父上、親戚なら戦わなくてもよいのでは?
劉明珠でございます。
父上が陽平から動かれました。
帰るのかと思っていましたが違いました。
定軍山へ行かれるようです。
父上――
どうしてあなた様は、私が期待した方向と反対へ進むのがお上手なのでしょう?
しかも、その先におられるのは夏侯妙才様です。
玉珠に知らせましたところ、 「益徳叔父上の奥方様のご親族なら、父上とも親戚ではないのですか?」 と返ってまいりました。
さらに、 「親戚なら戦わなければよいと思います」 とも。
珍しく反論できません。
その直後に鼻をほじっていたそうなので、たいへん惜しい妹ではございますが……
けれど父上――
今回は、その玉珠の正論を笑って済ませられなくなりそうです。
定軍山は――
ずいぶん寒くなってまいりました。
父上が陽平から動かれた――
その知らせを受け取った時、私は少しだけ安心しました。
ようやく漢中の寒さに耐えかねて帰る気になったのでしょうか?
そう考えた私が愚かでした。
父上は帰るどころか、沔水を南へ渡り、山沿いに進んで定軍山へ陣を構えたそうです。
「……なぜ、そちらへ行くのですか?」
地図へ尋ねても答えは返ってまいりません。
分かっております。
漢中を取りたいからでしょう。
たいへん分かりやすい理由です。
ですが私は、父上が動いたと聞くたびに、まず「帰る」という可能性を考えてしまいます。
十年前からの悪い癖でございますね。
当然ながら、夏侯妙才様も黙って見てはおられませんでした。
父上が定軍山へ陣を移したことで、今度は妙才様がその地を争うために兵を率いて向かわれたそうです。
私はまた地図を広げました。
最近、この家では地図の減りが早いような気がいたします。
紙そのものは減りませんので、正しくは私の心がすり減っているのでしょう。
そこへ肇がやってきて、私の横から地図を覗き込みました。
「母上、また漢中ですか?」
「また漢中です」
「元仲様のところにも新しい知らせが来ていました」
「あなたはもう王府に住んだ方がよろしいのでは?」
「父上にも同じことを言われました」
文烈様……
あなた様まで諦めないでください。
肇は気にする様子もなく指を伸ばし、定軍山のあたりを示しました。
「玄徳殿がここへ移ったそうです」
「存じております」
「妙才殿も出たそうです」
その名前を聞いて、私は地図の上で指を止めました。
前の知らせでも、なぜか妙に目についたお名前です。
夏侯妙才様。
元譲様と同じ夏侯家の方であり、漢中を守る将でもあります。
それだけなら、まだ軍報に出てくるお名前の一つで済んだのかもしれません。
ところが我が家では、家系図を少し広げただけで軍報が家庭の事情へ変わります。
私は新しい紙を一枚取り出し、筆を持ちました。
「母上、何を?」
「確認です」
「何のですか?」
「誰と誰が、どのようにややこしいのかです」
肇は黙りました。
賢い子です。
母親がこの顔をしている時には、余計なことを言わない方がよいと学んでおります。
まず妙才様は夏侯家の方で、玉珠も今では夏侯家へ嫁いでおります。
ここまでは分かります。
問題は、その先です。
益徳叔父上の奥方様も夏侯家の方で、その奥方様にとって妙才様は族父にあたります。
つまり益徳叔父上は、夏侯家の娘を奥方になさりながら、その奥方様の身内が守る漢中を父上と一緒に攻めているわけです。
私は筆を置きました。
「……何をなさっているのでしょう、皆様?」
肇が首を傾げました。
「戦では?」
「それは見れば分かります」
私が知りたいのは、なぜ家系図を広げるたびに敵と味方の線が絡まっていくのかということです。
益徳叔父上は夏侯家から奥方を迎え、玉珠は劉家から夏侯家へ嫁ぎました。
ここだけ聞けば、両家はたいへん仲がよさそうですね。
実際には現在、山を挟んで殺し合っております。
婚姻とは何なのでしょう?
少なくとも、戦を止めるほど便利なものではないようです。
私はその日のうちに玉珠へ書き送りました。
妙才様が定軍山で父上と向かい合っていることと、あの方が益徳叔父上の奥方様の族父にあたることを知らせます。
返事は二日ほどして届きました。
『姉上、それはおかしくありませんか?』
何がでしょう?
『益徳叔父上の奥方様のご親族なら、父上とも親戚のようなものではないのですか?』
玉珠……
天下はあなたほど簡単にはできておりません。
『親戚なら戦わなければよいと思います』
正論です。
たいへん腹立たしいことに、今回も正論です。
『夫にもそう言いました。すると、父上にそれを言ってみろと言われました』
玉珠の夫君。
妻を義父へ差し出さないでください。
『義父上はまだ帰っていないので、帰ってきたら言います』
やめてください……
元譲様は居巣で二十六軍を預かっておられるのです。
ようやく家へ戻ったところで、嫁から「親戚なら戦わなければよいのでは?」と天下太平の答えを突きつけられる未来まで背負わせる必要はございません。
しかも手紙には続きがございました。
『ところで姉上、妙才様は鼻をほじりますか?』
知りません……
なぜ今、その疑問が出たのですか?
『夏侯家の方なので』
夏侯家を何だと思っているのでしょう。
『夫はほじりません。義父上も、たぶんほじりません』
たぶんを付けないでください。
『では妙才様も大丈夫ですね』
何が大丈夫なのですか?
私はそこで手紙を畳みました。
玉珠と文通をしておりますと、天下の大乱が少しだけどうでもよくなる瞬間がございます。
ありがたいのか、頭が痛いのかは分かりません。
けれど、その晩から届く知らせは、笑って読めるものではなくなっていきました。
父上は定軍山に陣を置き、妙才様はそれを争うために出られました。
父上の側には法孝直殿がおり、さらに黄漢升殿もおります。
黄漢升殿は、父上が益州へ入ってから戦功を重ね、戦場で名を上げてきた将だと聞いております。
どうやら、こちらが「少し休んではいかがでしょう?」と申し上げても素直に座ってくださるような方ではなさそうです。
父上――
どうしてあなた様の周囲には、落ち着いてお茶を飲んでくださる方が少ないのでしょう?
益徳叔父上だけでも十分でございます。
ところが当然、戦は私の都合など聞いてくれません。
その夜、父上の軍が魏軍の守りを崩しにかかったとの知らせが入りました。
妙才様は儁乂殿に東側を任せ、ご自身は南側を守っておられたそうです。
やがて儁乂殿の軍が苦しくなると、妙才様は自分の兵を割いて、そちらへ助けを送られたと聞きました。
私はその話を読んだところで、嫌なものを感じました。
妙才様は漢中を守る大将です。
その方が、苦戦している味方へ自分の兵を回した。
将としては当然だったのでしょう。
助けられる者を助ける。
言葉にすれば、たいへん立派です。
私は立派な話が嫌いになったわけではございません。
ただ、立派な話のあとには、帰れない人が増えることがございます。
それを知っているだけです。
文烈様から届いた短い書状にも、妙才様のお名前がありました。
魏王様はまだ長安におられ、文烈様もその軍に従っております。
定軍山までは遠く、いくら地図を睨んだところで私にできることはありません。
私は書状を手にしたまま、寧珠と環珠の眠る部屋へ行きました。
二人とも何も知らずに眠っております。
父親が西にいることも、そのさらに先で祖父が戦っていることも、その祖父の軍が叔父の妻の身内と殺し合っていることも知りません。
知らなくてよいと思いました。
そもそも、この家系図を一歳そこそこの娘に説明できる自信は私にもございません。
大人の私ですら、時々分からなくなりますので……
翌朝、肇がいつもより早く戻ってきました。
元仲様のところへ行ったはずなのに、まだ昼にもなっておりません。
私はその顔を見た瞬間、昨日までの笑いが消えました。
「母上」
「……何でしょう?」
肇はすぐには答えませんでした。
この子が軍の話を持ち帰ってきて、言葉を選ぶことなど滅多にございません。
嫌な予感というものは、当たってほしくない時ほど礼儀正しく玄関から入ってくるものですね。
「定軍山で、戦がありました」
私は続きを待ちました。
父上の軍が動き、黄漢升殿が兵を率いて魏軍へ攻めかかった。
鼓の音が山に響き、戦いは激しくなり、そのまま妙才様の軍へ襲いかかったそうです。
そこまで話したところで、肇が口を閉じました。
「肇」
「はい」
「最後まで申してください」
私が促すと、あの子は一度だけ息を吸いました。
「妙才殿が、討たれたそうです」
部屋が静かになりました。
昨日まで地図の上にあったお名前です。
元譲様のご一族であり、玉珠が嫁いだ夏侯家の方であり、益徳叔父上の奥方様にとっては族父でもある。
父上の前に立っていたその方が、今はもう帰れない人になってしまいました。
私は机の上に置いたままの玉珠の手紙へ目を向けました。
『親戚なら戦わなければよいと思います』
本当に……
どうして、そんな簡単なことができないのでしょう?
けれど天下は、玉珠ほど単純にはできておりません。
父上は漢中を取ろうとし、妙才様はそれを守らなければならなかった。
二人とも無事に帰るためには、どちらかが諦めるしかなかったのでしょう。
けれど、誰も諦めませんでした。
だから、一人が帰れなくなりました。
私は筆を取り、玉珠へ知らせようとしました。
けれど、書き出しの一文字がなかなか決まりません。
妙才様が亡くなられました。
それだけなら簡単です。
父上の軍が討ちました。
それも事実です。
益徳叔父上の奥方様の族父が、父上の漢中を取るための戦で亡くなられました。
書こうとするほど、家系図の線が別のものへ変わっていく気がしました。
今までは婚姻でつながっていた線です。
誰かが誰かの娘を娶り、誰かが別の家へ嫁ぎ、それでも互いの家が続いていくための線だったはずです。
それなのに今は、その線の途中に定軍山がございます。
私はしばらく筆を持ったまま座っていましたが、結局、一文字も書けないまま、玉珠へ知らせることもできませんでした。
父上――
漢中は、やはり寒うございますね。
とうとう一人――
帰れなくなりました。
劉玉珠です。
妙才様が亡くなられたと、夫から聞きました。
わたしが黙っておりますと、夫も黙っておりましたので、しばらく二人で何も申せませんでした。
こういう時、何をすればよいのでしょう?
いつものように鼻へ指を伸ばしたら、夫に手首をつかまれました。
「今はやめておけ……」
今は、なのですね。
では後ならよいのでしょうか?
聞こうと思いましたが、夫の顔を見てやめました。
わたしにも、それくらいは分かります。
それより気になることがございます。
益徳叔父上の奥方様にとって、妙才様は大切なご親族です。
父上の陣営にいながら、その死を聞くことになるのですね。
姉上――
奥方様は、妙才様をちゃんとお見送りできるのでしょうか?




