文烈様、戻ると言って江東へ向かわれるのですか?
劉明珠でございます。
玉珠が夏侯家へ移りました。
たいへん静かです。
菓子の皿は一つ減り、鼻へ向かう指も減り、それを止める私の叫び声も減りました。
家は広くなったのではありません。
余白が増えたのでございます。
そして余白というものは、たいへん余計なものを響かせます。
長坂の砂。
母上の井戸。
益州に収まった父上。
夏侯家へ行った玉珠。
それから、江東へ向かわれる文烈様。
今年の夏は、人を運ぶのがたいへんお上手です。
褒めておりません。
今回は、文烈様の出立でございます。
武人が戦へ出る。
曹家の男が魏公様に従う。
それだけなら史書に書くのも簡単でしょう。
魏公、孫権を征す。
曹休、従う。
たいへん短くて結構です。
けれど、その朝、曹休家の奥では、寧珠が父の襟をつかみ、曹肇と曹纂が背筋を伸ばし、私は腹の子を数から外すなと夫を叱っておりました。
史書は、そういう面倒なところをたいてい省きます。
竹簡にも都合があるのでしょう。
今回は、父上の文を入れた箱の鍵も動きます。
鍵は文烈様が持ち、紐は私が持つ。
二人でなければ開けられない箱です。
その鍵を、文烈様は江東へ持っていかれるそうです。
つまり私は、父上の文すら、夫が戻らねば開けられない女になるのでございます。
たいへん立派な保管です。
たいへん腹立たしい保管です。
文烈様――
戻るとおっしゃるなら、必ず戻ってくださいませ。
私の手には、紐しか残らないのですから。
待つことなら、私は十三歳の頃から嫌というほど知っております。
ただし今回は、父上を待つのではございません。
――あなたを待つのでございます。
玉珠がいない朝は、たいへん静かでございました……
菓子の皿が一つ少ない。
鼻へ向かう指もない。
それを止める私の叫び声もない。
家というものは、不思議でございます。
一人いなくなっただけで、広くなるのではなく、余白ができるのです。
そして余白というものは、たいへん余計なことを思い出させます。
長坂の砂。
握った妹の手。
井戸の中へ落ちていったと語られる母上。
益州へ収まった父上。
夏侯家へ移った玉珠。
そして今度は、文烈様が江東へ向かわれる。
たいへん働き者の夏でございます。
人をあちらこちらへ運ぶのがお上手です。
褒めておりません。
その朝、曹休家の奥は早くから動いておりました。
文烈様の出立の日でございます。
鎧はすでに整えられ、馬は門近くで待たされ、従う者たちの声が遠くで交わされております。
武人の家の朝とは、なんと嫌なほど手際がよいのでしょう。
誰も泣きません。
誰も取り乱しません。
出立とは、泣くためのものではなく、間に合わせるためのものらしいです。
私は寝台の端に腰を下ろし、腹へ手を添えておりました。
寧珠は乳母に抱かれ、まだ眠そうに目をこすっております。
曹肇はいつもより早く支度を済ませて立ち、曹纂は何度も兄の真似をして姿勢を正しておりました。
玉珠がいれば、ここで「文烈様、鼻は持っていきますか?」とでも言ったでしょう。
そして私に止められたはずです。
いないのに、止める声だけが喉まで来ました。
たいへん困ります……
妹がいなくなっても、姉の癖は残るようです。
そこへ、夏侯家から小さな文が届きました。
元譲様からです。
文烈様が受け取り、私へ渡してくださいました。
私は開きました。
玉珠、夏侯家にて朝餉を食す。
菓子は二つ。
鼻は一度近づくも、未遂。
泣く前に鼻へ逃げかけたため、叱る。
以上。
私はしばらく文を見つめました。
「元譲様は、軍報でも書いておられるのでしょうか?」
「玉珠殿の動向だからな」
「戦況のように扱わないでください……」
「鼻は未遂とある」
「そこは勝利でございますね」
文烈様が、喉の奥で笑われました。
笑わないでくださいませ……
こちらは妹の鼻で朝から命をつないでおります。
それでも、少しだけ胸が温かくなりました。
玉珠は夏侯家にいる。
菓子を食べている。
鼻は未遂。
泣く前に逃げようとして、元譲様に叱られている。
生きております。
玉珠らしく、生きております。
その事実だけで、私は少し息を吐けました。
「明珠」
文烈様が呼ばれました。
私は顔を上げます。
「はい」
「これを」
差し出されたのは、小さな鍵でした。
見覚えがあります。
父上の文を入れた箱の鍵です。
あの箱は、文烈様が鍵を持ち、私が紐を持つことになっておりました。
二人でなければ開けられない箱。
父上の文すら、夫婦でなければ開けられない。
魏公様の嫌味なまでに細かい配置でございます。
褒めておりません。
「置いていかれるのですか?」
「いや」
文烈様は、鍵を私の掌へ落としませんでした。
そのまま、私に見せるだけです。
「持っていく」
「……江東へ?」
「うん」
私は鍵を見ました。
銀色の小さなものです。
これ一つで、父上の文は開きません。
私の手元には紐だけが残る。
文烈様が江東へ鍵を持っていくなら、私は箱を開けられません。
父上の文すら、夫が戻らなければ開けられない女になるわけでございます。
たいへん立派な保管です。
たいへん腹立たしい保管です。
「つまり、文烈様が戻られなければ、私は父上の文すら開けられないままでございますね」
「だから戻る」
短すぎます。
もっと言いようがあるでしょう。
人は戦へ行く前くらい、もう少し長く、美しく、後世に残りそうな言葉を吐いてもよいのではありませんか。
けれど文烈様は、そういう方ではありません。
「だから戻る」
その一言を、まるで家の戸を開ける時のようにおっしゃる。
私は、また皮肉を言い損ねました。
「鍵を持って逃げないでくださいませ」
「逃げぬ」
「父上は、逃げ足だけはたいへん立派でした」
「私は玄徳ではない」
「存じております」
「そなたの夫だ」
胸が痛みました。
こういう時に、きちんと刃を入れてくるのはやめていただきたい。
私は身重なのです。
心臓まで揺らすのは、医者に叱られます。
「文烈様」
「うん」
「戻るとおっしゃるなら、本当に戻ってくださいませ」
「戻る」
「四人のところへ」
文烈様がそう言われました。
私は、ほんの少しだけ眉を寄せました。
「……五人でございます」
文烈様は一瞬考え、私の腹へ目を落とされました。
「ああ」
「ああ、ではございません。数から外さないでくださいませ」
「すまぬ」
「謝れば済む問題ではございません。腹の中で抗議しているかもしれません」
「まだ聞こえぬだろう」
「母には聞こえます」
もちろん嘘でございます。
腹の子が本当に抗議しているかどうかなど分かりません。
けれど、母親とは時々、分からないことを分かるふりで守るものです。
「五人だ」
文烈様は言い直されました。
「明珠。寧珠。腹の子。肇。纂」
曹肇が顔を上げました。
曹纂も、ぱっと文烈様を見ました。
「五人のところへ戻る」
その言葉で、部屋の空気が少し変わりました。
曹肇は唇を引き結び、曹纂は泣きそうな顔を必死でこらえております。
私は二人を見ました。
血はつながっておりません。
けれど、すでに私の数には入っております。
文烈様も、それを分かってくださった。
「父上」
曹肇が一歩前に出ました。
「留守は、私が見ます」
「頼む」
「母上を困らせません」
「それは難しい」
「文烈様」
私が言うと、文烈様は少し笑われました。
「明珠は、困る時は自分で困る」
「たいへん失礼でございます」
「だが、一人で抱えるな」
曹肇がうなずきました。
「はい」
曹纂も慌てて言います。
「私も見ます!」
「まず兄の言うことを聞け」
「はい!」
「玉珠殿の真似は」
「しません!」
返事が早すぎます。
逆に不安です。
「鼻は城より落としにくいので、油断しないでください」
私が言うと、曹纂は真剣にうなずきました。
この家の教育は、どこへ向かっているのでしょうか。
寧珠が乳母の腕の中でぐずり始めました。
文烈様は鎧のままではなく、まだ外衣を羽織る前でしたので、寧珠を抱かれました。
寧珠は眠気にむずかりながら、父の胸へ頬を押しつけます。
その小さな手が、文烈様の襟をつかみました。
まるで、行くなと言っているようです。
ええ、そういうことにしておきましょう。
赤子の代弁は、母の特権でございます。
「寧珠も、行くなと申しております」
「そうか」
「ですので、行かないという選択肢は」
「ない」
「でしょうね」
分かっておりました。
分かっていることを、わざわざ言って傷を確かめる。
人は時々、たいへん愚かです。
父上なら、ここで天下を持ち出したでしょう。
魏公様なら、地図と兵站を出されたでしょう。
元譲様なら、短く命じるでしょう。
文烈様は、寧珠の背を一度撫でて、私へ渡されました。
「明珠」
「はい」
「無理をするな」
「それはもう聞きました」
「何度でも言う」
「何度言われても、文烈様が行かれることには変わりございません」
「それでも言う」
本当に、困る方です。
私は寧珠を抱き、腹へ手を添えました。
腕と腹が、同時に重い。
これが私の残される重さです。
史書には、きっと書かれません。
魏公様が七月に孫権を征す。
文烈様が従う。
それだけでございます。
その朝、妻が寧珠を抱き、腹の子を数に入れろと夫を叱り、継子二人を見て、父上の文の箱の鍵を江東へ持っていかれることに腹を立てていたことなど、どの竹簡も忙しくて書かないでしょう。
竹簡もたいへんですね。
余計な女の腹立ちまで背負わずに済みます。
褒めておりません。
出立の時が来ました。
門前に馬が用意され、家の者たちが控えます。
私は奥から出ることを止められましたが、止められて引き下がるほど素直ではございません。
身重の女は陶器ではありません。
もっとも、今朝の私は、少し割れかけている自覚はございます。
門まで出ると、昨日玉珠の車を見送った時の光がまだ残っているようでした。
妹の手を離した門。
今度は夫の背を見送る門。
曹休家の門は、たいへん働き者でございます。
人を出すことばかりお上手です。
「明珠」
文烈様が馬のそばで振り返られました。
「はい」
「中へ戻れ」
「戻るのは文烈様でございます」
文烈様は一瞬黙り、それからうなずきました。
「そうだな」
「はい。そうです」
私は寧珠を抱き直しました。
曹肇と曹纂が私の少し後ろに立っております。
五人。
曹休家に残る五人。
一人はまだ腹の中で、返事もできません。
それでも五人です。
文烈様は、懐へ手をやりました。
鍵がそこにあるのでしょう。
私の手には、箱の紐だけが残っています。
「鍵をなくさないでくださいませ」
「なくさぬ」
「川へ落とさないでくださいませ」
「落とさぬ」
「孫権に取られないでくださいませ」
「取らせぬ」
「では、戻ってくださいませ」
「戻る」
文烈様は、それだけ言って馬に乗られました。
出立の号令がかかります。
蹄の音が動き出します。
私は泣きませんでした。
泣いたら、寧珠が不安がります。
曹肇と曹纂も見ております。
腹の子にも、母が最初から崩れるところを聞かせたくありません。
たいへん立派な母でございます。
褒めてくださっても構いません。
ただし、褒められたら怒ります。
文烈様の背が、門の外へ出ていきます。
私はその背を見ておりました。
父上の背を見失った長坂とは違う。
文烈様は、戻ると言われました。
私のところへ。
五人のところへ。
鍵を持って。
それでも、背中が遠ざかることに違いはありません。
「母上」
曹肇が小さく呼びました。
「はい」
「中へ」
私はうなずきました。
曹肇に促される日が来るとは、思いませんでした。
小さな家長は、もう小さくありません。
困ったことです。
人は、残される側でも育ってしまいます。
私はもう一度、門の外を見ました。
玉珠はいない。
文烈様も行かれた。
門の向こうは、夏の光で白くにじんでおります。
父上の文は箱の中。
鍵は江東へ。
紐は私の手の中。
曹休家の奥は、広くなりました。
たいへん広くなりました。
広すぎて、皮肉がよく響きそうでございます。
文烈様――
鍵を持って行かれたのですから、必ず戻ってくださいませ……
でなければ私は、父上の文すら開けられないまま、あなたを待つことになります。
そして待つことなら、私はすでに十三歳の頃から、たいへん嫌というほど知っているのでございます。
劉玉珠です。
夏侯家の朝は、鼻に厳しいです。
起きて、顔を洗って、朝餉を食べて、菓子を二ついただきました。
そこまでは、とてもよい家です。
でも、少し考え事をして指が鼻へ近づいたら、元譲様に見られました。
片目なのに、どうしてあんなに見えるのでしょうか?
玉珠は不思議です。
両目の人より見えています。
たぶん、片方を戦場に置いてきたので、残った目が怒っているのだと思います。
元譲様は、姉上へ文を書きました。
玉珠、朝餉を食す。
菓子は二つ。
鼻は未遂。
玉珠は言いました。
「元譲様、鼻を文に書かないでください」
元譲様は、こう返されました。
「大事だ」
大人は、大事にするところが時々おかしいです……
でも姉上は、たぶんそれを読んで少し安心すると思います。
玉珠が食べていて、鼻が未遂なら、生きていると分かるからです。
生きていることを知らせるのに、鼻が役立つ日が来るとは思いませんでした。
鼻も、たまには働きます。
それから、文烈様が江東へ出立されたと聞きました。
玉珠は、曹休家の門にはいませんでした。
姉上の横にもいませんでした。
寧珠の手も握れませんでした。
でも、たぶん分かります。
姉上は泣かなかったと思います。
泣かないで、寧珠を抱いて、お腹に手を置いて、文烈様に何か怒った顔をしたと思います。
姉上は怒る時、だいたい寂しい時です。
鼻で分かります。
文烈様は、父上の文の箱の鍵を持っていったそうです。
鍵を持っていったなら、戻らないと困ります。
姉上の手には紐しか残らないからです。
紐だけでは箱は開きません。
玉珠は思いました。
鍵にも鼻があれば、帰り道を嗅いで戻ってこられるのに……
そう言ったら、元譲様に「鍵に鼻はない」と言われました。
分かっています。
でも、ないならなおさら、文烈様がちゃんと持って帰るしかありません。
父上は、帰ってくるのが下手でした。
文烈様は、戻ると言いました。
なら、戻ってください。
姉上は、待つのが上手です。
でも、上手だからといって、待つのが好きなわけではありません。
痛いのを我慢しているだけです。
玉珠は夏侯家で鼻を見張られています。
姉上は曹休家で、鍵のない箱と、寧珠と、お腹の子と、曹肇殿と曹纂殿と一緒に待っています。
みんな別々です。
でも、まだ生きています。
父上――
玉珠たちは、まだ生きています。
姉上は、今度は父上ではなく、文烈様を待っています。
だから文烈様……
どうか父上より、帰り道を上手にしてください。
……元譲様。
今のは鼻ではありません。
帰り道を考えていただけです。
――指は、まだ門の前です。




