父上、母上を烈女にして新しい正室を迎えるのですか?
劉明珠でございます。
父上が、益州を得られたそうです。
たいへんおめでとうございます。
迎えられるのがお上手な方だとは存じておりましたが、迎えられた先で主になられるとは、さすが父上でございます。
なお、迎えに来る方は相変わらずお上手ではございません。
褒めておりません。
建安十九年、五月。
私は曹休家の奥で、寧珠を抱き、腹に二人目を宿しておりました。
父上は益州の主となり、私は敵方の家で曹休文烈の子をまた身籠っております。
親孝行とは、どの方角へ向けて行えばよろしいのでしょうか。
地図が欲しいところです。
ただし魏公様の地図は、たいてい人を逃がさない形で描かれておりますので、できれば遠慮したいです。
今回届いた報せは、父上の勝利だけではございませんでした。
父上は、益州の呉氏を正室に迎えられるそうです。
国を得て、正室も得る。
たいへん整っております。
整いすぎて、置いていかれた娘の居場所がますます分からなくなります。
そして私は、この時はじめて知ることになります。
母上が、長坂でどう亡くなられたと語られているのかを……
阿斗を守り、趙子龍殿に託し、井戸へ身を投げた母。
後の人々は、きっと美しく語るのでしょう。
烈女、と――
父は仁君。
母は烈女。
弟は守られた若君。
では、私と玉珠は何なのでしょう?
井戸にも入らず、物語にも残らず、曹休家の奥で父上の文を箱にしまっている娘でございますか?
たいへん見事な家族紹介でございます。
私だけ、紹介欄の端で腹を押さえております。
今回は、父上が益州を得て、母上が烈女になり、新しい正室が父上の隣へ置かれるお話でございます。
そして、もう一つ。
私がようやく、はっきりと思い知るお話でもございます。
母上の井戸よりも、父上の新しい正室よりも、私の足元を深く崩す知らせがあるのだと……
文烈様――
どうか、まだその文を読まないでくださいませ……
父上が、益州を得たそうで、たいへんおめでとうございます。
迎えられるのがお上手な方だとは存じておりましたが、迎えられた先で主になられるとは、さすがでございます。
なお、迎えに来る方は、相変わらずお上手ではございません。
褒めておりません。
建安十九年、五月――
曹休家の奥には、初夏の風が入っておりました。
寧珠は乳母の膝で小さな手を動かし、玉珠は菓子の皿を真剣に見張っております。
私は腹へ手を添えて、ゆっくり息をしておりました。
寧珠の時よりは落ち着いているつもりでございます。
二度目だから慣れた、などとは申しません。
腹の中に子を宿すことに慣れる女がいるなら、一度お会いして、どういう心臓をしているのか確認したいものです。
ただ、文烈様がそばにいてくださる。
それだけで、私はずいぶん息がしやすくなっておりました。
たいへん不本意です。
たいへん困ります。
そして、たいへん助かっております。
その日の昼前、魏公府から使いが参りました。
使いが来るだけで、私は反射のように腹へ手を置きます。
魏公様から来るものは、文でも、箱でも、札でも、たいてい中に刃が入っております。
前回は、父上の返事の写しでした。
今回は何でしょう……
菓子でしょうか?
ありえませんね……
魏公様の菓子には、たぶん食べる前に天下の味見が必要です。
文烈様が使者から文を受け取り、封を切られました。
顔色が、少し変わります。
ほんの少しです。
けれど、私には分かりました。
最近、この方の顔が少しずつ読めるようになっております。
たいへん危険です。
読めるようになると、読めなかった時には戻れません。
「文烈様」
「明珠」
「読んでくださいませ」
文烈様は、すぐには読まれませんでした。
それが答えでございます。
「よくない知らせですね」
「……良い知らせとして届いた」
「では、私にはよくない知らせでございます」
文烈様は文を見つめ、それから私を見られました。
「劉備玄徳、成都を得た。劉璋、降伏。玄徳は益州を支配下に置いた」
室内の音が、少し遠のきました。
寧珠の声も、玉珠が菓子を数える小さな声も、遠くで揺れております。
父上が、益州を得た。
あの方は、また人に迎えられ、兵を借り、武器を借り、土地を歩き、最後にはその地の主になられたようです。
貸したものを返したかどうかは、聞かない方がよろしいでしょう。
仁君の帳簿は、たぶんたいへん複雑です。
「それだけでは、ございませんね?」
私が言うと、文烈様はわずかに口を閉ざされました。
「続けてくださいませ」
「……玄徳は、益州の呉氏を正室として迎えるとの報もある」
正室――
その言葉は、腹の中の子より先に、私の胸を蹴りました。
父上に、正室。
新しい正室。
糜夫人ではなく。
母上ではなく。
益州の呉氏。
たいへん結構でございます。
国を得て、家も整える。
主たる者のなさることとしては、少しも不思議ではありません。
不思議ではありませんが、腹は立ちます。
私は、たいへん理不尽な女でございます。
「母上は……」
自分の声が、自分のものではないようでした。
「母上は、どうなったと?」
文烈様の手が、文の端を握りました。
「これは……蜀中で語られている話だ。事実として定められたものではない」
「構いません。魏公府の文に載るほどには、語られているのでしょう」
文烈様は、静かに息を吐かれました。
「糜氏は長坂にて、阿斗を趙子龍に託し、井戸へ身を投げたと伝えられている」
井戸――
その一字が、部屋の真ん中に落ちました。
音はしません。
けれど、確かに落ちました。
母上は、井戸へ入った。
阿斗を守るために……
趙子龍殿に託すために……
足手まといにならぬために……
そして、後の人々はきっとこう呼ぶのでしょう。
烈女、と――
たいへん美しい言葉です。
美しすぎて、残された娘の顔は映りません。
「父上は益州を得ました」
私は言いました。
「新しい正室も迎えられます」
文烈様は何も言われません。
「母上は烈女になりました」
腹の中で、小さなものが動いたような気がしました。
本当に動いたのか、私の心が勝手に揺れただけなのかは分かりません。
「では、私と玉珠は何なのでしょう?」
文烈様が一歩近づかれました。
「明珠」
「井戸にも入らず、物語にも残らず、父上のもとへも戻らず、曹休家の奥で父上の文を箱にしまっている娘でございますか?」
笑おうとしました。
皮肉を言う時は、笑っている方がよいのです。
刃物を布で包むようなものです。
けれど、うまく笑えませんでした。
その時、玉珠が菓子の皿から顔を上げました。
「姉上」
「何ですか?」
「母上は、井戸に入ったの?」
部屋の女たちが、一斉に息を止めた気配がしました。
私は玉珠を見ました。
数え十四歳。
もう幼いだけの妹ではございません。
けれど、鼻へ向かう指はまだ健在です。
悲しみも疑問も、たいへん自然に鼻の近くを通ります。
「そう伝えられております」
「阿斗を守るため?」
「そう伝えられております」
「姉上と玉珠は?」
「私たちは、曹休家におります」
玉珠はしばらく考えました。
指が鼻へ近づきます。
「玉珠」
「今は考えてるだけ」
「考える場所を鼻にしないでください」
玉珠は指を少し下げました。
えらいです。
数え十四歳の成長は、たいへん小刻みでございます。
「母上は物語に入ったの?」
私は返事に詰まりました。
玉珠は続けます。
「母上は烈女。阿斗は助かった。趙子龍殿は走った。父上は益州を取った。新しい奥方様も来る。姉上は文烈様のところ。玉珠は菓子の前」
「最後だけ急に俗になりますね……」
「大事です」
確かに大事です。
人は大義だけでは生きられません。
菓子も必要です。
鼻は必要ありません。
「玉珠たちは、母上のお話には入らないの?」
その言葉は、先ほどの井戸より深く落ちました。
母上のお話。
烈女の話。
長坂で阿斗を守り、井戸へ身を投げた母。
その美しい話の中に、娘二人はいない。
私は、玉珠の手を引いていたはずです。
玉珠は、私の隣で泣きそうになっていたはずです。
けれど物語に残るのは、阿斗を抱いた趙雲と、井戸へ消えた母上。
父上の仁義と、母上の烈女。
たいへん見事な配置でございます。
娘が余ります。
「入らないのでしょうね」
私は答えました。
「なぜ?」
「邪魔だからです」
玉珠が目を丸くしました。
「邪魔?」
「美しい話には、余計な荷物を載せません。母上が阿斗を守った話に、置いていかれた娘二人まで載せると、父上の足元が少し汚れます」
「父上、足を洗えばいいのに」
「それで済めばよろしゅうございましたね」
玉珠はまた考え込みました。
今度こそ指が鼻へ入る寸前でした。
「玉珠」
「父上の足を洗うことを考えていました」
「鼻で洗わないでください」
「鼻では洗えません」
「分かっているなら近づけない」
文烈様が、そっと私のそばへ来られました。
「座った方がよい」
「座っております」
「背を預けろ」
「そこまで病人扱いなさらないでください」
「身重だ」
「存じております。腹の中におりますので」
「ならば、なおさらだ」
私は反論しようとして、やめました。
文烈様の手が、私の肩の近くで止まります。
触れてよいかを、待っておられる。
本当に困る方です。
無理に奪えばよいのに……
私を曹休家に閉じ込める檻になればよいのに……
この方は、いつも私が頷く場所を残してしまう。
だから私は、ますます逃げられなくなります。
「……文烈様」
「うん」
「そばにいてくださいませ」
言ってから、胸の内で何かが崩れました。
またです。
父上が益州を得たと聞いた日に……
母上が井戸へ入ったと知った日に……
新しい正室の話まで聞いた日に……
私は、敵方の夫へそばにいてくださいと言いました。
たいへん立派な親不孝でございます。
たいへん情けない娘でございます。
そして、たいへん救われてしまう妻でございます。
文烈様は、何も大げさなことをおっしゃいませんでした。
ただ、私の隣に座られました。
それだけで、先ほどまで部屋の真ん中に落ちていた井戸が、少し遠くなった気がいたします。
気のせいでしょう。
気のせいでよいのです。
人は、時々、気のせいに救われます。
「明珠」
「はい」
「そなたは、物語から余ったのではない」
「では何でしょう?」
「ここにいる」
「答えになっておりません」
「私には、それが一番大事だ」
私は目を伏せました。
また皮肉を返せませんでした。
最近、本当に困ります。
文烈様の言葉は、私の皮肉の背後へ回り込んできます。
魏公様の文より厄介です。
夕方近く、魏公府の使いがもう一度戻ってまいりました。
今度は文烈様宛です。
私は嫌な予感しかいたしません。
嫌な予感は、たいてい当たります。
良い予感は、だいたい外れます。
人生とはそういうものです。
文烈様が封を開きました。
今度は、はっきりと顔が変わりました。
「文烈様」
私は腹に手を添えたまま、問いました。
「今度は何でございますか?」
文烈様は、しばらく黙っておられました。
玉珠が小さく言います。
「お菓子?」
「お菓子であるはずがありません」
「鼻?」
「魏公府から鼻は届きません」
「よかった」
本当によかったです。
文烈様は、文を畳まれました。
「七月、魏公様は孫権征討へ向かわれる」
息が止まりました。
「文烈様は?」
聞かなくても、分かっております。
分かっていても、聞かずにはいられません。
「従軍の備えをせよ、とのことだ」
父上は益州の主へ。
母上は井戸へ。
新しい正室は父上の隣へ。
そして文烈様は、七月に江東へ。
私は曹休家の奥で、寧珠を抱き、腹の子を抱え、玉珠の鼻を止めながら残ります。
置いていかれる娘は、母になっても置いていかれるようでございます。
今度は父上ではなく、文烈様に……
しかも文烈様は、私を捨てていくのではありません。
戦へ行くのです。
守るために。
役目のために。
分かっております。
分かっているからこそ、たいへん腹が立ちます。
私は文烈様を見ました。
文烈様も、私を見ておられました。
魏公様――
今日という日に、父上と母上と新しい正室と江東行きをまとめて届けてくださるとは、実に見事なお心配りでございます。
褒めておりません。
そして私は、その時ようやく理解しました。
母上が井戸へ入った話よりも……
父上が新しい正室を迎える話よりも……
文烈様が七月にこの家を出るという一文が、今の私の足元を一番深く崩したのでございます。
劉玉珠です。
父上が、益州を取ったそうです。
とても大きいところだそうです。
そんなに大きいものを取れるなら、姉上と玉珠のことも拾えたのではないかと思いました。
でも、姉上に言ったら少し怖い顔をされました。
父上は、迎えられるのが上手です。
迎えられた先で、ごはんを食べて、兵を借りて、武器を借りて、最後にはそこの主になるそうです。
玉珠には、それがお客なのか、親戚なのか、泥棒なのか、少し分かりません。
でも父上は仁君なので、たぶん泥棒ではありません。
大人の言葉は便利です。
今日は、母上の話も聞きました。
母上は長坂で阿斗を趙子龍殿に託して、井戸に入ったそうです。
井戸は暗くて、冷たくて、のぞくと怖いところです。
そこに母上が入った。
阿斗を守るために……
母上は烈女になりました。
阿斗は守られた若君です。
父上は益州の主です。
新しい奥方様も来るそうです。
では、姉上と玉珠はどこでしょう?
長坂には、姉上も玉珠もいました。
姉上は玉珠の手を引いてくれました。
でも、きれいなお話の中には、姉上と玉珠の場所がありません。
余ったのでしょうか?
菓子なら、余っても玉珠が食べます。
でも、人は食べられません。
紙も食べてはいけません。
姉上に怒られます。
姉上は今日、文烈様にそばにいてくださいと言いました。
玉珠は聞きました。
姉上は、いつも前に立つ人です。
でも今日は、文烈様がそばにいると少し息が楽そうでした。
玉珠は、それでよいと思います。
一人で立つのは偉いです。
でも、倒れそうな時に誰かがいるのも、たぶん偉いです。
ところが、文烈様は七月に江東へ行くそうです。
魏公様が孫権を攻めるので、文烈様も備えるそうです。
姉上の顔が変わりました。
母上の井戸よりも……
父上の新しい奥方様よりも……
文烈様が家を出ると聞いた時、姉上の鼻はいちばん黙りました。
鼻が黙ると、人はとても怖い顔になります。
父上――
玉珠たちは、まだ生きています。
母上は烈女になりました。
姉上は文烈様の妻になりました。
でも、文烈様は七月に家を出るそうです。
置いていかれるのは、娘だけではないのですね。
妻も、母も、姉上も、置いていかれる時があります。
……元譲様。
今のは鼻ではありません。
姉上のことを考えていただけです。
指は、まだ入り口です。




