丞相様、思ったより小さくございませんか?
劉明珠でございます。
前回、私と玉珠は曹軍に捕らえられました。
父上の陣では荷車の上。
曹軍の陣では劉備玄徳の娘。
人間、所属先が変わるだけで扱いも変わるようです。
できれば味方側で確認していただきたかったところでございます。
さて、今回はいよいよ曹操孟徳様にお目通りいたします。
父上が逃げている相手です。
民が恐れている相手です。
曹軍の皆様が、その声を聞いただけで背筋を伸ばす御方です。
さぞ大きな方なのでしょう。
山のような方なのでしょう。
熊のような方なのでしょう。
立っているだけで地面が沈むような方なのでしょう。
ええ――
私もそう思っておりました。
実際にお会いするまでは……
丞相様は、チビでした。
いえ、まずは落ち着きましょう。
天下に名を轟かせる曹操孟徳様。
父上が逃げている相手。
民が震え、兵が従い、曹軍の将たちが一言で動く御方。
その方と対面することになったのですから、私は当然、もっと大きな姿を想像しておりました。
山のような肩。
熊のような腕。
虎のような目。
声を出せば馬が怯え、歩けば地面が沈む。
それくらいでなければ、父上が全力で逃げている理由が分かりません。
ですが、幕舎の中に入った私の目の前にいたのは――
チビでした。
たいへん失礼なことを申しております。
もちろん、口には出しておりません。
心の中でございます。
心の中まで曹軍に捕らえられては、たまったものではありません。
子和様に連れられ、私と玉珠は曹軍の陣へ入りました。
長坂の混乱は、まだ遠くで続いております。
兵は走り、馬は嘶き、奪われた荷が積まれ、捕らえられた民が座らされていました。
その中を、子和様が進むと兵たちが道を開けます。
偉い方は便利ですね。
前へ進みたい時、周りが勝手に退いてくださるのです。
父上も逃げる時に、荷車の方へ道を開けてくださればよかったのですが……
「姉上、丞相様って、どんな人?」
玉珠が私の袖を握ったまま、小声で尋ねました。
「とても偉い方です」
「子和様より?」
「おそらく」
「父上より?」
「今この場所では、たぶん」
玉珠は目を丸くしました。
「じゃあ、大きい人?」
私は答えました。
「そうかもしれません」
ええ――
そう思っておりました。
この時までは……
幕舎の前で、子和様が膝をつきました。
「曹公、劉備の娘二人を連れて参りました」
中から声が返ります。
「入れ」
落ち着いた、穏やかな声でした。
大声ではありません。
けれど、周囲の空気がぴたりと止まりました。
なるほど……
偉い方の声は、音量ではなく立場で響くようです。
私は玉珠の手を握り、幕舎の中へ入りました。
そして見ました。
丞相様を……
チビ――
危うく、声に出るところでした。
危ない。
本当に危ない。
目の前の方は、たしかに丞相様でした。
立派な髭。
鋭い目。
上等な衣。
周囲の将たちが、誰一人として気を抜いていない空気。
ですが――
私より、低い。
私は十三歳です。
父上に似たのか、女子としては背が高い方でございます。
当時の尺にして、およそ七尺二寸ほどはありましょう。
そして丞相様は、私より確実に低い。
玉珠もまた、父上に似たのか、年のわりには背が高い子でした。
それでも八つの妹と同じくらいというのは、なかなか衝撃でございます。
つまり――
チビ。
父上……
あなたは、この方から逃げておられるのですか……
いえ、人は背丈ではありません。
そうです。
きっとそうです。
針も小さいですが痛い。
蜂も小さいですが刺します。
蛇も細いものほど見失いやすく、踏めば噛まれます。
つまり丞相様は、天下を刺す針です。
やはり失礼ですね。
「劉備の娘か」
丞相様が私たちを見ました。
目は大きくありません。
けれど、見られた瞬間、背筋が凍りました。
チビなのに……
いえ、チビだから怖くないという話ではありません。
そこはすぐに分かりました。
この方は、背ではなく目で人を押さえる方です。
「はい、劉明珠にございます。こちらは妹の劉玉珠です」
私は頭を下げました。
玉珠も慌てて真似をします。
「ぎょ、玉珠です」
噛みました。
丞相様の口元が少し動きます。
笑ったのでしょうか?
それとも髭が揺れただけでしょうか?
「姉は十三か?」
「はい」
「妹は」
「八つです」
玉珠が袖を引きました。
「姉上、玉珠、ちゃんと言えた?」
「おおむね」
「おおむね?」
「かなり立派でした」
「よかった」
この状況で安心できる妹は、なかなか大物です。
あるいは、まだ状況が分かっていないだけです。
丞相様は玉珠を見て、それから私へ視線を戻しました。
「顔立ちは悪くないな」
初対面で、まず顔立ち……
劉備の娘として捕らえられ、父上の敵の前へ引き出され、最初に確認されるのが顔。
なるほど――
天下とは、思ったより俗なところで回っているようです。
「恐れ入ります」
本当は恐れ入る場面ではない気もします。
ですが、ここで「何を見ておいでですか、このチビ」と言えば、首と胴が別れる可能性がございます。
心の中だけにしておきます。
このチビ。
丞相様は、私の顔をじっと見ました。
「目元が玄徳に似ている」
私は、一瞬だけ返事を忘れました。
父上の面影。
それを、よりによって父上の敵から言われるとは思いませんでした。
「……父をご存じなのですか?」
「知らぬ仲ではない」
短い答えでした。
父上と丞相様。
仁君と呼ばれる方と、民が恐れる方。
逃げる方と、追う方。
その二人が、かつて同じ場所で言葉を交わしていた。
私は自分の顔に手を当てたくなりました。
この泥だらけの顔に、父上のどこが残っているのでしょうか?
できれば、荷車の確認を忘れるところ以外で似ていてほしいものです。
「玄徳はどこへ行った?」
丞相様が尋ねました。
「存じません」
「逃げたか」
短い……
たいへん短い……
敵の言葉というものは、余計な飾りがない分、刺さりやすいようです。
逃げた――
はい、おそらくその通りです。
けれど、娘の前でそれを言うのは、なかなか趣味が悪い。
しかもチビが言う。
「父は、民とともに南へ向かわれました」
私は答えました。
丞相様の目が細くなります。
「民とともに、か」
「はい」
「娘は置いて」
玉珠の指が私の袖に食い込みました。
私は息を吸いました。
チビ――
この人はチビです。
しかし今の一言は大きい。
本当に腹の立つチビです。
「私たちは輜重隊におりました」
「ならば、荷と一緒に取られたわけだ」
「分類としては、そうなります」
玉珠が私を見上げました。
「姉上、玉珠は荷物なの?」
「違います」
「でも、そうなりますって」
「今のは大人向けの嫌味です」
「いやみ?」
「覚えなくてよろしいです」
「でも姉上、よく言うよ?」
やめなさい、玉珠……
丞相様の前で、姉の日頃の言動を報告してはいけません。
丞相様が小さく笑いました。
笑いかたも、やはり小さい。
ただし、幕舎の中の空気は軽くなりません。
この方が笑っても、周囲は笑ってよいのか迷っております。
なるほど……
偉いチビの笑いは、周囲を困らせるようです。
「口が回る娘だ」
「荷車から落ちても、口だけは無事でございました」
「父に似たか」
「それは、父上に確認していただかないことには……」
「確認できればよいな」
また刺してきました。
このチビ、言葉の矢が多い。
丞相様は子和様へ顔を向けました。
「間違いないのか」
子和様が答えます。
「周囲の捕虜も、玄徳の娘二人が輜重隊にいたと申しております。年頃も合います」
「ふむ」
丞相様は私たちを眺めました。
売り物の馬を見る目ではありません。
かといって、迷子の子どもを見る目でもありません。
駒を見る目でした。
チビなのに、盤面が広い。
嫌な方です。
「母は糜夫人か?」
「はい」
「弟は阿斗」
「母上と一緒におりました」
そう答えた瞬間、胸が痛みました。
母上と弟は一緒。
父上は前方。
私と玉珠は丞相様の前。
家族というものは、こんなに綺麗に分かれるものなのでしょうか?
誰か、並べ方を間違えております。
丞相様は軽く指を動かしました。
たったそれだけで、近くの者が筆と木簡を用意します。
チビなのに、指の届く範囲が広すぎます。
「名を記せ。姉は劉明珠、妹は劉玉珠」
「はっ」
「他の捕虜と混ぜるな。傷を増やすな。女どもの中へ放り込むな」
子和様が頭を下げました。
「承知いたしました」
扱いが、さらに変わりました。
荷車の上では、穀物の袋の隣。
子和様の前では、劉備の娘。
丞相様の前では、記録される名。
なるほど……
名前というものは、敵の陣で急に役に立つことがあるようです。
できれば、父上の陣で使いたかったです。
その時、玉珠が小声で言いました。
「姉上」
「何です」
「丞相様、玉珠と同じくらいだね」
幕舎の中の空気が止まりました。
私は、玉珠の口を塞ぐべきだったと悟りました。
遅すぎます。
妹の無邪気さは、時に矢より速いのです。
子和様の眉が動きました。
近くの兵が息を呑みました。
私は頭の中で、これまでの短い人生を振り返りかけました。
ところが、丞相様は怒りませんでした。
穏やかに笑ったのです。
「子どもの言うことだ」
丞相様は玉珠を見ました。
「確かに、そなたと余はそう変わらぬな」
玉珠はぱっと顔を明るくしました。
「うん!」
玉珠――
そこは元気よく返事をするところではありません……
丞相様は、さらに笑いました。
「背で人を量るなら、余はずいぶん小さい男になる」
私は黙っておりました。
心の中では、たいへん同意しておりました。
もちろん、顔には出しておりません。
顔は本日もよく働いております。
丞相様は私へ目を向けました。
「だが、小さい男に捕らえられた気分はどうだ、玄徳の娘?」
最悪です……
そう答えるわけにもいきません。
「……たいへん、複雑でございます」
「そうであろうな」
丞相様は愉快そうに目を細めました。
小さい――
けれど、ご自身の小ささを笑える方でした。
そして、その小さな体で、私たちの行き先を決める方でした。
なるほど……
父上が逃げる理由が、少しだけ分かった気がいたします。
丞相様は木簡を持つ者へ命じました。
「許昌へ送れ」
許昌――
玉珠は分かっていない顔です。
「きょしょう?」
「都です」
「おうち?」
「違います」
「父上いる?」
「いません」
「母上は?」
「いません」
「阿斗は?」
私は少しだけ言葉に詰まりました。
「……いません」
玉珠の顔が曇りました。
丞相様は私たちを見ていました。
こちらの痛いところばかり見てくるチビです。
「漢室の血筋だ。陛下のお耳に入ることもあろう。身なりを整え、丁重に送れ」
陛下――
皇帝陛下。
父上が皇叔と呼ばれるなら、私たちはその親戚筋になります。
長坂で荷車から落ちた娘が、次は皇帝陛下のお耳に入るかもしれない。
忙しいですね、私の人生……
荷車から都まで、運送の幅が広すぎます。
「丞相様」
私は頭を下げたまま言いました。
「何だ?」
「妹と離されることはございますか」
玉珠の手に力が入りました。
丞相様は少し黙りました。
沈黙――
小さい方の沈黙は、なぜか長く感じます。
背は低いのに、間は長い。
たいへん不公平です。
「今は離さぬ」
今は――
その言葉が、はっきり耳に残りました。
未来は保証しない、ということですね。
たいへん丞相様らしい、親切と不親切を半分ずつ混ぜたお言葉です。
「感謝いたします」
私はそう言いました。
感謝してよいのか分かりません。
けれど、妹と今は離されない。
それだけで、頭を下げる理由になります。
丞相様は椅子に座り直しました。
座ると、さらに小さく見えます。
チビ――
いけません。
心の中が乱れております。
「怖くないのか?」
丞相様が言いました。
「怖くないと申せば、嘘になります」
「では、なぜ震えぬ?」
「妹が見ておりますので」
玉珠が私を見上げました。
「姉上、震えてるよ?」
玉珠――
そこは黙っていてください。
丞相様が声を出して笑いました。
「面白い娘だ」
面白い――
捕虜として、あまり良い評価ではありません。
珍しい鳥や、変わった獣にも使われそうな言葉です。
籠に入れられないことを祈ります。
「連れて行け」
丞相様の一言で、私たちの許昌行きは決まりました。
チビの一言で……
大きな馬車でもなく、重い門でもなく、ただ小さな体から出た一言で、私たちの道が変わりました。
子和様が私たちを促します。
「行くぞ」
帷幕をくぐる直前、玉珠が小声で聞いてきました。
「姉上」
「何です」
「丞相様、怒ってなかったね」
「器の大きい方なのでしょう」
「背は?」
「玉珠」
「うん?」
「それは、二度と言ってはいけません」
玉珠は不思議そうに首をかしげました。
「どうして?」
私は帷幕の向こうにいる丞相様を思いました。
小さい――
思ったよりずっと小さい。
私より低い。
玉珠と同じくらい。
でも、今の私たちの行き先を決めた方。
「小さい声でも、偉い方には届くことがあるからです」
玉珠は目を丸くしました。
「すごいね」
「ええ……たいへん困ったことに」
外へ出ると、夕方の風が泥のついた頬に当たりました。
許昌へ送られる……
父上のもとではなく。
母上のもとでもなく。
弟のもとでもなく。
あの、思ったより小さな丞相様の命令で。
用意された車を見て、私は思わず笑いそうになりました。
また車です。
荷車から落ちたばかりなのに、今度は許昌行きの車です。
ただし、今度は穀物の袋の隣ではありません。
劉備の娘として。
漢室の血筋として。
丞相様の命令で。
たいへん出世した荷物でございます。
玉珠が私の手を握りました。
「姉上、許昌に行ったら、父上に会える?」
私は答えられませんでした。
車の前で、子和様が兵に命じます。
「出立の支度を急げ。曹公の命だ。許昌へ送る」
許昌――
そこには皇帝陛下がおられる。
そして丞相様は言いました。
陛下のお耳に入ることもあろう、と……
私はこの時、ようやく理解いたしました。
長坂で荷車から落ちた不幸は、まだ始まりにすぎません。
次に待っているのは、父上の敵の都。
そして、父上の親戚であるはずの皇帝陛下でございます。
その皇帝陛下が、私たちを助けられる方なのか。
それとも、私たちと同じく、誰かの手の中にいる方なのか。
この時の私は、まだ知りませんでした。
劉玉珠です。
丞相様に会いました。
姉上は、丞相様はとても偉い方だと言いました。
父上より偉いかもしれないとも言いました。
だから玉珠は、大きい人だと思っていました。
でも、丞相様は玉珠と同じくらいでした。
姉上は、それを二度と言ってはいけないと言いました。
でも丞相様は怒りませんでした。
だから、丞相様は背は小さいけれど、器は大きい方なのだそうです。
器って、どこにあるのでしょうか。
背より大きいなら、ちょっと見てみたいです。
丞相様は、姉上の顔を見て、父上に似ていると言いました。
父上の敵なのに、父上の顔を覚えているそうです。
玉珠は少し不思議でした。
父上の陣では、姉上と玉珠がどこにいるか、あまり覚えられていなかったのに……
丞相様は、玉珠たちを許昌へ送ると言いました。
許昌には皇帝陛下がいるそうです。
皇帝陛下は、父上の親戚なのだそうです。
親戚なら、玉珠たちを帰してくれるのでしょうか。
でも姉上は、答えてくれませんでした。
丞相様は小さい声でも、みんなに届きました。
父上の声は、まだ聞こえません。
許昌に行ったら、聞こえるのでしょうか?
それとも、もっと遠くなってしまうのでしょうか?
玉珠には、まだ分かりません。




