魏王様、王になった翌日にもう南ですか?
劉明珠でございます。
玉珠が「王になれば、もう戦わなくてよいのですか?」と尋ねた、その日のうちに答えが届きました。
文烈様は南へ行くそうです。
漢中から戻った荷を、ようやく片づけたところでございました。
魏王様には、もう少し新しいお椅子を楽しんでいただきたかったのですが、王というものは座るためになるものではないようです。
玉珠は「南なら暖かいので安心ですね」と申しております。
戦へ行くのでございます。
避寒ではございません。
しかも元譲様まで留守になると知り、鼻をほじる好機だと思ったそうです。
夏侯家の前途も心配ですが、まずは夫を南から返していただきましょう。
ところが南が静かになれば、今度は西から懐かしい名前が聞こえてまいります。
父上――
どうやら、寒さが限界のようでございますね?
玉珠の問いへの答えは、その日のうちに届きました。
王になっても戦わなくてよいわけではないそうです。
むしろ魏王様の場合、王になったばかりだというのに、南へ戦いに行く準備を始められました。
たいへんお元気で何よりでございます。
巻き込まれる家族の側から申し上げれば、少し座っていていただきたいところですが……
「いつ出るのですか?」
魏王府から届いた文を置き、文烈様は私の顔を見ました。
「まだ日は決まっていない。だが、支度はしておけとのことだ」
「漢中からお戻りになった荷を、ようやく片づけたところなのですが……」
「また出せばいい」
男の方は簡単におっしゃいます。
着物も勝手に畳まれ、馬の具も自分で磨かれ、干した薬草は袋へ飛び込み、寝具は「南へ参ります」と歩いて荷車へ乗るのでしょう。
そうであれば、私はたいへん楽でございます。
もちろん、そのようなことは起こりません。
その夜から曹休家の奥は、再び出征前の家になりました。
寧珠と環珠を寝かせたあと、私は必要なものを広げます。
冬とはいえ南へ向かうので、漢中へ送り出した時とは中身が違います。
湿り気を考え、替えの衣を増やし、薬も選び直し、文烈様が「そこまで要らぬ」と申すものを追加します。
夫というものは、出征のたびに自分だけは怪我も病もせず帰ってこられると思っているようです。
たいへん不思議な生き物でございます。
「明珠」
「何でしょう?」
「増えていないか?」
「何がでしょう?」
「荷だ」
「気のせいでございます」
文烈様は黙って袋を持ち上げました。
「重いぞ?」
「南ですから」
「南と重さに何の関係がある?」
「妻の心配の重さでございます」
文烈様が私を見ました。
少し困ったようなお顔をなさるところを見ると、言い返しにくかったのでしょう。
勝ちました。
夫婦の勝敗ほど天下の行方に影響しないものもございませんが、私は大切にしております。
その足元へ、いつの間にか纂が来ていました。
「父上、また行くのですか?」
「そうらしい」
文烈様が答えると、纂は少し口を尖らせました。
肇ならここで何か言うかと思いましたが、肝心の本人がおりません。
「肇は?」
「元仲様のところです」
私が答えると、文烈様は天井を見ました。
最近、夫は肇の話になると上を見る癖がつきました。
答えが天井に書かれているわけではございません。
「今日もか?」
「今日もです」
「昨日も行ったな」
「一昨日もです」
「もうあちらで飯を食わせてもらえばいい」
「おそらく食べております」
文烈様はしばらく何も言いませんでした。
親というものは、子供が家にいれば静かにしろと申しますのに、いなくなると寂しがります。
勝手なものですね。
私が笑っておりますと、文烈様がこちらを見ました。
「お前も同じだぞ」
「何がです?」
「俺が家にいれば、濡れた履物をそこへ置くな、鎧を奥まで持ち込むな、寝台で軍報を読むなと言う」
「どれも当然の注意でございます」
「いなくなると不満そうな顔をする」
私は手を止めました。
嫌なところを突かれました。
夫婦になりますと、相手がこちらの弱い場所まで覚えるので困ります。
「……別に、不満ではございません」
「そうか?」
「ただ、家が広くなるだけです」
文烈様は何も申さず、私の手から荷袋を取り上げました。
そして、また一つ中身を減らそうとしましたので取り返しました。
感動というものは長く続きません。
翌朝、肇が帰ってきました。
朝帰りと言ってよいのでしょうか?
相手は元仲様ですので、妙な意味ではございません。
「父上、南へ行かれるのですか?」
「耳が早いな」
「元仲様のところで聞きました」
もう情報まであちらから持って帰ってくるようになりました。
元仲様のところへ通わせているつもりはございませんが、気づけば曹休家に王府の早耳が一人できております。
子供の交友というものは、親の知らないところで妙な役に立つものですね。
「肇」
「はい」
「父上が留守の間、纂と妹たちを頼みます」
私が言うと、肇は真面目なお顔で頷きました。
その隣で纂が、
「兄上は元仲様のところへ行くでしょう?」
と申しました。
「行きます」
否定しませんでした。
たいへん正直です。
「では、行く前に妹たちの顔を見てください」
「はい」
曹休家の跡取りが毎日よその家へ通うので、とうとう私が帰宅予定を確認するようになりました。
これも魏王様ご即位の御利益でしょうか?
たぶん違います。
昼過ぎには玉珠から文が届きました。
嫌な予感がしました。
玉珠からの文で良い予感がしたことは、あまりございません。
開いてみます。
『姉上、義父上も南へ行くと聞きました。南なら漢中より暖かいと思いますので、安心いたしました』
安心する場所が違います。
戦です……
避寒ではございません。
さらに続きがありました。
『義父上が留守の間、鼻をほじっても手を叩かれないと思いました』
やはり来ました――
『そう夫に申しましたら、夫が代わりに叩くそうです』
私は少し安心しました。
夏侯家の家督がどなたへどう続こうとも、玉珠の鼻に対する警戒だけは確実に継承されるようです。
最後には、
『義父上は、戦よりこちらの方が心配だと申していました。わたしもそう思います』
何をどう考えれば、その結論になるのでしょう。
私は返事を書きました。
『玉珠、元譲様がお帰りになるまで、鼻を大切になさい』
しばらく考え、
『中へ指を入れないという意味です』
と付け足しました。
妹には説明が必要です。
翌日、返事が届きました。
『分かりました。小指だけにします』
分かっておりませんでした。
出立の日、まだ空は暗く、屋敷の者たちは足音を抑えて動いていました。
寧珠と環珠は眠っております。
文烈様は二人の寝顔を見に行き、しばらく戻ってきませんでした。
私は呼びませんでした。
戦へ行く父親が娘の寝顔を見て何を考えるのか、私には分かりません。
ただ、八年前の父上は、私たちの顔を見る暇があったのでしょうか?
それとも、見る暇があっても前を向かなければならなかったのでしょうか?
答えは出ません。
出ないものは、無理に美談へ仕立てなくてよろしいのです。
文烈様が戻ってきました。
「起こさなかったのですか?」
「起こせば泣くだろう」
「父親が出ていくのですから、泣くのは当然です」
「だからだ」
私は夫の顔を見ました。
「必ず帰ってください」
「ああ」
「前にも申し上げましたね?」
「ああ」
「毎回申し上げます」
「分かっている」
「分かっている方は、妻に同じことを何度も言わせません」
「戦に行くなということか?」
「いいえ」
そこだけは、言えませんでした。
文烈様は武将です。
戦へ行くなと申せば、その人から大切なものを取り上げることになります。
私は置いていかれる苦しさを知っておりますが、だからといって、誰かを私の隣へ縛りつけてよい理由にはなりません。
「帰ってこい、と申しているだけです」
文烈様は少し笑いました。
「それなら簡単だ」
「どこがです?」
「帰ればいい」
腹が立ちました。
そういうところです。
この方は、帰ってくることを簡単そうに言うのです。
だから私は信じたくなります。
やがて軍は南へ向かいました。
魏王様ご自身が動き、軍勢は居巣へ進み、その先に濡須がございました。
私は地図を広げました。
漢中とは違います。
父上のおられる益州とも違います。
今度の相手は孫権殿。
天下というものは広いのに、文烈様は律儀にあちらこちらへ出かけていきます。
旅好きなのでしょうか?
本人に申せば怒ると思います。
南から届く知らせは、思ったほど派手ではありませんでした。
こちらが押せば向こうが守り、水辺には陣が並び、敵もいれば味方もいる。
何万人もの男たちが命を懸けて動いているというのに、軍報へ書けば驚くほど簡単な話になります。
その短い文字の間に、誰が怪我をしたのか、誰が眠れていないのか、誰の妻が同じ紙を何度も読み返しているのかは書かれておりません。
私は文烈様の名を探します。
あれば安心し、ありすぎれば不安になります。
人間は勝手です。
玉珠からも文が来ました。
『姉上、義父上はまだ帰りません。夫が毎日わたしの右手を見ています。義父上が二人になったようです』
妹婿殿に心から同情いたします。
『鼻は無事です』
それは何よりです。
『昨日は左手でほじりました』
違います。
私は返事を書くのを一度やめました。
紙に罪はございません。
やがて春になり、南から別の知らせが届きました。
戦が終わった、という知らせではありません。
孫権殿の側から使者が来たという話でした。
私は文を二度読みました。
魏王様は王になられたばかり。
南へ大軍を率いて進まれた。
孫権殿は守った。
そして今度は、戦場ではなく使者が動く。
武器を持った男たちが何万人も集まった末に、最後は文を持った数人が前へ出るのですから、天下というものはつくづく回りくどくできております。
その日の夕刻、さらに一通届きました。
文烈様からです。
私は急いで開きました。
最初に目へ入ったのは、たった四文字でした。
『近く帰る』
私はようやく息を吐きました。
その下に続きがあります。
『ただし、西も騒がしい』
手が止まりました。
南が終われば、今度は西。
天下というものは、どうして一度に一か所しか燃えてくれないのでしょう。
それから季節が巡り――
西から、聞き覚えのある名が届きました。
張飛益徳――
父上ではありません。
まだ……
けれど、叔父上が動いたということは――
父上が、ようやく寒さに耐えられなくなったのかもしれません。
劉玉珠です。
義父上が南へ行かれました。
姉上は文烈様のことを心配しておられましたので、わたしも義父上を心配しております。
ただ、義父上がお留守なら、鼻をほじっても手を叩かれないのではないかと思いました。
夫に申しましたら、「私が叩く」と言われました。
たいへん頼もしい夫です。
仕方がないので左手にしたところ、そちらも止められました。
夏侯家の守りは堅いようです。
そのうち義父上も戻られましたが、今度は西で叔父上が動いたそうです。
益徳叔父上です。
姉上に教えると、しばらく遠くを見たあと、
「来ますね」
と申しました。
誰がでしょう?
父上なら、ずいぶん久しぶりですね。
……ところで父上――
漢中は、そんなに寒いのですか?




