文烈様、帰ると仰いましたよね?
劉明珠でございます。
寿春へ着いたその日に、文烈様は歴陽へ向かわれました。
まだ寝具も出しておりません。
孫仲謀殿――
戦を始めるにしても、もう少し引っ越しというものへご配慮いただけませんか?
寧珠には、
「父上、帰ってくる?」
と聞かれました。
もちろん、
「帰ってきます」
と答えました。
文烈様ご本人も、
「ああ、帰る」
と仰ったのですから。
……最近の私は、「帰る」という言葉に少々うるさくなっております。
ちなみに洛陽の玉珠からは、
「今日は鼻をほじっていません」
と文が届きました。
昨日は少しほじったそうです。
元譲様――
そちらの戦線も、まだ終わっていないようでございます。
さて、文烈様。
歴陽で何をなさっても結構ですが――
帰ると仰いましたよね?
文烈様が出ていったあと、私はしばらく庭に立っておりました。
寿春へ着いたばかりだというのに、娘たちは疲れて眠り、荷物はまだ半分も片づいておりません。
どの箱に何を入れたのか、私自身ですら完全には把握できていない有様です。
その状況で、夫だけが戦へ行きました。
孫仲謀殿――
あなた様は、引っ越しというものをご存じないのでしょうか?
せめて寝具を出して、娘たちが一晩眠るくらいは待っていただきたかったです。
「奥方様?」
声をかけられ、私はようやく我に返りました。
「何でもございません。荷ほどきを続けてくださいませ」
戦は私には止められません。
でしたら、こちらはこちらですることをいたしましょう。
文烈様が帰ってきた時に、寝る場所すらないというのでは困ります。
帰ってきた時――
そこまで考えたところで、手が止まりました。
最近は何を考えても、最後にはそこへ行き着きますね。
雲長叔父上は帰ってきませんでした。
魏王様も、元譲様も、もう帰ってきません。
だからといって、文烈様まで同じところへ並べる必要はございません。
出ていく前、この方は確かに、
「ああ、帰る」
と仰いました。
でしたら私は、それを信じて待ちます。
しばらくすると、寧珠が目を覚まして部屋から出てきました。
「母上」
「おはようございます」
「父上は?」
目を覚まして最初にそれですか?
「お仕事へ行かれましたよ」
寧珠は窓の外を見ました。
「もう?」
「もうです」
「さっき来たのに?」
「母上もそう思います」
そこへ環珠まで起きてきて、まだ眠そうな顔のまま私の衣をつかみました。
「ちちうえ?」
「お仕事です」
「また?」
眉を寄せる環珠を見て、私は思わず笑ってしまいました。
ええ、またです。
あなたの父上は、新しい家で一晩眠るより先に戦をする方らしいですよ。
さすがに、その日のうちに知らせが来るとは思っておりませんでした。
ところが夕刻になると、軍から使いがやってきました。
その姿を見た途端、私は立ち上がります。
「文烈様は?」
使いの方が一瞬だけ目を丸くしました。
「ご無事です」
先にそれを言ってくださいませ。
最近の私は、軍使が来るだけで寿命が少し縮むのです。
「歴陽に入った孫権軍と接触したとのことです」
「戦になったのですね?」
「はい」
「文烈様は?」
「将軍は軍を率いておられます」
それは分かっております。
私が聞きたいのは、もっと家庭的な部分なのですが、軍使の方に「夫はちゃんと食事をしておりますか?」と尋ねても困らせるだけでしょう。
「分かりました。何かありましたら、すぐに知らせてくださいませ」
使いが去ると、寧珠が私を見上げました。
「父上、帰ってくる?」
「帰ってきますよ」
考えるより先に答えていました。
自分でも少し驚きましたが、子供の前で曖昧な顔をするつもりはございません。
十三歳の私は、父上が戻ってくるのか、迎えに来るのか、それすら誰にも教えてもらえませんでした。
だから私は、自分の娘にはきちんと言います。
「父上は帰ってきます」
寧珠が安心したように頷き、環珠も意味が分かっているのかいないのか、一緒になって頷きました。
翌日、また軍使が来ました。
今度は顔を見るなり尋ねます。
「文烈様はご無事ですね?」
「はい」
よろしい。
では、続きをどうぞ。
「歴陽の敵軍を破りました」
私は瞬きをしました。
「……もうですか?」
「はい」
昨日出ていったばかりでは?
いえ、正確には寿春へ着いたその日に出ていったのですが。
このままでは、引っ越しより戦の方が先に終わってしまいます。
「では、戻られるのですか?」
軍使が少し黙りました。
その沈黙だけで分かりました。
戻らないのですね……
「将軍は、別に兵を遣わされました」
「どちらへ?」
「長江を渡らせます」
私は思わず額に手を当てました。
文烈様ご自身が渡るわけではない。
そこは安心してよいのでしょう。
ですが、歴陽の敵を破ったのでしたら、一度くらい家へ戻ってきてもよいのではございませんか?
「目的は?」
「蕪湖です。敵営を焼くとのことです」
私はしばらく軍使の方を見つめました。
「文烈様は、いつ戻ると?」
「そこまでは……」
でしょうね……
軍というものは、妻へ帰宅予定を知らせる仕組みまで整っていないようです。
たいへん不便です。
その夜、洛陽から玉珠の文が届きました。
嫌な予感がして開いてみると、
『姉上、お元気ですか? 肇と纂は元気です。わたしも元気です。今日は鼻をほじっていません。昨日は少しだけです』
そこまで読んだところで、私は一度、文を閉じました。
玉珠……
元譲様との約束はどうなったのですか?
気を取り直して続きを見ると、下に別の筆跡があります。
『昨日も止めた』
夫君ですね……
元譲様、どうぞご安心くださいませ。
洛陽方面の戦線は、どうにか維持されているようです。
玉珠の文の最後には、
『文烈様は帰ってきましたか?』
とありました。
私は返事を書こうとして、手を止めます。
まだです。
歴陽では勝ったそうですし、別働隊を長江の向こうへ出したそうです。
だから大丈夫。
そう書こうとして、やめました。
大丈夫という言葉を最近信用していないのは、ほかでもない私自身です。
結局、
『文烈様は、帰ると仰いました』
とだけ書きました。
それで十分でしょう。
数日後、また報せが入りました。
文烈様が遣わした別働隊は長江を渡り、蕪湖にあった敵営を焼いたそうです。
私は報告を最後まで聞いてから尋ねました。
「それで?」
使いの方が困ったような顔をします。
「それで、と申されますと?」
「文烈様は?」
「将軍ですか?」
「他に誰がおります?」
「まもなく寿春へ戻られるかと」
ようやくですか……
私はすぐに寧珠と環珠へ知らせました。
「父上が帰ってきますよ」
寧珠の顔がぱっと明るくなり、環珠まで手を叩きます。
「ちちうえ!」
「ええ、今度こそ本当に帰ってこられます」
娘たちへ言いながら、自分にも言い聞かせておりました。
そして夕方、屋敷の外が騒がしくなりました。
馬の音が聞こえた途端、寧珠が立ち上がります。
「父上!」
「寧珠、走らないで――」
言い終える前に走っております。
仕方ありません。
私は環珠の手を引き、そのあとを追いました。
門から入ってきた文烈様は、出ていった時とほとんど変わらない顔をしておりました。
少し埃っぽくなったくらいです。
「父上!」
駆け寄った寧珠を、文烈様が受け止めます。
「ただいま」
環珠も私の手を離して近づきました。
「ちちうえ、おそい」
「悪かった」
本当ですよ。
私は娘たちより少し遅れて、文烈様の前へ立ちました。
まず顔を見て、それから腕と足も確認します。
妙なところを見ている自覚はございます。
ですが、全部そろって帰ってきていただかなければ困りますので。
「お帰りなさいませ」
「ああ」
文烈様が私を見ました。
「帰った」
私は笑いました。
「ええ、帰ってこられましたね」
それでよいのです。
戦で何人倒したとか、どうやって敵を破ったとか、今はどうでもよろしい。
この人が家の前に立っていて、娘たちが父上と呼べば返事をする。
私は帰ってきてくださいと頼み、この人は帰ると答えました。
そして、本当に帰ってきた。
今は、それだけで十分です。
「ところで文烈様」
「何だ?」
「荷ほどきは終わりましたよ」
「そうか」
「あなた様が戦を一つ終わらせる間に、私も家を一つ片づけました」
「どちらが大変だった?」
「私にそれを聞きますか?」
文烈様が少し笑いました。
勝ったと思いました。
何に勝ったのかは分かりませんが……
ところが、文烈様の仕事はそれで終わりませんでした。
歴陽で敵軍を破り、さらに別働隊を遣わして蕪湖の敵営を焼いた功によって、文烈様は征東将軍へ進み、揚州刺史を兼ねることになりました。
さらに安陽郷侯へ進封されたそうです。
その話を聞いた私は、しばらく黙ってから、
「おめでとうございます」
と申し上げました。
「ありがとう」
「ところで文烈様」
「何だ?」
「鎮南将軍として寿春へ来たばかりですよね?」
「ああ」
「もう肩書が変わるのですか?」
「ああ」
「私、まだこちらの役人の名前も半分覚えておりませんよ?」
「覚えればいい」
簡単に仰いますね……
夫は戦に勝って出世し、妻はそのたびに覚えることが増える。
どうやら家庭というものは、夫の戦功と一緒に仕事まで増える仕組みらしいですね。
その晩、私は玉珠へ返事を書きました。
『文烈様は帰ってこられました。歴陽でも勝たれました。征東将軍になられ、揚州刺史も兼ねられるそうです』
そこまで書いたところで、ふと手が止まります。
どうせ玉珠のことです。
『では鼻を止める権限も増えますか?』
くらいは聞いてくるでしょう。
私は先回りして、
『あなたの鼻には何の関係もございません』
と書き足しておきました。
これでよし。
そう思っていた翌朝、洛陽から今度は肇の文が届きました。
寿春へ来てから、肇は元仲様の周りで起きたことを時々知らせてくれています。
私は少し嬉しくなって封を開きました。
ところが、その日の文はいつもより短いものでした。
『母上、朝廷で漢帝から子桓様への禅譲について、話が進んでおります』
その一文を読み、私は手を止めました。
魏王様が亡くなった時から、いつかこうなるとは思っておりました。
ですが、思っていることと、本当にそれが始まることは、ずいぶん違うものですね。
私は静かに文を机へ置きました。
文烈様がようやく帰ってきたと思ったら、いよいよ国の名まで変わろうとしております。
父上――
漢室再興をなさる前に、漢の方がなくなりそうでございますよ?
劉玉珠です。
文烈様は、ちゃんと帰ってこられたそうです。
よかったです。
しかも歴陽で勝って、征東将軍になり、揚州刺史も兼ねられるそうです。
ですので、
「では、鼻を止める権限も増えるのでしょうか?」
と姉上へ聞こうと思ったのですが――
先に、
『あなたの鼻には何の関係もございません』
と書かれていました。
姉上……
どうして分かったのですか……
夫には、
「分かるだろう」
と言われました。
分かりません。
ところで肇から、もっと大きなお話を聞きました。
漢帝が、子桓様へ帝位を譲るかもしれないそうです。
では、漢がなくなるのですか?
父上は、漢室を再興するのですよね?
姉上――
なくなったものは、どうやって再興するのでしょう?




