魏公様、王になられても寒さは消えないのですか?
劉明珠でございます。
漢中の寒さがまだ曹休家の奥に残っているうちに、魏公様は魏王様になられました。
たいへん結構なことでございます。
丞相様、魏公様、そして魏王様。
こちらの舌がようやく慣れた頃に呼び名が変わるのですから、天下を取る方々は奥方の口の都合など少しも考えておられません。
褒めておりません。
今回は、魏王様の内礼と、文烈様が重く用いられていく気配のお話でございます。
夫が認められるのは喜ばしいことです。
けれど、気にかけられる男は呼ばれます。
任される男は遠くへ行きます。
遠くへ行く男は、妻の家を広くします。
父上はまだ漢中の寒さに動いておられません。
魏王様は衣を替え、曹丕様は文烈様を見ておられる。
そして玉珠は、魏王様になると菓子も王になるのかと尋ねたそうです。
――曹魏の前途が、たいへん心配でございます。
漢中の寒さがまだ曹休家の奥に残っているうちに、魏公様は魏王様になられました。
たいへん結構なことでございます。
丞相様と呼んでいた方を、いつの間にか魏公様と呼ぶようになり、ようやく舌が慣れてきたところで、今度は魏王様でございます。
天下を動かす方々は、ご自身の位が上がるたびに、こちらの口まで鍛えるおつもりなのでしょうか?
呼び間違えれば不敬、慣れすぎればまた次の呼び名。
奥方の舌にも限界がございます。
褒めておりません。
魏王――
その二文字は、曹休家の奥にもきちんと入り込んでまいりました。
男たちの朝議だけの話ではございません。
衣の色、贈る品、受ける文、使者を迎える部屋、女房たちの立ち位置、子どもたちの挨拶、すべてが少しずつ変わります。
位が上がるとは、つまり家の中の埃まで緊張するということでございます。
寧珠はまだ意味を分かっておりません。
環珠は当然ながら泣くのが仕事です。曹肇と曹纂は、文烈様から「粗相をするな」と言われ、二人そろって粗相をしそうな顔になりました。
たいへん正直な子どもたちです。
「魏公様は、もう魏公様ではないのですね」
私は、届いた文を畳みながら言いました。
「魏王様だ」
文烈様は、静かに訂正なさいました。
「分かっております。分かっておりますが、呼び名を変えるたびに、こちらの頭の中の帳面を書き換えねばなりません。
魏公様、魏王様、曹公、丞相様。
父上など一人の呼び名で十分に面倒ですのに、魏王様まで増やさないでいただきたいものです」
「慣れよ」
「文烈様……人は慣れるために生まれてきたわけではございません」
「そなたは、かなり慣れている」
「それは褒めておられますか?」
「半分は」
「残り半分がたいへん気になります」
文烈様は少しだけ笑われました。
漢中から戻って以来、この方の笑い方は以前と少し違って見えます。
どこが違うのかと問われれば、うまく言えません。
ただ、山を越え、寒い場所を見て、戻ってきた男の顔です。
帰ってきたことは嬉しい。
けれど帰ってきた男が、またいつか呼ばれることも分かる。
栄誉とは、奥方にとって実に質の悪い荷物でございます。
重く用いられる男ほど遠くへ行きます。
遠くへ行く男ほど家を広くします。
家が広くなれば、女はそこに座って待つしかございません。
世の中ではそれを立派な妻と呼ぶのでしょうが、実際には、出ていく男の背中に向かって毒を吐き損ねた女が、部屋の中で腐りかけているだけです。
どこの史書にも載りません。
たいへん平和でございます。
その日の昼、夏侯家から文が届きました。
玉珠、魏王の号を聞く。
「魏公様が魏王様になると、菓子も王になりますか」と問う。
違うと答える。
「では、鼻の見張りも王になりますか」と問う。
元譲様、しばし沈黙。
鼻へ向かう気配あり。
未遂。
以上。
私は、文を持ったまま額に手を当てました。
元譲様……
妹に王号を説明する時は、菓子と鼻から少し離れていただけませんか?
もっとも、玉珠の方から寄っていくのでしょうけれど……
「玉珠殿は、今日も元気そうだ」
文烈様がおっしゃいました。
「ええ……魏王様の御代の始まりを、菓子と鼻で受け止めております。たいへん広い器でございます」
「器なのか?」
「穴かもしれません」
「明珠」
「はい」
「それは言い過ぎだ」
「鼻の話でございます」
「ならば、なお悪い」
夫婦の会話とは、時にたいへん低いところを流れるものです。
魏王様がお立ちになった日だというのに、曹休家では妹の鼻と菓子の王位について語っております。
父上、あなたが置いていった娘たちは、今日も立派に歴史の余白で生きております。
たいへん見せられない余白でございます。
夕刻には、魏王府から改めて内礼の知らせが届きました。
文面は整っており、何一つ粗末にはできません。
曹休家の奥方として、私は名を記され、席を定められ、着るべき衣を確認されます。
劉備玄徳の娘である私が、魏王様の内礼に連なる家の女として扱われる。
実に見事な皮肉です。
父上は、漢室を掲げて歩いておられます。
魏王様は、その漢室の内側で王になられました。
私はその魏王様の一門に連なる曹休家の妻として、衣を整え、娘を抱き、妹の鼻報告を読みます。
漢室とは、ずいぶん広い建物でございます。
父上の大義も入る。
魏王様の王号も入る。
私のような置いていかれた娘も、敵の家の奥から少しだけ端に入れられる。
ただし、明かりの当たる場所は限られております。
後の人々はきっと、父上の仁義と魏王様の権勢とを見比べ、たいへん立派な顔で語るのでしょう。
その足元で、女房たちが衣の袖を直し、赤子が泣き、曹纂が玉珠の真似をしかけて叱られたことなど、誰も書きません。
当たり前です。
書かれても困ります。
「明珠」
文烈様が、私の顔をのぞき込むようにおっしゃいました。
「はい」
「また、寒そうな顔をしている」
「漢中のせいでございます」
「今は魏王様の話だ」
「だから寒いのです。漢中の寒さが残ったまま、王号だけが上へ行く。下に残った寒さを、誰が片づけるのでしょう」
文烈様は返事をなさいませんでした。私もそれ以上は言いませんでした。
言っても、王号は下りてきませんし、漢中の山は低くなりません。
父上の歯が寒くなくなるわけでもありません。
ただ、分かってしまうのです。
魏王様の位が上がれば、曹家の一門も重くなる。
重くなれば、文烈様もより遠くへ呼ばれる。
文烈様が遠くへ呼ばれれば、私はまた家の広さを知ることになる。
栄誉は、いつも男の肩に乗ってやって来て、女の胸の上で重くなる。
たいへん迷惑な鳥でございます。
その翌日、内礼に向けた準備のため、曹休家にも何人もの使いが出入りしました。
その中に、曹丕様の近侍が混じっておりました。
用件は形式的なものです。
文烈様への言伝、魏王府での立ち位置、祝賀の席に関する確認。
どれも整っており、乱れはありません。
けれど、私はその文の端に、妙な重さを感じました。
曹丕様が、文烈様の名を気にかけておられる。
それ自体はよいことでございます。
曹家の一門として信を置かれる。
若き貴公子に目をかけられる。
文烈様の働きが認められる。
奥方として喜ぶべきことでしょう。
喜ぶべきです。
喜びなさい、劉明珠――
そう自分に命じてみましたが、胸の奥では、また寒さが動きました。
「曹丕様は、文烈様をよく見ておられるのですね?」
私が言うと、文烈様は軽くうなずかれました。
「ありがたいことだ」
「ええ、たいへんありがたいことでございます。気にかけられ、信じられ、任される。文烈様にとっては名誉でしょう」
「そうだな」
「では、妻としては少し困ります」
「なぜだ」
「気にかけられる男は、呼ばれます。信じられる男は、任されます。任される男は、遠くへ行きます。遠くへ行く男は、帰ってくるまで家を広くします」
文烈様は黙りました。
「私は、文烈様が重く用いられることを嫌がる悪い妻でしょうか?」
「悪くはない」
「では、よい妻でございますか?」
「面倒な妻だ」
「たいへん正確でございます。褒めておりません」
文烈様は、そこで私の手を取りました。
漢中から戻ってきた手です。
今は家の中にあります。
けれど、その手はいずれまた甲冑の紐を結び、馬の手綱を取るのでしょう。
私はそれを知っています。
知っているのに、止められません。
父上も止められません。
魏王様も止められません。
曹丕様が文烈様を気にかけることも、止められません。
女の手とは、赤子を抱くには足りますが、天下の流れを押し返すには短すぎます。
たいへん不便な造りでございます。
夕暮れ、また夏侯家から文が届きました。
玉珠、曹丕様の名を聞く。
「魏王様の子なら、菓子も大きいですか」と問う。
違うと答える。
「では、鼻の見張りを引き継ぐ方ですか」と問う。
元譲様、強く否定。
安心して菓子を食す。
鼻へ向かう気配あり。
未遂。
以上。
私は文を読んで、思わず目を閉じました。
玉珠……
その発想はやめなさい。
曹丕様が妹の鼻の見張りを引き継ぐなど、考えただけで曹魏の未来が妙な方向へ曲がります。
もっとも、後の世で何が起こるかなど、誰にも分かりません。
少なくとも、今の曹魏は、王号と漢中と妹の鼻を同じ年に抱えております。すでに十分妙な国です。
「元譲殿は、否定したのか?」
文烈様が文をのぞき込んでおっしゃいました。
「強く否定、とあります」
「当然だな」
「文烈様は、引き継がれますか?」
「何を」
「玉珠の鼻の見張りです」
「元譲殿が健在なうちは、元譲殿の務めだ」
「亡くなられた後の話を今しないでくださいませ」
「そなたが聞いたのだ」
「事実で返さないでください。たいへん縁起が悪いです」
そう言ってから、私は少し黙りました。
縁起が悪い――
その言葉が、妙に胸に引っかかりました。
魏王様が立たれ、曹丕様が文烈様を気にかけ、漢中には守りが残り、父上はまだ寒さに対して動いていない。
何も壊れていないように見えます。
曹休家の奥では娘たちが育ち、曹肇と曹纂が学び、玉珠は夏侯家で鼻を見張られている。
平和でございます。
たいへん、平和でございます。
だからこそ、嫌なのです。
平和とは、次に何を失うかをまだ知らない時間のことでもあります。
その夜、魏王府から最後の文が届きました。
祝賀の細かな手順かと思って開いた文を、文烈様が途中で止めました。
封の中には、魏王様の短い一筆が添えられておりました。
漢中の寒さを忘れるな。
王号は衣に過ぎぬ。
火種は、衣の下で育つ。
私は、その字を見つめました。
魏王様になられても、魏王様は魏王様でございます。
人の家の奥へ、なぜこうも嫌な文を差し込むのでしょう。
しかも、当たっているから腹が立ちます。
漢中の寒さは、まだ消えておりません。
父上は、まだ動いておりません。
文烈様は、また呼ばれるでしょう。
曹丕様は、その文烈様を見ておられる。
そして私は、曹休家の奥で、呼び名だけが変わっていく天下を見ております。
丞相様から魏公様へ。
魏公様から魏王様へ。
では父上は、次に何を名乗るのでしょう?
その時、どこの寒さが、誰の家を凍らせるのでしょうか?
劉玉珠です。
夏侯家へ嫁いでからも、元譲様はわたしを見るたび、まず両手を確認なさいます。
「玉珠、指を鼻へ入れるな」
まだ何もしていません……
そう申し上げたところ、「これからする顔だった」と返されました。
長く一緒におりますと、顔だけで分かるそうです。
夫まで隣で頷いております。
たいへん失礼です……
姉上に文で訴えたところ、「元譲様の観察眼を疑う理由がありません」と返ってきました。
味方がおりません……
仕方がないので鼻をほじっておりますと、元譲様が頭を抱えました。
そんな折、父上について新しい知らせが届きました。
姉上からの文には、一言だけ――
「玉珠、今度は父上です」
……何をなさったのでしょう?




