雲長叔父上、帰ってこられないのですか?
劉明珠でございます。
麦城へ退かれた雲長叔父上なら、きっと何とかなると思っておりました。
あの方は強いのです。
ほんの少し前まで、魏王様に都を移すことまで考えさせた方なのですから。
玉珠も心配していたようで、「昨日は鼻をほじるのを我慢しました」と知らせてまいりました。
玉珠……
それは願掛けだったのですか?
夫君からは、「鼻と戦は関係ない」と言われたそうです。
ごもっともです……
ですが――
その朝、肇は私と目を合わせませんでした。
嫌な知らせを持ってくる時の顔を、私はもう覚えております。
肇――
お願いですから、今度だけは間違えてくださいませ。
雲長叔父上は――帰ってこられるのでしょう?
肇が、私と目を合わせませんでした。
昨日までなら、それだけで腹を立てていたかもしれません。
元仲様のところから何を持ち帰ったのですか、また母親の心臓に悪い話ですか、と……
ですが、その朝だけは何も言えませんでした。
言葉にしてしまえば、本当に起きたことになってしまう気がしたのです。
「……肇」
「母上」
ようやく顔を上げました。
それでも、私の目は見ません。
「雲長叔父上ですね?」
肇が黙りました。
もう、それだけで十分でした。
それでも私は待ちました。
間違いだと言ってくれるのを……
麦城から抜け出した。
父上のところへ向かった。
どこかで兵を集め直している。
何でも構いません。
あの方は強いのだから、まだ何とかなる。
昨日までそう思っていたのです。
やがて肇が、ようやく口を開きました。
「関羽殿は……退路を断たれたそうです」
胸の奥で、何かが止まりました。
「退路を断たれた?」
「はい」
まだ続きがあることは分かっております。
ですが、聞きたくありません。
「関平殿も一緒だったそうです」
「それで?」
自分の声が、妙に遠く聞こえました。
肇が一度息を吸いました。
「……臨沮で、斬られました」
私は何も言いませんでした。
雲長叔父上が……
斬られた……
ほんの少し前まで、魏王様に許都を移すことまで考えさせた方です。
樊城を囲み、文則殿を降し、令明殿を討ち、中原を震わせた。
その方が、もういない。
「……本当に?」
口から出たのは、そんな言葉でした。
子方伯父上が降った時にも、何かの間違いではないかと尋ねました。
最近の私は、現実に対して往生際が悪くなっておりますね。
「はい」
肇の答えは変わりませんでした。
「雲長叔父上が?」
「……はい」
「帰ってこられないのですか?」
肇が俯きました。
馬鹿なことを聞いております。
斬られたと聞いた直後に、帰ってこられないのかと尋ねる。
けれど私の中では、まだつながらなかったのです。
幼い頃から父上のそばにいた雲長叔父上と、昨日まで中原を震わせていた将軍と、麦城へ追い込まれた人と、斬られた人が。
同じ一人の人間なのだと、どうしても思えませんでした。
「……そうですか」
それしか言えませんでした。
肇が心配そうにこちらを見ます。
今度は目が合いました。
「母上」
「大丈夫です」
大丈夫ではございません。
ですが、肇にどうしろというのでしょう。
この子が雲長叔父上を斬ったわけではありません。
最近、肇に悪い知らせばかり運ばせておりますね。
元仲様……
たまにはこの子に、お菓子でも持たせて帰していただけませんか?
私は茶碗へ手を伸ばしました。
冷めておりました。
「文烈様は?」
「もうご存じだと思います」
そうでしょうね。
私より先に知っていても不思議ではありません。
だからこそ、帰ってきた文烈様の顔を見た瞬間、私は少し腹が立ちました。
「ご存じだったのですね?」
「ああ」
「いつからですか?」
「今朝だ」
「どうして文烈様から教えてくださらなかったのです?」
「俺が帰るより、肇の方が早かった」
また肇ですか。
元仲様との連絡網が強すぎます。
こんな時でなければ褒めているところです。
「明珠」
「はい」
「……つらいか?」
私は返事をするまで少し時間がかかりました。
「分かりません」
「そうか」
「悲しいとは思います。ですが、私は今、曹家におります。雲長叔父上は、こちらを攻めていた方でもございました」
「それでも叔父だったんだろう?」
私は文烈様を見ました。
「血はつながっておりません」
「そういう話ではない」
ずるいですね。
こういう時だけ、私より私のことを分かっているようなことを仰る。
「……はい」
認めるしかありませんでした。
「叔父上でした」
父上のそばにいて、益徳叔父上と一緒にいるのが当たり前だった方。
私は十一年前にその輪から外れました。
それでも、私の中からあの頃の人々まで消えたわけではございません。
「父上は、まだ知らないのでしょうか?」
「もう伝わっている頃だろう」
「益徳叔父上も?」
「ああ」
三人のうち、一人がいなくなった。
その事実を考えると、急に胸が苦しくなりました。
昔は、父上の行くところには益徳叔父上と雲長叔父上がいるものだと思っていたのです。
それが永遠に続くなどと考えたこともありません。
子供というものは、続くことを疑わないのでしょうね。
私も随分と大人になりました。
続かないものばかり覚えましたから。
玉珠にも知らせなければなりません。
書きたくありませんでした。
ですが、他の誰かから聞くよりはよいと思い、筆を取りました。
『雲長叔父上が亡くなられました』
それだけ書いて、しばらく先へ進めませんでした。
いつもの私なら、何か一言くらい嫌味を添えます。
父上に対してなら、三つくらい添えます。
ですが、この時は何も浮かびませんでした。
返事が届いたのは翌日でした。
『本当なのですか?』
やはり玉珠も同じことを聞きました。
姉妹ですね。
『本当です』
と返しました。
次の手紙には、
『昨日、鼻をほじるのを我慢したのに、雲長叔父上は帰ってこられなかったのですね』
とございました。
玉珠……
そこに因果関係はありません。
続きには、
『夫にも、鼻と戦は関係ないと言われました』
とございました。
夫君……
その通りです。
『分かっています。でも、少しだけ、我慢したら良いことがあるかもしれないと思いました』
私はそこで筆を置きました。
玉珠なりに願っていたのでしょう。
あの子の願掛けが鼻なのは、もう諦めます。
むしろ雲長叔父上。
妹が鼻をほじるのを我慢してまで帰りを待っていたのですから、少しくらい褒めてやってくださいませ。
届かないでしょうけれど。
玉珠の手紙はまだ続いておりました。
『子仲伯父上は、もっと悲しんでいますよね?』
私は目を閉じました。
そうでした。
雲長叔父上の死で終わりではありません。
子方伯父上が孫仲謀殿へ降ったことで、雲長叔父上は帰る場所を失い、ついには命まで失った。
その結果を、子仲伯父上が知らないはずがないのです。
そして数日後。
私は、恐れていた話を聞くことになりました。
「母上、糜竺殿のことですが」
また肇です。
最近、この子の顔を見るだけで寿命が縮んでいる気がいたします。
「子仲伯父上に何かあったのですか?」
思わず立ち上がりました。
「亡くなられたわけではありません」
先にそこを言ってくださるのですね。
ありがとうございます。
肇も学習しております。
「では?」
「玄徳殿の前へ、自らを縛って出られたそうです」
私はしばらく意味を理解できませんでした。
「……誰が?」
「糜竺殿です」
「どうして?」
「糜芳殿のことで、罪を請われたのでしょう」
私は立ったまま、肇を見つめました。
「子仲伯父上が?」
「はい」
「ご自分を縛って?」
「そう聞いています」
「子方伯父上が降ったから?」
「……はい」
腹が立ちました。
本気で。
「どうして子仲伯父上が縛られるのですか?」
肇が困った顔をしました。
またこの子に怒っておりますね。
違いますよ。
肇には何の罪もございません。
「裏切ったのは子方伯父上でしょう? 雲長叔父上を置いていったのも子方伯父上です。子仲伯父上は何もしておられません」
「母上」
「兄だからですか? 兄なら、弟がしたことまで自分を縛って謝らなければならないのですか?」
言いながら、だんだん別のものまで腹立たしくなってきました。
家族がしたことだから、親がしたことだから、兄弟がしたことだから――同じ血が流れているというだけで、何もしていない別の人間まで人生を変えられる。
私は、そういう理屈が嫌いです。
たいへん嫌いです。
十一年前から。
「父上は?」
「玄徳殿は、糜竺殿を責めなかったそうです」
私は止まりました。
「……責めなかった?」
「兄弟の罪は互いに及ばない、と。これまで通りに遇されたと聞いています」
私はゆっくり座りました。
「そうですか」
父上――
ありがとうございます。
そこは、本当に。
子仲伯父上を責めなかったことだけは、娘として心からありがたく思います。
「父上は……こういう時には、きちんと仁君なのですよね」
肇が何とも言えない顔をしました。
「母上」
「褒めておりますよ?」
「そう聞こえないのですが」
失礼ですね。
褒めています。
本当に。
ただ――
「長坂では娘を荷車へ残すのに、こういう時には兄弟の罪を分けてお考えになるのですね」
「母上」
「何でしょう?」
「今日はやめませんか?」
「何をです?」
「玄徳殿への嫌味を」
私は考えました。
「……努力します」
「やめるとは言わないのですね」
父上が悪いのです。
こういう時に立派なことをなさるから、私は父上を完全に嫌いになれません。
いっそ何もかも酷い父親でいてくだされば、こちらも話が簡単だったのですよ?
仁君らしいことをしたかと思えば娘を置いていき、王になったと思えば昔の家族が崩れ、そのたびに私の感情だけが右へ左へ運ばれる。
父上――
天下より先に、娘の心を統一していただけませんか?
玉珠にも、子仲伯父上が父上に責められなかったことを知らせました。
返事はすぐに来ました。
『よかったです』
その一言だけで、私も少しだけ救われました。
さらに、
『では今日は鼻をほじってもよいですか?』
と続いておりました。
なぜそうなるのですか。
『昨日まで我慢しました』
知っております。
『子仲伯父上が怒られなかったので、お祝いです』
鼻で祝わないでください。
夫君から止められている姿が目に浮かびます。
私は久しぶりに、少しだけ声を出して笑いました。
悲しいことがなくなったわけではありません。
雲長叔父上は帰りません。
子方伯父上がしたことも消えません。
子仲伯父上が傷つかなかったことにもできません。
それでも、父上が子仲伯父上を責めなかった。
玉珠が相変わらず馬鹿なことを言っている。
文烈様が隣にいる。
今は、それで息をしていられます。
夜になってから、私は庭へ出ました。
雲長叔父上――
昔、父上のそばにいたあなた様を、私は覚えております。
後世では偉大な将軍として書かれるのでしょう。
中原を震わせた名将。
最後には荊州を失って敗れた将。
いろいろ書かれるのでしょうね。
ですが私にとっては――
父上の隣にいた、雲長叔父上です。
それでよいと思います。
「明珠」
後ろから文烈様の声がしました。
「冷えるぞ」
「もう戻ります」
振り返ると、文烈様がそこにおりました。
帰る場所がある。
そんな当たり前のことが、今は少し怖いほどありがたく思えます。
雲長叔父上には、それがなくなりました。
父上にも、益徳叔父上にも、子仲伯父上にも――もちろん、文烈様にも、もう帰る場所を失ってほしくありません。
雲長叔父上を失った知らせから、まだそれほど時が経たないうちに。
今度は、私が暮らしている側から別の知らせが届きました。
文烈様が、その夜だけは珍しく何も言わずに座っておりました。
「どうなさいました?」
私が尋ねると、文烈様はしばらく黙ったあと、ようやく口を開きました。
「魏王様が――」
そこで、言葉が止まりました。
劉玉珠です。
雲長叔父上は、帰ってこられませんでした。
昨日、鼻をほじるのを我慢したのですが、夫には、
「だから鼻と戦は関係ないと言っただろう」と申されました。
分かっています。
でも、少しくらい願ってもよいではありませんか?
それから、子仲伯父上がご自分を縛って父上へ謝ったと聞きました。
どうしてですか?
悪いことをしたのは子方伯父上ですよね?
姉上も、とても怒っていたそうです。
父上は子仲伯父上を責めなかったそうなので、そこは安心しました。
ですので今日は、お祝いに鼻をほじろうとしたのですが――
夫につかまれました。
「祝い方を変えろ」
難しいですね。
ところで姉上。
今度は文烈様が、魏王様のお話を途中でやめたそうですね。
……また、誰か帰ってこなくなるのですか?




