父上の次は文烈様でございますか?
劉明珠でございます。
父上が、夷陵で負けました。
あれほどお帰りくださいませと申しましたが、まさか焼かれて退くとは思っておりませんでした。
お願いの叶え方が、少し違います。
これでようやく東の戦も終わるのでしょう。
そう思っておりました。
ところが今度は、文烈様が呉へ向かわれるそうです。
……なぜですか?
父上が退いたばかりですよ?
東には、人を呼び寄せる何かでもあるのでしょうか?
しかも、病を得ている張文遠殿まで出陣なさるとか……
皆様は、たまには「休む」という言葉を思い出してくださいませ。
特に文烈様――
諱にまで入っておりますよ?
肇の文に書かれていた地名は、夷陵でした。
そして、その名を見てから幾日もしないうちに、今度はもっと詳しい知らせが届きました。
父上は、負けたそうです。
少し押し返されたとか、陣を下げたとか、そういう可愛らしい話ではございません。
陸伯言殿に陣を焼かれ、兵を失い、白帝の方へ退いたとありました。
私は文を持ったまま、しばらく動けませんでした。
「母上?」
寧珠が顔を覗き込みます。
「どうしたの?」
「お祖父様が、負けたそうです」
「じゃあ、かえるの?」
……そこへ参りますか。
「帰るというより、退いたそうです」
「ちがうの?」
「勝って帰るのと、焼かれて退くのとでは、ずいぶん違います」
寧珠は納得したような、していないような顔をしております。
父上――
私は確かに、お帰りくださいませとお願いしました。
ですが、敗走して帰れとは一度も申しておりませんよ?
しかも、帰った先は私のところではなく白帝です。
やはり父上は、私の願いを少しずつ間違えておられる気がいたします。
腹も立ちますし、呆れもします。
一度お会いできるのでしたら、目の前に座っていただいて、「なぜそこまで行かれたのです?」と一刻くらい問い詰めてみたいです。
けれど、生きておられるなら、それでよい。
十三歳の時には、置いていかれた私の方がそう願う日が来るなど思ってもおりませんでした。
「母上」
今度は環珠が呼びました。
振り向くと、右手が鼻のすぐ手前まで来ております。
「環珠」
「まだ、はいってない」
「入る前に止めているのです」
「まだだよ?」
「その言い訳、ずいぶん上手になりましたね」
父上の大敗を聞いた直後に娘の鼻を守ることになるとは、人生とは本当に忙しいものです。
後日、洛陽の玉珠からも文が届きました。
『姉上、父上が負けたと聞きました。大丈夫なのでしょうか?』
珍しく、最初から最後まで真面目な文かと思いました。
甘かったです。
『わたしは今日はまだ鼻をほじっていません。夫に二回止められただけです』
玉珠……
それは二回ほじろうとしております。
私は返事に、『父上も心配ですが、あなたの右手も心配です』と書きました。
すると、『右手は元気です』と返ってきました。
そういう意味ではございません。
白帝へ退いた父上が、その後すぐ呉へ向かうことはなさそうだと聞き、ようやく私も少し肩の力を抜くことができました。
和珠を抱いて過ごす時間も増え、これでしばらくは遠い戦の知らせに怯えずに済むのだろうと思っておりました。
父上の戦も、これでひとまず終わるのでしょう。
そう思ったのです。
ところが、その年の秋――
文烈様が戻ってくるなり、妙に静かな顔で申しました。
「出ることになった」
私は和珠を抱いたまま聞き返しました。
「どちらへ?」
「呉だ」
嫌な予感ほど、よく当たるものですね。
「東ですか?」
「ああ」
「父上がようやく東から退いたところなのですが」
「知っている」
「では、どうして今度は文烈様が東へ行かれるのです?」
文烈様は黙りました。
黙られても困ります。
父上が東へ行って焼かれた直後に、夫まで東へ向かうのです。
東にはいったい何があるのでしょう。
人を引き寄せる妖でも棲んでいるのですか?
子桓様は呉を三方から攻めることにしたそうで、文烈様はその一軍を率いることになりました。
「三方からですか?」
「そうだ」
「一方でも十分騒がしいのに、三方ですか?」
「陛下に言え」
「言えるわけがないでしょう」
言えたとしても、たぶん止まりません。
父上もそうでした。
男の方々は大軍を動かすと決めた後で、妻や娘に「やめませんか?」と言われて素直にやめる生き物ではないようです。
たいへん不便ですね。
「明珠」
「はい」
「そんな顔をするな」
「どのような顔でしょう?」
「呆れている顔だ」
「正解でございます」
文烈様は息を吐きました。
私は和珠を抱き直し、その小さな顔を見てから夫へ視線を戻しました。
この方が戦へ行く人だということは、最初から分かっております。
戦場へ出るたびに止めるつもりもございません。
ただ、お願いだけはしておきます。
「文烈様」
「何だ?」
「帰ってきてくださいませ」
「ああ」
いつも通り、迷いのない返事でした。
それだけで少し安心してしまう自分が、悔しいところです。
「必ずですよ」
「帰る」
「父上にも聞かせて差し上げたいですね」
「玄徳殿にか?」
「ええ、あの方は『帰る』という言葉だけ、時々お忘れになるようですので」
文烈様の口元がわずかに動きました。
「今、笑いましたね?」
「笑っていない」
「床板の次は口元まで嘘をつくようになりましたか?」
「お前は出陣前でも変わらんな」
「変わってほしいのですか?」
「いや」
それなら結構です。
私も変わるつもりはございません。
ただ、その軍に張文遠殿も加わると聞いた時だけは、笑えませんでした。
文遠殿は以前から病を得ていると聞いております。
「お身体が悪いのでしょう?」
「悪い」
「それでも行かれるのですか?」
「ああ」
「……皆様、『休む』という言葉をご存じないのでしょうか?」
「文遠殿に言ってこい」
「文烈様にも申しております」
「俺は病ではない」
「お名前に『休』と入っておりますよ」
文烈様がこちらを見ました。
「それとこれとは関係ない」
「せっかく入っているのですから、たまには活用なさればよいのに」
「文字の意味を勝手に変えるな」
おっしゃることは正しいのですが、病を押して出る文遠殿と、それを当然のように受け入れて出陣する文烈様を見ておりますと、こちらも何か言いたくなるのです。
出立の日、寧珠は文烈様の袖をつかんで「はやくかえってきてね」と言いました。
環珠も隣で神妙な顔をしております。
珍しいこともあるものです。
「父上、かえってくる?」
「ああ」
「ほんと?」
「ああ」
「じゃあ、これあげる」
そう言って差し出したのは、小さな木の実でした。
文烈様は黙って受け取りました。
少し良い話になりそうですね。
私は環珠の右手を見ました。
「それ、鼻から出したものではございませんね?」
「ちがうよ!」
良かったです。
危うく曹家の将軍が、娘の鼻から出た何かをお守りとして出陣するところでした。
文烈様が額を押さえます。
「明珠」
「確認は大切でございます」
「今することか?」
「今だからこそです」
寧珠が笑い、環珠は頬を膨らませました。
そんな二人の頭を撫でてから、文烈様は私を見ました。
「行ってくる」
「はい」
私は笑って送り出しました。
泣いて引き止めれば帰ってくるのでしたら、いくらでも泣きます。
ですが、そうではないと知っておりますので、最後にもう一度だけお願いしました。
「文烈様。帰ってきてくださいませ」
「ああ、帰る」
その返事を信じました。
しばらくして、東から戦の知らせが届き始めました。
文烈様の名が書かれているたびに、私はまず生きていることを確かめます。
勝ったのか、退いたのか、敵がどう動いたのかは、その後で読めばよいのです。
以前なら戦況から先に読んでいたかもしれませんが、今は違います。
帰ってくる人の名があるかどうか。
それが先でした。
ある日、届いた文の中に、張文遠殿の名がありました。
病を押して出陣した方です。
私はそこで手を止めましたが、読まないわけにもいきません。
文遠殿は呉との戦に加わった後、病が重くなったと書かれておりました。
そして、江都で亡くなったそうです。
張遼文遠殿――
あれほど多くの戦場から戻ってきた方が、今度は戻りませんでした。
父上は東で大敗しても、生きて白帝へ退きました。
けれど今度は、東へ向かった一人が帰ってこなかった。
そこまで考えた時、頭に浮かんだのは、文烈様が出立の日に迷いなく返した言葉でした。
――帰る。
文烈様――
あの言葉、忘れておられませんよね?
次に届く文には、どうかあなた様の名がありますように。
生きている人の名として。
劉玉珠です。
父上は、夷陵で負けて白帝へ退いたそうです。
これで戦は終わるのかと思ったら、今度は文烈様が呉へ行かれました。
どうして皆様、そんなに東へ行くのでしょう?
しかも、張文遠殿は病気だったのに戦へ出て、そのまま亡くなられたそうです。
……病気なら、休めばよかったのではないでしょうか?
夫にそう言ったら、
「そう簡単な話ではない」
と言われました。
難しいですね……
でも、無理をすると帰れなくなることは分かりました。
ですので文烈様は、姉上との約束どおり、ちゃんと帰ってきてくださいね。
わたしも無理はしません。
鼻をほじろうとしたら――
「それは我慢しろ」
と、夫に止められました。
……これは無理しなくてはいけないのですか?




