に恵まれ、娘を三人産み、義理の息子たちからも母上と呼ばれるようになる。
そして父を亡くした夜には、その夫が黙って隣に座っている。
当時の私なら、そんな話をした人間を疑ったと思います。
人生とは、本当に分からないものです。
翌朝、環珠が寝台の脇までやってきました。
「母上」
「何ですか?」
「父上、きのう母上とずっといた?」
何を聞いているのでしょう。
「おりましたよ」
「母上、ないた?」
私は少し迷いました。
「少しだけです」
「父上がないた?」
「文烈様は泣いておりません」
環珠は不思議そうな顔をしました。
「なんで?」
それを私に聞かれても困ります。
「文烈様だからではございませんか?」
たいへん便利な答えですね。
環珠は納得したのかしていないのか分からない顔で、今度は右手を鼻へ近づけました。
「環珠」
「まだだよ」
「朝から何をなさっているのです」
父を亡くしても、娘の鼻との戦いは終わりません。
元譲様――
あなた様の遺志は、私が立派に継いでおりますよ。
できれば継ぎたくありませんでしたが……
しばらくして、また西から知らせが届きました。
今度は父上の訃報ではありません。
弟のことでした。
阿斗――劉禅が、父上の跡を継いだそうです。
私は文を読みながら、何とも言えない気持ちになりました。
かつて長坂で趙子龍殿に抱かれて救われた幼い弟が、今では皇帝です。
そして、その姉である私は寿春で、曹家の将軍の妻として文を読んでおります。
ずいぶん妙な姉弟になったものですね。
「元仲様に知られたら、何と申されるでしょう?」
「何も言わんだろう」
文烈様が答えます。
「私の弟が皇帝ですよ?」
「知っている」
「私はその敵国におります」
「それも知っている」
「少しくらい驚いてくださいませ」
「今さらだ」
またそれですか。
長く一緒にいると、夫というものは妻の家族が皇帝になっても驚かなくなるのでしょうか。
たいへん慣れとは恐ろしいものです。
けれど、文を畳んだ時には、笑ってばかりもいられませんでした。
父上はいなくなり、阿斗がその後を継ぎました。
私は姉ですが、助けに行くことも、隣に立つこともできません。
ただ遠くから、弟が父上と同じ道を歩き始めたことを知るだけです。
その夜、私はまた文烈様の隣に座りました。
「文烈様」
「何だ?」
「私の家族は、どうして皆、遠いところへ行くのでしょうね」
父上は永安宮で亡くなり、弟は成都で皇帝になりました。
玉珠は洛陽におります。
そして私は寿春です。
家族とは、同じところにいるものだと思っていた時期もございました。
文烈様は少し考えたあと、私の手を取りました。
「お前はここにいる」
「はい」
「俺もいる」
文烈様は、それ以上何もおっしゃいませんでした。
ですが私は、その手を握り返しました。
父上――
あなた様は、とうとう私を迎えに来てくださいませんでした。
けれど私はもう、一人で待っている十三歳の娘ではございません。
今の私には、帰ってくる方がおります。
そして――
私がどこへ行っても、迎えに来ると申した方がおります。
劉玉珠です。
文烈様は、姉上がどこにいても迎えに行くそうです。
たいへん頼もしいですね。
わたしも夫に、
「わたしが遠くへ行ったら迎えに来ますか?」
と聞いてみました。
「行く」
と言ってくれました。
嬉しかったので、つい鼻をほじろうとしたところ、
「それは迎えに行かん」
と言われました。
……条件があるようです。
ところで、阿斗が皇帝になったそうです。
ということは、わたしは皇帝の姉ですね。
少しくらい立派にした方がよいのでしょうか?
夫に聞いたら、わたしの右手を見ながら、
「まずそこからだ」
と言われました。
そこ?
……手でしょうか?




