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魏公様、妹の鼻の次は唇でございますか?

劉明珠でございます。


妹の鼻をめぐる軍議が、ようやく一段落いたしました。

たいへん結構なことでございます。

曹魏の重鎮方が二人がかりで妹の鼻を読み、止め、見守り、最終的に「無理には直さぬが見張る」という、たいへん立派なのか情けないのか分からない結論へたどり着きました。

おかげで夏侯家からは、今も毎日のように報告が届きます。

未遂。

未遂。

たまに危うい未遂。

曹魏の平和は、今日も妹の鼻先で保たれております。


父上――

あなたが置いていった娘は、夏侯家で鼻ごと生きております。

たいへん感動的でございます。

どこの史官も書かないでしょうけれど……

けれど、世の中は妹の鼻だけを相手にしてはくれません。


妹の鼻の次は、父上の唇でございます。

唇亡びて歯寒し。

漢中でございます。

以前、私は魏公様に命じられ、父上を読みました。

父としてではなく、益州の主として。

そして、読んでしまいました。

益州を得た父上が、いずれ漢中を見るであろうことを……

張魯殿と仲良く並んで座るような、慎ましい方ではないことを……

娘は置いていけても、地図の端は放っておけない男であることを……

褒めておりません。


ところが魏公様は、本当に漢中へ向かわれるそうです。

しかも、文烈様までその軍に加わるとのこと。

たいへんよくできた地獄でございます。

私が父上の急所を書き、夫がその急所へ向かう。

妻として文烈様の無事を願えば、父上の唇が噛み切られる。

娘として父上の無事を願えば、夫が危うくなる。

誰がこのような役を私に与えたのでしょう。

父上でしょうか?

魏公様でしょうか?

それとも、長坂で荷車から落ち損ねた私自身でしょうか?


今回は、張魯討伐のお話でございます。

曹休家の奥から、私は漢中を見ます。

見たくもないのに見えます。

なぜなら、私は劉備玄徳の娘で、曹休文烈の妻だからです。

妹の鼻は、まだ妹のものです。

では、父上の唇は、誰のものになるのでしょう?

そしてその寒さが、どれほどの火を呼ぶのでしょうか?


この時の私は、まだ知りませんでした。

玉珠の鼻をめぐる軍議から、いくらか日が過ぎました。

夏侯家からは、相変わらず文が届きます。

玉珠、朝餉を食す。

菓子二つ。

鼻へ向かう気配あり。

未遂。

以上。

玉珠、昼寝の前に菓子を隠す。

元譲様、発見。

不満顔。

鼻へ向かう気配あり。

未遂。

以上。

玉珠、夕刻に「正しい玉珠は少し疲れます」と申す。

菓子を一つ与える。

安心。

鼻へ向かう。

未遂。

以上。

たいへん結構でございます。

曹魏の軍報は、今日も妹の鼻先で勝利を重ねております。

私は産後の身でございますので、環珠を抱き、寧珠に袖を引かれ、曹肇と曹纂が玉珠の文を読んで妙に安心する様を眺めておりました。

曹休家の奥は、妹が嫁いだ分だけ静かになりました。

その静けさへ、夏侯家から鼻の報告が届く。

すると、家の中が少しだけ元へ戻る。

人とは不思議です。

妹の鼻が未遂であることに安心する日が来るとは、長坂の荷車の上では思いもしませんでした。

父上――

あなたが置いていった娘たちは、たいへんなところまで来てしまいました。

一人は曹休家で産後。

一人は夏侯家で鼻を見張られております。

たいへん立派な生存でございます。

褒めておりません。

そんな折、魏公府から文が届きました。

文烈様が受け取り、封を見て、すぐに顔を引き締められました。

私はその顔を見て、嫌な予感がいたしました。

武将の妻というものは、夫の顔色で戦場の匂いを嗅がされます。

たいへん迷惑です。

私は菓子の匂いだけで十分でございます。

「明珠」

「はい」

「魏公様が、張魯討伐へ向かわれる」

張魯――

漢中――

その名を聞いた瞬間、私の中で、以前書いた文が開きました。

益州定まれば、父上はいずれ漢中を見る。

張魯殿と睦まじく並ぶ男ではあるまい。

唇亡びて歯寒し。

あの時、私は父上を読みました。

父としてではなく、益州の主として読めと言われ、私は読みました。

読んだだけです。

ただ、読んだだけでございます。

それなのに、魏公様は本当に漢中へ向かわれる。

しかも、その軍に文烈様も加わる。

たいへんよくできた地獄でございます。

娘が父の急所を書き、夫がその急所へ向かう。

家庭的にも軍事的にも、実に整っております。

誰が整えろと申しましたか?

褒めておりません。

「文烈様も、行かれるのですね?」

「ああ」

文烈様は短くお答えになりました。

その顔は、江東へ向かわれた時と同じではありませんでした。

孫権殿のいる方角へ向かう時、私は怒りを長江へ投げられました。

今回は、投げる先がございません。

なぜなら漢中は、私が父上の唇として読んでしまった場所だからです。

「魏公様は、本当に唇を取りに行かれるのですね」

「そなたの文にも、そうあった」

「ええ……たいへん余計なことを書きました」

「余計ではない」

「では、正確で迷惑なことを書きました」

文烈様は、少し困った顔をなさいました。

その顔を見て、私はさらに困ります。

父上のために祈れば、文烈様が危うくなる。

文烈様の無事を願えば、父上の首筋に刃が近づく。

娘と妻を兼ねるとは、なんと面倒な役回りなのでしょう。

しかも私は母でもございます。

環珠は乳母の腕の中で小さく眠り、寧珠は私の裾を握り、曹肇と曹纂は、父がまた遠くへ向かうことを悟って、妙に静かになっておりました。

曹休家の奥は、また出立の気配に包まれます。

甲冑が点検され、馬具が運ばれ、文が行き交い、女房たちが歩く音まで変わる。

玉珠の鼻を見張っていた日々が、急に遠くなりました。

妹の鼻の次は、父上の唇でございますか?

曹魏の皆様は、人の顔の周辺で戦を起こしすぎではございませんか?

その日の夕刻、夏侯家からも文が届きました。

玉珠、漢中の名を聞く。

「鼻の中と似ています」と申す。

説明を試みる。

分かった顔。

分かっておらぬ。

菓子を要求。

未遂。

以上。

私は、文を持ったまま目を閉じました。

元譲様――

漢中と鼻の中を、同じ文に入れないでくださいませ……

曹魏の地図が汚れます。

「玉珠殿は、元気そうだな」

文烈様が言いました。

「ええ……妹は今日も、たいへん元気に地理を汚しております」

「鼻は未遂だ」

「そこだけ勝利のように言わないでくださいませ……」

けれど、その文で少しだけ胸がゆるんだのも事実でございます。

玉珠は夏侯家で生きている。

元譲様に見張られ、菓子を食べ、漢中を鼻の中と間違えながら、生きている。

では、父上はどうでしょう?

漢中が益州の唇だというなら、父上はなぜその唇を守りに行かれないのでしょう?

張魯殿が父上の味方でないことくらい、私にも分かります。

益州を得たばかりで、足元が定まらぬことも、孫権殿との間が穏やかでないことも、聞いております。

けれど、父上――

唇亡びて歯寒し、でございます。

唇が大事だと分かっておられるなら、なぜ唇が噛み切られる前に手を伸ばされないのですか?

娘の手は離せるのに、唇へも手は届かない。

それで後から寒いとおっしゃられても、たいへん困ります。

褒めておりません。

文烈様の出立の日、私は門まで出られませんでした。

産後だからです。

またです。

産後という言葉は、私を実に丁寧に家の中へ閉じ込めます。

私は部屋の中で、文烈様をお見送りいたしました。

寧珠は乳母に抱かれ、環珠は眠っております。

曹肇と曹纂は、父の前で背筋を伸ばしておりました。

「留守を頼む」

文烈様は、曹肇へそうおっしゃいました。

曹肇は、緊張した顔でうなずきました。

「母上を困らせません」

「それは難しい」

文烈様――

なぜそこで正直なのですか?

曹纂は、帳面を抱えたまま言いました。

「玉珠殿の真似はしません」

「よい」

「鼻もです」

「なおよい」

出征の前に、なぜ妹の鼻が家訓のように扱われているのでしょう……

私は頭が痛くなりました。

文烈様は最後に、私のそばへ来られました。

「明珠」

「はい」

「戻る」

江東の時と同じ言葉です。

けれど、今回は私の胸へ刺さる場所が違いました。

「文烈様」

「何だ」

「漢中は、私が読んだ場所でございます」

「ああ」

「そこへ、あなたが行かれる」

「ああ」

「私は、父上を売ったのでしょうか?」

文烈様は、しばらく私を見ておられました。

責める顔ではございません。

哀れむ顔でもございません。

それが、なお困ります。

「そなたは読んだ」

「はい」

「戦を決めたのは、魏公様だ」

「では、私は無関係でございますか?」

「無関係ではない」

たいへん正直です。

妻を慰める気はおありなのでしょうか?

「だが、そなた一人が背負うことでもない」

文烈様は、そうおっしゃいました。

そして、私の手をそっと握られました。

「私は曹休として行く。そなたの文のためだけに行くのではない」

「では、何のために?」

「魏公様の軍として。曹家の一門として。そなたの夫として、戻るために」

戻る――

また、その言葉です。

私はもう、戻るという言葉に弱くなってしまいました。

父上は戻らなかった。

子和様は戻れなかった。

文烈様は、戻ると言う。

たいへん困ります。

「文烈様」

「何だ?」

「父上の唇を突きに行って、無事に戻ってくださいませ」

「難しい頼みだな」

「私はいつも難しいところに置かれます」

「知っている」

知っているなら、どうにかしてくださいませ……

そう言う前に、文烈様は軽く頭を下げ、部屋を出て行かれました。

私はその背を見送りました。

門まで行けない妻は、背中が角を曲がるところまでしか見送れません。

それだけで、家の中が広くなります。

たいへん腹立たしいことです。

それから月が替わり、季節が移り、文が届きました。

漢中へ向かった軍からの報せでございます。

張魯殿は、ついに降ったとのこと。

魏公様は、漢中を得られたそうです。

文烈様は無事。

その一行を見た時、私はまず息を吐きました。

妻としては、それでよいはずです。

夫が無事。

それ以上に望むことなどないはずです。

けれど、その次の報せで、私の胸は妙に冷えました。

魏公様は、益州へは進まれぬ。

漢中を押さえ、やがて軍を返すらしい。

私は、文を持ったまま、しばらく動けませんでした。

そこまで行かれたのに……

父上の唇を押さえたのに……

なぜ、そこでお止めになるのですか?

父上を甘く見ておられます。

あの方は、娘は置いていけても、地図の端を置いておける方ではございません。

漢中を取られた父上は、必ず寒がります。

唇亡びて歯寒し――

その歯が震えているうちに、口ごと閉じてしまえばよろしかったのです。

私は、文を伏せました。

妻としては、文烈様が無事なら、それでよい。

娘としては、父上がすぐに滅ぼされなかったことに、息をついてよいのかもしれません。

けれど、曹休家の奥方として、私は思ってしまいました。

中途半端に残した寒さは、必ず後で戦になります。

その夜、夏侯家から文が届きました。

玉珠、漢中が魏公様のものになったと聞く。

「鼻の中はまだ玉珠のものです」と申す。

元譲様、黙る。

鼻へ向かう気配あり。

未遂。

以上。

私は、その文を読んで、久しぶりに声を出して笑いそうになりました。

笑いかけて、止まりました。

妹の鼻の中は、まだ妹のもの。

では、父上の唇は、誰のものになったのでしょう?

魏公様――

あなたは漢中を得られました。

文烈様も無事です。

そこは感謝いたします。

けれど、そこまでなさったのなら、なぜ益州までお取りにならなかったのでしょう?

父上は、必ず来ます。

娘二人を置いても足を止めなかった方が、唇を奪われて黙っているはずがございません。

その時でございます。

さらにもう一通、魏公府から文が届きました。

封には、見慣れた筆跡がございました。

魏公様です。

私は、嫌な予感とともに封を切りました。

中には、短い文がありました。

漢中を得たり。

唇は押さえた。

劉氏明珠。

そなたの読んだ玄徳が、これよりどれほど寒がるか、よく見ておけ。

私は、その一文を見つめました。

魏公様……

私は父上を売ったつもりではございません。

ただ、読んだだけでございます。

けれど戦とは、読んだだけの女の前にも、勝手に進んでくるもののようです。

そして父上は、寒がったまま黙っている方ではありません。

私は、そのことを誰よりも知っております。

父上の娘ですから……

褒めておりません。

その寒さが、やがてどれほどの火を呼ぶのか――

この時の私は、まだ知りませんでした。

劉玉珠です。


玉珠は今日、漢中という場所を覚えました。

最初に聞いた時、鼻の中と少し似ていると思いました。

そう言ったら、元譲様が黙りました。

怒られるかと思いましたが、怒られませんでした。

ただ、沈黙がたいへん長かったです。

漢中は、鼻の中ではないそうです。

地図の中だそうです。


でも地図とは不思議です。

紙なのに、人が行きます。

紙なのに、馬も軍も入ります。

紙なのに、文烈様まで行ってしまいました。

玉珠の鼻の中には、誰も入りません。

入られたら困ります。

でも漢中には、魏公様も文烈様も入ったそうです。

たぶん、とても広い鼻です。

そう言ったら、また違うと言われました。


文烈様は無事だそうです。

これは、とてもよいことです。

姉上も、きっと息を吐いたと思います。

安心したので、手が少し上へ行きました。

元譲様に止められました。

「今のは文烈様の無事です」

「知っている」

知っていて止めるのです。

元譲様は、たいへん厳しい方です。


漢中が魏公様のものになったと聞いて、玉珠は言いました。

「鼻の中はまだ玉珠のものです」

元譲様は、また黙りました。

今度は少し、笑いそうだった気もします。

片目だけが忙しそうでした。


でも、玉珠は考えました。

漢中は魏公様のもの。

鼻の中は玉珠のもの。

では、父上は何を持っているのでしょう?

益州でしょうか?

寒い歯でしょうか?

それとも、置いていった娘のことは、もう持っていないのでしょうか?


そう考えたら、手がまた上へ行きました。

元譲様に止められました。

「今のは父上です」

「父親でも駄目だ」

父親でも駄目だそうです。

鼻はなかなか厳しい場所です。


父上――

玉珠は夏侯家で元気です。

鼻は見張られています。

菓子は少し減りました。

漢中は鼻の中ではないそうです。


でも、父上が寒くなる場所だと聞きました。

寒いなら、暖かくなればよいと思います。

けれど父上は、暖まるために何を燃やすのでしょうか?


姉上――

文烈様が無事でよかったです。

本当によかったです。

でも、元譲様が言いました。

「これで終わるとは限らぬ」

終わらないのですか?

漢中は取れたのに……

文烈様は無事なのに……

玉珠の鼻も未遂なのに……

大人の地図は、たいへんしつこいです。


元譲様――

今のは鼻ではありません。

漢中について考えていただけです。

でも、寒い場所には、きっと火が要ります。

その火がどこへ燃え移るのか、玉珠にはまだ分かりません。

分からないので、手が少し上へ行きました。

元譲様が、すぐに止めました。


……やはり、戦は鼻より先に広がるようです。

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