父上、荷車の確認はお済みでしょうか?
劉明珠でございます。
史書に名は残っておりませんが、だからといって存在しなかったわけではございません。
ただ、後世の皆様が英雄と美談でお忙しかっただけでございます。
父は仁君、母は烈女、弟は皇帝――
たいへん立派な家族ですね。
私だけ、紹介欄の端で荷車に揺られております。
今回は、長坂の少し前からお話しいたします。
趙子龍殿が駆け、母上が覚悟を決め、弟が救われる、あの有名な場面です。
――なお、私と妹もそこにおりました。
誰も見ていなかっただけでございます。
長坂の戦いに、私もおりました。
ただし、荷車の上です。
後世の皆様が思い浮かべる長坂には、父上の敗走があり、母上の覚悟があり、趙子龍殿の奮戦があり、弟の救出があるのでしょう。
そこに、娘二人はたぶん出てまいりません。
仕方がございません。
史書というものは、忙しいのです。
英雄の見せ場を記すだけで手いっぱいだったのでしょう。
ですが、名前が残っていないからといって、私たちに名前がなかったわけではございません。
ただ、後世の方々が書き忘れただけでございます。
ですので、今回は私を劉明珠ということにいたします。
妹は劉玉珠。
はい――
今、決めました。
父は劉備玄徳。
世に仁君と呼ばれる方です。
母は糜夫人。
後に烈女として語られる方です。
弟は阿斗。
のちに皇帝となる子でございます。
そして私は十三歳。
妹の玉珠は、まだ母上の袖を握って歩きたい年頃でした。
その日の私たち姉妹は、父上のそばにはおりませんでした。
母上の腕の届く場所にも、趙子龍殿の馬の影にもおりません。
輜重隊の荷車に乗っておりました。
穀物の袋と鍋。
布束と折れた槍柄。
よく分からない木箱。
その隣に、劉備玄徳の娘二人。
たいへん分かりやすい配置でございます。
何が大切にされ、何が後回しにされるのか、子どもにも見えるほどに……
「姉上、どこまで行くの?」
玉珠が私の膝に寄りかかって尋ねました。
頬はまだ丸く、目だけが不安そうに揺れております。
けれど声は明るい。
この子はまだ、逃げるという言葉の重さを知りません。
「南へ参ります」
「南って、遠いの?」
「たぶん、とても遠いです」
「母上も一緒?」
「もちろんです」
私は迷わず答えました。
迷えば、玉珠は気づきます。
妹というものは、姉が隠した不安だけは妙に拾うのです。
道は人で埋まっておりました。
老人、子ども、荷を背負う女、牛を引く男、泣き疲れた赤子。
兵は声を枯らし、馬は泥を蹴り、車輪は石に引っかかっては嫌な音を立てます。
それでも、誰かが言いました。
「玄徳様は、民をお捨てにならぬ」
別の者が、息を切らしながらうなずきます。
「ありがたい御方じゃ。あの方について行けば、きっと助かる」
父上は民を捨てない方でございます。
それは、まことに立派なことです。
ただ、その民の中に娘二人が含まれているかどうかは、この時点でまだ確認が取れておりませんでした。
「姉上、父上はすごいね」
玉珠が無邪気に笑いました。
「そうですね」
「みんな、父上のこと好きなんだね!」
「そうでしょうね」
「じゃあ、怖くないね!」
なかなか大胆な結論です。
人に好かれている方の軍だからといって、曹操軍の馬が道を譲ってくれるわけではございません。
けれど、八つか九つの妹にそんなことを言ってどうなりましょう。
「怖い時は、私の袖を掴んでいなさい」
「うん」
玉珠は素直に私の袖を握りました。
小さな指が布をつまむ感触に、私は少しだけ背筋を伸ばします。
姉というものは不便です。
自分が怖くても、先に怖がる席は妹に譲らなければなりません。
泣くのも、震えるのも、できれば妹が眠ってからにしたいところです。
前方に母上の姿が見えました。
人垣の向こうで、弟を抱いておられます。
阿斗は布に包まれ、小さな顔もよく見えません。
玉珠が身を乗り出しました。
「母上だ……阿斗もいる」
「落ちます」
私は妹の帯をつかんで引き戻しました。
「阿斗、いいなあ……母上に抱っこされて」
「弟はまだ小さいですから」
「玉珠も小さいよ……」
「玉珠は私の隣にいます」
「姉上の隣も好き」
そう言われると、皮肉屋にも返す言葉がありません。
皮肉というものは、相手が真っ直ぐすぎると届かないのです。
届かないだけならよいのですが、こちらの胸に戻って刺さることがあります。
私は玉珠の髪についた藁を取ってやりました。
「それなら、ちゃんと座っていなさい。転がると、穀物の袋と間違えられます」
「玉珠は袋じゃないよ」
「知っています。袋よりよく喋ります」
玉珠は口を尖らせ、すぐに笑いました。
笑えるうちは大丈夫……
私はそう思うことにしました。
その時、白い馬が横を抜けていきました。
馬上の人は、前だけを見ております。
鎧は埃をかぶっても乱れず、手綱を握る手に迷いがありません。
周囲の兵が、自然と道を開けました。
「趙子龍様だ!」
玉珠の目が輝きます。
趙子龍殿――
父上に仕える勇将。
誠実で、強く、見目もよい。
後世で好かれる条件を、すでにいくつも備えておられました。
「かっこいいね!」
「そうですね」
「趙子龍様がいれば、だいじょうぶ?」
「頼もしい方です」
嘘ではございません。
趙子龍殿は頼もしい方でした。
ただし、どれほど頼もしい方にも腕は二本しかありません。
馬の背に乗せられる人数にも限りがあります。
その限りある場所に、誰が入るのか……
父上のそばにいる者。
母上の腕に抱かれている者。
大声で名を呼ばれる者。
物語の真ん中へ運ばれるのは、いつもそういう者からです。
荷車の上で膝を抱えている娘は、どうしても端に寄ります。
絵巻に描くにも、場所を取りますからね。
趙子龍殿の背が遠ざかっていきます。
玉珠はいつまでも見送っておりました。
「姉上、趙子龍様は阿斗のところへ行くの?」
「おそらく……」
「じゃあ、阿斗は安心だね」
「ええ……」
「玉珠たちは?」
その問いは、まっすぐ私の胸に入りました。
私は十三歳です。
剣は持っておりません。
馬にも乗れません。
戦のことなど、聞いた話でしか知りません。
それでも玉珠は、私を見るのです。
だから私は、少しだけ笑いました。
「私がいます」
玉珠の顔がぱっと明るくなりました。
「うん、姉上がいる!」
無邪気とは、時に残酷な信頼の形です。
私はその信頼に見合うほど強くありません。
できることといえば、妹を隣に座らせ、袖を握らせ、怖くない顔をすることくらいでした。
日が傾きかけた頃、隊列の後ろが騒がしくなりました。
初めは、荷が落ちたのだと思いました。
次に、馬が暴れたのだと思いました。
三度目の叫びで、違うと分かりました。
「曹軍だ!」
声が、道を裂きました。
荷車の上の空気が変わります。
御者が手綱を引き、馬が首を振りました。
隣の車では、女が子を抱えて飛び降りています。
袋が破れ、粟が道にこぼれました。
兵が怒鳴り、民が押し合い、牛が鳴きます。
玉珠の指が、私の袖に食い込みました。
「姉上……」
「座って」
「曹軍って、悪い人?」
「少なくとも、こちらに挨拶をしに来たわけではなさそうです」
「父上は?」
「前におられます」
「母上は?」
「前です」
「阿斗も?」
「前です」
玉珠の顔から、少しずつ血の気が引いていきました。
ようやく、位置というものの残酷さに気づいたのでしょう。
前と後ろ。
近いか、遠いか。
戦場では、それが愛情より先に人を分けます。
荷車が急に動き出しました。
御者は前へ進めようとしましたが、人波に阻まれ、車輪が泥にはまりました。
後ろから別の荷車がぶつかり、私たちの乗った車が斜めに押されます。
「車を捨てろ!」
誰かが叫びました。
車を捨てる――
なるほど……
荷物は捨てるものです。
では、荷車の上にいた娘二人は何なのでしょう。
尋ねたいところでしたが、今は誰もこちらを見ておりません。
劉備玄徳の娘です、と名乗るには声が足りず、漢室の血筋です、と訴えるには場所が悪すぎました。
戦場では、血筋よりも馬の足が速いのでございます。
私は玉珠を抱き寄せ、荷車の縁に手をかけました。
「降ります。私が先に」
「いや……」
「玉珠」
「こわい……」
「怖い時は、私の袖を掴むのでしょう」
「うん……」
「では、離してはいけません」
玉珠は涙をためたまま、大きくうなずきました。
その瞬間、横から馬が突っ込みました。
誰の馬かは分かりません。
味方か敵かも見えません。
ただ、黒い腹、跳ねる泥、鉄の臭いだけが迫ってきました。
御者が悲鳴を上げます。
車軸が嫌な音を立て、荷車が大きく傾きました。
木箱が崩れ、鍋が飛び、布束が私たちに覆いかぶさります。
私は玉珠の肩を掴みました。
掴んだはずでした。
「姉上!」
玉珠の声が、すぐ近くで聞こえました。
けれど姿が見えません。
布を払いのけると、荷車は半分横倒しになり、道は人と馬で埋まっております。
小さな手が、私の袖を握っていました。
よかった……
そう思った直後、その手が強く引かれました。
私ではない腕が、反対側から玉珠を抱え上げたのです。
兵の腕でした。
味方か、敵か。
それを確かめる余裕はありません。
「待って!」
声が出ました。
冷静な姉の声ではありませんでした。
土煙の向こうに、玉珠の顔が一瞬だけ見えました。
泣きそうな目。
開いた口。
私を呼ぼうとする唇。
私は手を伸ばしました。
指先が触れました。
次の瞬間、馬蹄が地面を叩き、砂が跳ね上がります。
玉珠の手が、私の手から抜けました。
劉玉珠です。
姉上は、怖い時は袖を掴んでいなさいと言いました。
だから、ちゃんと掴んでいました。
父上は前にいて、母上も前にいて、阿斗も前にいました。
趙子龍様も、きっとそちらへ行ったのだと思います。
でも、玉珠には姉上がいました。
だから大丈夫だと思っていました。
馬が来るまでは――
荷車が傾いて、布が落ちて、何も見えなくなりました。
それでも、袖だけは離さないつもりでした。
だって、約束しましたから……
なのに、誰かの腕が私を抱き上げました。
――それは、姉上ではありませんでした……




