元譲様、魏王様を追いかけないでくださいませんか?
劉明珠でございます。
魏王様の葬儀に参ります。
洛陽でお見舞いした時には、まだ目を開けておられました。
玉珠のことまで尋ねてくださったのに、今度はどれだけ待っても起きてくださいません。
そして、もう一人。
どうにも心配な方がおられます。
元譲様です。
いつも通り立っておられますが、魏王様の柩を見る目が、いつもと違います。
玉珠にも、
「今日は元譲様のそばにいてあげてください」
と申しました。
すると、
「では、今日は鼻をほじりません」
と返ってまいりました。
玉珠、そこまで心配なのですね。
元譲様――
お願いですから、魏王様に「先に行くな」と仰るだけにしてくださいませ。
ご自分まで、追いかけないでくださいませんか?
魏王様の葬儀の日、私は文烈様の隣におりました。
洛陽でお見舞いした時には、まだ目を開けておられたのです。
玉珠のことを尋ね、文烈様に「よくやっている」と仰り、私には「文烈を頼む」と言われた。
それなのに今は、どれだけ待っても目を開けてくださいません。
人というものは、亡くなると急に静かになりますね。
魏王様ほど騒がしい人生を送った方でも、最後は皆と同じなのだと思うと、妙な気分でした。
「明珠」
文烈様が私を見ます。
「大丈夫です」
最近、この言葉を随分と使っております。
そして、そのほとんどが嘘です。
けれど今日くらいは、皆様も見逃してくださいませ。
私よりずっと大丈夫ではなさそうな方が、少し離れたところにおられましたから……
元譲様です。
いつもと同じように立っておられました。
背筋を伸ばし、隻眼で前を見据え、近づく者には必要な言葉だけを返している。
玉珠も夫君と一緒に、その近くにおりました。
私と目が合うと、玉珠は小さく手を振ります。
葬儀です。
振らなくて結構ですよ。
すると隣の夫君が、その手をそっと下げさせました。
ありがとうございます。
今日は鼻だけでなく、手まで監視してくださっているようです。
ただ、玉珠は珍しく鼻へ指を持っていきません。
それだけでも、この日の空気をあの子なりに分かっていることが伝わりました。
やがて、魏王様の柩が動き始めます。
その時でした。
「……待て」
声が聞こえました。
私は振り返ります。
元譲様でした。
最初は、誰に向かって仰ったのか分かりませんでした。
柩を運ぶ者たちに言ったのか。
周りにいる人々に言ったのか。
それとも――
「待て、孟徳」
元譲様が一歩、前へ出ました。
空気が止まります。
誰も動きません。
子桓様も、文烈様も、周囲の将たちも何も言いませんでした。
元譲様は柩のそばまで来ると、その縁へ手をかけました。
「孟徳」
もう一度、呼びます。
返事はありません。
あるはずもないのです。
元譲様だって分かっておられるでしょう。
それでも手を離しませんでした。
「……先に行くな」
その声を聞いた瞬間、私は息を止めました。
元譲様の膝が折れます。
柩にすがるようにして、その場へ崩れ落ちました。
「孟徳……!」
私は、元譲様が泣くところを初めて見ました。
静かに涙を流すなどという、生易しいものではございません。
肩を震わせ、息を詰まらせ、柩へ額が触れそうになるほど身を伏せています。
何十年も戦場に立ち、片目を失っても軍を率い続けた方が、今は立っていることすらできません。
文烈様も動きませんでした。
私もです。
あれを止めてよい人など、この場にはいないと思いました。
元譲様にとって魏王様がどれほど大きな方だったのか、私は知っているつもりでおりました。
何も分かっていなかったのでしょうね。
長い間、一緒にいたという言葉だけでは足りなかったのです。
玉珠が元譲様へ近づきました。
夫君が止めようとしましたが、玉珠は首を振ります。
珍しいですね。
こういう時に人の制止を振り切るのは、だいたい鼻をほじろうとする時なのですが。
玉珠は元譲様のすぐ横に座りました。
「義父上」
元譲様は返事をしません。
「義父上」
もう一度呼ぶと、ようやく顔を少し上げました。
「……何だ」
「今日は、わたしも鼻をほじりません」
元譲様が止まりました。
周囲も止まりました。
文烈様が目を閉じます。
私は額を押さえたくなりました。
玉珠……
この場でそれを言いますか?
ですが元譲様は、しばらく玉珠を見たあと、泣きながら少しだけ笑いました。
「……それは、普段からそうしろ」
「今日は特にです」
「普段からだ」
「はい」
本当に分かっていますか?
それでも元譲様の顔に一瞬だけ笑みが戻ったので、もう何も申しません。
魏王様――
最後まで玉珠に助けられることになるとは、思ってもおられなかったでしょうね。
私もです。
葬儀が終わってからも、世の中は止まりませんでした。
子桓様が魏王の位を継ぎ、元譲様は大将軍となられました。
これまで積み上げてきたものを考えれば、ふさわしい地位なのでしょう。
ですが、私は素直に「おめでとうございます」と言う気にはなれませんでした。
魏王様が亡くなられた直後です。
元譲様本人も、あまり嬉しそうには見えません。
「元譲様、大将軍へのご就任、お祝い申し上げます」
それでも礼として申し上げると、元譲様は鼻を鳴らしました。
「祝いか」
「一応は」
「一応なのか」
「この状況で満面の笑みを浮かべて申し上げる方が失礼でしょう?」
「お前は相変わらずだな」
それは褒め言葉として受け取っておきます。
玉珠はもっと素直でした。
「義父上、大将軍なのですね」
「ああ」
「二十六軍より多いのですか?」
「そういう数え方ではない」
「では、鼻をほじってもよい権限も増えますか?」
元譲様が玉珠を見ました。
「増えん」
「残念です」
何が残念なのですか?
むしろ、その権限だけは永久に増やさないでくださいませ。
ですが、こうして話している間にも、私は元譲様の顔が気になっておりました。
以前より痩せたように見えますが、魏王様を失ったばかりなのですから、疲れているだけなのだと思いたかった。
玉珠が首を傾げました。
「義父上」
「何だ」
「今日は、少し小さいですね」
私は玉珠を見ました。
元譲様も玉珠を見ます。
夫君がすぐに玉珠の肩を引きました。
「何を言っている」
「だって、少し小さく見えます」
「そういうことを言うな」
「具合が悪いと、小さく見えることがあるのですよ?」
その言葉を聞いた瞬間、私は嫌なものを思い出しました。
魏王様のお見舞いへ行き、横になっておられたあの方を見た時、私も同じことを思ったのです。
以前より、ずっと小さく見える、と。
「元譲様」
私が声をかけると、元譲様は面倒そうにこちらを向きました。
「何だ」
「お身体は?」
「何ともない」
早いですね。
まだ何も聞いておりません。
「私は『お身体はいかがですか』と申し上げようとしただけです」
「同じだ」
「では、休まれた方がよろしいのでは?」
「大将軍になったばかりで寝ていられるか」
そう仰って立ち上がりました。
そして、一歩目で身体が揺れました。
玉珠の夫君がすぐに腕を取ります。
「父上」
「離せ」
「離せません」
「立てる」
「今、ふらつきました」
「床が悪い」
床のせいにしないでくださいませ。
玉珠まで下を見始めました。
「どこですか?」
「お前は探すな」
夫君も大変ですね。
元譲様は無理をし、妻は床に原因を探す。
この家で一番まともなのは、もしかすると玉珠の夫君なのではございませんか?
笑いたいところでした。
ですが、笑えませんでした。
元譲様の顔色が、明らかによくないのです。
「元譲様。本当にお休みくださいませ」
「明珠まで言うのか」
「言います」
「文烈の妻は、夫だけでなく俺まで管理するつもりか?」
「必要でしたら」
「必要ない」
「必要だと思われたくなければ、まず真っ直ぐお立ちくださいませ」
元譲様が黙りました。
玉珠が横から、
「義父上、姉上はこういう時、とても面倒ですよ」
と言います。
「知っている」
二人で意気投合しないでください。
ですが結局、その日は元譲様を休ませることになりました。
それからしばらく経っても、よくなったという話は届きません。
むしろ玉珠から来る手紙には、
『義父上は今日も少し熱があります』
『夫が休ませています』
『わたしも静かにしています』
と書かれるようになりました。
最後の一文だけ、どうにも信用できません。
『静かとは、どの程度ですか?』
と尋ねると、
『鼻をほじる音が聞こえないくらいです』
と返ってまいりました。
玉珠、鼻をほじる音とは何ですか?
どうやったら音が出るのですか?
聞きたいような、永遠に知りたくないような気持ちになりました。
ですが、次に届いた手紙には、その話すらありませんでした。
『姉上……義父上が、ご飯をあまり食べません』
私は、その一文を何度も読みました。
魏王様の時も、また目を開けてくださると思っておりました。
雲長叔父上の時も、あの方ならきっと帰ってくると信じていたのです。
最近の私は、「この方なら大丈夫」という考えを信用できなくなっております。
文烈様へ手紙を見せると、表情が変わりました。
「行くか」
「はい」
すぐに答えました。
玉珠のところへ向かった時、私はずっと嫌な予感を追い払おうとしておりました。
元譲様は長く戦場に立ってきた強い方なのですから、多少具合を悪くしたくらいで、どうにかなるはずがない。
そう思うたびに、頭の中でもう一人の私が答えます。
魏王様の時も、そう思っていたでしょう?
屋敷へ着くと、玉珠が出てきました。
私は足を止めます。
玉珠は、右手を下ろしたままでした。
鼻をほじっておりません。
それどころか、私を見ても何も言いません。
「玉珠」
「姉上」
声が小さい。
「元譲様は?」
玉珠はすぐには答えませんでした。
その沈黙だけで、胸の奥が冷えていきます。
やがて玉珠が私の袖をつかみました。
「姉上……」
それから、今にも泣きそうな顔で申しました。
「義父上が、起きてくれないのです」
劉玉珠です。
魏王様の葬儀で、義父上が泣き崩れました。
あんな義父上を、わたしは初めて見ました。
ですので、
「今日は鼻をほじりません」
と申しましたら、義父上には、
「普段からそうしろ」
と言われました。
そこまで言わなくてもよいと思います。
そのあと義父上は大将軍になられましたが、あまり元気がありません。
少し小さく見えると申したら、夫に怒られました。
でも、本当にそう見えたのです。
今日はご飯もあまり召し上がりませんでした。
姉上が来てくれたので、少し安心しました。
ただ――義父上……
魏王様に「先に行くな」と仰っていましたよね?
でしたら、ご自分も起きてください。
わたし、今日はまだ鼻をほじっていませんから……




