益徳叔父上、声が大きすぎて策が聞こえておりますが?
劉明珠でございます。
益徳叔父上は固山で、こちらの後ろを断つと盛大に知らせてくださったそうです。
文烈様は笑いました。
本当に塞ぐつもりなら、黙ってやるだろう、と。
言われてみれば、益徳叔父上は昔から声の大きな方でした。
玉珠に知らせましたら、 「では、見なくても分かりますね」 と申しました。
少し正しいのが腹立たしいですね……
ところが、文烈様が見ていたのは呉蘭殿でした。
そのうえ元譲様まで、いつの間にか居巣で二十六軍を預かっておられたそうです。
玉珠も私も知りませんでした。
魏王様――
人の夫や義父を遠くへ送るなら、せめて奥方にも場所くらい教えていただけませんか?
そして西では――
とうとう父上ご本人まで、漢中の寒さへ入ってこられました。
文烈様が見ていたのは、益徳叔父上ではありませんでした。
呉蘭殿です。
軍報の続きを読んだ私は、しばらく紙を見つめました。
益徳叔父上が固山に入り、こちらの後ろを断つと声を上げている。
子廉様の軍では、それをどう防ぐかで意見が割れている。
そこまでは分かります。
帰り道を塞がれるのですから、心配するのが普通でしょう。
ところが文烈様は、
「本当に道を断つつもりなら、黙ってやる」
と申したそうです。
私はもう一度、紙を読みました。
その下には、さらに続きます。
『伏兵を置いて密かに動くべきところを、あれほど声を上げている。益徳殿は、こちらに自分を見せたいのだろう』
なるほど。
言われてみれば、たいへん益徳叔父上らしい話でした。
あの方は昔から声が大きいのです。
笑えば離れた部屋まで聞こえます。
怒ればもっと聞こえます。
酒を飲めば、聞きたくなくても聞こえます。
子供の頃の私は、益徳叔父上が家のどこにいるのか、探したことがほとんどございません。
耳が教えてくれましたので……
その益徳叔父上が山の上から、
「後ろを断つぞ」
と大きく知らせてくださっている。
文烈様は、それを聞いて笑った。
夫が私の叔父上の扱いに慣れているようで、少々複雑です。
会った回数なら、私の方がずっと多いはずなのですが……
「つまり、益徳叔父上は囮ということですか……」
誰もいない部屋で呟き、地図へ目を落としました。
固山には益徳叔父上。
下弁には呉蘭殿。
馬孟起殿も動いております。
文烈様が見ているのは、山の上で声を上げている益徳叔父上ではなく、下弁にいる呉蘭殿。
軍報には、文烈様の言葉がもう一つ記されていました。
呉蘭の軍がまだまとまり切らぬうちに攻める。
呉蘭を破れば、張飛も退く。
私はその部分を三度読みました。
夫はたいへん簡単そうに書いております。
呉蘭殿を破ればよい。
すると益徳叔父上も帰る。
まるで庭に入り込んだ犬を一匹追えば、その後ろにいた犬まで帰るような言い方です。
相手は父上の軍なのですが。
私は以前、文烈様に「帰ってこい」と申しました。
この方は、
「それなら簡単だ。帰ればいい」
と答えました。
どうやら文烈様にとっては、戦場でも同じらしいのです。
敵を一人破れば、もう一人は帰る。
自分も帰る。
皆様、帰宅をたいへん簡単に考えておられませんか?
玉珠へ文を送りました。
『文烈様は、益徳叔父上ではなく呉蘭殿を見ていたようです』
返事は早く来ました。
『姉上、益徳叔父上は見なくても分かるくらい大きいのですか?』
違います。
身体の話ではございません。
益徳叔父上はたしかに大柄な方ですが、今回はそういう話ではありません。
続いて、
『では、声が大きいから見なくても分かるのですね』
そちらは少し合っています。
認めたくありません。
さらに文は続いておりました。
『益徳叔父上の奥方様も、叔父上の声をうるさいと思っておられたのでしょうか?』
知りません。
ご本人へお尋ねください。
いえ、やはりお尋ねにならないでください。
玉珠なら本当に聞きます。
『義父上にも聞こうと思ったのですが、おられませんでした』
私はそこで目を止めました。
おられない?
元譲様が軍務で家を空けること自体は珍しくありません。
ですが、玉珠の文は続きます。
『夫に聞いたら、父上は軍のお仕事だと言いました』
それは私でも分かります。
『どこへ行ったのか聞いたら、詳しいことは知らなくていいと言われました』
私は文を一度置きました。
夏侯家の嫁である玉珠にも知らせないのでしたら、曹休家の奥方である私へ連絡が来るはずもございません。
天下の男たちは、家を出る時に「軍務だ」とさえ言えば、妻や娘が地図のどこを探せばよいかまで伝えなくても構わないと思っているのでしょうか?
たいへん便利な仕組みですね。
『それから鼻がかゆくなったので、ほじろうとしたら夫に止められました』
そこだけは所在不明でも通常通りでした。
夏侯家の守りは今日も堅うございます。
西では戦が始まりました。
文烈様の読みを、子廉様は採られたそうです。
表向きは子廉様が主将ですが、魏王様が文烈様をつけた意味を、子廉様もよく分かっておられたのでしょう。
私はそれを誇らしく思います。
本当に……
夫が認められるのは嬉しいのです。
嬉しいのですが、その結果として夫が父上の軍を叩く側で才を発揮することについて、妻としてどのような顔をすれば正解なのでしょう?
鏡を見ても分かりませんでした。
とりあえず笑ってみましたが、怖くなったのでやめました。
数日後、呉蘭殿の軍が破られたという知らせが届きました。
文烈様の読み通りでした。
こちらが呉蘭殿へ攻めかかると、固山にいた益徳叔父上は退いたそうです。
私はそこで軍報を閉じました。
益徳叔父上――
帰られましたか。
安心いたしました。
夫の敵として申し上げれば、帰っていただいて結構です。
姪として申し上げても、生きて帰っていただけたなら結構です。
私はもう、家族の誰かが戦場から帰らない話を美しく語る趣味はございません。
勝った負けたより、帰れる者は帰ればよいのです。
玉珠が正しかったことが、たいへん腹立たしいですが……
その日の夕方、文烈様からも短い文が届きました。
『無事だ』
まずそこを読みました。
次に、
『呉蘭を破った』
とあります。
そして、
『益徳は退いた』
私はそこまで読んで、ようやく息を吐きました。
最後には、
『近く戻る』
と書かれております。
近く戻る――
このところ、この言葉ばかり待っている気がします。
帰ってきたら、もう少し家にいてください。
少なくとも、荷を解いた三日後にまた詰めるのはお断りいたします。
その晩、肇が元仲様のところから帰ってきました。
「母上」
「何でしょう?」
「父上が勝ったそうですね」
「そのようです」
肇は嬉しそうでした。
纂も横から、
「益徳殿は?」
と尋ねます。
私は一瞬、答えに迷いました。
子供たちにとって張飛益徳は、母親の叔父です。
父親の敵です。
人間関係というものは、家の中へ持ち込むと急に面倒になります。
「退かれたそうです」
「母上は嬉しい?」
肇に聞かれました。
「何がです?」
「父上が勝ったこと」
「もちろんです」
「益徳殿が無事だったことは?」
子供は時々、大人が避けている場所を迷わず踏みます。
私は少し考えました。
「それも、嬉しいですよ」
肇は納得したように頷きました。
纂も頷きます。
それでよいのでしょう。
どちらか一方が死ななければ喜んではいけないなど、誰が決めたのでしょうか?
英雄の物語を書く方には都合が悪いかもしれませんが、家族というものは敵味方ほど綺麗には分かれません。
「そういえば母上」
肇が何でもないように続けました。
嫌な言葉です。
この子の「そういえば」は、最近ほとんど王府から流れてくる軍報と同じ意味になっております。
「元譲様は、まだ居巣におられるそうです。二十六軍を預かっておられるとか」
私は肇を見ました。
「……どちらに?」
「居巣です」
「二十六軍?」
「はい」
今度は文烈様がいないので、天井を見る相手がおりません。
仕方なく私が見ました。
やはり元仲様はいません。
「元譲様は、いつから居巣に?」
「孫権との戦のあとからだと思います」
知りませんでした。
玉珠も知りません。
おそらく元譲様の奥方も、軍の細かい配置まで逐一知らされてはいないのでしょう。
玉珠は義父上が「軍のお仕事」に行ったと思っている。
私は元譲様ならそのうち戻るだろうと思っていた。
その元譲様は、いつの間にか揚州で二十六軍を預かっておられたそうです。
ずいぶん大きなお仕事ですね。
魏王様は、文烈様だけでは飽き足らず、元譲様まで家へ返しておられなかったのですね。
そこへ玉珠から、また文が届きました。
『姉上、益徳叔父上も文烈様も帰るなら、わたしの言った通りですね』
悔しい……
『義父上にも言おうと思いましたが、まだ帰っておりません』
ええ、いま知りました。
『夫は、父上はお仕事だから仕方ないと言います』
たいへん立派な息子ですね。
『でも、どこにいるのでしょう?』
揚州です。
あなたの姉も先ほど知りました。
『嬉しかったので鼻をほじったら、また手を叩かれました』
そこだけは距離に関係なく守られております。
元譲様、ご安心ください。
あなた様が揚州にいても、鼻の守備は崩れておりません。
やがて文烈様は帰ってまいりました。
今度は本当に帰ってきました。
寧珠と環珠が真っ先に飛びつき、纂がその後ろを走り、肇も珍しく元仲様のところへ行かずに待っていました。
私は一番最後です。
「ただいま」
文烈様が笑いました。
「お帰りなさいませ」
「帰ったぞ」
「見れば分かります」
「嬉しくないのか?」
「たいへん嬉しゅうございます」
「顔が怖い」
「元譲様が居巣におられることをご存じでしたか?」
文烈様の顔が止まりました。
「……知っていた」
「そうですか」
「聞かれなかった」
たいへん便利な言葉ですね。
私はその言葉を心の中へ大切にしまっておきました。
いつか使わせていただきます。
「それより荷を見ております」
文烈様が振り返りました。
従者たちが、また大量の荷を運び込んでおります。
私は腕を組みました。
「今度こそ、しばらく解いたままにしておきたいのですが……」
「どうだろうな?」
その答えも気に入りません。
「文烈様」
「俺に言うな。魏王様に言え」
それはもっと気に入りません。
ですが、その夜だけは、家族全員が家におりました。
元譲様は揚州ですが……
玉珠は夏侯家ですが……
それでも私の家には夫が帰ってきた。
それで十分だと思うことにしました。
翌朝までは……
朝早く、肇が元仲様のところから戻ってきました。
戻ってきたということは、夜明け前から行っていたのでしょうか?
もう問いません。
この子について考えると、私まで天井を見たくなります。
「母上」
肇が息を整えながら申しました。
「今度は何でしょう?」
「西の話です」
私は嫌な予感がしました。
文烈様も顔を上げます。
「誰が動いた?」
肇は答えました。
「玄徳殿ご自身も、漢中へ進んでおられるそうです」
部屋が静かになりました。
益徳叔父上ではありません。
馬孟起殿でも、呉蘭殿でもありません。
父上――
ようやくです。
益徳叔父上たちだけを寄越して、ご自分はまだ後ろにおられるのだと思っておりました。
違ったようです。
漢中の寒さに耐えかねた父上は――
とうとう、ご自分でも寒さの中へ入ってこられました。
劉玉珠です。
益徳叔父上も文烈様も帰ったそうです。
やはり、二人とも帰ればよかったのですね。
義父上にもそう申し上げようと思ったのですが、おりませんでした。
夫に聞いても、 「父上は軍のお仕事だ」 としか教えてくれません。
あとで姉上から、義父上は居巣で二十六軍を預かっていると聞きました。
二十六もあるのですか?
義父上は一人なのに、大変ですね。
心配になったので鼻をほじっていたら、夫に手を叩かれました。
義父上が遠くても、こちらの守りは変わらないようです。
そして今度は、父上ご本人が漢中へ来ているそうです。
姉上は「とうとう来た」と申しました。
父上――
そんなに寒いなら、帰った方がよいのではありませんか?




