父上、とうとう鶏の骨になられたのですか?
劉明珠でございます。
魏王様が、漢中で「鶏肋」と仰ったそうです。
鶏の肋骨ですね。
妙才様が亡くなられ、父上と魏王様が何か月も睨み合い、大勢の兵が山を越えた末に出てきた答えが、まさか鶏の骨だとは思いませんでした。
玉珠にも知らせましたところ、
「もっと肉のあるところを食べればよいのでは?」
と返ってまいりました。
そういう問題ではございません。
そのあと本当に鶏を食べ、鼻をほじろうとして夫に手を洗わされたそうです。
夏侯家では、漢中より難しい戦が続いておりますね。
さて父上――
魏王様は、その鶏肋を捨てるおつもりのようです。
ということは、あなた様は――
鶏の骨を拾う側になるのでございますか?
魏王様が漢中を離れることを考えておられる。
肇からそう聞いた翌日、さらに妙な話が届きました。
「母上、魏王様が『鶏肋』と仰ったそうです」
私は黙って肇を見ました。
「……鶏の肋骨、ですか?」
「はい」
「漢中のお話ですよね?」
「漢中のお話です」
「食事のお話ではなく?」
「たぶん」
たぶん――
そこは自信を持っていただきたいところです。
妙才様が討たれ、父上と魏王様が山を挟んで睨み合い、大勢の兵が遠路を越えて運ばれております。
その果てに届いた言葉が、鶏の肋骨。
父上――
あなた様を巡る戦は、とうとう食卓へ移ったのでしょうか?
「何か意味があるのでしょうか?」
私が尋ねると、肇は困った顔をしました。
「元仲様も、何かのお考えがあるのだろうとは」
「分からなかったのですね?」
「……はい」
元仲様でも分からない。
それは少し安心いたしました。
私だけが鶏についていけなくなったわけではないようです。
とはいえ、意味が分からないままでは気になります。
私はその日のうちに文烈様へ書状を出しました。
『魏王様が鶏肋と仰ったと聞きました。どういう意味でしょう?』
書いたところで、少し考えました。
『もし夕餉のお話でしたら、こちらでも鶏を用意できますので、早く帰ってきてください』
さらに一行足しました。
我ながらたいへん良い理由だと思います。
夫を戦場から帰すためなら、鶏にも働いていただきましょう。
玉珠にも知らせておきました。
こちらは知らせるべきではなかったかもしれません。
返事が来るまで、それほど時間はかかりませんでした。
『姉上、鶏肋とは鶏のどこの部分ですか?』
そこからですか……
『肋骨のあたりではないでしょうか』
と返すと、次の手紙には、
『美味しいのですか?』
とございました。
知りません。
『夫に聞いたら、肉は少ないと言われました』
そうでしょうね。
『では魏王様は、どうして肉の少ないところを食べようとしているのですか? もっと肉のあるところを食べればよいと思います』
玉珠……
魏王様も、おそらく食べたくて仰ったのではございません。
私も詳しい意味は分かりませんが、それだけは分かります。
『そうなのですか?』
そうなのです。
『考えていたらお腹が空きました』
でしょうね。
『鶏を食べました』
早いですね。
『食べ終わってから鼻をほじろうとしたら、夫に手を洗えと言われました』
夫君……
ありがとうございます。
鼻をほじること自体ではなく、まず衛生面から攻めるようになったのですね。
夏侯家の戦術も日々進歩しております。
ところが文烈様からの返事は、なかなか届きませんでした。
代わりに漢中から入る知らせは、どれも似たようなものばかりです。
父上は動かず、魏王様も攻め切れないまま、待っている間にも兵は疲れ、食糧は減っていきます。
山道を越えて物を運ぶだけでも、人は少しずつ消耗していくのでしょう。
戦とは、派手に斬り合っている時だけ人を疲れさせるものではないのですね。
むしろ、何も起きない時間の方がじわじわと人を削ることもあるのでしょう。
そして父上は、それを待っている。
私は地図を眺めながら、ため息をつきました。
「父上は、本当に出てこないのですね」
そばにいた肇が頷きます。
「魏王様の軍が動けば備えるそうですが、自分から大きく出る様子はないようです」
「たいへん辛抱強くなられましたね」
「褒めていますか?」
「半分ほど」
残り半分は、十一年前の私が持っております。
あの時の父上には、娘を荷車へ残したまま逃げるほど急ぐ理由があった。
今の父上には、魏王様が目の前まで来ても動かない理由がある。
どちらも戦の判断なのでしょう。
合理的で、現実的で、生き残るためには必要だったのかもしれません。
本当に立派ですね。
だから私は、何度でも思うのです。
その立派な判断の荷物になった側は、どこへ行けばよいのでしょう?
答えは十一年経っても見つかっておりません。
その間に私は曹家へ来て、文烈様と夫婦になり、娘まで二人できました。
人生とは分からないものです。
父上が荷車へ戻ってきていたら、私は今ここにはいなかったでしょう。
文烈様にも会わなかった。
寧珠も環珠も生まれていなかった。
そう考えると、父上を恨み切ることすら難しくなります。
たいへん迷惑です。
恨ませるなら、もっと綺麗に恨ませていただきたかったものです。
数日後、ようやく文烈様から返事が届きました。
いつものように最初の一行は、
『無事だ』
でした。
はい……
そこは結構です。
その次に、
『鶏肋のことなら、帰ってから話す』
とございました。
私はしばらく文字を見つめました。
帰ってから――
そこだけ三度読みました。
鶏肋の意味など、もうどうでもよくなりかけました。
「母上、どうしました?」
肇が尋ねます。
私は書状を畳みました。
「文烈様が帰るそうです」
「撤退が決まったのですか?」
「そこまでは書いてありません」
「では、なぜ?」
「帰ってから話す、と書いてございます」
肇が何とも言えない顔をしました。
「父上は、そういうところがありますね」
「よくお分かりで」
血のつながっていない私でも分かるようになりました。
曹休という人は、余計なことを書きません。
肝心なことも時々書きません。
そしてこちらが心配していると知っていて、
『無事だ』
だけは必ず最初に置きます。
腹が立つほど簡潔で、安心するほど変わりません。
やがて、正式な知らせが届きました。
魏王様は漢中を離れ、長安へ戻られる。
その一報を聞いた時、私は最初に父上のことを考えませんでした。
「文烈様も帰るのですね?」
肇に確認すると、
「はい、父上も戻られます」
今度は「どちらの父上ですか?」とは聞きませんでした。
聞く必要がございません。
肇が言っている父上が誰なのかは、さすがに分かります。
文烈様が戻った日、私は門まで迎えに出ました。
姿を見つけた瞬間、何か嫌味を言ってやろうと思っていたのですが、顔を見たら全部どこかへ飛んでいきました。
「戻った」
「……お帰りなさいませ」
それしか出ませんでした。
文烈様は私の顔を見て、それから少し笑いました。
「鶏を用意したのか?」
私は固まりました。
「そこからですか?」
「書いてあった」
「帰ってきてくださいとも書いたはずですが?」
「帰った」
「そうですね」
腹が立ちます。
ですが、本当に帰ってきました。
寧珠と環珠も父親の姿に気づきました。
「父上!」
寧珠が駆け寄る横で、乳母に抱かれた環珠まで身を乗り出します。
「ちちうえ!」
文烈様は二人を見て、目元を緩めます。
戦場から戻った顔が、そこでようやく家の顔になりました。
私はその横顔をしばらく見てから、思い出しました。
「そうでした。鶏肋です」
「まだ気にしていたのか?」
「魏王様が一国の行方に関わるところで突然、鶏の骨を持ち出されたのです。気になります」
文烈様は少し考えてから答えました。
「鶏の肋は、捨てるには惜しい。だが、肉が少なく、食べても腹は満たされない」
「はい」
「漢中も同じだ。惜しくはある。だが、これ以上兵を置いて争い続ければ損が大きい」
私は黙りました。
なるほど。
それで鶏肋。
私はようやく納得し、同時に何とも言えない気分になりました。
「つまり……」
「何だ?」
「妙才様が亡くなられ、大勢の兵が山を越え、父上と魏王様が何か月も睨み合った末に出た答えが、鶏の骨なのですね?」
「そう言うな」
「ですが鶏の骨なのでしょう?」
「意味はある」
「鶏にもございますね」
文烈様が額を押さえました。
私は少しだけ気分が良くなりました。
やはり夫婦の会話は、顔を見てするに限ります。
「ところで文烈様」
「今度は何だ?」
「父上とは結局、お会いになりませんでしたね」
「会わなくてよかっただろう」
「ええ、たいへん結構でございます」
「なら何だ?」
「玉珠が残念がっております」
文烈様は黙りました。
さすがの文烈様も、そこには返事がないようです。
「戦場で婿が岳父へ挨拶する必要はない」
「私もそう申しました」
「玉珠殿は?」
「戦が終わってからならよいのでは、と」
文烈様はしばらく天井を見ました。
そこに答えはありません。
「……妹君は変わらないな?」
「鼻も相変わらずです」
「そちらは聞いていない」
聞かれていませんでしたね。
便利な言葉です。
その夜、私は久しぶりに文烈様と同じ屋根の下で眠りました。
魏王様は、漢中を守り切れませんでした。
妙才様も帰りませんでした。
魏王様は撤退しました。
それでも、文烈様は帰ってきました。
私には、それで十分だと思える部分がございます。
天下を取る方々には叱られるかもしれません。
ですが私は天下より、目の前の一人が帰ってくる方が大切です。
翌朝――
また肇が来ました。
文烈様が帰ってきたばかりだというのに、今度は何でしょう。
「母上」
「今日は元仲様から何を聞いてきたのです?」
肇は一瞬だけ迷ってから言いました。
「玄徳殿が、漢中を押さえたそうです」
私は黙って肇を見ました。
それから、昨日まで畳んでいた地図を開きます。
魏王様はいなくなりました。
文烈様も帰ってきました。
そして父上だけが、漢中に残っております。
玉珠の言った通りですね。
父上――
鶏肋を捨てた魏王様の後で――
あなた様は、その骨を拾って終わりにするおつもりですか?
劉玉珠です。
鶏肋の意味を、夫に教えてもらいました。
捨てるには惜しいけれど、肉が少なくて、お腹いっぱいにはならないそうです。
それなら魏王様が帰るのも分かります。
わたしも、肉のない骨ばかり渡されたら困ります。
昨日食べた鶏の骨は、もう片づけてもらいました。
「父上に送ればよかったでしょうか?」
と夫に聞いたら、しばらく黙られました。
どうしてでしょう?
そのあと鼻をほじろうとしたら、また右手をつかまれました。
鼻をほじる癖は、捨てても惜しくないそうです。
ところで姉上――
魏王様が鶏肋を捨てて、父上が漢中を拾ったのですよね?
父上は、その骨で今度は何をなさるのでしょう?




