元譲様、妹の鼻まで夏侯家へ連れて行かれるのですか?
劉明珠でございます。
妹を守るために、妹の手を離すことになりました。
たいへん立派な判断でございます。
立派すぎて、腹の底が冷えます。
長坂で、私は玉珠の手を握っておりました。
父上の姿が消えても、母上の姿が遠ざかっても、あの小さな手だけは離しませんでした。
汗で湿って、震えて、時々鼻へ向かおうとして、私に止められる手でございました。
それが私の、たいへん小さな誇りでございました。
史書には残りません。
烈女にもなりません。
仁君にもなれません。
ただ、姉が妹の手を握っていたというだけの話でございます。
けれど今、その手を自分から夏侯家へ渡します。
理由は分かっております。
文烈様は江東へ向かわれる。
私は身重。
寧珠は幼い。
父上が益州を得た今、劉備玄徳の娘二人を曹休家の奥にまとめて置くのは危うい。
つまり、守るためです。
保護です。
分散です。
たいへん便利な言葉でございますね♪
父上も、きっと似たような言葉をどこかでお使いになったのでしょう。
天下のため。
漢室のため。
民のため。
その陰で、小さな手はいくらでも離せます。
褒めておりません。
今回は、元譲様が自ら曹休家へ来られます。
妹を預かるために……
菓子を用意し、鼻を見張るために……
そして私に、これは捨てるのではないと突きつけるために……
玉珠は問うでしょう。
玉珠は、捨てられるのかと……
その時、私は父上ではないと答えるつもりです。
けれど、手を離す形だけは、どうしても似てしまうのでございます。
玉珠――
どうか、鼻より先に泣いてくださいませ。
姉上はたぶん、その方が少しだけ耐えられます……
妹を守るために、妹の手を離す。
たいへん美しい言葉でございます。
美しすぎて、吐き気がいたします。
長坂で、私は玉珠の手を握っておりました。
父上の姿が見えなくなっても、母上が阿斗を託したと後に語られる場所から遠ざかっても、私は妹の手だけは離しませんでした。
小さな手でした。
汗で湿り、震え、時々、鼻へ向かおうとして、私に止められる手でございました。
あの時の私は、まだ数え十三歳。
大人ではございません。
けれど玉珠の前では、姉でいなければなりませんでした。
父上がいない。
母上がいない。
ならば、私が握るしかない。
たいへん立派な姉でございますね。
褒めてくださっても構いません♪
ただし、褒められたら腹が立ちます。
そして今、数え十九歳になった私は、曹休文烈の妻となり、寧珠の母となり、腹に二人目を宿しながら、あの時離さなかった手を、自分から夏侯家へ渡そうとしております。
守るためです。
保護です。
分散です。
劉備玄徳の娘二人を、文烈様が江東へ出る曹休家の奥にまとめて置くのは、今は目立ちすぎる……
理屈は分かります。
魏公様も、元譲様も、文烈様も、おそらく正しい。
正しいことは、どうしてこうも人の腹を冷やすのでしょうか?
正午近く、夏侯元譲様が曹休家へ来られました。
使者ではなく、ご本人様でございます。
片目で、門をくぐるだけで、家の空気が一段固くなる方です。
玉珠は庭先で菓子を食べておりましたが、元譲様の姿を見るなり、口の中のものを急いで飲み込みました。
えらいです。
ただ、急ぎすぎて少しむせました。
「落ち着いて食え」
元譲様が短く言われます。
「はい! 元譲様、お菓子ありますか?」
「ある」
「鼻は?」
「見張る」
「では安心です」
「安心の基準を間違えないでください」
私が言うと、玉珠は真面目な顔でうなずきました。
その真面目な顔のまま、指が鼻へ向かいます。
「玉珠」
「安心したら動きました」
「安心の結果を鼻に出さない」
元譲様は、片目で玉珠を見ました。
その目だけで、玉珠の指は膝へ戻りました。
さすがでございます。
私は十四年かけて妹の鼻を止めてきましたが、元譲様は片目一つで止めます。
たいへん不公平です。
武勇とは、鼻にも効くのでしょうか?
文烈様は奥の間で元譲様を迎えられました。
私は身重ですので、立ったり座ったりするだけで周囲が騒ぎます。
たいへん面倒です。
腹に子がいるだけで、女は急に陶器扱いされます。
なお、割れ物ならば、これまでの人生でもう何度も割れているはずでございます。
全て父上のせいで……
褒めておりません♪
「元譲様」
私は礼をしました。
「無理をするな」
第一声がそれでございます。
文烈様と同じです。
曹家の男たちは、身重の女を見ると同じ文でも渡されるのでしょうか?
「無理をしないで済むなら、最初から劉備玄徳の娘などしておりません」
「その口が動くなら、まだ大丈夫だな」
「おかげさまで」
元譲様は座ると、まっすぐ本題に入りました。
回り道を嫌う方です。
父上とは逆でございますね。
父上は人の家へ入る時はたいへん柔らかい道を選び、出る時には相手の家を自分の道にしてしまいます。
「玉珠を預かる」
元譲様は言われました。
「捨てるのではない。預かる」
胸の奥を、見透かされた気がしました。
私は笑おうとしました。
でも、失敗しました……
「そのように聞こえた顔をしておりましたか?」
「していた」
「たいへん失礼な顔でございましたね」
「顔は正直だ」
「玉珠の鼻と同じことをおっしゃらないでください」
玉珠がすぐ隣で顔を上げました。
「姉上の顔も鼻ですか?」
「違います」
「でも正直」
「黙って菓子を持っていなさい」
「食べてもいい?」
「今は持っていなさい」
玉珠は菓子を両手で持ちました。
なぜか供物のようです。
妹が夏侯家へ移る話をしている横で、菓子を捧げ持つ数え十四歳。
たいへん立派な儀式でございます。
どの礼書にも載せないでいただきたい……
元譲様は続けました。
「文烈は江東へ出る。お前は身重、寧珠は幼い。曹休家の奥に劉備の娘二人を置くには、玄徳が益州を得た今、目立ちすぎる」
「目立たぬように暮らすのは得意でございます」
「玄徳の娘というだけで目立つ」
「父上は、娘を置いていった後まで便利ですね」
「便利ではない。厄介だ」
「それは同意いたします」
文烈様が、少し困った顔をされました。
私は存じております。
この方は、私が父上をこきおろすたびに、止めるべきか、許すべきか、少し迷われます。
ご安心ください。
止めても手遅れです♪
「玉珠は夏侯家で預かる。身の回りの者も付ける。勝手に外へ出さぬ。菓子は出す。鼻は止める」
「最後だけ、なぜそこまで確実なのでしょう?」
「重要だろう」
「否定しにくいのが困ります」
玉珠は菓子を持ったまま、元譲様を見つめておりました。
いつものように、すぐ鼻へ逃げません。
それだけで、私は胸の奥が痛くなります。
玉珠は分かっているのです。
これは遊びに行く話ではない。
菓子つきの滞在でもない。
守るために、姉から離されるのだと。
「姉上」
「何ですか?」
「玉珠は、捨てられるの?」
部屋の空気が止まりました。
菓子を持ったまま、玉珠はそう言いました。
泣いてはおりません。
鼻もほじっておりません。
まっすぐ私を見ております。
十四歳の妹は、ときどき八歳のままの顔をします。
けれど今は、八歳でも十四歳でもない顔をしておりました。
長坂で私の手を握っていた妹の顔です。
「違います」
私はすぐ答えました。
すぐ答えなければ、崩れそうでした。
「違います。玉珠を守るためです」
玉珠は少し考えました。
「父上の時も、違うって言えた?」
息が詰まりました……
元譲様も文烈様も、何も言いません。
玉珠は菓子を持ったまま、さらに言います。
「父上も、たぶん守るためって言ったかもしれないよ。天下とか、漢室とか、民とか。大きいものを守るために、小さい手を離したのかもしれないよ」
「玉珠」
「今のは鼻じゃないよ。ちゃんと聞いたの」
私は妹を見ました。
この子は、いつの間にそんなことを言うようになったのでしょう。
鼻をほじり、菓子を数え、魏公様の前で父上へ「まだ生きています」と書いた妹が、今、私の一番痛いところへ手を伸ばしております。
鼻ではなく……
心臓へ……
「私は、父上ではありません」
声が震えました。
情けないことです。
「知ってる」
玉珠は言いました。
「姉上は、父上じゃない」
「では?」
「でも、手を離すのは同じです」
その通りです。
本当に、嫌になるほどその通りです。
私は長坂で、玉珠の手を離さなかった。
それが私の誇りでした。
小さな誇りです。
史書には残らず、誰も語らず、烈女にも仁君にもなれない誇り。
その私が、今、守るために手を離す。
美しい言葉です。
吐き気がいたします。
元譲様が、そこで口を開かれました。
「明珠」
「はい」
「玄徳は、逃げるために離した」
短い言葉でした。
「お前は、戻る場所を残すために離す」
私は元譲様を見ました。
片目の武人は、私を慰める顔などしておりません。
ただ事実を置いた顔です。
その方が、下手な慰めよりずっと効くことがございます。
「玉珠」
元譲様は妹へ視線を移しました。
「夏侯家へ来い」
「はい」
「勝手に姉のところへ走るな」
「はい」
「泣きたければ泣け」
玉珠が目を丸くしました。
「泣いていいの?」
「鼻をほじるよりはよい」
「では、鼻をほじりたくなったら?」
「先に泣け」
「難しいです」
「覚えろ」
玉珠は真剣にうなずきました。
泣くことを、鼻より先に覚える。
たいへん高度な教育でございます。
夏侯家の学問は厳しそうです。
支度は、その日のうちに始まりました。
衣。
櫛。
手巾。
小さな箱。
玉珠の好きな菓子。
そして、鼻を拭くためではない布……
最後のものについては、何度も確認いたしました。
玉珠は「分かっています」と言いましたが、その目が少し泳いでおりました。
信用はしておりません。
曹肇が、玉珠の荷のそばへ来ました。
「玉珠殿、夏侯家へ行かれるのですか」
「行くみたい」
「寂しくなります」
「肇殿は、鼻を見張らなくてよくなります」
「それは少し楽です」
「正直!」
「はい」
二人は少し笑いました。
曹纂は「玉珠殿の真似をしない」と何度も唱えております。
そこまで言われると、逆に不安です。
人は「しない」と唱えるほど、何かをしたくなるものです。
父上も「捨てたのではない」と言えば言うほど、置いていった事実が光ります。
褒めておりません。
夕刻、夏侯家の車が門前に用意されました。
玉珠は小さな包みを持ち、私の前に立ちます。
数え十四歳――
長坂の時より背も伸びました。
私の後ろに隠れていた妹は、今は自分の足で立っております。
けれど、手だけはまだ、あの頃のままに見えました。
私はその手を取りました。
「玉珠」
「はい」
「元譲様の言うことを聞きなさい」
「はい」
「菓子を食べすぎない」
「はい」
「鼻は」
「見張られます」
「自分でも止めなさい」
「努力します」
「努力では困ります」
「では、止めます。たぶん」
「最後をつけない」
玉珠は小さく笑いました。
それから、私の腹を見ます。
「姉上」
「何ですか?」
「お腹の子に、玉珠のことを言っておいて」
「もちろんです」
「鼻のことは少しだけでいいです」
「全部言います」
「ひどい」
「正確に伝えます」
玉珠は唇を尖らせました。
その顔が、急に幼く見えて、私は危うく抱きしめそうになりました。
抱きしめてもよいのです。
妹なのですから……
けれど抱きしめたら、離せなくなる気がしました。
私は、手を握る力を少しだけ強くしました。
「玉珠」
「はい」
「私は、あなたを捨てるのではありません」
「知ってる」
「私は、父上ではありません」
「知ってる」
「私は、あなたの姉です」
玉珠の目に、ようやく涙が浮かびました。
それでも泣きません。
代わりに、指がゆっくり鼻へ上がります。
「玉珠」
「泣く前に、鼻が来ました」
「元譲様」
私が呼ぶと、元譲様が一歩近づきました。
「玉珠」
「はい」
「先に泣け」
玉珠は、口をへの字にしました。
そして、ぽろりと涙をこぼしました。
鼻より先に……
えらい。
たいへんえらい。
私は妹の手を離しました。
長坂で離さなかった手を……
今、曹休家の門前で……
逃げるためではございません。
死ぬためでもございません。
守るために、離す。
たいへん美しい言葉です。
そして、たいへん残酷でございます。
玉珠は車に乗る前に振り返りました。
「姉上」
「はい」
「玉珠、夏侯家で鼻を見張られてきます」
「もう少し別の言い方はありませんか?」
「菓子も食べます」
「もっと違います」
「生きています」
私は、そこで返事ができませんでした。
玉珠は笑いました。
泣きながら、少しだけ鼻をすすって……
「姉上も、生きていてね」
車の簾が下ろされました。
夏侯元譲様は馬に乗る前、私を見ました。
「明珠」
「はい」
「文烈の出立まで、日がない」
存じております。
言わないでいただきたい。
そう思いましたが、元譲様は言う方です。
優しさで隠すより、事実で守る。
そういう方です。
「玉珠は預かる。お前は腹の子と寧珠を見ろ」
「……はい」
「泣くなら、今のうちに泣け」
「元譲様まで、そのようなことを……」
「鼻へ逃げるよりはよい」
「私は玉珠ではございません」
「顔は似てきた」
たいへん失礼でございます。
けれど、否定しきれない自分が少し嫌です。
車が動き出しました。
玉珠の乗った車が、曹休家の門を離れていきます。
私は腹へ手を置きました。
寧珠が奥で泣いております。
文烈様は、まもなく江東へ向かわれる。
玉珠は夏侯家へ移った。
父上の文は箱の中。
母上は井戸の物語の中。
そして私は、曹休家の奥に残る。
妹の次は、夫でございますか……
元譲様――
どうやら曹休家の奥は、夏が終わる前に、ずいぶん広くなってしまうようでございます……
劉玉珠です。
玉珠は、夏侯家へ行くことになりました。
元譲様のところです。
お菓子はあるそうです。
鼻は見張られるそうです。
では大丈夫……と言いたいところですが、今日は少しだけ大丈夫ではありません。
姉上が、玉珠の手を離しました。
長坂では、離しませんでした。
父上が見えなくなっても、母上がいなくなっても、姉上は玉珠の手を握っていました。
痛いくらい握っていました。
でも今日は、姉上が自分から離しました。
守るためだそうです。
玉珠は分かります。
数え十四歳なので、少しは分かります。
でも、分かることと、寂しくないことは別です。
大人は、そこをよく間違えます。
守るため。
預かるため。
危なくないようにするため。
言葉はきれいです。
でも、手は離れます。
父上の時も、そうだったのかなと思いました。
天下のため。
漢室のため。
民のため。
きれいな言葉がたくさんあると、小さい手は見えなくなるのかもしれません。
姉上は、父上ではないと言いました。
玉珠は知っています。
姉上は父上ではありません。
姉上は、姉上です。
玉珠の手を握ってくれた人です。
鼻へ行きそうな指を、何度も止めてくれた人です。
怖い時も、怒っている時も、泣きそうな時も、玉珠の前に立ってくれた人です。
だから、姉上が手を離すのは、父上と同じではありません。
でも、手が離れるところだけは、少し似ていました。
それが、玉珠には困りました。
元譲様は言いました。
泣きたければ泣け、と……
鼻をほじるよりはよい、と……
玉珠は、とても難しいことを言われました。
泣くのと鼻は、近いところにあります。
涙も鼻も、顔についています。
たぶん親戚です。
でも今日は、鼻より先に涙が出ました。
玉珠は、少し大人になったのかもしれません。
鼻はまだ子どもです。
車に乗る前、姉上のお腹を見ました。
そこには、まだ会ったことのない子がいます。
玉珠のことを、ちゃんと話しておいてほしいです。
できれば、鼻の話は少なめがよいです。
姉上は全部言うそうです。
ひどい姉上です……
でも、たぶん本当に全部言うのでしょう。
そういうところは、安心です。
父上――
玉珠たちは、まだ生きています。
姉上は曹休家の奥に残ります。
文烈様はもうすぐ江東へ行きます。
玉珠は夏侯家へ行きます。
母上は井戸のお話の中です。
父上の文は箱の中です。
みんな、別々の場所にいます。
でも玉珠は、姉上に言いました。
姉上も、生きていてね、と……
姉上は返事ができませんでした。
だから、玉珠はもう一度言いたいです。
姉上――
玉珠は夏侯家で鼻を見張られてきます。
だから姉上も、ちゃんと生きていてください。
……元譲様。
今のは鼻ではありません。
涙の親戚です。
少しだけ、入口にいました。




