魏王様、また目を開けてくださいませんか?
劉明珠でございます。
魏王様がお具合を悪くされたそうです。
文烈様とお見舞いへ参ることになりましたが、私はまだ、あまり心配しておりません。
あの魏王様ですから。
漢中から戻り、雲長叔父上に中原を揺らされても、結局は生きて帰ってこられた方です。
少しくらい寝込んだところで、また目を開けて、
「玉珠は?」
などと仰るのでしょう。
ちなみに玉珠へ知らせましたところ、
「魏王様は、具合が悪いと鼻をほじらないのですか?」
と返ってまいりました。
玉珠は、そこを気にするのですか?
さて、魏王様――
今回も、いつものように目を開けてくださいますよね?
「魏王様が――」
文烈様はそこで一度言葉を止めました。
私は嫌な予感に身構えます。
雲長叔父上が亡くなられた知らせから、まだそれほど経っておりません。
最近の世の中は、私に少し休む時間を与えるという発想がないのでしょうか。
「魏王様が、またお具合を悪くされた」
私はしばらく文烈様を見つめました。
「……また、ですか?」
「ああ」
亡くなった、ではありませんでした。
それだけで胸の奥に溜まっていた息が、少しだけ抜けます。
「洛陽におられるのでしたね」
「見舞いに行く」
文烈様はそう言うと、私を見ました。
その意味は分かります。
「私も、ですか?」
「嫌か?」
「まさか」
私はすぐに答えました。
嫌ではありません。
ただ、妙な気分だったのです。
長坂で魏王様の軍に捕らえられた十三歳の娘が、十一年以上経って、その魏王様のお見舞いへ夫と一緒に向かう。
人生とは、随分と遠回りをするものですね。
父上の荷車など、途中で私を降ろしたまま先へ行ってしまいましたのに。
洛陽へ着き、魏王様のおられるところまで案内された時も、私はまだそれほど深刻には考えておりませんでした。
あの方ですから。
漢中へ出て、父上と争い、雲長叔父上に中原を揺らされ、都を移す話まで出たというのに、結局こちらへ戻ってきた方です。
魏王様というのは、多少具合が悪くなったくらいでは死なない生き物なのだと、どこかで思っておりました。
失礼ですね。
ですが、皆様も少しくらいそう思っていたのではございませんか?
部屋へ入ると、魏王様は横になっておられました。
私は思わず足を止めました。
以前より、ずっと小さく見えます。
もちろん口には出しません。
玉珠ではございませんので……
文烈様が先に進み、膝をつきました。
「魏王様」
魏王様が目を開きます。
少し時間をかけて文烈様を見て、それから私へ視線を移されました。
「文烈か」
「はい」
「……明珠も来たか」
「お見舞い申し上げます」
私が頭を下げると、魏王様はわずかに笑いました。
「堅いな」
病人にまで言われました。
「魏王様のお見舞いに参りまして、いきなり『まだ生きておられましたか』とは申し上げられませんので」
文烈様がこちらを見ます。
何ですか?
まだ申し上げておりませんよ?
魏王様は少し笑い、そのあと咳き込みました。
笑わせてはいけなかったようです。
「申し訳ございません」
「いや……お前は、そのくらいでよい」
息を整えた魏王様が、ふと何かを思い出したように尋ねます。
「玉珠は?」
なぜそこで玉珠なのですか?
「今回は参っておりません」
「そうか」
「お呼びいたしましょうか?」
魏王様が黙りました。
文烈様まで黙りました。
「……いや、よい」
賢明でございます。
今の魏王様を玉珠に見せれば、
『魏王様、前より小さくなりましたか?』
くらいは平然と聞きます。
あの子に悪意はありません。
そこが一番恐ろしいところです。
「玉珠も心配しておりますよ」
これは本当です。
知らせを送ったところ、
『魏王様は、お薬をちゃんと飲んでいますか?』
と返ってきました。
その次には、
『鼻が詰まった時はどうしているのでしょう?』
とございました。
魏王様の病状について考えている途中で、なぜ自分の鼻へ戻ってくるのでしょうね。
「そうか」
魏王様はまた笑いました。
「相変わらずか」
「相変わらずでございます」
「元譲も苦労しているだろう」
「元譲様だけではなく、夫君も苦労しております」
玉珠の右手を止める者が、曹家には二人おります。
二十六軍を率いた元譲様と、その御子息が、一人の女の鼻に苦戦している。
天下は広いですね。
魏王様が少し疲れたように目を閉じました。
文烈様の顔から、先ほどまでのわずかな笑みが消えます。
「魏王様」
「聞こえている」
「無理をなさらず」
「お前に言われるとはな」
魏王様が目を開きました。
「文烈」
「はい」
その呼び方だけで、部屋の空気が少し変わった気がしました。
魏王様にとって文烈様は、ただの将ではありません。
幼い頃から手元に置き、息子同然に育てた方です。
私が口を挟むところではございません。
「よくやっているな」
文烈様は返事をしませんでした。
ほんの少しだけ、目を伏せます。
「まだです」
やがて、それだけ答えました。
魏王様が鼻で笑います。
「そういうところは変わらぬ」
「魏王様もです」
「俺はもう変わったぞ」
その言葉に、私は胸がざわつきました。
やめてくださいませ。
病床でそういうことを言われると、こちらが困ります。
魏王様は今度は私を見ました。
「明珠」
「はい」
「文烈を頼む」
私は一瞬、答えられませんでした。
その言い方が、あまりにも嫌だったのです。
「それは、魏王様がお元気になられてからご自分で仰ってくださいませ」
「頼まれてくれぬのか?」
「頼まれなくても大切にしております」
文烈様がこちらを見ました。
今度は何ですか?
事実でしょう。
「それに、私の方こそ文烈様には毎回申し上げております」
「何をだ?」
「帰ってきてくださいませ、と」
魏王様は黙りました。
長坂で置いていかれた娘は、どうやら夫が戦へ出るたびに面倒な妻になったようです。
仕方ありません。
帰ってくることが当たり前だと思えるほど、私はもう子供ではないのです。
「そうか」
魏王様は、それ以上何も仰いませんでした。
その日は長居をせず、私たちは退出しました。
帰り道、文烈様はいつもより口数が少なくなっていました。
「文烈様」
「何だ?」
「魏王様は、大丈夫ですよね?」
文烈様はすぐには答えません。
「医者ではない」
「存じております」
「なら聞くな」
「聞きたいから聞いているのです」
文烈様が私を見ました。
「……分からない」
その言葉が嫌でした。
私は勝手に、もっと元気な返事を期待していたのです。
魏王様なら大丈夫だ。
あの方が簡単に死ぬものか。
そう言ってほしかった。
「元気になられたら、玉珠を連れてまいりましょう」
私がそう言うと、文烈様の口元が少しだけ動きました。
「病み上がりに?」
「刺激になります」
「悪化するだろう」
失礼ですね。
否定できませんけれど……
玉珠へ見舞いの様子を書いて送ると、すぐに返事が来ました。
『魏王様は小さくなっていませんでしたか?』
私は手紙を伏せました。
やはり聞きましたね。
あの子を連れていかなくて正解でした。
続きには、
『具合が悪いと、人は小さく見えることがあります』
と書いてあります。
妙にまともです。
さらに、
『義父上も疲れている時は少し小さく見えます』
とございました。
元譲殿にその手紙を見せないでください。
最後には、
『鼻をほじると元気になるのですが、魏王様にも教えましょうか?』
とございました。
絶対にやめてください。
私はすぐに返事を書きました。
『魏王様の治療にあなたの鼻を持ち込まないでください』
すると、
『わかりました』
と返ってきました。
素直ですね。
その素直さを普段から鼻にも向けていただけませんか?
そんなやり取りをしていたものですから、私はどこかで安心していたのだと思います。
魏王様はまた元気になり、次にお会いした時には玉珠の話をして笑う。
文烈様が叱られ、私が横から余計なことを言い、それを魏王様が呆れて眺める――そんな日が、まだ何度もあるのだと思っておりました。
子供は、続くことを疑わない。
雲長叔父上を失った時、私はそう思いました。
大人になった私は違うつもりでした。
どうやら、たいして変わっていなかったようです。
数日後――
文烈様が帰ってきました。
顔を見た瞬間に分かりました。
またです。
また、この顔です。
「文烈様」
呼ぶと、文烈様は私の前まで来ました。
けれど、すぐには何も言いません。
雲長叔父上の時は、肇が目を合わせませんでした。
今回は、文烈様が言葉を探しております。
私は聞きたくありませんでした。
けれど、今度こそ逃げられません。
「魏王様が――」
文烈様の声が止まりました。
私は何も言わず、続きを待ちました。
やがて文烈様が目を閉じます。
「……薨じられた」
部屋が静かになりました。
魏王様が……
亡くなった……
あの方が……
本当に?
そう聞きかけて、やめました。
最近の私は、同じことばかり聞いておりますから。
雲長叔父上が亡くなり、今度は魏王様が亡くなった。
ほんの少し前まで、この二人は中原を挟んで睨み合っていたのです。
片方は父上の義弟。
片方は、今の私の家族を作った側の頂点。
どちらも、もういない。
「……文烈様」
「ああ」
「私、魏王様にまだお礼を申し上げておりません」
文烈様が私を見ました。
「何のだ?」
「分かりません」
自分でも笑ってしまいました。
何でしょうね。
捕虜にしてくださってありがとうございます、では変です。
父上に置いていかれた私を殺さないでくださってありがとうございます、でも妙です。
文烈様と出会わせてくださってありがとうございます。
それなら、少し近い気がします。
ですが結局、何も言えませんでした。
長坂で私を捕らえた側の王が亡くなって、私は悲しんでいる。
十三歳の私が聞いたら、どんな顔をするでしょう。
人生というものは、本当に分かりません。
ただ一つだけ、分かることがございます。
魏王様。
あの日、荷車に残された娘は、生きております。
夫がおります。
娘たちがおります。
義理の息子たちもおります。
そして今、あなた様が亡くなられたことを悲しんでおります。
随分と妙なところまで来てしまいましたね。
ですが――
魏王様が亡くなったからといって、世の中が止まるはずもありませんでした。
むしろ、その逆です。
翌朝には、もう人が動き始めておりました。
子桓様が魏王の位を継ぎ、軍も朝廷も新しい主のもとで動き始めます。
そして、その先に残る問題は一つでした。
――漢は、どうなる。
私はその時、まだ知りませんでした。
魏王様の死は、一人の英雄の終わりではなかったのです。
四百年にわたる漢の世まで、まもなく終わろうとしておりました。
劉玉珠です。
魏王様が、亡くなられました。
姉上から知らせを受けた時、わたしはしばらく何もできませんでした。
この前まで、
「元気になったら玉珠も連れていく」
と言っていたのに……
夫には、
「今日は無理に何かしなくていい」
と言われました。
ですので、鼻もほじりませんでした。
別に願掛けではありません。
ただ、なんとなくです。
でも少し経ってから、
魏王様が最後にわたしのことを尋ねてくださったと聞きました。
……どうして呼んでくださらなかったのでしょう……
姉上は、
「呼ばなくて正解です」
と申しました。
ひどいです。
わたしだって、ちゃんとお見舞いできます。
たぶん……
ところで姉上。
魏王様の次は、子桓様が魏王になられるのですよね?
では――
漢は、どうなるのですか?




