文烈様、今日は家から出られるとお思いですか?
劉明珠でございます。
文烈様が、ようやく帰ってまいりました。
ですので今日は、家から出しません。
本人にはまだ相談しておりませんが、寧珠と環珠も賛成しておりますので、多数決で決定です。
虎豹騎を率いる方でも、妻と娘二人に包囲されれば逃げられないでしょう。
父上は漢中を手に入れ、魏王様は長安へ戻られました。
たいへん大きな出来事ですね。
ですが今の私には、隣で文烈様が眠っていることの方が重要です。
玉珠からは、
「今日は鼻をほじらず我慢できました」
という報告まで届きました。
夫君がずっと見張っていたそうですが、それでも戦果は戦果でしょう。
父上は漢中。
玉珠は鼻。
私は夫。
同じ劉家でも、守りたいものはずいぶん違うようでございます。
さて文烈様――
今日は家から出られると、本気でお思いですか?
父上が漢中を押さえたことは、もう知っております。
魏王様は長安へ戻り、文烈様も帰ってきました。
ですから翌朝、私は地図ではなく、隣で眠っている夫の顔を見ておりました。
そして、少し腹を立てております。
よく眠っていますね。
こちらは漢中にいる間、書状が届くたびに『無事だ』の三文字を確認し、妙才様が帰れなかったと聞いてからは、その三文字すら以前より重く感じるようになったというのに。
当の本人は、帰ってきた途端にこれです。
「……何だ?」
文烈様が目を閉じたまま申しました。
「起きていたのですか?」
「それだけ見られれば起きる」
「何もしておりませんよ?」
「生きているか確認していただろう」
ばれていました……
私は少し身を起こして、改めて文烈様の顔を見ました。
「昨日も確認しただろう?」
「昨日と今日は違います」
「どう違う?」
「一晩経ちました」
「だから?」
「一晩経っても生きていることを確認しております」
文烈様がようやく目を開けました。
呆れておりますね。
構いません。
目の前にいて、呆れた顔まで見られる。
それが重要なのです。
「もう分かっただろう?」
「何がです?」
「生きている」
「今のところは」
「朝から縁起でもないことを言うな」
妙才様が帰れなかったあとですからね。
私は笑えませんでした。
その代わり、文烈様の胸へ手を当てます。
ちゃんと動いております。
「確認できました」
「なら寝ろ」
「もう朝ですよ?」
「まだ早い」
「今、朝だと認めましたよね?」
「早い朝だ」
便利な言葉ですね。
私が起きようとすると、腕をつかまれ、そのまま引き戻されました。
「文烈様?」
「まだいいだろう」
「帰ってきた途端、たいへん横暴でございますね?」
「帰ってきたからだ」
何の説明にもなっておりません。
ですが、振りほどく気にもなれませんでした。
昨日まで、どれだけ心配しても触れることすらできなかった人です。
今は手を伸ばせばおります。
それなら少しくらい、ここにいてもよいでしょう。
「そういえば父上は、本当に漢中を取りましたね」
「朝一番の話がそれか」
「文烈様が帰ってきた次に大きな出来事です」
「順番がおかしくないか?」
「私の中では正しい順番です」
文烈様は何も言いませんでした。
父上が漢中を押さえたことは大事件なのでしょう。
魏王様を退かせ、妙才様を破り、とうとう欲しかった土地を手に入れた。
戦として見れば、文句のつけようもない結果なのでしょう。
ですが、その立派さを朝一番からじっくり味わって差し上げるほど、私は出来た娘ではございません。
「魏王様が鶏肋として捨てたものを、父上が拾ったわけですね」
「まだ言うのか?」
「文烈様が説明してくださったのではありませんか?」
「説明しなければよかった……」
「知った以上、使います」
「何に?」
「父上への嫌味に」
「本人に届かないだろう」
「届かなくてよいのです。私の気が済みます」
十一年かけて身につけた、たいへん安全な遊びでございます。
そこへ廊下の向こうから足音がしました。
「父上!」
寧珠です。
続いて環珠まで、
「ちちうえ、どこー?」
と呼んでおります。
文烈様と目が合いました。
「お呼びですよ」
「お前も呼ばれているだろう?」
「私は毎日おりますから」
「俺も今はいる」
「では返事をしてください」
文烈様が息を吐きました。
「ここだ」
その一言で、戸の向こうが一気に騒がしくなりました。
「いた!」
寧珠が飛び込んできて、そのまま文烈様のところへ走ります。
環珠も負けじと追いかけてきました。
「ちちうえ!」
二人とも昨日会ったばかりなのに、一晩眠っただけで、また何か月も遠征していたことになったのでしょうか?
寧珠が文烈様の腕へしがみつきました。
「父上、今日いる?」
「いる」
「ずっと?」
文烈様が一瞬だけ黙りました。
そこは迷わないでください……
私は横から答えました。
「今日はずっとおりますよ」
「お前が決めるのか?」
「今、決めました」
「聞いていない」
「今、お伝えしました」
すると環珠まで反対側から衣をつかみます。
「ちちうえ、いっちゃだめ」
二対一。
勝負は決まりましたね。
「文烈様、娘二人から命令が出ております」
「お前が言わせたのか?」
「私は何も申しておりません」
「本当か?」
「昨夜、『明日は父上を家から出してはいけませんよ』とは申しましたが?」
「言っているじゃないか」
細かいですね……
寧珠が父親を見上げます。
「父上、いる?」
「……いる」
「やった!」
環珠も一緒になって、
「やった!」
と両手を上げました。
虎豹騎を率いる文烈様が、幼い娘二人に包囲されて降伏しました。
魏王様――
漢中よりこちらの方が、よほど簡単に落とせたようでございます。
朝餉には鶏が出ました。
料理を見るなり、文烈様が私を見ます。
「本当に用意したのか?」
「お約束でしたから」
「約束はしていない」
「では、無事の帰還を祝う鶏ということで」
「最初からそう言え」
「鶏肋も偲んでおります」
「やめろ」
ちょうど顔を出していた肇が俯きました。
肩が動いております。
笑っていますね?
「母上、それを魏王様の前では言わない方が……」
「もちろん申しません。私も命は惜しゅうございます」
文烈様が鶏へ箸を伸ばしました。
私はじっと見つめます。
「肉はありますか?」
「ある」
「それは何よりです」
「何がだ?」
「漢中より得るものがございましたね」
肇が咳き込みました。
文烈様だけが無言でこちらを見ております。
「明珠」
「はい?」
「帰って早々、これか?」
「帰ってくるまで言えなかったことが溜まっておりますので」
「書状でも十分言っていただろう?」
「書状では、文烈様の顔が見えません」
やはり嫌味は、相手の顔を見ながら言うに限ります。
今なら、文烈様が呆れているのも分かります。
たいへん満足です。
朝餉が終わっても、寧珠と環珠は父親を離しませんでした。
「父上、これ見て」
「ちちうえ、こっち!」
「順番に言え」
「私が先!」
「わたし!」
「……明珠」
「何でしょう?」
「助けろ」
「虎豹騎はどうなさいました?」
「ここにはいない」
「残念ですね」
しばらく眺めてから、環珠をこちらへ呼びました。
「環珠。父上は一人しかおりませんよ」
環珠は真剣に考え込みました。
そして、
「ふたりにする?」
と申しました。
「できません」
どうやって増やすおつもりですか?
文烈様が顔を背けます。
「今、笑いましたね?」
「笑っていない」
「笑いました」
「環珠に言え」
本人に悪気はないのでしょう。
父親が二人になれば、姉妹で一人ずつ使える。
考え方だけなら、たいへん合理的です。
実現方法がございません。
昼を過ぎ、ようやく娘たちが遊び疲れて眠ると、家の中が急に静かになりました。
文烈様が長く息を吐きます。
「戦場より疲れておりませんか?」
「種類が違う」
「どちらが大変です?」
「答えたら怒るだろう」
「内容によります」
「なら答えない」
判断が早いですね。
私は湯を用意し、向かいではなく隣へ座りました。
昨日まで遠くにいたのです。
これくらい近くてもよいでしょう。
「痩せましたね」
「そうか?」
「そうです」
「すぐ戻る」
「戻してください」
「命令か?」
「妻からのお願いでございます」
「同じ顔をしている」
私は文烈様の腕へ触れました。
大きな傷はありません。
ですが、長く外にいた人の疲れは残っております。
「漢中は寒かったですか?」
「山はな」
「父上のせいですね」
「気候まで玄徳殿のせいにするな」
「では半分くらい」
「一割もない」
細かいですね。
「本当に、父上とはお会いにならなかったのですよね?」
「何度聞く」
「確認です」
「会っていない」
「結構です」
「そこまで会ってほしくなかったのか?」
私はすぐには答えられませんでした。
会いたいのかと聞かれれば、分かりません。
十一年経っても、父上が目の前に現れた時に自分が何をするのか想像できないのです。
怒るのか、泣くのか、それとも笑ってしまうのか。
もしかすると、何も言えなくなるのかもしれません。
「戦場でなければ……いつかは」
文烈様がこちらを見ました。
「会いたいのか?」
「分かりません」
それが一番正しい答えでした。
「ただ、戦場で会うのは嫌です。あなた様と父上が武器を持って向かい合ったら、私はどちらを心配すればよいのでしょう?」
「俺だろう」
即答しましたね。
私は思わず笑いました。
「ずいぶん勝手でございますね」
「違うのか?」
「……文烈様を心配します」
父上が死ねば、悲しいでしょう。
おそらく、自分が思っている以上に。
ですが文烈様が死んだら、私は今ある家を丸ごと失うような気がします。
同じ大切でも、置かれている場所が違うのです。
「ですから、何度も書いたでしょう?」
「帰ってこい、と?」
「はい」
「帰った」
またそれです。
「もう少し何かございませんか?」
「何が?」
「たとえば……会いたかった、とか」
言ってから後悔しました。
これは聞くものではなかったかもしれません。
文烈様はしばらく黙っております。
「明珠」
「はい?」
「会いたかった」
困りますね。
この人は普段、こういうことをほとんど言わないのです。
ですから、たまに言われると逃げ道がございません。
「……文烈様」
「何だ?」
「そういう大事なことは、もう少し頻繁に仰ってください」
「頻繁に言えば大事ではなくなる」
「妙な理屈をつけないでください」
文烈様が笑いました。
私はその肩へ寄りかかります。
父上が漢中を取ったことも、魏王様が退いたことも、今日はもう十分です。
天下を動かしている方々には申し訳ございませんが、私の家では夫が無事に帰ってきたことの方が重大なのです。
十一年前、私は家族というものは突然いなくなるのだと思いました。
ところが、失ったものとは別の場所に、また家族ができることもあるのですね。
それを父上のおかげと呼ぶのは、たいへん癪でございます。
ですから呼びません。
これは私が手に入れたものです。
夕方になると、玉珠から手紙が届きました。
『文烈様はちゃんと帰ってきましたか?』
帰ってきましたよ。
『父上は漢中に残っているのですね。やはり漢中がお好きなのでしょうか?』
たぶん違います。
『夫は、玄徳殿はせっかく取った漢中を手放さないだろうと言っています』
夫君は相変わらず話が早いですね。
『では、父上はしばらく帰ってこないのですか?』
帰る場所がどこを指しているのか分かりません。
玉珠は父上に今さらどこへ帰ってきてほしいのでしょう。
続きを読むと、
『考えている間、鼻をほじらず我慢できました』
とございました。
私は少し驚きました。
『夫がずっと見ていました』
なるほど。
自力ではありませんでしたか……
最後には、
『褒めてください』
とあります。
私は返事に、
『よくできました』
と書きました。
何をしているのでしょう、私は?
父上が魏王様から漢中を奪った頃、妹は鼻へ指を入れなかっただけで姉から褒められております。
同じ劉家の娘でも、目指すところには随分と差がございますね。
夜になり、寧珠と環珠も眠りました。
ようやく二人きりになると、私は文烈様の隣へ座りました。
「今日は、本当にどこにも行きませんでしたね」
「娘たちに約束したからな」
「私には?」
「お前にも」
「聞いておりません」
「今言った」
私の真似でしょうか。
「では明日は?」
「分からん」
「明後日は?」
「もっと分からん」
武人というものは、どうしてこれほど先の予定が頼りないのでしょう。
「でしたら今夜は、絶対に離しません」
「娘たちと同じことを言うな」
「私の娘ですから」
「そうだったな」
文烈様の手が、私の手へ重なりました。
今日はこれで十分です。
父上が漢中を手に入れたことは、もう知っております。
その先で何をするつもりなのかまで、考える気にはなりませんでした。
文烈様が帰ってきて、家にいて、娘たちが父親へまとわりつき、玉珠は鼻をほじらず褒められている。
今は、それくらい平和でよいのです。
少なくとも――
父上が、また余計なことを始めるまでは。
劉玉珠です。
文烈様は、ちゃんと帰ってこられたそうです。
姉上は、 「今日は家から出しません」 と申しておりました。
寧珠と環珠も賛成しているそうなので、文烈様は三人に囲まれているのですね。
夫に話したら、 「曹文烈殿でも逃げられないだろうな」 と笑っておりました。
わたしも今日は鼻をほじらずにいられました。
夫がずっと右手を見ていたからです。
姉上は文烈様を家から出さない。
夫はわたしの指を鼻へ行かせない。
皆様、守るのがお上手ですね。
ところで父上も、漢中から動かないそうです。
姉上――
もしかして父上も、誰かに「今日はそこから出てはいけません」と言われているのでしょうか?




