捕らえた方が丁寧なのは、どういうことでしょうか?
劉明珠でございます。
前回、私は荷車から落ちました。
妹の手も、私の手から抜けました。
父上は前方。
母上も前方。
弟も前方。
そして私たち姉妹は、たいへん分かりやすく後方でございます。
長坂とは、後世では趙子龍殿が駆ける美談として語られるのでしょう。
ですが、荷車の周辺にも一応、人間がおりました。
今回は、その荷車の周辺でのお話です。
なお、私たちを拾った方は、父上の家臣ではございませんでした。
世の中、探してほしい人ほど来てくださらないものですね。
玉珠の手が、私の手から抜けました。
その瞬間、私の中で何かが切れました。
姉というものは、なるべく冷静であるべきです。
妹の前で泣かず、騒がず、怖くない顔をして、袖を掴ませておく。
ええ――
立派な心がけでございます。
ですが、妹が知らない兵の腕に抱え上げられ、土煙の向こうへ消えようとしている時まで、冷静でいろというのは少々無理がございます。
「玉珠!」
私は叫びました。
荷車の上ではありません。
半分横倒しになった荷車の脇で、布束と木箱の間から這い出しながらです。
髪には藁が絡み、膝は泥だらけ、片方の袖は裂けておりました。
劉備玄徳の娘としては、たいへん見栄えの悪い登場でございます。
ただ、長坂において見栄えを気にしている余裕のある者は、たぶん絵巻の中にしかおりません。
「玉珠! 返して!」
私の声に、近くの兵がこちらを向きました。
鎧が違います。
父上の兵ではありません。
母上の周りにいた者でもありません。
曹軍です。
なるほど……
最悪です。
もう少し段階を踏んでいただきたいところでした。
「子どもがいるぞ」
「こっちにもだ。逃がすな」
逃がすな――
私は、その言葉に腹が立ちました。
こちらは最初から逃げ遅れております。
父上の前方移動に置いていかれ、荷車に乗せられ、車ごとひっくり返り、妹まで持っていかれました。
逃がすな、ではありません。
まず逃げる機会をください……
兵の一人が、私の腕を掴みました。
指が強く食い込みます。
「放してください!」
「暴れるな」
「妹を返してください!」
「おとなしくしろ」
「おとなしくして妹が返るなら、とっくにしております」
兵が眉をひそめました。
十三歳の捕虜に口答えされるとは思わなかったのでしょう。
申し訳ございません。
口だけは、荷車から落ちても無事でございました。
私は腕を振り払おうとしました。
もちろん、振り払えません。
相手は鎧を着た大人の兵です。
こちらは荷車から転げ落ちた十三歳です。
勝負として成立しておりません。
その時、後ろから声が飛びました。
「乱暴に扱うな」
兵の手が、ぴたりと止まりました。
道の向こうから、馬に乗った男が近づいてきます。
土埃の中でも姿勢が崩れず、周囲の兵が自然に道を開けました。
先ほど見た趙子龍殿とは違います。
白い馬でもありません。
けれど、兵が従う空気は同じでした。
偉い方です。
困りました……
偉い敵ほど面倒なものはございません。
男は私を見下ろしました。
鋭い目でした。
泣いている子どもを慰める目ではありません。
戦場で、拾ったものの価値を見定める目でございます。
たいへん感じが悪い。
「怪我は?」
短い問いでした。
私は一瞬、答えに迷いました。
敵です。
妹を連れて行った側の人間です。
素直に返事をする理由はございません。
ただ、膝から血が出ているのは事実でした。
袖も裂け、手のひらも擦りむいております。
この状態で「無傷でございます」と言うのは、皮肉ではなくただの見栄です。
「妹ほどではありません」
「妹がいるのか」
「今、あなた方の兵が抱えて行きました」
男の目が横へ動きました。
「子どもを連れている者は?」
すぐに兵が応じます。
「こちらです」
人垣の向こうから、玉珠の泣き声が聞こえました。
「姉上! 姉上!」
生きています。
その声だけで、私は足から力が抜けそうになりました。
ですが、ここで座り込めば負けた気がします。
何に負けるのかは分かりません。
たぶん、戦場と、荷車と、父上の配置判断にです。
玉珠は兵に抱えられていました。
暴れたのか、髪がほどけ、頬に泥がついております。
けれど血は見えません。
私は息を吐きました。
「玉珠!」
「姉上!」
玉珠が私へ手を伸ばしました。
兵が困った顔で男を見ます。
男は少しだけ眉を動かしました。
「姉妹なら離すな。泣かせると余計に手間が増える」
たいへん実務的な理由でございました。
優しさではありません。
決して優しさではありません。
けれど、その命令で玉珠は私のところへ下ろされました。
玉珠は飛びついてきました。
私は受け止めきれず、少しよろけます。
姉の威厳というものは、泥の上ではよく滑ります。
「姉上、こわかった……」
「私もです」
「姉上も?」
「もちろんです」
「でも、顔がこわくないよ……」
「それは顔が頑張っているからです」
玉珠は涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、こくりとうなずきました。
「姉上の顔、えらいね……」
ええ――
私の顔は、本日いちばん働いております。
男が馬上から私たちを見ていました。
その表情は変わりません。
「名は?」
私は玉珠を抱えたまま、男を見上げました。
ここで名乗るべきか?
少し迷いました。
ただの民の娘と思われた方がよいのか?
劉備玄徳の娘だと知られた方がよいのか?
普通に考えれば、敵に身分を明かすなど愚かです。
しかし、今の私たちには逃げる足も、守ってくれる兵も、父上の姿もございません。
黙っていれば、荷物と同じようにまとめられるだけです。
荷車の上から荷扱い。
捕まっても荷扱い。
それは少々、腹が立ちます。
私は背筋を伸ばしました。
泥だらけの背筋です。
伸ばしたところで見栄えは戻りませんが、気持ちの問題でございます。
「私は劉明珠。こちらは妹の劉玉珠にございます」
男の目が細くなりました。
「劉?」
周囲の兵が、ざわめきました。
玉珠が私の袖を握ります。
今度はちゃんと私の袖です。
「父は、劉備玄徳です」
ざわめきが、はっきり変わりました。
先ほどまで私たちは、荷車の脇に転がっていた子どもでした。
ところが父上の名を出した途端、兵たちの目つきが変わったのです。
なるほど――
父上の娘であることは、父上の陣ではあまり確認されませんでした。
曹軍では、たいへんよく確認されるようです。
味方より敵の方が、血筋を丁寧に数える場合がある。
長坂で得た、あまり嬉しくない学びでございます。
男は馬を下りました。
「劉備の娘だと?」
「そう申し上げました」
「証は」
「この状況で印綬を持っている十三歳がおりましたら、むしろそちらを褒めていただきたいです」
兵の一人が、口元を引きつらせました。
男は笑いませんでした。
少しもです。
冗談の通じない方でした。
敵としては正しいのでしょうが、会話相手としては困ります。
「母は?」
「糜夫人です」
「弟は?」
「阿斗です。母上と一緒に前方へ」
そこまで言って、私は息を止めました。
母上と弟は一緒……
父上は前方に逃げている……
先ほど玉珠に答えた言葉が、自分に返ってきました。
前です。
全部、前です。
男はしばらく私を見ていました。
それから、周囲へ命じます。
「この二人を他の捕虜と混ぜるな。女どもの方へも回すな。水を与えろ。怪我を見ろ」
扱いが変わりました。
良くなった、と言ってよいのでしょうか。
もちろん、自由にはなっておりません。
助かったわけでもありません。
父上のもとへ返される気配もございません。
ただ、腕を引きずられることはなくなり、玉珠は私の隣に戻り、水まで出されました。
捕らえた側の方が丁寧なのは、どういうことでしょうか。
歴史の神様――
もしお暇でしたら、説明をお願いいたします。
玉珠は木椀を両手で持ち、少しずつ水を飲みました。
「姉上、この人たち、悪い人?」
たいへん答えにくい質問です。
「敵です」
「敵は悪い人じゃないの?」
「悪い人の場合もあります。そうでない場合もあります」
「じゃあ、この人たちは?」
私は男を見ました。
私たちを捕らえた人。
妹を泣かせた人。
しかし、兵を止め、水を出させ、姉妹を離さないよう命じた人。
最悪の出会いです。
ただ、最悪の扱いではありませんでした。
それがまた、腹立たしい。
「まだ分かりません」
「ふうん」
玉珠は難しい顔をしました。
たぶん分かっていません。
それでいいのです。
男が近くの兵に何かを確認しています。
断片的に、言葉が聞こえました。
「輜重は確保したか」
「かなりの数を」
「女子どもは分けろ」
「劉備の娘二人も?」
「この二人は曹公へ」
曹公――
私はその名を聞いて、椀を持つ手に力が入りました。
曹操――
父上が逃げている相手。
民が恐れている相手。
今、この戦場でいちばんこちらに来てほしくない方。
そこへ、私たちは連れて行かれるらしい……
玉珠が小さく首をかしげました。
「姉上、そうこうって誰?」
「……とても偉い方です」
「父上より?」
「今この場所では、たぶん」
玉珠の目が丸くなりました。
「じゃあ、その人にお願いしたら、おうちに帰れる?」
私は答えられませんでした。
丞相様にお願いする。
なんと無邪気で、恐ろしい発想でしょう。
男がこちらへ戻ってきました。
「歩けるか?」
「妹は疲れております」
「馬に乗せる」
「どちらへ?」
「曹公のもとだ」
「父上のもとではなく?」
分かっていて聞きました。
男は静かに答えます。
「ここは曹軍の中だ」
たいへん分かりやすい説明でございます。
分かりやすい説明ほど、時に残酷です。
私は玉珠の手を握りました。
今度は、こちらから。
「あなたのお名は?」
男は短く答えました。
「曹純、字は子和だ」
曹純――
その名を、私はこの時初めて聞きました。
後に知ることになります。
長坂で父上を追い、輜重を奪い、そして劉備玄徳の娘二人を捕らえた将であると……
つまり、私たち姉妹の人生を荷車ごと別の道へ押し出した方でございます。
子和様は、私たちを乱暴には扱いませんでした。
それは事実です。
ですが、優しかったとも申しません。
なにしろ、出会いの場所が長坂です。
状況が捕虜です。
こちらは泥まみれで、妹は泣いていて、父上は前へ行っております。
第一印象を良くしろという方が無理でございます。
子和様は兵に命じました。
「劉備の娘二人を、曹公のもとへお連れする」
玉珠が私の袖を握り直しました。
「姉上、曹公って、怖い?」
私は少し考えました。
父上は仁君。
母上は烈女。
弟は皇帝になる子。
そして私は、今から丞相様に会う捕虜。
たいへん豪華な人物紹介です。
できれば参加したくありませんでした。
「玉珠」
「うん」
「怖い時は、袖を掴んでいなさい」
「うん」
私は玉珠の手を包みました。
子和様の兵が、私たちの前に馬を引いてきます。
戦場の土煙の向こう、旗が揺れていました。
その先に、丞相様がいる。
私はこの時、ようやく理解いたしました。
荷車から落ちたくらいで、今日の不幸が終わるとは限らないのだと……
劉玉珠です。
知らない兵の人に抱えられた時、もう姉上に会えないのかと思いました。
でも、姉上はちゃんと来てくれました。
泥だらけで、袖も破れていて、少しこわい顔をしていました。
姉上の顔は、やっぱりえらいです。
子和様という人は、こわそうでした。
でも、水をくれました。
姉上と離れないようにもしてくれました。
だから、悪い人なのか、いい人なのか、玉珠にはまだ分かりません。
ただ、次に会う人は曹公という、とても偉い人だそうです。
姉上は、父上より偉いかもしれないと言いました。
では、その人にお願いしたら、父上のところへ帰れるのでしょうか?
……でも、姉上は、答えてくれませんでした。




