文烈様、身重の妻を置いて江東へ向かわれるのですか?
劉明珠でございます。
文烈様が、江東へ向かわれることになりました。
武人が戦へ出る。
曹家の男が魏公様に従う。
曹休文烈が孫権征討の備えをする。
たいへん正しいことでございます。
正しすぎて、こちらの怒る場所がございません。
父上なら簡単です。
置いていかれたことも、迎えに来なかったことも、母上を烈女にして阿斗だけを美しく残したことも、益州を得て新しい正室を迎えたことも、いくらでも皮肉にできます。
父上の不義は、たいへん扱いやすい素材でございます。
褒めておりません♪
けれど文烈様は違います。
私を捨てるのではありません。
寧珠を忘れるのでもありません。
腹の子を知らぬふりするのでもありません。
ただ、戦へ行かれるのです。
役目として。
曹休家を守るためにも。
だから、たいへん困ります。
恨める置き去りと、恨みきれない置き去りでは、後者の方がずっと厄介でございます。
私はいま、曹休家の奥におります。
腕には寧珠。
腹には二人目。
そばには玉珠。
そして箱の中には、父上の文。
たいへん賑やかなようでいて、少しずつ皆が別の場所へ動き始めております。
文烈様は江東へ。
玉珠にも、夏侯家へ移る話が出てまいります。
父上は益州へ。
母上は井戸の物語へ。
では、私はどこへ行くのでしょう?
どこへも行きません。
曹休家の奥に残ります。
置いていかれる娘は、妻になっても、母になっても、やはり置いていかれるようでございます。
ただし今回は、置いていく方を悪く言いきれません。
それが、いちばん腹立たしいのです。
文烈様――
戻るとおっしゃるなら、どうか本当に戻ってくださいませ。
でなければ私は、父上の分まで混ぜて怒ることになります。
文烈様が、江東へ向かわれることになりました。
たいへん結構でございます。
武人が戦へ出る。
曹家の男が魏公様に従う。
曹休文烈が孫権征討の備えをする。
それは、少しもおかしなことではございません。
おかしいのは、私の腹でございます。
いえ、腹の子がおかしいという意味ではございません。
腹に二人目を宿した妻が、夫の出征支度を見ながら、父上への皮肉よりも先に泣きそうになる。
そこが、おかしいのでございます。
たいへん困ります……
父上なら、いくらでも悪く言えます。
実際、悪く言えるところが多すぎて、言葉の方が先に疲れます。
母上を烈女にし、阿斗を守られた若君にし、ご自分は益州の主となり、新しい正室まで迎えられる……
父上の人生は、他人の涙をたいへん美しく飾るのがお上手です。
褒めておりません♪
けれど、文烈様は違います。
私を捨てるのではない。
寧珠を忘れるのではない。
腹の子を知らぬふりするのでもない。
魏公様の命に従い、戦へ向かわれる。
曹休家を守るためにも、曹家の武人として出る。
分かっております……
分かっているから、怒る場所がございません。
怒る場所のない腹立たしさほど、扱いに困るものはありません。
文烈様の出征支度は、静かに進みました。
鎧が出され、弓が改められ、馬具が磨かれます。
家令は留守中の帳を整え、曹肇はいつもより背筋を伸ばし、曹纂は兄の顔を見ながら自分も何か大事な役をもらえないかと目を輝かせておりました。
たいへん健気です……
そしてたいへん危険です……
子どもは、役目という菓子を見せられると、すぐ手を伸ばします。
大人になっても同じですね♪
父上など、その菓子を食べながら益州まで行かれました。
「肇」
文烈様が、曹肇を呼ばれました。
「はい、父上」
「留守の間、奥をよく見よ。明珠を困らせるな。纂を叱る時は、先に理由を聞け。寧珠の泣き声が続く時は、乳母だけに任せず知らせよ」
「はい」
曹肇はきちんと答えました。
まだ幼いのに、まるで小さな家長のようです。
いえ、小さな家長にされつつあります……
私は胸が痛くなりました。
子どもは、できれば子どもでいてほしいものです。
けれど家は、すぐ子どもに役を着せます。
劉備玄徳の娘である私が言うと、たいへん説得力がございますね♪
父上は娘に役どころを与える前に、私たちを舞台袖どころか荷車の外へ落とされましたが……
「纂」
「はい!」
「兄の言うことを聞け」
「はい!」
「玉珠殿の真似はするな」
「はい?」
玉珠が菓子の皿から顔を上げました。
「文烈様、それは玉珠のどの真似ですか?」
「鼻だ」
「まだしてません」
「今後もだ」
「未来の鼻まで止められました」
「未来へ送らないでください」
私が言うと、玉珠は神妙な顔で指を膝へ置きました。
たいへん偉い。
ただし、膝へ置いた指が時々そわそわしております。
鼻というものは、城より落としにくいようです。
文烈様は、寧珠を抱かれました。
寧珠は父の袖をつかみ、何か分からぬ言葉を口にしております。
まだ、文烈様がどこかへ行くということは分からないのでしょう。
分からなくてよいのです。
父が家を出ることを、赤子が理解する必要などございません。
私も、理解したくありません。
数え十九歳、曹休文烈の妻、寧珠の母、腹に二人目を宿す女。
それでも、夫が鎧を身につけるのを見るのは、嫌なものです。
「明珠」
文烈様が寧珠を乳母へ返し、私の前に来られました。
「無理をするな」
「無理をしない妻が、夫の出征支度を見送れるとお思いですか?」
「見送らなくてもよい」
「それはもっと嫌です」
文烈様は、困ったように笑われました。
その顔が、また腹立たしいほど優しいのです。
「怒っているか?」
「はい」
「私にか」
「文烈様にも、魏公様にも、孫権にも、父上にも、ついでに長江にも怒っております」
「長江もか……」
「文烈様を江東へ運ぶ水でございます。無罪ではありません」
玉珠が小さく手を挙げました。
「姉上、川は歩けないよ」
「分かっております」
「じゃあ、運ぶのは舟です」
「玉珠」
「はい」
「正しいことを言う時ほど、鼻から手を離してください」
玉珠は慌てて手を下げました。
文烈様が、喉の奥で笑われました。
笑わないでくださいませ……
こちらは真剣に川へ腹を立てております。
「必ず戻る」
文烈様は、短くおっしゃいました。
私はその言葉を聞いた瞬間、皮肉を探しました。
いつもならすぐ見つかります。
父上相手なら、百でも二百でも出てまいります。
必ず戻ると言って戻らない方は、どこの誰でしょうか?
妻子を置いていくことに慣れた方は、どこの仁君でしょうか?
そう続ければよい。
けれど文烈様の前では、言葉が喉で止まりました。
この方は、戻ろうとしてくださる。
戻る場所を、私と寧珠と腹の子のいる場所にしてくださる。
それが分かってしまう……
だから怖い……
「戦に、必ずはございません」
「それでも言う」
「無責任です」
「そうだ」
文烈様は逃げませんでした。
「無責任でも、そなたには言う。私は戻る。曹休家へ戻る。そなたのところへ戻る」
私は腹へ手を置きました。
中の子はまだ、父の声を聞き分けるほどではないでしょう。
それでも私は、勝手に聞かせたくなりました。
ほら――
あなたの父は、戻ると言っております。
父上とは違います。
そう言いかけて、心の中で止めました。
生まれる前から祖父をこきおろされる子も、なかなか不憫です。
もっとも、生まれた後も聞くでしょうから、今さらかもしれません。
褒めておりません。
「文烈様」
「うん」
「私は、父上に置いていかれました」
「知っている」
「母上は井戸へ入り、阿斗は救われ、父上は益州を得ました。私は曹休家で、あなたの子を身籠っております」
「うん」
「その私を、今度はあなたが置いていかれる」
文烈様の目が、かすかに痛みました。
「すまぬ」
謝らないでください……
そう思いました。
謝られたら、こちらの怒りの置き場がさらに減ります。
父上なら、謝っても大義を重ね、最後には天下のためと言われるでしょう。
文烈様は、ただ謝る。
たいへん困ります。
夫婦の会話に、天下より困るものがあるとは思いませんでした。
「捨てるのではない」
「分かっております」
「忘れるのでもない」
「分かっております」
「だが、そなたを残して行く」
「……それも、分かっております」
分かっていることが増えるほど、人は楽になるのでしょうか。
いいえ――
むしろ、言い訳が使えなくなります。
私は文烈様の袖をつかみました。
ほんの少しです。
つかんだと言うほどでもありません。
布に指を置いただけです。
ええ、そういうことにしておきます。
「早く戻ってくださいませ」
「うん」
「怪我をなさらないでくださいませ」
「努める」
「努める、では困ります」
「ならば、怪我をせぬ」
「軽くおっしゃらないでください」
「そなたは難しいな」
「身重の妻を残して江東へ向かう夫にだけは、言われたくございません」
文烈様は、今度こそ少し笑われました。
私は腹が立ちました。
笑えるなら、まだ大丈夫なのかもしれません。
そう思ってしまう自分にも腹が立ちます。
玉珠が、いつの間にか寧珠のそばへ寄っておりました。
寧珠の小さな手を握り、真剣な顔をしています。
「寧珠」
「玉珠、何をしているのですか?」
「文烈様が迷子にならないように、寧珠に覚えさせています」
「寧珠はまだ道案内できません」
「でも、父上より帰るのが上手な人に育つかもしれません」
部屋が凍りました。
玉珠は悪気なく首を傾げます。
「何ですか?」
「玉珠」
「はい」
「その一言は、たいへん正確ですが、たいへん危険です」
「正確なのに危険?」
「世の中には、そういう言葉がたくさんあります」
「では、鼻みたいですね」
「鼻を世の理にしないでください」
文烈様が静かに息を整えました。
笑いをこらえたのか、痛みを飲んだのか、分かりません。
たぶん両方でございます。
出立の日が近づくにつれ、曹休家の奥は、妙に整っていきました。
食糧の帳。
薬の置き場所。
産婆への連絡。
寧珠の乳母の交代。
曹肇と曹纂の学びの時間。
私が倒れた時に誰を呼ぶか?
玉珠が鼻をほじった時に誰が止めるか?
最後だけ、少し重要度が違う気がいたしますが、放置すると室内の士気に関わります。
家というものは、戦場とは違う形で忙しいのです。
私はそれを知っております。
史書には残りません。
武功にもなりません。
けれど、誰かが薬の場所を知り、誰かが赤子の泣き声を聞き、誰かが鼻へ向かう指を止めなければ、家は静かに崩れます。
天下とは、案外そういうものの上に座っているのでしょう。
座っている方々は、下をあまりご覧になりませんが……
褒めておりません。
その夜、文烈様は私の部屋へ来られました。
鎧ではなく、いつもの衣でした。
それだけで少し息が楽になります。
武人の妻とは、鎧を嫌う女のことかもしれません。
「眠れぬか?」
「眠れていたら、目を開けておりません」
「そうだな」
文烈様は灯のそばへ座られました。
私は寝台の端に腰を下ろし、腹を撫でます。
「この子が生まれる頃には、戻っておられますか?」
「戻る」
「また、必ずとおっしゃいますか?」
「戻る」
同じ言葉でした。
けれど、今度は少し違いました。
大きな誓いではなく、家の戸を開ける時のような声でした。
「明珠」
「はい」
「私は、そなたを一人にしたいわけではない」
「知っております」
「それでも、一人にする時がある」
「知っております」
「その時は、怒ってよい」
私は目を上げました。
「本当に?」
「うん」
「かなり言いますよ」
「知っている」
「父上の分まで混ざるかもしれません」
「それは困る」
「今さらです」
文烈様が困った顔をされました。
私は、ようやく少し笑えました。
笑うと、腹の奥で小さく力が抜けます。
本当に困ります。
私はこの方の前で、どんどん弱くなっているのかもしれません。
いいえ――
弱くなっているのではない。
頼る場所を覚えてしまったのです。
長坂で玉珠の手を引いていた私が……
曹家の奥で息を潜めていた私が……
父上の文を皮肉で刺していた私が……
夫の帰りを待つことを、怖いと思うようになった。
たいへん大きな堕落でございます。
たいへん幸せな堕落でもございます。
翌朝、夏侯元譲様から文が届きました。
私は封を見た瞬間、嫌な予感がいたしました。
このところ、文というものは私の心臓を試すためだけに届いている気がします。
文烈様が読み、眉を動かされました。
「元譲様からだ」
「何と?」
文烈様は、私と玉珠を交互に見ました。
玉珠は、ちょうど菓子を口へ運ぶところで止まっております。
止まる場所が口でよかったです。
鼻ではなく……
文烈様が、文を読み上げました。
「文烈が江東へ出るなら、玉珠を夏侯家へ移す備えをせよ。曹休家の奥に劉備の娘二人を置き続けるは、今はよくない」
玉珠の菓子が、皿へ戻りました。
珍しいことです。
私は、息を忘れました。
文烈様が続きを読みます。
「菓子は用意する。鼻は見張る」
玉珠が、ゆっくり指を上げました。
「姉上」
「何ですか?」
「元譲様のところ、お菓子あります」
「そこではありません」
「鼻も見張られます」
「そこでもありません」
玉珠は、少しだけ笑いました。
けれど、その目は笑っておりませんでした。
「玉珠も、行くの?」
誰もすぐには答えませんでした。
文烈様は文を閉じ、私は腹に手を置きました。
寧珠が奥で小さく泣きました。
父上は益州へ。
母上は井戸の物語へ。
文烈様は江東へ。
玉珠は夏侯家へ。
私は、曹休家の奥に残る。
寧珠と、腹の子と、父上の文を入れた箱とともに……
置いていかれる娘は、妻になっても母になっても、やはり置いていかれるようでございます。
ただ、今度は誰を恨めばよいのか、まだ分かりません。
そして玉珠の指は、答えを探すように、静かに鼻へ向かっておりました。
劉玉珠です。
文烈様が、江東へ行くそうです。
江東は遠いところだそうです。
玉珠は思いました。
遠いところへ行く人は、帰り道を忘れないように、何か目印を持った方がよいです。
寧珠はまだ小さいので、道案内はできません。
姉上のお腹の子は、まだ外にも出ていません。
玉珠は地図を描けません。
ですので、文烈様には、ちゃんと曹休家へ帰ってきていただくしかありません。
父上は、帰ってくるのがあまり上手ではありません。
これは姉上に言うと、たいへん怖い顔をされます。
でも、文烈様は戻ると言いました。
姉上は、それを聞いて怒っていました。
怒っているのに、少し安心していました。
鼻は怒っていました。
目は少し休んでいました。
姉上は難しいです。
文烈様は、姉上を捨てるのではないそうです。
忘れるのでもないそうです。
戦へ行くそうです。
それなら仕方ないのかもしれません。
でも、仕方ないことは、悲しくないという意味ではありません。
玉珠は、そこが少し分かるようになりました。
数え十四歳なので、少しだけ大人です。
鼻はまだ子どもです。
それから、元譲様から文が来ました。
玉珠を夏侯家へ移す備えをせよ、とのことでした。
菓子は用意する。
鼻は見張る。
元譲様は、玉珠のことをよく分かっています。
でも、姉上のことも、きっと分かっています。
曹休家の奥に、劉備の娘二人を置き続けるのはよくないそうです。
玉珠は考えました。
父上は益州へ。
母上は井戸のお話へ。
文烈様は江東へ。
玉珠は夏侯家へ。
姉上は曹休家の奥へ残ります。
寧珠と、お腹の子と、父上の文の箱と一緒に。
姉上は、また誰かに置いていかれます。
でも今度は、怒る相手が難しいです。
父上なら怒れます。
文烈様には、怒りながら泣きそうになります。
元譲様には、たぶん怒る前に鼻を止められます。
……困りました。
玉珠が夏侯家へ行ったら、姉上の鼻を見てあげる人が減ります。
姉上は、私の鼻ばかり見ますが、姉上の鼻もけっこう正直です。
父上――
玉珠たちは、まだ生きています。
姉上は、文烈様の帰りを待つ人になりました。
玉珠は、夏侯家へ行くかもしれません。
置いていかれるのは、娘だけではないようです。
でも、残される姉上を見ていると、鼻がむずむずします。
……元譲様。
今のは寂しいだけです。
鼻ではありません。
まだ、少ししか入っていません……




