↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
59/64

父上、高祖の真似でございますか?

劉明珠でございます。


父上が、漢中王になられました。

漢中を手に入れ、漢室の血を引く劉氏が王となる。

たいへん美しいお話ですね。

後世の皆様も、きっとお喜びになるでしょう。


ただ、一つ気になることがございます。

高祖も漢王から天下を取られましたが、逃げる途中では子供を車から落としたそうですね。

父上は長坂で、娘二人を荷車へ残されました。

……なるほど。

父上、高祖の真似でございますか?


玉珠にも知らせましたところ、

「王様の娘なら、鼻をほじってもよいのですか?」

と返ってまいりました。

駄目です。

父上がどこまで偉くなられても、そこに恩赦はございません。


さて父上――

高祖になぞらえるのなら、都合のよいところだけ選べるとお思いですか?

父上が、王になられました。

それを聞いた時、私は何かの聞き間違いだと思いました。

漢中を取ったことなら、もう知っております。

魏王様を退かせ、欲しかった土地を手に入れた。

そこまでは理解しておりますし、戦として見れば父上の勝ちでしょう。

ですが、肇が元仲様のところから持ち帰った話は、その続きでした。

「母上、玄徳殿が漢中王を称されたそうです」

私は手にしていた茶碗を置きました。

「……何王ですか?」

「漢中王です」

聞き間違いではありませんでした。

漢中を取ったので、漢中王。

たいへん分かりやすいですね。

分かりやすすぎて、逆に嫌な予感がいたします。

「父上が、ご自分で?」

「配下の方々から推されたそうです」

「なるほど」

私は少し考えました。

父上は漢室の血を引く方です。

劉氏である父上が漢中を手に入れ、今度は漢王を思わせる漢中王となる。

私はそこで、嫌なところへ気づいてしまいました。

「……まさか」

「母上?」

「父上――」

思わず天井を見ました。

もちろん、そこに父上はいません。

「高祖の真似でございますか?」

肇が固まりました。

「母上、それは……」

「違うのですか?」

「私に聞かれても……」

そうでしょうね。

元仲様のところへ毎日のように通っているからといって、父上の頭の中まで分かるわけではありません。

ですが、あまりにも出来すぎております。

高祖は漢王として漢中を足場にし、やがて天下を取った方。

父上は漢室を掲げ、漢中を得て、今度は漢中王。

後世の方々が喜びそうですね。

たいへん美しいお話になりそうです。

漢室の末裔が、漢の始まりに縁ある地を取り戻し、高祖になぞらえて王となる。

私はもう、書かれてもいない立派な文章が見えるようでございました。

「文烈様」

ちょうど部屋へ入ってきた夫を呼び止めます。

「何だ?」

「父上が漢中王になられたそうです」

「ああ」

知っていましたね。

「驚かないのですか?」

「予想できない話ではない」

「そういうものですか?」

「漢中を取ったからな」

やはり漢中を取れば漢中王。

皆様、ずいぶん素直ですね。

私は文烈様を見ました。

「それで、文烈様」

「嫌な顔をしているな」

「まだ何も申しておりませんよ?」

「だからだ」

最近、夫が私を読むのが早くなっております。

玉珠の夫君が鼻へ向かう右手を読めるようになったのと同じでしょうか?

夫婦というものは恐ろしいですね。

「高祖は、漢王から天下を取られましたよね?」

「そうだな」

「父上も、それを意識しているのでしょうか?」

「本人に聞け」

「聞けるなら十一年前に聞いております」

『父上、なぜ荷車ごと娘を置いていくのですか?』

と。

あの時に聞けていれば、今ごろ少しは気持ちも違っていたでしょう。

文烈様が私の顔を見て、何かを察したようでした。

「明珠」

「はい?」

「高祖の話をしたいのか、玄徳殿の話をしたいのか、どちらだ?」

「両方です」

「そうか」

逃げましたね。

ですが私は、そこで思い出してしまったのです。

高祖にも、たいへん有名な逃走のお話がございます。

楚との戦で敗れ、追われた時――

高祖は逃げる車に、自分の子供たちを乗せていたそうです。

そして追手から逃れるため――子供を車から落とした。

一度ではなく、拾い上げられてはまた落とした、とまで伝わっております。

私は黙りました。

文烈様も黙りました。

肇は、何か嫌なものを見る顔でこちらを見ております。

「母上」

「何でしょう?」

「言わない方がいいと思います」

「まだ何も言っておりません」

「だからです」

どうして皆様、私が口を開く前から止めようとなさるのでしょう。

私は悪口を言いたいわけではございません。

ただ歴史上の事実を並べているだけです。

高祖は、逃げる時に子供を車から落とした。

父上は、長坂で娘二人を荷車へ置いたまま先へ行った。

そして十一年後、その父上が高祖と同じく漢中を足場に、漢中王となった。

私は笑顔になりました。

「血は争えませんね」

「明珠」

「何でしょう、文烈様?」

「その顔で言うな」

どの顔ですか?

たいへん穏やかな妻の顔でございます。

「ですが文烈様、高祖と父上は少し違いますよ」

「何がだ?」

「高祖は子供を車から落としたそうですが、父上は私たちを落としてはおりません」

肇が少し安心した顔をしました。

まだ早いですよ。

「荷車ごと置いていかれましたので」

肇が俯きました。

文烈様は額を押さえております。

「進歩したのでしょうか?」

「比べるな」

「高祖の故事になぞらえるのであれば、そこまで含めるべきではございませんか?」

「誰もそこをなぞらえていない」

「分かりませんよ?」

父上ご本人が、

『高祖も子供を置いて逃げたのだから、私も問題ない』

などと思っていたとは、さすがの私も考えておりません。

ですが、後世というものは都合のよいところだけを拾うのがお上手です。

高祖が漢王となった故事に、父上の漢中王、そして劉氏による漢中獲得まで重ねれば、漢室再興への一歩としてたいへん綺麗に見えるのでしょう。

そこまで綺麗に並べるのでしたら、私は端からそっと付け足して差し上げたい。

高祖は逃げる途中で子供を車から落としました。

父上は逃げる途中で娘二人を荷車へ残しました。

「たいへん似ておりますね」

「そこだけを似せるな」

文烈様がとうとう突っ込みました。

ありがとうございます。

誰も止めてくれないかと思いました。

その日のうちに、玉珠にも知らせました。

『父上が漢中王になられました』

返事は思ったより早く届きました。

『王様になったのですか?』

そうです。

『では姉上は王様の娘ですか?』

そうなりますね。

『わたしもですか?』

どうして自分だけ違うと思ったのでしょう。

『夫に、わたしは王様の娘になったそうです、と言ったら、前から玄徳殿の娘だろうと言われました』

夫君……

正しいです。

父上が王になったからといって、私たちが昨日まで別人だったわけではございません。

続きを読むと、

『王様の娘でも鼻をほじってはいけませんか?』

とございました。

私は目を閉じました。

父上――

あなた様が漢中王になっても、娘はこれです。

漢室再興の道は険しゅうございますね。

さらに、

『夫に聞いたら駄目だと言われました』

当然です。

身分制度では解決できません。

『では父上がもっと偉くなれば、ほじってもよくなりますか?』

なりません。

父上をどこまで出世させるおつもりですか?

私は、

『父上が何になっても駄目です』

と返しました。

これで父上の天下取りとは無関係に、玉珠の鼻だけは永遠に封じられることになりました。

夕方、寧珠が私のところへ来ました。

「母上、おじいさまが王様になったの?」

誰から聞いたのでしょう?

おそらく肇ですね。

この家には軍報だけではなく、家族の話までよく流れております。

「そうですよ」

「すごい?」

私は少し考えました。

ここで娘にまで私の毒を飲ませる必要はございません。

「すごいことですよ」

「母上、うれしい?」

困る質問ですね。

文烈様が少し離れたところから、こちらを見ております。

助ける気はなさそうです。

私は寧珠の頭を撫でました。

「そうですね。少しくらいは」

「すこし?」

「母上には、いろいろございますから」

寧珠はよく分からない顔をしました。

それでよいのです。

いつか分かる日が来るかもしれません。

来なくても構いません。

父上が王になった。

そのこと自体を、私は否定するつもりはございません。

十一年前、曹軍から逃げていた方が、今では魏王様を漢中から退かせ、自分の土地を持ち、王と呼ばれるところまで来た。

大したものだと思います。だからこそ、妙なのです。

父上が立派になればなるほど、長坂で荷車に残された十三歳の私は小さくなっていくように感じます。

仁君と呼ばれ、漢室の末裔として仰がれ、今度は漢中王という名まで加わりました。

いずれ後世では、もっと大きな名で呼ばれるのでしょう。

その立派な看板が増えるたび、その陰には見えなくなるものも増えていく。

私は、その一つになりたくありません。

夜、文烈様と二人になってから、私はもう一度申しました。

「父上は、本当に遠くへ行かれましたね」

「漢中なら俺たちより西だ」

「そういう意味ではございません」

「分かっている」

分かっているなら最初からそう言ってください。

「十三の頃には、父上の背中すら見えなくなりました」

「……ああ」

「今では王様です」

「そうだな」

「私は曹家の妻です」

文烈様がこちらを見ました。

「後悔しているのか?」

私はすぐに首を振りました。

「いいえ」

それだけは迷いません。

父上の娘として生まれたことも変えられません。

長坂で置いていかれたことも消せません。

でも、その後にどう生きたかまで父上の物語へ入れて差し上げるつもりはございません。

私は私です。

父上が漢中王になったその日も、私は曹休の妻としてこの家におります。

寧珠と環珠の母として、玉珠の姉として。

それで十分です。

「ただ一つだけ、申し上げたいことはございます」

「玄徳殿にか?」

「はい」

届きませんけれど――

私は西の方角を思い浮かべました。

父上――

漢中王へのご就任、おめでとうございます。

高祖になぞらえるのも、漢室を背負うのも、お好きになさればよろしいでしょう。

あなた様はとうとう、魏王様を退けて漢中を手に入れました。

娘として、そこは認めます。

ですが――

高祖の真似をなさるのでしたら、一つだけ申し上げておきます。

家族を置いて逃げるところまで、似なくてもよかったのですよ?

……もっとも。

そこまで似てしまった以上、やはり言うしかございませんね。

父上――

血は争えませんね。

そう思っていた私は、まだ知りませんでした。

漢中王になった父上の周りで、今度は荊州が動き始めていたことを。

劉玉珠です。


父上が漢中王になられました。

姉上から、 「これであなたも王様の娘ですよ」 と教えてもらいました。


ですので夫に、 「王様の娘なら、鼻をほじってもよいでしょうか?」 と聞いてみました。

駄目でした。


では、父上がもっと偉くなればどうでしょう?

そう聞いたら、 「玄徳殿の出世と、お前の鼻は関係ない」 と言われました。

残念です。


高祖も逃げる時に子供を車から落としたそうですが、姉上はそのお話をすると、とても楽しそうでした。

たぶん、楽しんではいけないところだと思います。


ところで旦那様――

父上が漢中王になったのなら、次は何をなさるのでしょう?

そう尋ねると、夫は少し考えてから、

「……今は、荊州の方が気になるな」

と申しました。


荊州?

今度は誰が、何を始めるのでしょうか?

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。