魏公様、江東へ行かれても父上を読ませるのですか?
劉明珠でございます。
文烈様が江東へ向かわれ、鍵も江東へ向かいました。
父上の文を入れた箱の鍵でございます。
私の手元には紐だけが残りました。
たいへん安全です。
安全すぎて、何も開きません。
夫もいない。
妹もいない。
鍵もない。
残っているのは、寧珠と、腹の子と、曹肇と曹纂と、やけに広くなった曹休家の奥でございます。
こうして見ると、私はずいぶん立派な奥方になったようです。
身重で、留守を守り、幼子を抱き、継子たちを見て、父上の文の箱を開けられずにおります。
たいへん整った不自由でございます。
褒めておりません。
ところが、魏公様という方は、箱が開かぬ程度では諦めてくださらないようです。
ご本人は文烈様と同じく江東へ向かわれたはずなのに、紙だけは曹休家の奥へ入り込んでまいりました。
扉を閉めても、文が入る。
鍵を持ち去っても、命令が届く。
人の家の奥へ入るのが、たいへんお上手でございますね♪
褒めておりません。
今回、魏公様はおっしゃいました。
父上を読め、と……
ただし、父としてではなく――
益州の主として……
たいへん親切なご指定でございます。
おかげで私は、劉備玄徳という男を、娘としてではなく、敵方にいる曹休文烈の妻として読むことになります。
益州を得た父上。
いずれ漢中を見る父上。
荊州を揺さぶられれば、きっと忙しくなる父上。
娘二人を置いても足を止めなかったのに、地図の端を突かれれば走り出すであろう父上。
たいへん分かりやすい仁君でございます。
褒めておりません。
私は父上を皮肉るつもりでした。
けれど筆を持った時、気づいてしまうのです。
これは、ただの悪口ではございません。
魏公様への献策でもあるのだと……
文烈様――
あなたが箱の鍵を持って江東へ行かれたのに、魏公様は別の鍵で私を開けに来られました。
そしてどうやら、その鍵は最初から、私の中にあったようでございます……
文烈様が江東へ向かわれた翌日、曹休家の奥には、たいへん正しい静けさが満ちておりました。
寧珠は乳母に抱かれ、眠ったり泣いたりを繰り返しております。
曹肇は、文烈様から留守を頼まれたせいで、朝から眉間に皺を寄せております。
曹纂は兄の真似をして真面目な顔をしておりますが、真面目な顔に飽きるのが少し早いです。
玉珠はおりません。
菓子の皿も減りません。
鼻へ向かう指もありません。
止める叫び声もありません。
たいへん平和です。
平和とは、こんなにも腹の立つものだったのですね。
知りませんでした……
「母上、お休みください」
曹肇が言いました。
たいへん立派な声です。
立派すぎて、文烈様に似ております。
困ります……
「休めと言われて休めるほど、私は素直ではございません」
「では、座ってください」
「それは休めという意味では?」
「父上に叱られます」
この子は、覚えてはいけない言葉を覚えました。
文烈様の名を出せば私が黙ると、早くも学んでおります。
曹休家の将来は明るいのか暗いのか、判断に迷います……
私は仕方なく腰を下ろしました。
腹へ手を添えると、まだ小さな命は静かです。
腹の中にいるうちから空気を読むなら、たいへん賢い子でございます。
外へ出てからも、その調子で頼みたいものです。
そこへ、門の方が騒がしくなりました。
家令が奥へ入り、膝をつきます。
「奥方様……魏公府より、使者にございます」
私は眉を上げました。
「魏公様は、江東へ向かわれたはずでは?」
「はい、出立前に残された封文とのことにございます」
なるほど……
魏公様ご本人は江東へ。
文烈様も江東へ。
父上の文を入れた箱の鍵も江東へ。
それなのに、魏公様の紙だけは曹休家の奥へ入ってくる。
扉を閉めても、窓から文が入る。
鍵を持ち去っても、紙で隙間をこじ開ける。
たいへん見事な侵入でございます。
褒めておりません。
「お通ししてください」
「母上」
曹肇が立ち上がりました。
「私もおります」
「はい……では、中くらいの家長殿。そこで少し怖い顔をしていてください」
「中くらい……」
「小さい方がお好みですか?」
曹肇は黙りました。
曹纂が笑いかけて、慌てて口を押さえます。
笑ってよいのです。
この家は、いま笑い声が少し足りません。
使者は魏公府の者で、礼を整えて封文を差し出しました。
「魏公様より、劉氏明珠様へ」
劉氏明珠――
たいへん便利な呼び名でございます。
劉備玄徳の娘。
曹休文烈の妻。
曹家の奥に置かれた火種。
女一人に、どれほど札を貼れば気が済むのでしょう。
そのうち背中に貼る場所がなくなります。
私は封を切りました。
文は、魏公様らしく短いものでした。
玄徳、益州を得たり。
益州定まれば、いずれ漢中を見る。
張魯と睦まじく並ぶ男ではあるまい。
唇亡びて歯寒し。
劉氏明珠、読め。
父としてではなく、益州の主として読め。
箱を開けよとは言わぬ。
玄徳を読め。
私は、しばらく紙を見つめました。
箱を開けよとは言わぬ――
たいへん親切です。
父上の文を入れた箱は、文烈様が鍵を持って江東へ向かわれました。
開けたくても開きません。
けれど魏公様は、箱ではなく、私の頭を開けに来られたようです。
しかもご本人不在で……
怖い方です。
本人がいなくても人を動かす。
紙一枚で曹休家の奥へ入り込み、身重の女の脳みそをかき回す。
たいへん効率的でございます。
褒めておりません。
「母上?」
曹肇が、不安そうに呼びました。
「魏公様は、父上を読めとおっしゃっています」
「文烈様を、ですか?」
「いいえ」
私は、紙の上の玄徳という字を見ました。
「益州の主になった、私の父上でございます」
曹肇は黙りました。
曹纂も、今度は笑いません。
父上――
この家でその言葉を使うと、たいへん面倒です。
曹肇と曹纂の父上は文烈様。
私の父上は劉備玄徳。
寧珠の父上も文烈様。
腹の子の父も文烈様。
玉珠の父上は、やはり劉備玄徳。
同じ言葉が、違う男を指して、違う傷を突く。
家とは、言葉まで混ぜるものなのですね……
たいへん迷惑です。
私はもう一度、文を読みました。
益州定まれば、いずれ漢中を見る。
張魯と睦まじく並ぶ男ではあるまい。
唇亡びて歯寒し。
意味は分かります。
唇がなくなれば、むき出しになった歯が寒い。
近い国、近い土地、互いに守り合うものの一方が失われれば、残った方も危うくなる。
漢中は、益州の北にあります。
父上が益州を手に入れたなら、いずれそこを見るでしょう。
張魯殿と父上が、仲良く菓子を分け合うとは思えません。
まして、その漢中へ魏公様が手を伸ばせば、父上は笑って座ってはいられない。
娘二人を長坂に置いても足を止めなかった方が、益州の唇を突かれれば、きっと慌てて振り向く。
たいへん分かりやすい父でございます。
褒めておりません。
「筆を」
私は言いました。
曹肇が顔を上げます。
「書かれるのですか?」
「読めと言われました。読んだら、返さねばなりません」
「でも、父上は……」
そこで曹肇は言葉を止めました。
文烈様のことを言いたいのか、玄徳殿のことを言いたいのか、自分でも迷ったのでしょう。
賢い子です。
迷えることは、時々、真っ直ぐ走るより大切でございます。
「文烈様は、戻るとおっしゃいました」
私は紙を広げました。
「ならば、戻る場所を守らねばなりません」
筆を取った時、腹の奥がほんの少しだけ重くなりました。
気のせいかもしれません。
けれど、私は腹へ一度手を添え、それから書き始めました。
魏公様へ。
劉氏明珠、拝読いたしました。
益州を得た父上が、いずれ漢中を見るであろうことは、私のような女にも分かります。
張魯殿と父上が、仲睦まじく隣り合うとは思えません。
父上は人に迎えられるのはお上手ですが、迎えられた先をそのまま相手のものとして大人しく眺めるのは、あまりお得意ではないようです。
唇亡びて歯寒し。
漢中が張魯殿のままでも寒く、魏公様に取られても寒い。
父上にとって、たいへん困った唇でございましょう。
ならば魏公様。
先に漢中を押さえ、そのまま益州へ圧をかけられるのがよろしいかと存じます。
できれば、荊州からも揺さぶるのがよろしいでしょう。
漢中と荊州を同時に見せられれば、父上は益州に座って笑っているわけにはまいりません。
娘二人を置いても足を止めなかった方が、地図の端を突かれれば走り出す。
たいへん分かりやすい仁君でございます。
褒めておりません。
そこまで書いて、私は手を止めました。
紙の上にあるのは、父上への皮肉です。
そのはずです。
娘を置いていった男への嫌味です。
迎えられた先で主になる男への、たいへん正当な悪口です。
けれど、どう見てもこれは、魏公様への献策でもございました。
漢中を押さえろ。
荊州を揺さぶれ。
益州へ圧をかけろ。
父上の嫌がる場所を、私は曹家の側へ差し出している。
劉備玄徳の娘が……
曹休文烈の妻として……
私は筆を握る手を見ました。
長坂で玉珠を握った手。
寧珠を抱く手。
腹の子を守る手。
父上の文の箱の紐を持つ手。
そして今、父上の急所を書いている手。
たいへん器用になったものです。
どこでこんな嫌な使い方を覚えたのでしょう。
「母上」
曹肇の声がしました。
私は顔を上げませんでした。
「それは……魏公様のお役に立つ文ですか?」
「たぶん」
「玄徳殿には、不利な文ですか?」
「たぶん」
「では、母上は……」
曹肇は、そこで言葉を飲み込みました。
幼いのに、言ってしまえば戻れない言葉を知っております。
文烈様の子です。
「曹休家の奥方でございます」
私は代わりに言いました。
「今の私が、それ以外の何であると?」
曹肇は深く頭を下げました。
「母上」
その一言で、私は少し息を吐きました。
母上――
そう呼ぶ子が、ここにいる。
ならば私は、曹休家の母なのでしょう。
ただし、劉備玄徳の娘でなくなったわけではございません。
むしろ、劉備玄徳の娘だからこそ、父上の痛いところが見えてしまう。
そして曹休家の母だからこそ、それをこちら側へ書いてしまう。
魏公様――
火種は、炉になったのでしょうか?
それとも、焼け残った薪が、自分の父を燃やす場所を指しているだけでしょうか?
どちらにしても、たいへん趣味が悪うございます。
褒めておりません。
私は文を書き終え、使者へ渡しました。
使者は丁寧に受け取り、それからもう一つ、小さな封を差し出しました。
「奥方様……魏公様より、返答後に開けるよう申しつけられております」
私は目を細めました。
返答後――
出立前に、そこまで読んでおられたのですか?
魏公様は江東へ向かいながら、曹休家の奥で私が筆を止める場所まで数えていたようです。
たいへん暇なのでしょうか?
いえ、暇なはずがありません。
忙しいのに、こういうことをする。
なお悪いです。
私は封を切りました。
中の文は、さらに短いものでした。
読めておる。
玄徳の娘としてではない。
文烈の妻としてだ。
火種は、炉にもなる。
私は紙を持つ指に、力が入りました。
文烈様は江東にいる。
鍵も江東にある。
玉珠は夏侯家。
父上は益州。
魏公様も江東。
それなのに私は、曹休家の奥に座ったまま、魏公様に見抜かれております。
玄徳の娘としてではない。
文烈の妻として。
それは褒め言葉でしょうか?
それとも、檻の名札でしょうか?
分かりません……
分かりませんが、ひとつだけ、分かってしまったことがあります。
父上を読めと言われて、私は父上の味方をしませんでした。
文烈様――
あなたが箱の鍵を持って江東へ行かれたのに、魏公様は別の鍵で私を開けてしまわれました。
そしてその鍵は、どうやら私の中に、最初からあったようでございます……
劉玉珠です。
元譲様の家で、今日は「唇亡びて歯寒し」という言葉を聞きました。
玉珠は最初、唇がなくなったらごはんが食べにくいのではないかと思いました。
歯も寒いかもしれませんが、汁物もこぼれます。
菓子も落ちます。
それはたいへん困ります。
そう言ったら、元譲様に見られました。
片目で、じっと……
玉珠は、すぐに手を下ろしました。
鼻ではありません。
唇のことを考えていただけです。
指が少し上へ行ったのは、唇の場所を確かめようとしただけです。
元譲様は信じていない顔でした。
大人は疑り深いです。
姉上が、魏公様へ文を書いたそうです。
父上が益州を得たので、いずれ漢中を見るだろう、と。
漢中を押さえ、荊州も揺さぶれば、父上は動くだろう、と。
玉珠には、地図のことは少し難しいです。
でも、ひとつだけ分かりました。
父上は、娘の手を離しても走れました。
けれど、益州の北や荊州をつつかれたら、またきっと走るのです。
娘よりも、土地の方が父上を振り向かせる。
姉上は、それを読んでしまいました。
姉上は、父上の娘です。
だから父上の痛いところが分かります。
でも姉上は、文烈様の妻です。
だから、それを魏公様へ書いてしまいました。
玉珠は、少し怖くなりました。
姉上は父上を嫌っているだけではありません。
姉上は、もう曹休家を守る人になっています。
父上の娘なのに……
父上の味方ではなくなっている……
これは、悪いことなのでしょうか?
それとも、生きているということなのでしょうか?
玉珠にはまだ分かりません。
数え十四歳なので、少し分かることは増えました。
でも、分からないことも増えました。
鼻の穴は二つなのに、分からないことはどうしてこんなにたくさん入るのでしょう。
元譲様は言いました。
「明珠は、文烈の家を見ている」
玉珠は聞きました。
「父上の家ではなく?」
元譲様は少し黙ってから、
「今は、そうだ」
と言いました。
今は――
その言い方が、少し嫌でした。
今は、という言葉は、後で変わるかもしれない時に使います。
父上は益州にいます。
文烈様は江東にいます。
姉上は曹休家にいます。
玉珠は夏侯家にいます。
みんな別々の場所で、別々のものを守っています。
では、玉珠は何を守ればよいのでしょう……
菓子でしょうか?
鼻でしょうか?
それとも、姉上がまだ姉上でいられる場所でしょうか?
父上――
玉珠たちは、まだ生きています。
でも、ただ生きているだけでは済まなくなってきました。
姉上は、父上を読める人になりました。
そして読んだ父上の弱いところを、魏公様へ書ける人にもなりました。
玉珠は思います。
いつか玉珠も、父上ではない誰かを読まなければならない日が来るのでしょうか?
たとえば、母上が井戸へ入ってまで守った、あの弟を……
……元譲様。
今のは鼻ではありません。
唇と歯と、帰り道と、阿斗のことを考えていただけです。
指は、まだ唇の前です。




