子桓様、まだ皇帝になられないのですか?
劉明珠でございます。
肇から文が届きました。
漢帝から子桓様へ、帝位を譲る話が進んでいるそうです。
とうとう漢が終わるのですね。
……と思いましたら、子桓様がお断りになりました。
寧珠には、
「いらないのに、またもらうの?」
と聞かれました。
ええ、私もそう思います。
環珠には、
「ほしいなら、もらえばいいのに」
と言われました。
鼻をほじりながら……
環珠、天下国家について正論を述べる前に、その手を下ろしてくださいませ。
洛陽の玉珠からも、
『子桓様は皇帝になるのですか? ならないのですか?』
と文が届いております。
その下には、
『今日は鼻をほじっていません』
とありました。
玉珠、あなたはそのまま迷わず進んでください。
さて、子桓様。
皇帝になられるのでしたら――
そろそろ受け取っていただけませんか?
肇から届いた文を、私はもう一度読みました。
『母上、朝廷で漢帝から子桓様への禅譲について、話が進んでおります』
昨夜まで、文烈様が無事に帰ってきたことを喜んでいたはずなのですが、今度は国そのものが大仕事を始めたようです。
夫が歴陽から帰って間もないというのに、漢が終わる相談まで始めなくてもよいのではございませんか?
最近、世の中は私に休む暇を与えてくれません。
「何だ?」
文烈様が尋ねました。
私は肇の文を渡します。
読み終えた文烈様は、特に驚いた様子もなく返してきました。
「そうなるだろうな」
「もう少し驚いてくださいませ」
「前から分かっていただろう?」
「分かっていることと、本当に起きることは別でございます」
魏王様が亡くなられた時から、漢がこのまま続くとは思っておりませんでした。
子桓様はすでに魏王ですし、軍も朝廷も、あの方を中心に動いております。
けれど、漢帝はまだ皇帝でした。
あの方が皇帝である限り、漢は漢として残っている。
それが今、終わろうとしております。
「父上は、どうなさるのでしょうね?」
「玄徳殿か?」
「他にどなたがおります?」
文烈様は少し考えました。
「喜びはしないだろうな」
「でしょうね」
父上は漢中王です。
漢を再び盛り立てると仰っている方です。
その漢が、父上を待たずに店じまいを始めております。
たいへん困りますね。
漢室再興の看板を掲げたまま、肝心の漢室が先に閉店してしまっては……
数日後、また肇から文が届きました。
『子桓様は、禅位を辞退なさったそうです』
私は瞬きをしました。
「辞退?」
文烈様がこちらを見ます。
「何だ?」
「子桓様、皇帝にならないそうですよ」
「そういうことではない」
「では、どういうことでございます?」
「辞譲だ」
「辞退なさったのでしょう?」
「そうだ」
「でしたら、漢は続くのでは?」
文烈様が黙りました。
その顔は、私が分かっていて言っていると気づいた顔です。
もちろん分かっております。
こういうものには、受ける側にも遠慮というものが必要なのでしょう。
皇帝の位を差し出されて、
「はい、いただきます」
と一度で受け取ってしまうのは、さすがに世間体がよろしくないらしいです。
天下というものは面倒ですね。
食事を勧められた客なら、
「いえいえ、もう十分です」
と二度ほど断ったあと、
「そこまで仰るのでしたら」
と箸を伸ばせば済みます。
ですが今回は皇帝の位です。
煮物ではございません。
「では、本当にお断りになる可能性は?」
私が尋ねると、文烈様は私を見ました。
「あると思うか?」
「思いません」
「なら聞くな」
「分かっていても確認したくなることがあるのです」
夫の帰宅と同じでございます。
その日の夕方、寧珠が私のところへ来ました。
「母上」
「どうしました?」
「子桓様、皇帝になるの?」
どこで聞いたのでしょう。
こういう話は、子供の耳にも入るのが早いですね。
「そのようなお話が進んでおります」
「でも、いらないって言ったんでしょう?」
私は一瞬、返事に困りました。
寧珠――
そういうところだけ、どうして叔母上に似るのですか?
「まあ……そうですね」
「いらないのに、またもらうの?」
隣で文書を見ていた文烈様の肩がわずかに揺れました。
笑いましたね?
「大人には、一度いらないと言ってから受け取るものがあるのです」
寧珠は首を傾げました。
「変なの」
ごもっともです。
そこへ環珠までやってきました。
私の横へ座ると、肇の文をじっと見ます。
もちろん読めてはおりません。
「ははうえ」
「何です?」
「いらないなら、ほかのひとにあげれば?」
私は黙りました。
寧珠よりさらに面倒なところへ来ましたね。
「そう簡単にはいかないのですよ」
「なんで?」
環珠はそう尋ねながら、右手を鼻へ持っていきました。
私は反射的にその手をつかみます。
「それと、鼻をほじりながら天下を論じないでくださいませ」
「まだ、ほじってない」
その言い方……
玉珠とまったく同じではございませんか……
環珠は私を見上げました。
「ははうえ、おこった?」
「怒っておりません」
「かお、おこってる」
……この子、本当に私に似ておりますね。
鼻以外は……
数日後、肇からまた文が届きました。
『母上、子桓様は再び辞退なさったそうです』
私は文を持ったまま、しばらく天井を見ました。
またですか。
子桓様――
何度まで続けるおつもりでございます?
もちろん儀礼だとは存じております。
存じておりますが、こちらは寿春なのです。
毎回洛陽から、
『断りました』
と送っていただかなくても結構でございます。
結果だけお願いします。
後日――
また肇の文が届きました。
嫌な予感しかしません。
『母上、再び禅位をお勧めしております』
私はその文を文烈様へ差し出しました。
「また勧めているそうです」
「ああ」
「先日、断りましたよね?」
「ああ」
「その前も断りませんでしたか?」
「断ったな」
「では、これは何をしているのです?」
「だから儀礼だ」
「儀礼とは、同じことを何度も繰り返して、遠くにいる親族まで疲れさせるものなのですか?」
文烈様は答えませんでした。
否定してくださいませ。
私はだんだん、禅譲そのものよりも、この押し問答がいつ終わるのかの方が気になってまいりました。
漢帝が、
「お譲りします」
子桓様が、
「いただけません」
漢帝が、
「どうぞ」
子桓様が、
「いえいえ」
天下を挟んで、いつまで玄関先の贈り物みたいなことをしているのでしょう?
皇帝の位は菓子折りではございませんよ。
その夜、玉珠からも文が届きました。
『姉上、子桓様は皇帝になるのですか? ならないのですか? 夫に聞いたら、なると言いました。 でも肇は断ったと言っています。 どちらですか?』
玉珠まで混乱しております。
珍しいですね。
今回ばかりは、私もほとんど同じ気持ちです。
その下には、
『今日は鼻をほじっていません』
と書いてありました。
そこだけは迷わず続けてくださいませ。
私は返事を書きました。
『子桓様は、おそらく皇帝になられます。 今は、皇帝になる前に何度か皇帝にならないと仰っているところです』
書いてから読み返しました。
何を言っているのでしょう、私は?
それから何日かして、玉珠から返事が届きました。
『よく分かりません』
でしょうね……
私も書いていて分かりませんでした。
ところが、その日の夕方には肇からまた文が届きました。
今度こそと思って開きます。
『母上、子桓様は再び辞退なさいました』
私は静かに文を机へ置きました。
「文烈様」
「何だ?」
「もう一度だけ確認いたします」
「ああ」
「子桓様は皇帝になられるのですよね?」
「なる」
「では、なぜここまで全力でならないふりをなさっているのですか?」
文烈様が眉間を押さえました。
「明珠」
「はい」
「儀礼だ」
「それはもう聞きました」
そろそろ別の説明をお願いいたします。
そこへ寧珠がやってきました。
「母上、まだいらないって言ってるの?」
「ええ」
「ほんとはほしいの?」
私は寧珠を見ました。
どうして六歳の子供が、一番分かりやすくまとめてしまうのでしょう?
環珠まで隣から、
「ほしいなら、もらえばいいのに」
と申しました。
鼻をほじりながら。
「環珠」
「なに?」
「手」
「あ」
私はその手を下ろさせました。
天下国家については正論なのに、鼻については毎回敗北するのですね。
どこまで私で、どこから玉珠なのでしょう、この子は……
その夜、玉珠へ経過を知らせました。
それから何日かして、返事が届きます。
『姉上、まだ皇帝になっていないのですか?』
玉珠、とうとう完全に意見が一致しましたね。
それからさらに数日――
もう肇から文が届くたび、
「また断ったのでしょう?」
と思うようになった頃です。
その日の文には、
『母上、子桓様が帝位をお受けになります』
と書かれていました。
私は何度か読み返しました。
受ける――
本当に?
今度は断らない?
もう一通来て、
『やはり辞退なさいました』
とはなりませんよね?
文烈様に見せると、
「決まったな」
とだけ言われました。
私は深く息を吐きました。
「……やっとですか」
漢が終わるという大事件なのに、最初に出た感想がそれでした。
たいへん申し訳ございません。
ですが、こちらも随分と待たされましたので。
やがて壇が築かれ、子桓様は正式に皇帝の位を受けられました。
魏の皇帝が立ったのです。
知らせを受けた時、先ほどまでの馬鹿馬鹿しさが急に遠くなりました。
昨日まで魏王だった子桓様が、今日から皇帝です。
それだけではありません。
その瞬間、もう一つのことも決まりました。
漢が終わったのです。
高祖以来、長く続いた漢。
途中で一度途切れ、それでも光武帝によって再び立て直され、ここまで続いた王朝が終わりました。
私は劉氏です。
父は漢中王で、漢室再興を掲げております。
それなのに私は寿春の曹家の屋敷で、夫が魏の征東将軍になったことを祝い、その直後には魏の皇帝が立った知らせを受けています。
随分と妙なところまで来ましたね。
「母上?」
寧珠が私の袖を引きました。
「どうしました?」
「子桓様、もうもらったの?」
「ええ、今度こそ受け取られましたよ」
「もう返さない?」
私は思わず笑いました。
「たぶん、大丈夫です」
「よかった」
何がよかったのでしょう?
寧珠には、何度も断っていた大人がようやく贈り物を受け取った話くらいに見えているのでしょうね。
環珠は私の隣で、
「やっと?」
と申しました。
ええ。
母上も同じ気持ちです。
漢が終わったと聞いて、最初に浮かんだのは父上の顔でした。
父上――
とうとうなくなりましたよ。
漢室再興を掲げて漢中王になられたのに、その漢室が先に歴史になってしまいました。
これから何を再興なさるのでしょう?
いえ、父上のことです。
きっと何か考えておられるのでしょうね。
そういうところだけは昔からたいへんお上手ですから。
その後、さらに知らせが届きました。
漢帝だった方は殺されたわけではなく、山陽公となり、命も身分も保たれることになったそうです。
私はその文を読んで、少し肩の力を抜きました。
「生きておられるのですね」
「ああ」
文烈様が答えます。
皇帝ではなくなった。
漢もなくなった。
それでも、ご本人は生きておられる。
私はそのことに、何となく安心しました。
国がなくなったからといって、人まで一緒に死ななければならないわけではございません。
それくらいは、歴史も分かっているようですね。
長坂で父上の軍が崩れた日、私にとって一つの世界は終わりました。
それでも私は生きておりますし、玉珠も生きております。
どうやら王朝と人間は、同じ日に終わらなくてもよいらしいです。
その晩、玉珠からまた文が届きました。
『姉上、漢はなくなったそうですね。 でも漢帝だった方は生きているのですよね?』
そうです。
珍しく、全部合っています。
その下には、
『では父上はどうするのですか?』
とありました。
私は返事を書こうとして、筆を止めました。
さて、どうなさるのでしょうね?
漢中王の父上。
漢はもうありません。
そして、漢帝だった方は生きておられます。
この二つを並べると、なぜでしょう。
たいへん嫌な予感がいたします。
最近、この予感はよく当たるのですよね。
父上――
今度は、何を始めるおつもりでございますか?
劉玉珠です。
子桓様は、とうとう皇帝になられたそうです。
よかったです。
何度も断っておられたので、途中から本当にいらないのかと思いました。
姉上に聞いたら、
「儀礼です」
と言われました。
儀礼とは、たいへんですね。
わたしなら一度いらないと言ったものを、また勧められたら困ります。
ところで、漢はなくなったそうです。
でも、漢帝だった方は山陽公になって、生きておられるそうです。
では、父上はどうするのでしょう?
漢室を再興するのですよね?
でも漢は、もうないのですよね?
考えていたら、鼻がかゆくなりました。
夫がこちらを見ています。
まだほじっていません。
父上――
今度は何を始めるのですか?




