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父上、帰れるのに帰らないのですか?

劉明珠でございます。


父上が呉へ向かわれました。


孫仲謀殿から和を求められたそうですので、

「これで帰れますね」

と安心いたしました。


ですが、父上は断りました。


……なぜですか?


しかも、その後の戦には勝っておられるそうで、ますます帰る気配がございません。

こちらでは、私の腹が日に日に大きくなっております。

父上は東へ、孫はこの世へ。


どうして親子で反対方向へ進んでいるのでしょう?


洛陽の玉珠からも文が届きました。


『鼻はほじっていません。昨日は一回だけです』


一回はほじっております……

父上も玉珠も、どうして「やめる」ができないのでしょうね?


さて父上――

帰る道は、ちゃんと後ろにございますよ?

父上が呉へ向かわれた。

その知らせを受けてからというもの、肇の文が届くたび、私は以前より少し身構えるようになりました。

もちろん、肇に罪はございません。

遠く寿春にいる私へ、洛陽や父上の動きを知らせてくれるのですから、むしろありがたいくらいです。

問題は、このところ文に書かれている内容でした。

雲長叔父上を失ってから、魏王様、元譲様と訃報が続きました。

漢が終わり、父上が皇帝になったと思えば、その直後には益徳叔父上まで亡くなっております。

そして、少し前には子仲伯父上も亡くなられました。

母上の兄であり、父上がまだ何も持たなかった頃から、財も人も惜しまず支え続けた方です。

私にとっても、父上の周りにいた大人たちの中では、幼い頃からよく知っている方でした。

子方伯父上が呉へ降ってから、ずっと苦しんでおられたことは知っております。

それが、そのまま最後になりました。

……子方伯父上。

どうして、残された方ばかり先にいなくなるのでしょうね。

文を送れるものなら、一度くらい聞いてみたいところです。

もっとも、返事をいただいたところで、たぶん私は納得いたしませんが。

父上が皇帝になられたことだけは、子仲伯父上も知ることができたのでしょうか。

もしそうなら、それだけはよかったと思います。

そのあと、父上が呉へ向かわれるところまで見なくて済んだことも含めて……

最近の肇の文には、開く前から身構えなければならないものが多すぎます。

そろそろ、

『母上、本日は特に何もございません』

とだけ書かれた文が届いてもよいのではございませんか?

それなら私は、喜んで何度でも読みます。

「母上、また門を見てる」

寧珠に言われ、私はいつの間にか外を気にしていたことに気づきました。

「肇から文が来ないかと思いまして」

「来てほしいの?」

「来てほしいような、来てほしくないような気分です」

寧珠は少し考えました。

「来なかったら、何もない?」

「そうとは限りませんが、少なくとも私の心臓には優しいですね」

「じゃあ、来なくていいね」

たいへん分かりやすい結論です。

玉珠もそうですが、天然な方ほど、大人が長々と悩んでいることを一言で終わらせます。

ところが、その日の午後には本当に文が届きました。

寧珠――

残念ながら、あなたの願いは半日しか保ちませんでしたよ。

私は文を開きました。

『母上、孫仲謀殿が玄徳殿へ書を送り、和を請うたとのことです』

そこまで読んで、少しだけ肩の力が抜けました。

「文烈様」

「何だ?」

「孫仲謀殿が父上へ和を求めたそうです」

書き物をしていた文烈様が顔を上げます。

「そうか」

「帰れますね」

「まだ決まっていない」

「向こうから帰る理由を差し出してくださったのですよ?」

父上が雲長叔父上の死を許せないことは分かっております。

荊州を奪われたことも、益徳叔父上まで失ったことも、簡単に水へ流せる話ではございません。

そのうえ、子仲伯父上までいなくなりました。

何もかもが、この数年の間に崩れていきます。

だからこそ、もう十分ではございませんか。

戦をしている相手から和を求められたのなら、そこで止まる道もあるでしょう。

父上――

帰る道が一本できましたよ。

長坂の時とは違います。

今度は、道そのものがなくなってしまったわけではございません。

どうか、そちらを選んでくださいませ。

そう願いながら、続きを読みました。

『玄徳殿は激怒し、許さなかったとのことです』

私は静かに文を閉じました。

「文烈様」

「何だ?」

「帰る道がなくなりました」

「玄徳殿が自分で閉じたのだろう?」

「ええ……たいへん勢いよく」

念のため、もう一度読んでみました。

残念ながら文字は変わりません。

父上は和を受けておりませんでした。

「そこまでお怒りなのですね」

「関雲長殿を討たれているからな」

「分かっております」

だからこそ、笑えません。

若い頃から何十年も隣にいた雲長叔父上を失ったのです。

私にとって叔父上だった方は、父上にとって、もっと大事な存在だったでしょう。

頭では止まるべきだと分かっていても、心が止まらない。

そこへ益徳叔父上まで亡くなりました。

父上に帰ってほしい。

けれど、帰れない父上の気持ちまで分かってしまう。

それが、たいへん腹立たしいのです。

「分かるから腹が立つのですよね」

「誰にだ?」

「父上にも、孫仲謀殿にも、子方伯父上にも、世の中にもでございます」

「増えたな」

「最近、たいへん順調に増えております」

私の腹の中も増えておりますけれど、こちらは喜ばしい方です。

三人目の懐妊が分かってから、文烈様は以前にも増して私の動きを気にするようになりました。

医者によれば、私が思っていたよりも月は進んでいたようです。

寧珠や環珠の時にはもう少し早く気づいたはずなのですが、このところ周囲で起きることが多すぎて、自分の身体の変化を後回しにしていたのでしょう。

文烈様には、

「三人目だからと油断したのではないか?」

と叱られました。

「文烈様、私は三人目でございますよ?」

「知っている」

「初めてではございません」

「それも知っている」

「でしたら、もう少し慣れてくださいませ」

「お前が気づかなかった分まで、俺が気にしている」

それを言われると反論できません。

正論とは、たいへん扱いづらいものですね。

少し長く立っていれば座れと言われ、食が進まなければ別の物を用意させられ、廊下を歩いただけで無理をしていないか尋ねられます。

そこへ環珠がやってきて、私の腹を見上げました。

「まだいる?」

「おりますよ」

「きょうも?」

「昨日いた子が今日いなくなっていたら、たいへんでしょう?」

環珠は真剣な顔で頷きました。

安心したらしく、右手がそのまま鼻へ向かいます。

途中でつかみました。

「なぜそこで鼻へ行くのです?」

「かゆい」

「安心と鼻のかゆみには何の関係もございません」

「まだ、はいってない」

最近、その言い訳まで玉珠に似てきましたね。

顔は文烈様によく似ているのに、口を開けば私に似ていて、右手だけ玉珠です。

人間の遺伝というものは、ずいぶん自由でございます。

数日後、本物の玉珠からも文が届きました。

『姉上、夫が子供ができたのだから走るなと言います。わたしはそんなに走っていません』

私は読みながら首を傾げました。

玉珠は昔から、本人が思っているよりよく動きます。

続きには、

『昨日も少し急いだだけです』

とありました。

でしょうね。

さらに、

『鼻もほじっていません。昨日は一回だけです』

一回はほじっているではございませんか。

元譲様――

申し訳ございません。

やはり、この戦線は長期戦になりそうです。

私たちがそんな文をやり取りしている間にも、父上の軍は東へ進んでいました。

やがて肇から、呉班殿と馮習殿が巫や秭帰の方面にいた呉軍を破ったとの知らせが届きます。

勝ったこと自体は喜ばしいのでしょう。

父上の軍が敗れれば、多くの兵が死にます。

父上自身も危険になります。

ですが私は、勝報を読みながら別の心配をしておりました。

「父上が勝ったそうです」

文烈様に伝えると、

「そうか」

と頷きました。

「困りました」

「勝ったのにか?」

「これで、ますます帰らなくなるではございませんか」

負けてほしいわけではありません。

ただ父上は、道が開けば、その先へ行く方です。

徐州を失っても終わらず、袁紹殿のもとから荊州へ行き、さらに益州へ入り、漢中を得て、とうとう皇帝にまでなりました。

止まらなかったから、ここまで来たのでしょう。

それは父上の強さです。

今だけは、その強さがたいへん困ります。

「おじいさま、かったの?」

寧珠が聞いてきました。

「勝ったそうですよ」

「じゃあ、もう帰る?」

私は寧珠を見ました。

「普通は、そう思いますよね?」

文烈様が顔を背けました。

「笑いましたね?」

「笑っていない」

「ではこちらを向いてくださいませ」

向きませんでした。

環珠まで寄ってきます。

「かったら、おしまい?」

「母上もそう願っております」

「じゃあ、かえればいいのに」

まったくです。

父上――

孫娘二人が、たいへん簡単に正解へたどり着いておりますよ。

残念ながら、その声が秭帰まで届くことはございません。

夏が過ぎる頃には、武陵の五谿からも父上のもとへ使者が来たという知らせが入りました。

軍にはますます勢いがついているようで、それがかえって私を不安にさせます。

うまくいっている時ほど、人は止まりません。

何度敗れても立ち上がってきた父上が、今は勝ちながら進んでいるのです。

ご自分から止まる理由を探すとは、どうしても思えませんでした。

それと同じ頃、私の腹も以前とは比べものにならないほど目立つようになっていました。

文烈様に座れと言われる前に、自分から座ることも増えております。

「少しは学習したな」

「褒めておられるのですか?」

「ああ」

「でしたら、もう少し嬉しそうにしてくださいませ」

「十分嬉しい」

相変わらず顔に出ませんね。

私は大きくなった腹へ手を置きました。

「あなたは父上の真似をして、どこまでも先へ行こうとしなくて結構ですからね」

「何を言っている?」

「この子にお願いしております」

「玄徳殿の真似などできんだろう」

「なら安心です」

父上より胎児の方が聞き分けがよいというのも、娘として少々複雑ですが。

秋が深まっても、父上は帰りませんでした。

軍は秭帰に入り、その先を窺っているという知らせが続きます。

私の腹の子は、日に日に重くなっていきました。

こちらでは生まれる日へ近づいているというのに、父上は寿春からも成都からも、さらに遠ざかっていくように思えます。

間もなく、寧珠と環珠には妹か弟ができます。

生まれたら、いつか父上にも見せたい。

寧珠も環珠も文烈様によく似ていますから、三人目こそ父上の面影が出るのか、それともまた文烈様が勝つのか。

現在は二対〇。

三人目は、まだ腹の中ですので判定できません。

「何を笑っている?」

文烈様に聞かれました。

「父上に、まだ一度だけ逆転の機会が残っていると思いまして」

「だから何の話だ?」

「遺伝でございます」

「玄徳殿は知らんだろう?」

知らなくて結構です。

知ったところで、どうしようもございませんから。

その夜、久しぶりに玉珠から届いた文には、

『姉上、お腹が少し大きくなってきました。夫が、鼻も大人しくなるとよいと言います』

とありました。

鼻は懐妊しておりません。

どうして夫君まで、そこへ期待をかけるのですか?

私は笑いながら文を置きました。

父上の戦のことばかり考えていても、何かが変わるわけではありません。

私には今、文烈様と二人の娘がおり、腹の中にはもう一人、守らなければならない子がいます。

だからこそ、父上にも帰ってきてほしいのです。

ところが、冬が近づいた頃に肇から届いた文を読み、私はまた黙り込みました。

父上は秭帰から戻る様子を見せていない。

戦を終えるどころか、その先へ進むために兵を整えているというのです。

私は腹へ手を当てたまま、しばらく文を見つめました。

「明珠?」

文烈様が呼びます。

「父上は……帰るおつもりがあるのでしょうか?」

文烈様は答えませんでした。

答えられないのでしょうし、私にも分かりません。

ただ一つ分かるのは、父上が帰る道を背にして、まだ東を見ているということだけでした。

父上――

こちらでは、もうすぐあなた様の三人目の孫が生まれます。

ですから、その前にとは申しません。

せめて、生まれたあとに笑って知らせを送れるように――

どうか、これ以上遠くへ行かないでくださいませ。

劉玉珠です。


父上は、まだ呉から帰らないそうです。


姉上に聞いたら、

「勝っているから、ますます帰らないのです」

と言われました。

勝ったのなら、帰ればよいのではないでしょうか?


夫にも聞きましたが、

「玄徳殿には玄徳殿の考えがある」

と言われました。


難しいですね。


ところで、わたしも鼻をほじらないように頑張っております。

昨日は一回だけでした。


姉上には、

『一回は一回です』

と返されました。


たいへん厳しいです。


でも、父上もやめられないことがあるそうですので、少し安心しました。


……安心してはいけないのでしょうか?


姉上のお腹も、ずいぶん大きくなったそうです。


父上――

姉上の子が生まれる前にとは言いません。


でも、生まれたあとくらいは、帰ってきますよね?

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