子和様、何事もないとは大事件でございますか?
劉明珠でございます。
前回、私は子和様の屋敷へ移されました。
室――
文字だけ見れば、お部屋です。
玉珠はいまだにそう思っております。
たいへん幸せな理解です。
私も、できればそちら側にいたかったところでございます。
さて、子和様の屋敷での暮らしですが……
意外なほど、何も起きませんでした。
姉妹は離されず。
誰かが夜に部屋へ入ってくることもなく。
私は奥方様と呼ばれることもなく。
玉珠は時々、お菓子をいただいておりました。
長坂以来、何かが起きるたびにろくなことがありませんでしたので、何も起きないというのは、たいへんありがたいことでございます。
ただし、何も起きない日々にも、終わりは来ます。
今回は、子和様の屋敷で過ごした二年近くのお話です。
そして――
また、私の行き先が、私以外の方によって決められるお話でございます。
子和様の屋敷での日々は、意外なほど静かに過ぎました。
何も起きませんでした。
本当に、何も……
姉妹が離されることもなく、夜に誰かが部屋へ入ってくることもなく、玉珠がどこかへ連れて行かれることもなく、私が奥方様と呼ばれることもなく……
たいへん結構なことでございます。
長坂以来、私の身の回りでは、何かが起きるたびにろくなことがございませんでした。
荷車は崩れます。
曹軍には捕まります。
丞相様にはお目通りいたします。
皇帝陛下に会っても助かりません。
そのうえ子和様の室とされました。
ですので、何も起きない日々というものは、たいへんありがたい。
ありがたすぎて、逆に不安になります。
幸せに慣れていない人間は、静けさを罠か何かだと思うようです。
玉珠は、そうでもありませんでした。
「姉上、今日のお菓子は甘いね」
「そうですね」
「昨日のも甘かったね」
「お菓子ですから」
「子和様のおうちは、甘いものが出るね」
「玉珠の評価は、そこなのですね……」
「大事だよ?」
ええ――
八歳、いえ、もうじき十歳になる妹にとっては、大事なのでしょう。
子和様は、約束通り菓子を出させました。
毎日ではありません。
それでも、時々……
玉珠はそのたびに、子和様の評価を少しずつ上げていきました。
この世で人の印象を上げる方法は、武功でも血筋でもなく、菓子なのかもしれません。
父上――
次に娘へ何かしてくださる機会がございましたら、軍略より先に菓子をおすすめいたします。
子和様は、私たちの離れへ入ることはありませんでした。
用がある時は、戸の外で話します。
庭で会う時も、必ず侍女や家人が近くにおります。
言葉は短く、余計な情を見せません。
「不便はあるか?」
「ございません」
「学ぶ物は足りているか?」
「はい」
「妹君は?」
「菓子の種類を覚え始めております」
「……そうか」
子和様は、そのような方でした。
優しい方です、とは言いません。
私たちを捕らえた方です。
丞相様の命を受けた方です。
私を帳の上で「曹純室、劉氏」と記した方です。
けれど、壊さなかった方です。
その一点についてだけは、私は子和様を恨みきれませんでした。
人を恨むにも、もう少し分かりやすい悪人でいていただきたいものです。
曹演様は、父君の跡取りとして屋敷の中をよく行き来しておりました。
最初の頃は、私と会うたびに気まずそうに礼をしました。
こちらも礼を返します。
お互い丁寧です。
丁寧すぎて、廊下がそのうち礼儀で折れるのではないかと思いました。
玉珠だけが、いつも通りです。
「曹演様」
「はい」
「曹演様のお部屋は、まだあそこ?」
「ええ」
「姉上の室は、まだこっち?」
「……そうですね」
「遠いね」
「はい」
「よかったね」
「何がでしょう?」
「大人たちが困らないから」
曹演様は、少しだけ笑いました。
二年近くも経てば、気まずさにも慣れるようです。
慣れてよいものかどうかは、別問題ですが。
玉珠は背が伸びました。
相変わらず、年の割に大きいです。
父上に似たのでしょう。
父上――
娘二人が子和様の屋敷で背を伸ばしております。
そちらでは、阿斗もお元気でしょうか?
こちらは、おかげさまで、菓子と布団と名簿の中で育っております。
たいへん複雑な養育環境でございます。
私は十五になりました。
十三の時より、少しだけ背が伸びました。
髪も長くなりました。
鏡を見ると、自分の顔が少し変わっているのが分かります。
玉珠は時々、私を見て言いました。
「姉上、大人になってきたね」
「そうでしょうか?」
「うん、顔が前より姉上」
「それは、前から姉上です」
「もっと姉上」
意味は分かりません。
ただ、玉珠がそう言うなら、私は少しずつ変わっていたのでしょう。
変わっていないのは、私の行き先を私以外の方が決めることくらいです。
二年近く、何事もなく過ぎました。
何事もない――
そう思っておりました。
けれど、何事もない日々にも終わりは来ます。
子和様が病に倒れました。
最初は、屋敷の空気が少し変わっただけでした。
人の足音が速くなり、侍女たちの声が小さくなり、曹演様の顔から、いつもの困ったような穏やかさが消えました。
玉珠は首をかしげました。
「子和様、具合悪いの?」
「そのようです」
「お菓子食べたら治る?」
「病は、菓子では治りません」
「じゃあ、お粥?」
「お粥でも、難しい場合があります」
「じゃあ、何なら治るの?」
私は答えられませんでした。
玉珠の世界では、怖いことには、何か分かりやすい対処法があるのです。
寒ければ布団、腹が空けば菓子、不安なら姉の袖。
けれど、大人の世界では、袖を握っても人は逝きます。
子和様は、私たちを呼びませんでした。
いえ、呼べなかったのかもしれません。
ただ、亡くなる少し前、曹演様が離れへ来ました。
顔色が悪く、目の下に影がありました。
「父が、明珠殿と玉珠殿に、不自由はさせるなと申しておりました」
私は立ち上がり、礼を取りました。
「お気遣い、痛み入ります」
玉珠も慌てて頭を下げました。
「子和様に、お菓子ありがとうって言ってください」
曹演様の表情が、一瞬だけ崩れました。
笑ったようにも見えました。
泣きそうにも見えました。
「伝えます」
玉珠は真剣にうなずきました。
「あと、室をくれてありがとうも!」
曹演様は、今度こそ目を伏せました。
「はい……」
その夜、子和様は亡くなりました。
屋敷が泣きました。
使用人たちも、兵たちも、静かに頭を垂れておりました。
子和様は、怖い方でした。
短い言葉しか使わない方でした。
私たちを捕らえた方でした。
それでも、この屋敷の者たちにとっては、主でした。
玉珠は私の袖を握りました。
「姉上」
「何です?」
「子和様、もうお菓子出せないの?」
「そうですね」
「そっか……」
玉珠はしばらく黙っていました。
それから、小さく言いました。
「子和様、いい人だった?」
私はすぐに答えられませんでした。
いい人、悪い人、敵、保護者、捕らえた方、壊さなかった方。
どの言葉も、子和様の全部ではありません。
「悪い方では、ありませんでした」
私はようやく言いました。
玉珠はうなずきました。
「じゃあ、玉珠は、子和様のこと少し好きだったと思う」
少し――
玉珠らしい言い方でした。
全部ではない。
怖かった。
分からなかった。
でも、お菓子をくれて、姉上と離さず、戸の中に入らなかった。
だから、少し……
私はその言葉を否定しませんでした。
曹演様が後を継ぎました。
屋敷の者たちは、曹演様を新しい主として仰ぎます。
当然のことです。
父が亡くなれば、子が継ぐ。
家というものは、人が死んでも形だけは進んでいくようにできております。
私たちの立場は、また難しくなりました。
私は子和様の室として帳に記されております。
けれど子和様は亡くなりました。
私は妻として扱われていません。
けれど名目は残っています。
そして曹演様は、私より年上の、亡くなった子和様の子です。
たいへん気まずい……
気まずさに位階があるなら、これはかなり上位でしょう。
玉珠は相変わらず、部屋の話だと思っていました。
「姉上」
「何です?」
「曹演様が主になったら、室も曹演様のものになるの?」
その瞬間、侍女が水差しを落としそうになりました。
私は深く息を吸いました。
「部屋は、今まで通り使わせていただけると思います」
「よかった」
玉珠は安心しました。
侍女は安心していません。
私も安心しておりません。
曹演様は、私たちを丁重に扱いました。
父君の言葉を守ろうとしていたのだと思います。
ただ、丁重に扱えば扱うほど、屋敷の空気は妙に固くなります。
曹演様が私たちの離れへ近づく。
侍女が緊張する。
家人が目を伏せる。
私が礼を取る。
曹演様が礼を返す。
玉珠だけが、菓子の皿を持って聞きます。
「曹演様も食べる?」
曹演様は困った顔で笑いました。
「私は遠慮します」
「おいしいよ」
「存じています」
「じゃあ食べればいいのに」
玉珠の世界では、食べたい物は食べる。
食べたくないなら食べない。
遠慮という面倒なものは、まだありません。
羨ましい限りです。
そんな日々が少し続いた後、丞相様から使者が来ました。
またです。
丞相様という方は、ご本人が来なくても人を動かします。
本当に便利な方です。
できれば、その便利さを私たち以外にも使っていただきたい……
曹演様が使者を迎え、私たちも呼ばれました。
嫌な予感しかしません……
玉珠は小声で聞きました。
「姉上、またお引っ越し?」
「まだ分かりません」
「車?」
「もしそうなら、私は車輪に宣戦布告いたします」
「せんせんふこくって何?」
「とても怒っているという意味です」
「姉上、車に怒ってるもんね」
その通りです。
使者は丞相様の言葉を伝えました。
「劉氏明珠を、曹文烈殿のもとへ移す」
移す――
また、その言葉です。
荷でもないのに、私はよく移されます。
曹演様が顔を上げました。
「文烈殿へ、でございますか?」
「曹公のお考えである。曹子和殿亡き後、このまま曹演殿の屋敷に置くは、外聞にも差し障る。曹文烈殿ならば曹公の信も厚い。劉氏明珠を粗略には扱われまい」
外聞、差し障る、信が厚い、粗略には扱われない。
いろいろな言葉が並びます。
一つとして、私の希望ではありません。
玉珠が私の袖を握りました。
「姉上、曹文烈様って誰?」
「私も存じ上げません」
「お菓子出る?」
「そこはまだ分かりません」
玉珠は少し心配そうな顔をしました。
心配する場所がそこなのですね。
けれど、正直に申しますと、私も少し気になります。
丞相様は、気遣ってくださったのでしょう。
子和様亡き後、私を曹演様の屋敷に置き続ければ、互いに気まずい。
噂も立つ。
名目も面倒になる。
だから、文烈様のもとへ移す。
保護、管理、外聞、再嫁。
いろいろな札が、私の上に重なっていきます。
丞相様は、私を粗末には扱っておられません。
大切に扱ってくださっています。
ええ――
大切なものほど、持ち主の許可なく置き場所を変えられるようでございます。
「玉珠は?」
私は使者に尋ねました。
「妹君は、当面、明珠殿に従うようにとのこと」
当面――
また便利な言葉です。
今は、しばらくは、当面……
大人の優しさには、どうしてこうも期限が付いているのでしょうか。
玉珠は、そこだけ聞いて安心しました。
「玉珠も一緒?」
「はい」
「じゃあ、大丈夫」
大丈夫――
玉珠はそう言いました。
私が曹演様に目を向けますと、曹演様は深く頭を下げました。
「父の遺言を、十分に果たせず申し訳ありません」
「いいえ」
私は首を横に振りました。
「曹演様のせいではございません」
それは本心でした。
曹演様だけを責められるほど、話は簡単ではありません。
子和様だけを恨めなかったように……
丞相様だけを憎めないように……
父上だけを、まだ完全には憎みきれないように……
私の人生は、いつも誰か一人の悪意ではなく、大勢の都合で動かされます。
それが一番、厄介なのです。
玉珠が袖を引きました。
「姉上」
「何です?」
「今度の室も、ふかふかかな?」
私は少しだけ笑いました。
笑わなければ、たぶん泣いていたからです。
「そうだとよいですね」
「お菓子も出るかな?」
「それも、そうだとよいですね」
子和様の屋敷で、二年近く何事もなく過ぎました。
何事もないことが、こんなにもありがたいものだとは知りませんでした。
そして今、また何かが起きようとしております。
文烈様――
まだお会いしたことのない方。
丞相様が、私の次の行き先として選んだ方。
私はまた、車に乗るのでしょう。
長坂から、ずっとそうです。
誰も私に道を尋ねません。
けれど道だけは、いつも勝手に用意されております。
その道の先に、今度は文烈様がおられるそうです。
劉玉珠です。
子和様のおうちでは、何も起きませんでした。
姉上と離されませんでした。
夜に誰かが入ってくることもありませんでした。
お布団はふかふかでした。
時々、お菓子も出ました。
だから玉珠は、子和様のおうちは少しこわいけれど、悪いところではないと思っていました。
子和様はあまり笑いません。
声も明るくありません。
でも、約束したお菓子はちゃんと出してくれました。
だから、子和様は約束を守る方です。
でも、子和様は病になって、亡くなりました。
お菓子でも、お粥でも、治らない病だったそうです。
玉珠は、子和様のことを少し好きだったと思います。
たくさんではありません。
少しです……
こわかったけれど、姉上と離さなかったからです。
戸の中に入ってこなかったからです。
お菓子も出してくれたからです。
そのあと、曹演様が新しい主になりました。
曹演様はとても親切です。
でも、みんな少し困った顔をします。
玉珠が、室も曹演様のものになるのか聞いたら、侍女の人が水差しを落としそうになりました。
変なおうちです……
玉珠は、お部屋の話をしているだけなのに……
それから、丞相様から使者が来ました。
姉上は、曹文烈様のもとへ移るそうです。
文烈様は、まだ会ったことのない方です。
お菓子が出るかどうかも分かりません。
でも、玉珠も一緒に行っていいそうです。
それなら、少し安心です。
姉上は、また車に乗るのだと思います。
姉上は車が嫌いです。
今度のおうちも、姉上と一緒なら大丈夫だと思います。
でも姉上は、笑っていたのに、少し泣きそうな顔をしていました。
文烈様のおうちには、お菓子があるのでしょうか。
そして――
姉上の顔が、ちゃんと笑うおうちなのでしょうか?




