父上、今度は魏王様を帰らせるのですか?
劉明珠でございます。
魏王様が、とうとう漢中へ入られました。
父上も漢中。
文烈様も漢中。
十一年前には父上が私から遠ざかっていきましたのに、今度は夫の方が父上へ近づいております。
家族とは、もう少し穏やかに集まるものではございませんか?
玉珠に知らせたところ、
「それなら文烈様は父上にご挨拶できるのですね」
と返ってまいりました。
できません。
戦場で婿が岳父へ挨拶する場合、おそらく首が胴から離れてしまいます。
その返事には、玉珠が鼻をほじろうとして、また夫に止められたとも書いてありました。
そちらの戦況だけは、夏侯家が優勢ですね。
そして父上――
魏王様ご本人が来られましたよ?
十一年前とは違って、今回は逃げないのですね。
ところが今度は――
魏王様の方が、帰りたくなってきたようでございます。
魏王様が、漢中へ入られました。
その知らせを聞いた時、私はしばらく地図を見つめておりました。
父上がおり、魏王様がおり、その魏王様に従って文烈様まで漢中へ入っております。
十一年前の長坂では、父上がいなくなったことに気づくまで、その背中すら見られませんでした。
それが今では、地図の上に父と夫を同時に置けるほど近くなっております。
たいへん進歩したような気もいたしますが、できれば別の形でお願いしたかったところです。
「母上」
聞き慣れた声に顔を上げると、肇が立っておりました。
最近この子を見ると、軍報に足が生えて歩いてきたような気分になります。
「今日は何でしょう?」
「まだ何も言っていません」
「あなたが元仲様のところから真っすぐ私のところへ来る日は、だいたい何かございます」
「元仲様のところで聞きました」
「ほら」
肇は少し笑ってから、地図の一点へ指を置きました。
「魏王様は陽平まで進まれたそうです」
私はその指先を見ました。
近いですね。
父上がいる場所と、魏王様がいる場所。
その魏王様の軍には文烈様がおります。
十一年前には、父上と私の距離が一瞬で開きました。
今度は父上と夫の距離が日に日に縮まっております。
歴史というものは、同じ家族を使って距離の遊びでもしているのでしょうか?
私は参加を申し込んだ覚えがございません。
「父上は?」
「どちらのですか?」
今度は肇が先に聞き返しました。
成長しましたね。
「私の方です」
「玄徳殿は、険しい場所を固めて動かないそうです」
私は瞬きをしました。
「……出てこないのですか?」
「今のところは」
思わず地図をもう一度見ました。
父上――
魏王様が来ましたよ?
十一年前、曹軍が迫った時にはあれほど急いで前へ進まれたではありませんか。
今回は魏王様ご本人まで来ているというのに、出てこない。
逃げない代わりに、戦わない。
ずいぶん器用になられましたね。
「玄徳殿は、魏王様が来てもどうにもできないと考えているらしいです」
肇が続けました。
私はしばらく黙りました。
父上――
たいへんな自信でございますね。
十一年前、娘二人を荷車へ残した頃にも、その自信を少しくらい分けていただきたかったものです。
もちろん、昔と今では状況が違うことくらい分かっております。
今の父上には益州があり、兵があり、定軍山では妙才様を破り、漢中の要地も押さえているのでしょう。
だからこそ腹が立つのです。
父上は、勝てない時には退き、有利な場所を取れば動かず、相手が苦しくなるまで待つことのできる方なのでしょう。
たいへん立派です。
娘としては、立派であればあるほど複雑でございます。
その日の夕方、文烈様から書状が届きました。
私はまず一番上を確認しました。
『無事だ』
よろしい。
そこだけは満点を差し上げます。
続きには、魏王様が漢中へ入り、父上の軍が険しい場所を固めていることが、たいへん簡潔に書かれておりました。
簡潔すぎました。
『玄徳殿は出てこない』
それだけです。
私は書状を裏返しました。
何もありません。
もう一度表へ戻しましたが、当然ながら文字は増えません。
「文烈様……」
そこにいない夫へ呼びかけました。
あなた様は十一年ぶりに私の父上と同じ戦場へ来て、それだけですか?
もちろん、
『今日は玄徳殿を見た』
などと書かれても困ります。
『挨拶をしてきた』
などと書かれた日には、私はその場で倒れるでしょう。
戦場で夫が父へ挨拶する場合、おそらく私の望んでいる形式にはなりません。
会わなくて結構です。
たいへん結構なのですが、それならあなた様は何のためにそこまで行ったのでしょう。
魏王様について行ったからですね。
分かっております。
最近、分かっていることばかり増えてまいりました。
玉珠にも知らせました。
『父上と文烈様は、かなり近くまで来ております。ただし、まだ会ってはいないようです』
返事はすぐに届きました。
『せっかく近くまで行ったのにですか?』
せっかくではありません。
『文烈様は父上にご挨拶できないのですか?』
しなくてよいのです。
『でも文烈様は姉上の夫ですよね? 父上は姉上の父上ですよね? では家族ではありませんか?』
玉珠……
その理屈は定軍山で一度痛い目を見ております。
親戚なら戦わなければよい。
家族なら挨拶すればよい。
あなたの世界では天下統一がたいへん簡単ですね。
『夫に聞いたら、戦場で敵方の父親に挨拶へ行く婿はいないと言われました』
玉珠の夫君。
今回も正しいです。
『では戦が終わってからならよいですか?』
その頃に父上と文烈様がどのような関係になっているのか、私にも分かりません。
できれば互いに生きていて、武器を持たずに会える状態であってほしいものです。
そこまで読んだところで、最後に小さく書き足されておりました。
『考えていたら鼻がむずむずしたので、ほじろうとしたら止められました』
考える場所と鼻はつながっていないと思います。
『夫は最近、わたしが右手を上げるだけで見ています』
たいへん優秀な見張りですね。
元譲様が居巣で二十六軍を預かっておられる間に、そのご子息はとうとう玉珠の初動まで読むようになりました。
夏侯家の防衛能力は着実に向上しております。
私は手紙を畳み、久しぶりに少し笑いました。
ですが漢中では、誰も笑ってはいなかったのでしょう。
魏王様が来ても、父上は険しい場所を固めたまま出てこない。
魏王様の側も、そこへ無理に攻め込めば損が大きい。
戦というものは、剣や槍をぶつけるだけではないようです。
出てこない相手を待つことも、兵を食べさせることも、遠い道を越えて荷を運ぶことも戦になる。
そして、その全部に人が要ります。
妙才様が亡くなっても終わらず、魏王様が来ても終わらず、父上が出てこないからさらに長くなる。
死者だけが止まり、生きている者は延々と動かされます。
私はその仕組みが、やはり好きではございません。
数日後、文烈様からまた書状が届きました。
『無事だ』
はい。
『玄徳殿はやはり出てこない』
またそこですか……
『長くなるかもしれない』
私はそこで手を止めました。
「長くなる?」
寧珠と環珠が、少し離れたところで乳母と遊んでおります。
二人とも、父親が家を出てからまた少し大きくなりました。
寧珠は以前よりしっかり私の袖をつかみ、環珠は気になるものを見つけるたびに声を上げます。
文烈様――
あなた様が帰るたび、娘たちは少しずつ変わっておりますよ。
戦場では一日が長く感じられるのでしょうが、家にいる幼子の一日は驚くほど早く過ぎます。
私は返書を書きました。
『長くなるのは困ります』
少し考えてから、
『父上が出てこなくても、あなた様まで意地を張る必要はございません』
と続けます。
さらに、
『帰れる時には帰ってください』
と書きました。
どうせ返事は分かっています。
案の定、しばらくして届いた書状には、
『帰る時は帰る』
とございました。
私は紙を持ったまま天井を見ました。
文烈様。
どうしてあなた様は、そういうところだけ簡単なのでしょう。
妙才様が帰れなかった今、その言葉を以前と同じように笑うことはできません。
それでも私は、
『では、その時をお待ちしております』
と返しました。
それだけでは腹が立つので、もう一行足します。
『父上まで一緒に連れて帰る必要はございません』
少し考えました。
さらに足しました。
『ただし、殺さないでください』
書いてから、自分でも何をお願いしているのか分からなくなりました。
敵将を討つためにそこへいる夫へ、私の父を殺すなと頼む。
父上には、私の夫を殺すなと頼みたい。
家族というものは、戦場へ持ち込むには不便すぎます。
それでも、その不便さを捨てるつもりはございません。
父上は父上です。
文烈様は文烈様です。
どちらか一人なら話は簡単だったのでしょう。
残念ながら、私は両方とも知っております。
春が過ぎても、漢中の知らせは続きました。
魏王様が来ても父上は出てこず、父上が出てこないから魏王様も決定的な戦へ持ち込めない。
その間にも兵は疲れ、食糧は減り、文烈様は帰ってきません。
私はとうとう地図を畳みました。
「もう見ないのですか?」
肇が尋ねます。
「見ても場所が変わりませんので」
「父上もですか?」
「どちらのです?」
今度は私が聞き返しました。
肇が笑いました。
この冗談にも慣れてきたようです。
私は畳んだ地図へ手を置きました。
父上――
十一年前は、ずいぶん早く私から遠ざかりましたね。
今回は魏王様ご本人が来ても、そこから動かれない。
逃げないのに、戦わない。
そして帰らない。
ずいぶん頑固になられました。
文烈様まで、あなた様がそこにいるせいで帰ってきません。
ですから父上――
そろそろ、どちらかにしていただけませんか?
そう思っていた矢先でした。
次に肇が持ち帰った知らせを聞いて、私はしばらく何も言えませんでした。
「魏王様が、漢中を離れることを考えておられるそうです」
私はゆっくり地図を開き直しました。
父上は動きませんでした。
その代わり――
魏王様の方が、帰ろうとしておりました。
劉玉珠です。
姉上から、魏王様が漢中を離れるかもしれないと聞きました。
それなら文烈様も帰れるのでしょうか?
「父上はどうするのでしょう?」
と夫に聞いたら、
「玄徳殿は残るだろうな」
と言われました。
では、魏王様は帰る。
文烈様も帰る。
父上だけ残る。
父上は、漢中がお好きになったのでしょうか?
姉上はずっと「寒い」と言っていたのですが……
考えているうちに鼻がむずむずしたので、そっと右手を上げました。
夫がこちらを見ました。
まだ触ってもいません。
「玉珠」
「はい」
「やめておけ」
最近、夫の方がわたしの動きを読むのが早いです。
ところで姉上――
魏王様が本当に帰られたら、父上は漢中で何をなさるのでしょう?




