↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
36/64

元譲様、妹の鼻まで夏侯家へ連れて行かれるのですか?

劉明珠でございます。


妹を守るために、妹の手を離すことになりました。

たいへん立派な判断でございます。

立派すぎて、腹の底が冷えます。


長坂で、私は玉珠の手を握っておりました。

父上の姿が消えても、母上の姿が遠ざかっても、あの小さな手だけは離しませんでした。

汗で湿って、震えて、時々鼻へ向かおうとして、私に止められる手でございました。

それが私の、たいへん小さな誇りでございました。

史書には残りません。

烈女にもなりません。

仁君にもなれません。

ただ、姉が妹の手を握っていたというだけの話でございます。


けれど今、その手を自分から夏侯家へ渡します。

理由は分かっております。

文烈様は江東へ向かわれる。

私は身重。

寧珠は幼い。

父上が益州を得た今、劉備玄徳の娘二人を曹休家の奥にまとめて置くのは危うい。

つまり、守るためです。

保護です。

分散です。

たいへん便利な言葉でございますね♪

父上も、きっと似たような言葉をどこかでお使いになったのでしょう。

天下のため。

漢室のため。

民のため。

その陰で、小さな手はいくらでも離せます。

褒めておりません。


今回は、元譲様が自ら曹休家へ来られます。

妹を預かるために……

菓子を用意し、鼻を見張るために……

そして私に、これは捨てるのではないと突きつけるために……

玉珠は問うでしょう。

玉珠は、捨てられるのかと……

その時、私は父上ではないと答えるつもりです。

けれど、手を離す形だけは、どうしても似てしまうのでございます。


玉珠――

どうか、鼻より先に泣いてくださいませ。

姉上はたぶん、その方が少しだけ耐えられます……

妹を守るために、妹の手を離す。

たいへん美しい言葉でございます。

美しすぎて、吐き気がいたします。

長坂で、私は玉珠の手を握っておりました。

父上の姿が見えなくなっても、母上が阿斗を託したと後に語られる場所から遠ざかっても、私は妹の手だけは離しませんでした。

小さな手でした。

汗で湿り、震え、時々、鼻へ向かおうとして、私に止められる手でございました。

あの時の私は、まだ数え十三歳。

大人ではございません。

けれど玉珠の前では、姉でいなければなりませんでした。

父上がいない。

母上がいない。

ならば、私が握るしかない。

たいへん立派な姉でございますね。

褒めてくださっても構いません♪

ただし、褒められたら腹が立ちます。

そして今、数え十九歳になった私は、曹休文烈の妻となり、寧珠の母となり、腹に二人目を宿しながら、あの時離さなかった手を、自分から夏侯家へ渡そうとしております。

守るためです。

保護です。

分散です。

劉備玄徳の娘二人を、文烈様が江東へ出る曹休家の奥にまとめて置くのは、今は目立ちすぎる……

理屈は分かります。

魏公様も、元譲様も、文烈様も、おそらく正しい。

正しいことは、どうしてこうも人の腹を冷やすのでしょうか?

正午近く、夏侯元譲様が曹休家へ来られました。

使者ではなく、ご本人様でございます。

片目で、門をくぐるだけで、家の空気が一段固くなる方です。

玉珠は庭先で菓子を食べておりましたが、元譲様の姿を見るなり、口の中のものを急いで飲み込みました。

えらいです。

ただ、急ぎすぎて少しむせました。

「落ち着いて食え」

元譲様が短く言われます。

「はい! 元譲様、お菓子ありますか?」

「ある」

「鼻は?」

「見張る」

「では安心です」

「安心の基準を間違えないでください」

私が言うと、玉珠は真面目な顔でうなずきました。

その真面目な顔のまま、指が鼻へ向かいます。

「玉珠」

「安心したら動きました」

「安心の結果を鼻に出さない」

元譲様は、片目で玉珠を見ました。

その目だけで、玉珠の指は膝へ戻りました。

さすがでございます。

私は十四年かけて妹の鼻を止めてきましたが、元譲様は片目一つで止めます。

たいへん不公平です。

武勇とは、鼻にも効くのでしょうか?

文烈様は奥の間で元譲様を迎えられました。

私は身重ですので、立ったり座ったりするだけで周囲が騒ぎます。

たいへん面倒です。

腹に子がいるだけで、女は急に陶器扱いされます。

なお、割れ物ならば、これまでの人生でもう何度も割れているはずでございます。

全て父上のせいで……

褒めておりません♪

「元譲様」

私は礼をしました。

「無理をするな」

第一声がそれでございます。

文烈様と同じです。

曹家の男たちは、身重の女を見ると同じ文でも渡されるのでしょうか?

「無理をしないで済むなら、最初から劉備玄徳の娘などしておりません」

「その口が動くなら、まだ大丈夫だな」

「おかげさまで」

元譲様は座ると、まっすぐ本題に入りました。

回り道を嫌う方です。

父上とは逆でございますね。

父上は人の家へ入る時はたいへん柔らかい道を選び、出る時には相手の家を自分の道にしてしまいます。

「玉珠を預かる」

元譲様は言われました。

「捨てるのではない。預かる」

胸の奥を、見透かされた気がしました。

私は笑おうとしました。

でも、失敗しました……

「そのように聞こえた顔をしておりましたか?」

「していた」

「たいへん失礼な顔でございましたね」

「顔は正直だ」

「玉珠の鼻と同じことをおっしゃらないでください」

玉珠がすぐ隣で顔を上げました。

「姉上の顔も鼻ですか?」

「違います」

「でも正直」

「黙って菓子を持っていなさい」

「食べてもいい?」

「今は持っていなさい」

玉珠は菓子を両手で持ちました。

なぜか供物のようです。

妹が夏侯家へ移る話をしている横で、菓子を捧げ持つ数え十四歳。

たいへん立派な儀式でございます。

どの礼書にも載せないでいただきたい……

元譲様は続けました。

「文烈は江東へ出る。お前は身重、寧珠は幼い。曹休家の奥に劉備の娘二人を置くには、玄徳が益州を得た今、目立ちすぎる」

「目立たぬように暮らすのは得意でございます」

「玄徳の娘というだけで目立つ」

「父上は、娘を置いていった後まで便利ですね」

「便利ではない。厄介だ」

「それは同意いたします」

文烈様が、少し困った顔をされました。

私は存じております。

この方は、私が父上をこきおろすたびに、止めるべきか、許すべきか、少し迷われます。

ご安心ください。

止めても手遅れです♪

「玉珠は夏侯家で預かる。身の回りの者も付ける。勝手に外へ出さぬ。菓子は出す。鼻は止める」

「最後だけ、なぜそこまで確実なのでしょう?」

「重要だろう」

「否定しにくいのが困ります」

玉珠は菓子を持ったまま、元譲様を見つめておりました。

いつものように、すぐ鼻へ逃げません。

それだけで、私は胸の奥が痛くなります。

玉珠は分かっているのです。

これは遊びに行く話ではない。

菓子つきの滞在でもない。

守るために、姉から離されるのだと。

「姉上」

「何ですか?」

「玉珠は、捨てられるの?」

部屋の空気が止まりました。

菓子を持ったまま、玉珠はそう言いました。

泣いてはおりません。

鼻もほじっておりません。

まっすぐ私を見ております。

十四歳の妹は、ときどき八歳のままの顔をします。

けれど今は、八歳でも十四歳でもない顔をしておりました。

長坂で私の手を握っていた妹の顔です。

「違います」

私はすぐ答えました。

すぐ答えなければ、崩れそうでした。

「違います。玉珠を守るためです」

玉珠は少し考えました。

「父上の時も、違うって言えた?」

息が詰まりました……

元譲様も文烈様も、何も言いません。

玉珠は菓子を持ったまま、さらに言います。

「父上も、たぶん守るためって言ったかもしれないよ。天下とか、漢室とか、民とか。大きいものを守るために、小さい手を離したのかもしれないよ」

「玉珠」

「今のは鼻じゃないよ。ちゃんと聞いたの」

私は妹を見ました。

この子は、いつの間にそんなことを言うようになったのでしょう。

鼻をほじり、菓子を数え、魏公様の前で父上へ「まだ生きています」と書いた妹が、今、私の一番痛いところへ手を伸ばしております。

鼻ではなく……

心臓へ……

「私は、父上ではありません」

声が震えました。

情けないことです。

「知ってる」

玉珠は言いました。

「姉上は、父上じゃない」

「では?」

「でも、手を離すのは同じです」

その通りです。

本当に、嫌になるほどその通りです。

私は長坂で、玉珠の手を離さなかった。

それが私の誇りでした。

小さな誇りです。

史書には残らず、誰も語らず、烈女にも仁君にもなれない誇り。

その私が、今、守るために手を離す。

美しい言葉です。

吐き気がいたします。

元譲様が、そこで口を開かれました。

「明珠」

「はい」

「玄徳は、逃げるために離した」

短い言葉でした。

「お前は、戻る場所を残すために離す」

私は元譲様を見ました。

片目の武人は、私を慰める顔などしておりません。

ただ事実を置いた顔です。

その方が、下手な慰めよりずっと効くことがございます。

「玉珠」

元譲様は妹へ視線を移しました。

「夏侯家へ来い」

「はい」

「勝手に姉のところへ走るな」

「はい」

「泣きたければ泣け」

玉珠が目を丸くしました。

「泣いていいの?」

「鼻をほじるよりはよい」

「では、鼻をほじりたくなったら?」

「先に泣け」

「難しいです」

「覚えろ」

玉珠は真剣にうなずきました。

泣くことを、鼻より先に覚える。

たいへん高度な教育でございます。

夏侯家の学問は厳しそうです。

支度は、その日のうちに始まりました。

衣。

櫛。

手巾。

小さな箱。

玉珠の好きな菓子。

そして、鼻を拭くためではない布……

最後のものについては、何度も確認いたしました。

玉珠は「分かっています」と言いましたが、その目が少し泳いでおりました。

信用はしておりません。

曹肇が、玉珠の荷のそばへ来ました。

「玉珠殿、夏侯家へ行かれるのですか」

「行くみたい」

「寂しくなります」

「肇殿は、鼻を見張らなくてよくなります」

「それは少し楽です」

「正直!」

「はい」

二人は少し笑いました。

曹纂は「玉珠殿の真似をしない」と何度も唱えております。

そこまで言われると、逆に不安です。

人は「しない」と唱えるほど、何かをしたくなるものです。

父上も「捨てたのではない」と言えば言うほど、置いていった事実が光ります。

褒めておりません。

夕刻、夏侯家の車が門前に用意されました。

玉珠は小さな包みを持ち、私の前に立ちます。

数え十四歳――

長坂の時より背も伸びました。

私の後ろに隠れていた妹は、今は自分の足で立っております。

けれど、手だけはまだ、あの頃のままに見えました。

私はその手を取りました。

「玉珠」

「はい」

「元譲様の言うことを聞きなさい」

「はい」

「菓子を食べすぎない」

「はい」

「鼻は」

「見張られます」

「自分でも止めなさい」

「努力します」

「努力では困ります」

「では、止めます。たぶん」

「最後をつけない」

玉珠は小さく笑いました。

それから、私の腹を見ます。

「姉上」

「何ですか?」

「お腹の子に、玉珠のことを言っておいて」

「もちろんです」

「鼻のことは少しだけでいいです」

「全部言います」

「ひどい」

「正確に伝えます」

玉珠は唇を尖らせました。

その顔が、急に幼く見えて、私は危うく抱きしめそうになりました。

抱きしめてもよいのです。

妹なのですから……

けれど抱きしめたら、離せなくなる気がしました。

私は、手を握る力を少しだけ強くしました。

「玉珠」

「はい」

「私は、あなたを捨てるのではありません」

「知ってる」

「私は、父上ではありません」

「知ってる」

「私は、あなたの姉です」

玉珠の目に、ようやく涙が浮かびました。

それでも泣きません。

代わりに、指がゆっくり鼻へ上がります。

「玉珠」

「泣く前に、鼻が来ました」

「元譲様」

私が呼ぶと、元譲様が一歩近づきました。

「玉珠」

「はい」

「先に泣け」

玉珠は、口をへの字にしました。

そして、ぽろりと涙をこぼしました。

鼻より先に……

えらい。

たいへんえらい。

私は妹の手を離しました。

長坂で離さなかった手を……

今、曹休家の門前で……

逃げるためではございません。

死ぬためでもございません。

守るために、離す。

たいへん美しい言葉です。

そして、たいへん残酷でございます。

玉珠は車に乗る前に振り返りました。

「姉上」

「はい」

「玉珠、夏侯家で鼻を見張られてきます」

「もう少し別の言い方はありませんか?」

「菓子も食べます」

「もっと違います」

「生きています」

私は、そこで返事ができませんでした。

玉珠は笑いました。

泣きながら、少しだけ鼻をすすって……

「姉上も、生きていてね」

車の簾が下ろされました。

夏侯元譲様は馬に乗る前、私を見ました。

「明珠」

「はい」

「文烈の出立まで、日がない」

存じております。

言わないでいただきたい。

そう思いましたが、元譲様は言う方です。

優しさで隠すより、事実で守る。

そういう方です。

「玉珠は預かる。お前は腹の子と寧珠を見ろ」

「……はい」

「泣くなら、今のうちに泣け」

「元譲様まで、そのようなことを……」

「鼻へ逃げるよりはよい」

「私は玉珠ではございません」

「顔は似てきた」

たいへん失礼でございます。

けれど、否定しきれない自分が少し嫌です。

車が動き出しました。

玉珠の乗った車が、曹休家の門を離れていきます。

私は腹へ手を置きました。

寧珠が奥で泣いております。

文烈様は、まもなく江東へ向かわれる。

玉珠は夏侯家へ移った。

父上の文は箱の中。

母上は井戸の物語の中。

そして私は、曹休家の奥に残る。

妹の次は、夫でございますか……

元譲様――

どうやら曹休家の奥は、夏が終わる前に、ずいぶん広くなってしまうようでございます……

劉玉珠です。


玉珠は、夏侯家へ行くことになりました。

元譲様のところです。

お菓子はあるそうです。

鼻は見張られるそうです。

では大丈夫……と言いたいところですが、今日は少しだけ大丈夫ではありません。


姉上が、玉珠の手を離しました。

長坂では、離しませんでした。

父上が見えなくなっても、母上がいなくなっても、姉上は玉珠の手を握っていました。

痛いくらい握っていました。

でも今日は、姉上が自分から離しました。

守るためだそうです。

玉珠は分かります。

数え十四歳なので、少しは分かります。

でも、分かることと、寂しくないことは別です。

大人は、そこをよく間違えます。

守るため。

預かるため。

危なくないようにするため。

言葉はきれいです。

でも、手は離れます。

父上の時も、そうだったのかなと思いました。

天下のため。

漢室のため。

民のため。

きれいな言葉がたくさんあると、小さい手は見えなくなるのかもしれません。


姉上は、父上ではないと言いました。

玉珠は知っています。

姉上は父上ではありません。

姉上は、姉上です。

玉珠の手を握ってくれた人です。

鼻へ行きそうな指を、何度も止めてくれた人です。

怖い時も、怒っている時も、泣きそうな時も、玉珠の前に立ってくれた人です。

だから、姉上が手を離すのは、父上と同じではありません。


でも、手が離れるところだけは、少し似ていました。

それが、玉珠には困りました。

元譲様は言いました。

泣きたければ泣け、と……

鼻をほじるよりはよい、と……

玉珠は、とても難しいことを言われました。

泣くのと鼻は、近いところにあります。

涙も鼻も、顔についています。

たぶん親戚です。


でも今日は、鼻より先に涙が出ました。

玉珠は、少し大人になったのかもしれません。

鼻はまだ子どもです。

車に乗る前、姉上のお腹を見ました。

そこには、まだ会ったことのない子がいます。

玉珠のことを、ちゃんと話しておいてほしいです。

できれば、鼻の話は少なめがよいです。

姉上は全部言うそうです。

ひどい姉上です……

でも、たぶん本当に全部言うのでしょう。

そういうところは、安心です。


父上――

玉珠たちは、まだ生きています。

姉上は曹休家の奥に残ります。

文烈様はもうすぐ江東へ行きます。

玉珠は夏侯家へ行きます。

母上は井戸のお話の中です。

父上の文は箱の中です。

みんな、別々の場所にいます。

でも玉珠は、姉上に言いました。

姉上も、生きていてね、と……

姉上は返事ができませんでした。

だから、玉珠はもう一度言いたいです。


姉上――

玉珠は夏侯家で鼻を見張られてきます。

だから姉上も、ちゃんと生きていてください。


……元譲様。

今のは鼻ではありません。

涙の親戚です。

少しだけ、入口にいました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。