皇帝陛下、親戚なら助けてくださいますか?
劉明珠でございます。
前回、私たちは丞相様にお目通りいたしました。
父上が逃げている相手です。
天下に名を轟かせる御方です。
さぞ大きな方なのだろうと思っておりました。
結果につきましては、本文をご確認ください。
私の口からこれ以上申し上げますと、首の位置が危うくなります。
さて、今回は許昌へ参ります。
許昌には皇帝陛下がおられるそうです。
父上は皇叔と呼ばれておりますので、つまり私たちは親戚筋ということになります。
親戚――
たいへん頼もしい響きですね。
長坂ではあまり役に立ちませんでしたが、今度こそ何かの役に立つかもしれません。
……立つとよいですね。
なお、道中につきましては、必要最低限のご報告に留めさせていただきます。
荷車には、語る価値のある揺れと、ただ腹が立つだけの揺れがございますので。
許昌までの道中については、省略いたします。
揺れました。
寒かったです。
玉珠が二度泣きました。
私は三度ほど、荷車という乗り物に恨みを覚えました。
――以上でございます。
世の中には、語る価値のある苦労と、ただ疲れただけの苦労がございます。
護送の道中は、後者でした。
さて――
私たちは許昌へ着きました。
父上のもとではありません。
母上のもとでもありません。
皇帝陛下がおられ、丞相様の影が、たいへん長く伸びている都でございます。
たいへん立派な城門をくぐった時、玉珠はぽかんと口を開けました。
「姉上、おうち大きいね」
「私たちのおうちではありません」
「じゃあ誰のおうち?」
「皇帝陛下のおうちで、丞相様が鍵を持っている場所です」
「鍵を持ってる人のおうちじゃないの?」
玉珠――
あなたは、初日から許昌の核心を突いてはいけません。
私たちを迎えたのは、二人の方でした。
一人は、荀彧文若様。
見た目はたいへん整っておりました。
衣も整い、髪も整い、声も整い、立ち方まで整っております。
あまりに整いすぎて、逆に怖い。
人間、少しくらい乱れている方が安心できるものです。
完璧に畳まれた布には、刃物が隠れている気がいたします。
もう一人は、夏侯惇元譲様。
こちらは分かりやすく怖い方でした。
隻眼で大きな体。
さらに、太い声。
立っているだけで、玉珠が私の袖を握る程度には迫力があります。
ただ、分かりやすい怖さというものは、ある意味で親切です。
文若様のような、どこを怖がればよいのか分からない怖さより、まだ対処しやすいかもしれません。
「劉備の娘二人か」
元譲様が、私たちを見下ろしました。
見下ろす――
そうです。
この方はちゃんと大きい。
丞相様で予習した私の心に、ようやく想像通りの怖い大人が現れました。
ありがとうございます。
怖さにも様式美は必要でございます。
「劉明珠にございます。こちらは妹の玉珠です」
私は頭を下げました。
玉珠も慌てて真似をします。
その後、玉珠は元譲様の顔をじっと見ました。
嫌な予感がしました。
「姉上……」
「何です?」
「元譲様は、お目々をどこかに置いてきたの?」
許昌の空気が、初日から止まりました。
玉珠――
あなたの無邪気さは、門番を通さず人の胸へ入っていきますね……
私は即座に頭を下げました。
「申し訳ございません。妹はまだ幼く」
元譲様は、少し黙りました。
それから、鼻で笑いました。
「戦場に置いてきたのだ」
玉珠の目が丸くなります。
「取りに行かないの?」
「もう食べた」
「食べたの?すごいね!」
「父母から貰ったものだ。粗末にはできん」
「痛くない?」
「昔は痛かった」
「今は?」
「慣れたぞ」
玉珠は真剣にうなずきました。
「元譲様、えらいね!」
文若様が、ほんのわずかに目を伏せました。
笑ったのでしょうか?
いえ、整った方は笑いまで整っているので、判断が難しいです。
元譲様は私たちへ顎をしゃくりました。
「陛下がお待ちだ」
陛下――
皇帝陛下。
父上が皇叔と呼ばれるなら、私たちはその親戚筋になります。
血筋だけなら、たいへん頼もしい響きです。
ただ、頼もしい血筋は長坂の荷車ではあまり役に立ちませんでした。
今回はどうでしょうか?
文若様と元譲様に伴われ、私たちは宮中へ入りました。
丞相様は不在です。
戦へ出たまま、まだ戻っておられないとのことでした。
つまり許昌には、丞相様がいない。
けれど丞相様の気配はある。
ご本人がいなくても人を動かすとは、たいへん便利な方です。
背は小さいのに、影は長い。
皇帝陛下は、静かな方でした。
若く、痩せていて、声は柔らかい。
玉座におられるのに、玉座に守られているようには見えません。
むしろ、玉座に座らされているように見えました。
「そなたたちが、玄徳の娘か?」
陛下が言いました。
「はい、劉明珠にございます。こちらは妹の劉玉珠です」
私は礼を取りました。
玉珠は私を見てから、遅れて頭を下げます。
「玉珠です」
今度は噛みませんでした。
たいへん立派です。
陛下は、少しだけ表情を和らげました。
「怖かったであろう」
優しい声でした。
優しい声――
だからこそ、困りました。
助けられる方の声ではなく、慰めることしかできない方の声に聞こえたからです。
玉珠が顔を上げました。
「陛下は、父上の親戚なの?」
文若様のまつげが動きました。
元譲様の眉がわずかに上がりました。
私は心の中で玉珠の口を塞ぎました。
現実の口は、もう間に合いません。
陛下は少し黙ってから、うなずきました。
「そうだ。玄徳は、漢室に連なる者とされている」
「じゃあ、玉珠たちを父上のところへ帰してくれる?」
沈黙――
玉珠……
あなたはなぜ、誰も踏まないように避けている板を、真ん中から踏み抜くのですか?
皇帝陛下は、答えませんでした。
答えられなかったのだと思います。
私はその時、理解いたしました。
この方は、皇帝陛下です。
けれど、私たちの行き先を決める方ではありません。
親戚だから助けられるとは限らない。
皇帝だから自由とは限らない。
長坂から許昌まで来て、たいへん勉強になります。
できれば、もう少し楽な授業を希望したかったです。
「玉珠」
私は小さく妹を呼びました。
玉珠は私を見ます。
「陛下を困らせてはいけません」
「困ってるの?」
「たぶん――」
玉珠は陛下を見ました。
「陛下も、困ってるの?」
文若様が静かに息を吸いました。
元譲様は天井を見ました。
私は今度こそ、人生の短さについて考えました。
けれど陛下は、怒りませんでした。
ただ、弱々しく笑いました。
「そう見えるか?」
「うん」
玉珠は素直にうなずきました。
「姉上が困ってる時と、少し似てる」
陛下の目がほんの少し揺れた時、私は何も言えませんでした。
玉珠の言葉は、いつも刃に飾りがありません。
そのまま刺さります。
陛下は私たちに布と菓子をくださり、何か言いかけて、おやめになりました。
私たちは礼を取り、宮中を出てから、玉珠が私に尋ねます。
「姉上、陛下は玉珠たちを帰してくれないの?」
「帰してくださらないのではなく、帰せないのだと思います」
「皇帝陛下なのに?」
「皇帝陛下でも、できないことはあるようです」
「じゃあ、いちばん偉い人は誰?」
私は答えに迷いました。
父上。
丞相様。
皇帝陛下。
名前だけなら、答えは簡単です。
現実では、簡単ではありません。
「今のところ、私たちの行き先を決めているのは丞相様です」
「丞相様、やっぱり偉いんだね」
「ええ……」
「小さいのに」
「玉珠……」
「はい」
「それは、宮中でも言ってはいけません……」
許昌での日々は、静かに過ぎました。
私たちは丞相様の不在の間、子和様の管理下ではなく、ひとまず許昌の屋敷に置かれました。
文若様が差配し、元譲様が時折様子を見に来ます。
文若様は、必要な物を過不足なく整えました。
衣、食事、侍女、部屋、書物。
本当に過不足がありません。
過不足がないというのは、たいへん怖いことです。
こちらの欲しいものと、こちらに与えてよいものを、きっちり分けられている感じがします。
元譲様は、分かりやすく扉を開けて入ってきます。
「生きているか?」
挨拶が物騒です。
「おかげさまで」
「足りぬものは」
「父上への帰路でしょうか」
元譲様は顔をしかめました。
「それは足りぬものではなく、無いものだ」
たいへん正直です。
玉珠は元譲様になつきました。
理由はよく分かりません。
たぶん、怖い顔のわりに答えが分かりやすいからです。
玉珠は難しい大人より、分かりやすい大人が好きなのです。
ある日のことです。
私は廊下の向こうから、文若様と元譲様の声を聞いてしまいます。
立ち聞きするつもりはございませんでしたが、耳が勝手に職務熱心だっただけです。
「江東で、曹公が退かれた」
元譲様の声でした。
「火と疫が重なったと」
文若様が静かに答えます。
「軍の損耗は大きい」
「玄徳は?」
「生きている」
父上は、生きている……
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が妙な形に動きました。
喜びでしょうか?
怒りでしょうか?
安心でしょうか?
呆れでしょうか?
たぶん、全部です。
父上はまた生き延びた……
それはよいことです。
娘として、そう思うべきでしょう。
ですが、私は許昌におります。
玉珠もここにおります。
母上はどうなったのか、私はまだ知りません。
父上は生きている。
その言葉は、私の中で、祝報と嫌味の間に落ちました。
それから、しばらく後のことです。
丞相様が帰ってこられました。
赤壁で退かれたと聞いていたので、もう少し疲れた姿を想像しておりました。
しかし丞相様は丞相様でした。
背は相変わらず小さい。
そこは変わりません。
負けても伸びるものではないようです。
けれど、幕舎でお会いした時より、小さく見えませんでした。
敗れてなお、人の行き先を決める声をお持ちだからでしょう。
子和様も戻っておられました。
長坂で私たちを捕らえた方。
乱暴には扱わなかった方。
優しいとは言いませんが、ひどくもなかった方。
その子和様が、丞相様の横に控えていました。
「明珠」
丞相様が私を呼びました。
私は膝をつきます。
「はい」
「そなたは曹子和のもとへ入れ」
私はすぐには意味が分かりませんでした。
子和様のもとへ――
屋敷へ移る、ということでしょうか?
預かり先が変わる、ということでしょうか?
そう考えた私に、丞相様は次の言葉を落としました。
「曹純の室とせよ」
室――
部屋……
では、ないのでしょう。
たぶん――
玉珠の手が、私の袖を掴みました。
「姉上、室ってなに?」
私は答えられませんでした。
子和様は目を伏せています。
文若様は沈黙しておられます。
元譲様は何か言いかけて、やめました。
つまり、これは子どもが知らなくてよい言葉で、けれど子どもの私に向けられた命令なのです。
たいへん不親切です。
「妹は?」
自分の声が、思ったより硬く聞こえました。
丞相様は玉珠を見ました。
「幼い。しばらくは姉のそばに置け」
しばらく――
また、その言葉です。
今は。
当分は。
しばらくは。
大人の優しさには、たいてい期限がついております。
「承知いたしました」
子和様が答えました。
命じられた側の声でした。
私も、命じられた側です。
玉珠も、たぶん分からないまま命じられています。
この場で一番困っていないのは、命じた丞相様だけでございました。
玉珠が、小さく私に聞きました。
「姉上、子和様のおうちに行くの?」
「そうなるようです」
「また車?」
「おそらく」
「玉珠も一緒?」
私は玉珠の手を握りました。
「しばらくは」
玉珠はほっとしました。
「よかった」
よかった――
妹にとっては、それでよいのでしょう。
私と離れない……
それだけが、今の玉珠にとっての安心です。
けれど私は、子和様を見ました。
その方には、私より年上のご子息がいると聞いております。
つまり私は、その方の父上の室になるらしいのです。
人生とは、もう少し順番を守っていただけないものでしょうか?
長坂では荷車。
許昌では皇帝陛下。
今度は子和様の屋敷。
父上の娘であることは、父上の陣ではあまり役に立ちませんでした。
けれど許昌では、たいへんよく役に立ちました。
私の行き先を、私以外の方が決めるために……
その時の私は、子和様が何も言わず目を伏せた理由を、まだ知りませんでした。
劉玉珠です。
許昌に着きました。
とても大きなところでした。
姉上は、皇帝陛下のおうちで、丞相様が鍵を持っている場所だと言いました。
鍵を持っている人のおうちではないのでしょうか?
玉珠には、少し難しかったです。
それから、荀彧文若様と夏侯惇元譲様に会いました。
文若様は、とてもきれいに立っている方でした。
きれいすぎて、少しこわいです。
元譲様は、見た目がこわい方でした。
声も大きいです。
でも、聞いたことにはちゃんと答えてくれます。
元譲様は、お目々を戦場に置いてきて、もう食べたそうです。
すごいです……
父母からもらったものだから、粗末にできないのだと言っていました。
玉珠は、元譲様はとてもえらい方だと思いました。
皇帝陛下にも会いました。
陛下は、やさしい声の方でした。
でも、少し困っているように見えました。
姉上が困っている時と、少し似ています。
玉珠たちを父上のところへ帰してくれるのか聞いたら、陛下は答えてくれませんでした。
皇帝陛下なのに、できないことがあるそうです。
玉珠には、まだよく分かりません。
そのあと、丞相様が帰ってきました。
丞相様は、やっぱり玉珠とあまり変わらない大きさでした。
でも、みんな丞相様の言うことを聞きます。
丞相様は、姉上を子和様の室にすると言いました。
室って、何でしょうか?
お部屋のことでしょうか?
それなら、姉上のお部屋ができるということでしょうか?
でも、姉上は答えてくれませんでした……
子和様も、何も言いませんでした。
玉珠は、姉上と一緒にいていいそうです。
だから、少し安心しました。
でも、姉上の手は、いつもより冷たかったです……




