↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
55/66

父上、今度は私の夫まで近づいておりますが?

劉明珠でございます。


妙才様は帰れませんでしたが、置き去りにはされませんでした。

益徳叔父上の奥方様が、お弔いを願い出られたそうです。


玉珠に知らせると、 「それなら妙才様は、ちゃんと帰れたのですか?」 と返ってまいりました。

難しいことを簡単に聞く妹ですね……


その後、 「安心したので鼻をほじっていたら夫に止められました」 とも書いてありましたので、やはり玉珠でした。


そんな中、魏王様まで長安から南へ動かれるそうです。

もちろん文烈様も一緒です。


父上――

十一年前は、あなた様が私から遠ざかりました。

今度は、私の夫があなた様へ近づいております。


どうして我が家は、地図を広げるたびに家族の距離がおかしくなるのでしょう?

妙才様は、帰れませんでした。

けれど、置き去りにはされなかったそうです。

その知らせを聞いた時、私はしばらく意味が分かりませんでした。

定軍山で討たれた方が、どうして置き去りにならずに済んだのか?

戦場というものは、死んだ者にまで親切な場所ではございません。

知らせを持ってきた肇は、私が黙っているのを見てから、少しだけ言葉を選びました。

「益徳叔父上の奥方様が、妙才殿を葬ることを願い出られたそうです」

私は机の上に広げたままだった家系図へ目を落としました。

昨日まで、そこに引いた線を見ながら「何をなさっているのでしょう、皆様」と呆れていたのです。

父上の陣営には益徳叔父上がおり、その奥方様は夏侯家の方で、妙才様はその奥方様の族父にあたる。

玉珠も夏侯家へ嫁いでおりますので、我が家から見ると敵味方を分ける線より婚姻の線の方がよほど複雑です。

そして、そのややこしい線が一つだけ役に立ちました。

戦を止めることはできませんでした。

死んだ方を、放っておかないことはできたようです。

「……そうですか」

それしか言えませんでした。

肇がこちらを見ています。

「母上、玉珠叔母上には?」

「まだ知らせておりません」

「なぜです?」

「書けなかったからです」

たいへん簡単な理由です。

妙才様が亡くなったことを書けば、その次には父上の軍が討ったと書かなければならないような気がいたしました。

さらに益徳叔父上の奥方様にとって族父であることまで続ければ、手紙ではなく家系図の事故報告になってしまいます。

ですが、もう書かないわけにもまいりません。

私は筆を取りました。

『玉珠、妙才様は益徳叔父上の奥方様が葬ることを願い出られたそうです』

そこまで書いて、少し考えます。

昨日まで書けなかった一文字目が、今日は妙に簡単に出ました。

人とは勝手なものですね。

続きを書き、使いの者へ渡しました。

返事は思ったより早く届きました。

『姉上、それなら妙才様はちゃんと帰れたのですか?』

私は手紙を持ったまま止まりました。

玉珠……

難しいことを、簡単な言葉で聞かないでください。

妙才様は生きて家へ帰ったわけではありません。

ですが、戦場に捨て置かれたわけでもない。

ご親族の手で弔われたのなら、それを「帰れた」と呼んでもよいのでしょうか?

私には分かりません。

『でも、ひとりではないのですね』

その次の一文を読んで、私は少しだけ肩の力を抜きました。

そうですね。

少なくとも、お一人にはならなかったようです。

そこで終われば、たいへん良い手紙でございました。

『安心したので鼻をほじっていたら、夫に止められました』

どうして最後まで我慢できないのでしょう?

『妙才様のお弔いの話をしている時くらいやめなさい、と言われました』

夫君……

たいへん正しいご判断です。

『なので終わってからにします』

違います……

そこではありません。

私は返事を書こうとして、やめました。

玉珠の鼻と戦っている夏侯家のご子息には、もう私から申し上げることはございません。

どうか勝ってください。

少なくとも、その戦だけは……

妙才様を失ったあとも、漢中の戦は終わりませんでした。

むしろ、こちらの家へ届く知らせは増えていきます。

妙才様が討たれた後、魏軍では張儁乂殿が兵をまとめたそうです。

大将を失えば、その場ですべてが崩れるものだと思っておりましたが、戦場はそこまで親切にはできていないようです。

一人が帰れなくなっても、残った者には次の日が来ます。

兵は腹を空かせますし、守る場所は残りますし、敵は待ってくれません。

死者だけが止まり、生きている者は動かされ続ける。

私はその仕組みが、あまり好きではございません。

その頃、文烈様からも書状が届きました。

『無事だ』

まず最初にそれが書いてありました。

そこだけは、よくお分かりですね。

『妙才殿の件はこちらにも届いた』

そこから先は短く、魏王様の軍が動く気配があることだけが記されておりました。

私は読み終えると、書状を裏返しました。

それからもう一度、表へ戻してみました。

文字は増えません。

夫からの手紙というものは、どうしてこちらが知りたい部分ほど短いのでしょう。

「母上」

また肇です。

最近、この子の「母上」という呼び声を聞くたびに、心臓が一度だけ余計に働くようになりました。

「今日は何でしょう?」

「まだ何も言っていません」

「あなたが何もない日に、その顔で私のところへ来たことがございましたか?」

肇は少し考えました。

「ありません」

素直ですね。

文烈様の息子だと思います。

「魏王様が動かれるそうです」

私は持っていた書状を机へ置きました。

「どちらへ?」

聞きたくありませんが、聞かない方がもっと怖いので尋ねます。

肇は地図の方を見ましたので、私は先に申し上げました。

「天井を見ても元仲様はおりませんが、地図を見れば漢中はございますよ」

「まだ何も言っていません」

「言わなくても分かります」

この家では、答えない男と、答える前から分かる息子ばかり増えていきます。

肇は苦笑してから、指で長安を示しました。

「魏王様は長安から南へ向かわれるそうです」

そこから指が下がります。

止まった先は、私が見飽きるほど眺めた場所でした。

漢中――

私は目を閉じました。

父上――

今度は魏王様まで呼び寄せたのですか……

もちろん、父上が招待状を出したわけではございません。

妙才様が討たれ、漢中が危うくなった以上、魏王様が自ら動くのは当然なのでしょう。

分かっております。

分かっているから腹が立つのです。

「父上も一緒です」

肇が付け加えました。

「どちらの父上です?」

思わず聞き返してしまいました。

肇が珍しく言葉に詰まります。

我ながら、この家では致命的な質問でした。

私にとっての父上は、漢中で待っている方。

肇にとっての父上は、魏王様について南へ向かう文烈様です。

「……俺の父上です」

「そうでしょうね」

私の父上が魏王様について南へ進み始めたら、さすがに私も驚きます。

笑っている場合ではないのですが、少しだけ笑ってしまいました。

それから私は、地図の上へ手を置きました。

父上は漢中にいて、魏王様が長安から南へ向かい、文烈様は魏王様に従う。

つまり夫は、これまで「父上のいる方角へ向かっている」だけだったのに、今度は本当に父上の近くへ行くことになります。

「……近いですね」

「何がです?」

「いろいろです」

敵と味方、父と夫、過去と現在。

長坂で私を置いていった方と、その後の私が帰りを待つようになった方が、同じ地図の上で近づいております。

私はその晩、文烈様への返書を書きました。

『無事とのこと、承知いたしました』

少し考えて、続けます。

『妙才様のことも聞きました。益徳叔父上の奥方様が、お弔いを願い出られたそうです』

さらに筆を進めました。

『玉珠は、妙才様がちゃんと帰れたのかと申しております』

ここで手が止まりました。

文烈様なら、何と答えるでしょう?

帰れた、と言うでしょうか?

あの方はいつも「帰ればいい」と簡単に申します。

ですが今回はもう、その言葉を妙才様へ使うことはできません。

私は少し考えてから、最後に一行だけ加えました。

『あなた様は、生きて帰ってきてください』

妙才様の分まで、とは書きませんでした。

死んだ方の分まで生きろなどと、簡単に背負わせたくはございません。

文烈様は、文烈様の命で帰ってくればよいのです。

翌朝、その手紙を送り出しました。

すると昼過ぎに、また肇が王府から戻ってまいりました。

「母上」

「今度は何でしょう?」

「魏王様は、本当に漢中へ向かわれるそうです」

「先ほど聞きました」

「元仲様が、父上も従うと」

「それも聞きました」

「それから――」

まだあるのですか?

私は額へ手を当てました。

「玄徳殿は、魏王様が来ても問題ないと考えているらしい、と」

私はゆっくり顔を上げました。

「……父上が?」

「はい」

妙才様を討ち、魏王様本人が軍を率いて南へ向かっているというのに、父上は退く気がないらしい。

十一年前、曹軍が迫った時には、あれほど速く前へ進まれた方が……

私は地図を見ました。

そこには漢中があり、父上がおり、南へ進む魏王様がおり、その軍の中には文烈様がおります。

父上――

今回は、珍しく逃げませんね。

たいへん結構なことでございます。

娘としては、一度くらいその粘り強さを長坂で拝見したかったものですが?

けれど今は、それどころではありません。

魏王様が南へ進みます。

文烈様も一緒です。

そして、その先で待っているのは父上です。

長坂から十一年。

置いていかれた娘の父と、その娘が帰りを待つ夫が――

とうとう、同じ戦場へ近づいておりました。

劉玉珠です。


魏王様が漢中へ向かわれ、文烈様も一緒だそうです。

姉上から、 「父上と文烈様が近づいております」 と聞きました。

それなら会えばよいのではないでしょうか?


そう夫に申しましたら、たいへん嫌な顔をされました。

「会う、の意味が違う」

戦とは難しいですね。

わたしなら、会ったらまず挨拶をします。


そのあと鼻をほじろうとしたら、夫に止められました。

こちらも会うたび同じことをされます。


ところで姉上――

父上と文烈様が本当に会ったら、どちらが先に「帰ればいい」と言うのでしょうか?

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。