魏公様、唇を押さえて口は閉じないのですか?
劉明珠でございます。
勝ったという知らせほど、扱いに困るものはございません。
文烈様は無事に戻られました。
魏公様は漢中を得られました。
曹休家の奥方としては、たいへん喜ばしいことでございます。
では、なぜ胸が詰まるのでしょう?
父上の唇は押さえられました。
けれど、口までは閉じられておりません。
あの方が寒さを覚えたまま大人しく座っているなど、娘としてはまったく信じられません。
父上は、娘の手は離せても、地図の端は離せない方でございます。
今回は、勝利の後に残った寒さのお話です。
妹の鼻は今日も未遂。
夫は無事。
漢中は魏公様のもの。
それなのに、どうして戦は終わらないのでしょう?
たいへん迷惑でございます。
――褒めておりません。
勝ったという知らせほど、扱いに困るものはございません。
負けたと聞けば、泣くなり怒るなり恨むなり、こちらにも分かりやすい仕事が生まれます。
ところが勝ったとなると、まず喜ばねばなりません。
夫が無事なら安堵せねばなりません。
魏公様が漢中を得られたなら、曹休家の奥方として祝わねばなりません。
それなのに胸の底で、ひやりとしたものが動く……
たいへん失礼な心でございます。
漢中から、文烈様が戻られました。
張魯殿は降り、魏公様は漢中を得られたそうです。
文烈様は大きな傷もなく、馬上の疲れを残した顔で曹休家の門をくぐられました。
土と馬と金属と、遠い山の風の匂いがしました。
私はその匂いが嫌いです。
けれど、その匂いがするということは、この方が戦から戻ったということでもあります。
つまり、嫌いな匂いに安堵するわけです。
妻とは、実に厄介な生き物でございます……
「戻った」
文烈様は、そうおっしゃいました。
「はい、戻られましたね」
「今回は鍵を持って出たわけではない」
「では、命を落とさず戻られたことを褒めればよろしいでしょうか?」
「褒めているのか?」
「褒めております」
「顔がそうではない」
たいへん困ります。
夫婦とは、顔まで勝手に読まれる制度なのでしょうか?
寧珠は文烈様の袖を握り、環珠は乳母の腕の中で、父の顔が分かるのか分からないのか、たいへん真剣に泣いておりました。
曹肇と曹纂は背筋を伸ばし、父の帰還を喜ぶ顔と、武将の息子らしくあろうとする顔の間で忙しそうに揺れております。
そこへ、夏侯家から文が届きました。
玉珠、文烈帰還を聞く。
立つ。
転ばず。
「姉上の家が狭くなりました」と申す。
菓子を要求。
安心して鼻へ向かう気配あり。
未遂。
以上。
私は文を見つめました。
元譲様――
妹の鼻の動きと、我が家の広さを同じ紙に収めないでくださいませ……
心の地図まで汚れます。
「玉珠殿は、よく分かっているな」
文烈様が、文を横から読んでおっしゃいました。
「どのあたりがでございますか?」
「私が戻れば、家は狭くなる」
「妹の鼻報告を、家政の参考にしないでくださいませ」
「役に立つ」
「なお悪うございます」
けれど、玉珠の言葉は当たっておりました。
文烈様が戻ると、曹休家の奥は狭くなる。
狭くなった分だけ、私は息ができる。
父上――
あなたが置いていった娘は、敵の一門の男が帰ってきたことで、家が狭くなったと安堵しております。
たいへん親不孝でございます。
もっとも、親孝行をする道は、長坂で私たちを置いた時点でだいぶ遠くへ伸びてしまいましたので、今さら追いかけるのは骨が折れます。
褒めておりません。
しかし、安堵だけで済むほど、世の中は親切ではありませんでした。
その夜、文烈様から漢中の後の話を聞きました。
魏公様は漢中を得た。
張魯殿は降った。
けれど、そこから益州へは進まぬ。
漢中には守る者を残し、軍はやがて返る。
私は黙って聞きました。
黙って聞くことくらい、できます。
私は曹休家の奥方でございます。
人前で騒がぬ程度の分別はございます。
ただし、腹の底まで静かでいろとは、誰からも命じられておりません。
「なぜ、そこでお止めになるのでしょう?」
声に出した後で、私は自分が言ったことを知りました。
文烈様は私を見ました。
「魏公様にもお考えがある」
「存じております」
「兵も疲れている。山道は険しい。益州は玄徳が取ったばかりとはいえ、攻め込めば軽くは済まぬ」
「それも存じております」
「ならば」
「それでも、父上を甘く見ておられます」
部屋が静かになりました。
寧珠の寝息と、環珠が時折立てる小さな声だけが、妙にはっきり聞こえました。
「父上は、娘を置いていける方です」
私は言いました。
「民のため、大義のため、漢室のため、天下のため……言葉は何でもよろしいのです。大きな布を広げれば、その下で小さい手がいくつ落ちたかなど、後の人々には見えません」
文烈様は止めませんでした。
こういう時に止めないところが、この方の困るところでございます。
「けれど、地図の端はお捨てになれない。漢中は益州の唇でございます。そこを魏公様に押さえられたまま、父上が大人しくしておられるはずがございません。娘は遠くへ置けても、寒い歯は我慢できないでしょう」
「明珠」
「はい」
「怒っているのか?」
「誰にでしょう」
「魏公様か?玄徳か?私か?」
「全員でございますね」
文烈様は、少し困った顔をなさいました。
たいへん結構です。
私ばかり困るのは不公平でございます。
「魏公様には、そこまで行ったなら口ごと閉じてくださればよかったのにと思います。父上には、唇を噛まれる前に手を伸ばせばよかったのにと思います。文烈様には、無事に戻ってくださってありがたいのに、その無事が父上の寒さの上に立っているのが腹立たしいと思います」
「私は、どうすればよい?」
「今夜は困っていてくださいませ」
「それは前にも言われた」
「文烈様は、何度でも困る価値のある方です」
「褒めているのか?」
「褒めておりません」
そう言いながら、私は文烈様の手を見ておりました。
山を越え、軍の中にあり、漢中から戻ってきた手です。
その手が今、私の近くにある。
それだけで安堵してしまう一方、その手が父上の唇を押さえた側にあることも、嫌というほど分かってしまう。
妻とは、娘であった時より逃げ道が少ないものですね……
もっとも父上ほど逃げ道の多い方も珍しいので、比べる相手を間違えているのかもしれません。
文烈様はしばらく黙った後、静かにお尋ねになりました。
「玄徳は、来ると思うか?」
「来ます」
私は即座に答えました。
あまりに早かったためか、文烈様が一度だけ瞬きをされました。
「迷わぬのだな」
「迷う理由がございません。父上は来ます。益州の北を魏公様に押さえられたまま、笑って宴だけ開いている方ではございません」
「宴は開くかもしれぬ」
「では、宴の後に来ます」
今度こそ、文烈様は小さく笑われました。
「父をよく読んでいる」
「読みたくて読んでいるわけではございません」
父上のことなど、読みたくはないのです。
読めば読むほど、娘である自分が置いていかれた理由まで、妙に整って見えてしまうからです。
父上は、冷たいだけの方ではありません。
優しく、人を集め、涙を流し、義を語り、困った者へ手を差し伸べることもできる方です。
だから厄介なのです。
ただの悪人なら、話はどれほど楽だったでしょう。
置いていった父を恨み、そこで終わりにできました。
けれど父上は、きっと後の世で仁君と呼ばれます。
母上は烈女。
たいへん立派な家族でございます。
その下で、娘二人は荷車から落ち、敵の家で育ち、片方は曹休家で子を産み、片方は夏侯家で鼻を見張られております。
美談とは便利です。
見せたい者だけを光らせ、邪魔な者は影へ入れる。
影の中にも人はいるのですが、物語が明るすぎると、誰も足元を見ません。
父上の足元には、娘の手形が残っております。
たぶん、誰も見ないでしょう。
見ない方が、美しいですから。
翌日、また夏侯家から文が届きました。
玉珠、漢中は取れたのに終わらないと聞く。
「では、漢中は取りにくい菓子ですか」と問う。
違うと答える。
「取ったのに終わらないなら、取らない方が楽では」と申す。
元譲様、沈黙。
鼻へ向かう気配あり。
未遂。
以上。
私は文を読み、しばらく声を出せませんでした。
玉珠――
その通りです。
取ったのに終わらないなら、取らない方が楽だったのかもしれません。
けれど、取らなければ父上の唇は温かいままです。
取れば、寒がって来る。
取らなければ、後でやはり来る。
どちらにせよ来る。
父上とは、たいへん面倒な生き物でございます。
「玉珠殿は、時々核心を突くな」
文烈様が言いました。
「鼻のついでに、地図まで突かないでほしいものです」
「元譲殿が聞いたら、頭を抱える」
「もう抱えておられるでしょう」
私はそう答え、文を畳みました。
笑ってよいはずでした。
玉珠は元気で、文烈様は戻り、漢中は魏公様のものになった。
曹休家の奥には、寧珠の声があり、環珠の泣き声があり、曹肇と曹纂が父の土産をめぐって小さくもめている。
平和です。
たいへん平和でございます。
けれど、その平和の下で、冷たいものがゆっくり流れておりました。
漢中から益州へ。
益州から父上へ。
父上から、まだ見ぬ戦場へ。
そしていつか、その戦場からまた曹休家の奥へ。
私はそれを止められません。
曹休家の奥方でありながら、曹魏の軍を動かせるわけではない。
劉備玄徳の娘でありながら、父上を止められるわけでもない。
できることといえば、帰ってきた夫の手を見て安心し、届いた文を読んで毒を吐き、妹の鼻が未遂であることに胸をなで下ろすくらいでございます。
たいへん立派な奥方です。
どこの史書にも載りません。
その夜、文烈様がふとおっしゃいました。
「漢中には、守りが残る」
「存じております」
「そこに人が残る」
「ええ」
「戻らぬ者も出る」
私は目を伏せました。
勝った戦の後に、戻らぬ者の話をする。
武将の家とは、なんと趣味の悪いところでしょう。
「父上が来れば、また人が死にますね」
「ああ」
「父上が来なくても、人は死んだのでしょうね」
「ああ」
「では、どちらにしても人は死ぬのですね」
「戦だからな」
たいへん便利な言葉です。
戦だから。
大義だから。
漢室だから。
仁義だから。
民のためだから。
どれもこれも、人が死んだ後にかぶせる布としては、たいへん上等でございます。
血は布を通して滲むのに、後の人々はなぜか布の模様ばかり褒めます。
私は笑いました。
笑ったつもりでした。
文烈様が、私の手を握りました。
「明珠」
「はい」
「無理に笑うな」
「では、毒を吐いても?」
「いつも吐いている」
「失礼でございます」
「事実だ」
事実なら、なお失礼です。
私は文烈様の手を握り返しました。
父上は、きっと来ます。
魏公様は漢中を押さえました。
けれど口は閉じなかった。
寒さは残り、火種も残りました。
そして私は、その火がどこへ燃え移るのかを、曹休家の奥で待つことになるのでしょう。
待つことには、慣れております。
十三の頃から、嫌というほど……
その時でございます。
また夏侯家から文が届きました。
夜更けの文です。
嫌な予感がいたしました。
元譲様の文は、だいたい嫌な予感と一緒に来ます。
私は封を切りました。
玉珠、夜に目を覚ます。
「漢中が寒いなら、姉上の家まで寒くなりますか」と問う。
ならぬと答える。
「でも、姉上は寒そうな顔をします」と申す。
鼻へ向かう気配あり。
止める。
泣く。
未遂。
以上。
私は、文を持ったまま動けませんでした。
玉珠――
あなたは本当に、余計なところだけよく見ます。
文の末尾に、元譲様の字で一行だけ添えられておりました。
寒さは、見える者から先に凍る。
私は、その一文を見つめました。
父上――
あなたはまだ、こちらの寒さを知りません。
けれど、あなたが漢中の寒さに気づいた時――
次に凍るのは、いったい誰なのでしょうか?
劉玉珠です。
漢中は取れたそうです。
文烈様も戻られました。
とてもよいことです。
姉上の家も狭くなりました。
家は、狭い方が安心する時があるのだと、玉珠は最近知りました。
けれど、姉上はまだ寒そうな顔をしていたそうです。
漢中は遠い場所なのに、どうして姉上まで寒くなるのでしょう。
元譲様に聞いたら、「見える者には見える」と言われました。
難しいです。
寒いなら火を焚けばよいと思います。
でも大人の寒さに火を焚くと、たぶん戦になります。
戦になると、文烈様がまた出ていきます。
すると姉上の家が広くなります。
それは嫌です。
玉珠は考えました。
鼻へ手が行きました。
元譲様に止められました。
「今のは漢中です」
「漢中でも駄目だ」
漢中でも駄目だそうです。
父上――
玉珠は夏侯家で元気です。
鼻は未遂です。
でも、漢中の寒さが父上に届いた時、次に誰が寒くなるのか、玉珠は少し怖いです。




