元譲様、最後の心残りがそれでございますか?
劉明珠でございます。
玉珠から、
「義父上が、起きてくれないのです」
と聞きました。
元譲様のことですから、起きた途端に、
「寝ていただけだ」
くらいは仰るのでしょう。
そう思いたいところですが、最近の私は、
「この方なら大丈夫」
という考えをあまり信用しておりません。
魏王様も、雲長叔父上も、そう思っているうちに帰ってこなくなりましたので……
玉珠は珍しく鼻をほじっておりません。
夫君も止めておりません。
……止める必要がないのですね。
元譲様――
どうか目を開けてくださいませ。
大将軍になったばかりなのですから、最後の心残りなど、まだ語らなくて結構でございますよ?
「義父上が、起きてくれないのです」
玉珠のその言葉を聞いた瞬間、私は返事もせず屋敷の中へ入りました。
文烈様もすぐ後ろからついてきます。
廊下を進む間、玉珠は私の袖をつかんだままでした。
普段なら、歩きながらでも何か話します。
今日は何も言いません。
右手も鼻へ行きません。
それだけで、胸の奥がどんどん冷えていきました。
部屋へ入ると、元譲様が横になっておられます。
玉珠の夫君が枕元に座り、医師も近くにいました。
「父上は?」
文烈様が尋ねます。
玉珠の夫君は首を横に振りました。
「先ほどから呼んでも……」
私は元譲様の顔を見ました。
魏王様のお見舞いへ行った時と同じです。
病に伏せた人は、どうしてこんなにも小さく見えるのでしょう。
玉珠。
あなたの観察は、こういう時にだけ当たらなくてよかったのですよ?
「元譲様」
呼んでも返事はありません。
私は枕元まで進みました。
「元譲様。大将軍になったばかりではございませんか」
何も返ってきません。
「寝ていられないと、ご自分で仰っていましたよね?」
まだ何もありません。
「今なら床が悪かったことにして差し上げますから、起きてくださいませ」
玉珠の夫君が顔を伏せました。
玉珠は私の隣へ座ります。
「義父上」
小さな声でした。
「姉上も来ましたよ」
元譲様のまぶたが、わずかに動きました。
「……義父上?」
玉珠が身を乗り出します。
もう一度、まぶたが動きました。
そして、ゆっくり目が開きます。
「義父上!」
「……うるさい」
玉珠が泣きました。
先ほどまで我慢していたものが一気に崩れたように、元譲様の手を両手で握ります。
「起きました!」
「見れば分かる」
「ずっと起きなかったのです!」
「寝ていた」
「長すぎます」
会話ができております。
それだけで私は息を吐きました。
文烈様も少しだけ肩の力を抜きます。
「元譲様」
私が声をかけると、元譲様がこちらを見ました。
「……明珠か」
「はい」
「来たのか」
「玉珠から、起きてくださらないと聞きましたので」
「大げさだ」
「今しがたまで本当に起きておられなかった方が仰っても、説得力がございません」
元譲様の口元が少し動きました。
まだ笑える。
そのことに安心した自分が、少し嫌になりました。
最近の私は、目を開ける、返事をする、笑う――そんな当たり前のことだけで安心するようになっております。
雲長叔父上も、魏王様も、もうしてくださらないからでしょうね。
「元譲様」
私は少し身を寄せました。
「魏王様を追いかけないでくださいませんか?」
元譲様の眉が動きます。
「追いかけてなどおらん」
「では、こちらに残ってくださいませ」
「命令するな」
「お願いしております」
「同じようなものだ」
相変わらずです。
それなら大丈夫なのではないか?
また、そう思いそうになりました。
やめましょう。
最近、その考えは信用しておりません。
元譲様は玉珠の夫君を呼び、家のことや残る者たちのことを手短に話しておられます。
文烈様と私は少し離れ、聞かないようにしておりました。
親子の間へ入るほど無粋ではございません。
話が終わると、今度は文烈様が呼ばれました。
「文烈」
「はい」
「子桓様を支えろ」
「承知しております」
「無茶はするな」
文烈様が一瞬黙りました。
「元譲様にだけは言われたくありません」
その通りです。
病床から起きようとして倒れた方が、よく仰いますね。
元譲様も少し笑いました。
そして最後に、玉珠を見ます。
玉珠はまだ手を握っております。
「玉珠」
「はい」
「お前は……」
元譲様の視線が、玉珠の顔から右手へ移りました。
嫌な予感がしました。
死の予感ではありません。
別の意味です。
「……一つだけ、悔いがある」
玉珠の顔が強張ります。
「何ですか?」
元譲様はしばらく玉珠の右手を見つめてから、息を吐きました。
「玉珠の鼻ホジを治せなかったのが悔やまれる……」
部屋が静まり返りました。
私は何も言えませんでした。
文烈様が目を閉じました。
玉珠の夫君まで天井を見ています。
元譲様――
大将軍までなられた方の、生涯最後の心残りがそこですか?
「義父上……」
玉珠の声が震えました。
「治します」
元譲様はもう答えません。
「ちゃんと治しますから」
玉珠が手を強く握ります。
「だから、もう少し起きていてください」
返事はありませんでした。
元譲様の呼吸が、ゆっくり遠くなっていきます。
誰も声を出しません。
やがて医師が静かに頭を下げました。
元譲様は、そのまま亡くなられました。
玉珠はしばらく動きませんでした。
ただ義父上の手を握り、顔を伏せております。
その右手が、ほんの少しだけ上がりました。
鼻へ向かっています。
玉珠の夫君が、何も言わずにその手をつかみました。
玉珠が泣きながら夫を見ます。
「……まだ何もしていません」
「分かっている」
「少しかゆかっただけです」
「分かっている」
元譲様……
残念ながら、最期の願いは開始直後から危険でございます。
ですが夫君が引き継いでくださるようです。
どうぞご安心くださいませ。
その後、元譲様には忠侯という諡が贈られました。
忠侯――
私は、その名を聞いて妙に納得しました。
魏王様がまだ何者でもなかった頃から従い、戦い続け、片目を失っても離れず、最後には大将軍までなられた方です。
よく似合うと思います。
もっとも、玉珠の鼻との戦いだけは勝てませんでしたけれど。
葬儀の日、玉珠は夫君の隣に立っておりました。
魏王様の葬儀では、元譲様が柩にすがって泣き崩れました。
今度は、その元譲様が柩の中におられます。
玉珠は黙ったまま、ずっと柩を見ておりました。
私も文烈様と一緒に、その少し後ろにいます。
「姉上」
「はい」
「義父上は、魏王様のところへ行ったのでしょうか?」
私は少し考えました。
「そうかもしれませんね」
「魏王様に怒られませんか?」
「何をです?」
「先に行くなと言っていたのに、自分も行ったことです」
確かに。
元譲様――
あれほど柩にすがって「先に行くな」と仰っておきながら、ご自分は数か月しか待てなかったのですか?
「たぶん、怒られると思います」
「では、義父上は今ごろ謝っていますか?」
「元譲様が素直に謝るでしょうか?」
玉珠が考え込みました。
「……床のせいにしますか?」
私は思わず笑ってしまいました。
「するかもしれません」
「魏王様、信じますか?」
「絶対に信じないでしょうね」
玉珠も少しだけ笑いました。
そのあと、また柩へ目を戻します。
「義父上」
玉珠は小さな声で呼びました。
当然、返事はありません。
「今日は鼻をほじっていませんよ」
私は玉珠の右手を見ました。
ちゃんと下がっています。
夫君も見ています。
監視体制は万全ですね。
「明日も頑張ります」
明日だけですか?
せめて明後日まで頑張ってください。
そう言おうとして、やめました。
今日は、それでよいのでしょう。
柩が動き始めます。
玉珠の肩が揺れました。
それでも追いかけません。
夫君が隣にいて、そっと手を握っています。
私は十一年前、帰る場所を失いました。
玉珠も同じだったはずです。
それでもあの子には、曹家へ来てから新しくできた家族がいました。
元譲様は、その一人でした。
義父上と呼び、叱られ、鼻を止められ、時には一緒に魏王様へ呆れられた方です。
もう、その声は聞こえません。
それでも玉珠は一人ではありません。
夫君がおりますし、私もおりますから、きっと大丈夫なのでしょう。
……最近、その言葉を信用しないと決めたばかりでしたね。
では、言い直します。
大丈夫でなくても、私たちは生きていくしかございません。
元譲様が魏王様を追いかけてしまったことは、もう叱りません。
ただ、一つだけ申し上げます。
あなた様が治せなかった玉珠の鼻ホジは――
どうやら、息子殿が引き継ぐことになったようですよ。
劉玉珠です。
義父上が、亡くなられました。
最後に、
「玉珠の鼻ホジを治せなかったのが悔やまれる」
と仰いました。
そこまで気にしておられたのですか?
治します、とお約束しましたので、今日は一度もほじっておりません。
ただ、少しかゆいです。
夫がずっと、わたしの右手を見ています。
信用がないですね……
葬儀では、義父上が魏王様のところへ行ったのか、姉上に尋ねました。
きっと今ごろ、
「ついてくるな!」
と魏王様に怒られていると思います。
義父上――
床のせいにしても、たぶん通じませんよ?
それから――
明日も鼻をほじらないように頑張ります。
たぶん……
夫が、こちらを睨みました。




