魏公様、父上の文を娘の未来まで残すおつもりですか?
劉明珠でございます。
魏公様から箱が届きました。
中身は菓子ではございません。
たいへん残念です。
玉珠ではなく、私がそう思ったのでございます。
菓子なら食べれば消えます。
甘ければ腹が立ち、まずければもっと腹が立ちますが、少なくとも娘が字を読む年まで残せなどとは言われません。
ところが入っていたのは、私が書いた父上の返事の写しでございました。
父上から来たわけでもなく、父上へ送ったわけでもない文です。
私が勝手に書き、勝手に腹を立て、魏公様に読まれ、そして曹休家の奥へ戻されてきました。
文というものは、本当に帰り道をよく覚えております。
褒めておりません。
しかも魏公様は、その文を寧珠が字を読む年まで残せ、とおっしゃいます。
赤子の歯が生えるより先に、父上の不義を予約しないでいただきたいものです。
今回は、その文をどうしまうかのお話でございます。
燃やしたい。
隠したい。
井戸に沈めたい。
けれど、魏公様の命でございます。
たいへん面倒です。
そして、もっと面倒なことに、私は気づいてしまいます。
文烈様がそばにいないだけで、私は父上の文一つに息を詰まらせるようになっておりました。
長坂で玉珠の手を引いて歩いた私が……
敵の家で生きてきた私が……
夫が部屋を少し出ただけで、戸口を見てしまうのです。
たいへん情けない。
たいへん不本意。
けれど、たいへん幸せです。
父上――
あなたの娘は、敵方の家で立派に育ちました。
今では、敵方の夫がいないと不安になる女でございます。
――どうぞ褒めてくださいませ。
褒められたら、たぶん怒ります。
魏公様から届いた箱の中身は、菓子ではございませんでした。
たいへん残念です。
いえ、玉珠ではなく、私がそう思ったのでございます。
菓子なら、食べれば消えます。
甘ければ少し腹が立ちますし、まずければ大いに腹が立ちますが、少なくとも、寧珠が字を読む年まで残せなどとは言われません。
しかし、箱の中に入っていたのは文でした。
私が書いた、父上の返事の写しでございます。
父上から来たわけでもなく、父上へ送ったわけでもない文。
私が勝手に書き、勝手に腹を立て、魏公様に読まれ、そして曹休家へ戻されてきた文。
文というものは、本当に帰り道をよく覚えております。
持ち主よりも執念深い。
褒めておりません。
添えられた札には、魏公様の筆でこうありました。
曹休家の奥に置け。
寧珠が字を読む年までは、残せ。
私は寧珠を抱いたまま、しばらく動けませんでした。
寧珠はまだ字など読めません。
読めるのは乳の匂いと、眠い時の不満と、母の指を握れば離さなくてよいというたいへん賢い道理くらいです。
その子の未来へ、魏公様は先に文を置かれました。
赤子の歯が生えるより先に、父上の不義を予約しないでいただきたい……
「明珠」
文烈様が、私の顔を見ておられました。
「燃やしたい顔をしている」
「燃やしたいです」
正直に答えてしまいました。
近ごろ、文烈様の前では隠し事が下手になっております。
たいへん困ります。
私は皮肉で身を守ってきた女です。
それなのに、この方の前では皮肉をかぶせる前に本音がこぼれます。
蓋の壊れた壺のようです。
しかも中身は怒りと父上です。
最悪でございます。
「燃やせば、魏公様の命に背く」
「承知しております」
「隠せば、それも背く」
「存じております」
「では、どうする?」
「文烈様が何とかしてください」
言った瞬間、自分で固まりました。
何を口走っているのでしょう。
私は劉備玄徳の娘です。
長坂で玉珠の手を引き、敵の中で息をし、曹純殿の屋敷を経て、曹休家の奥で生きてきた女です。
その私が、紙一枚を前にして、夫に何とかしてくださいと言いました。
たいへん情けない……
たいへん不本意……
けれども、たいへん安心してしまう。
文烈様は笑いませんでした。
叱りもしません。
「分かった」
ただ、そうおっしゃいました。
「分からないでください」
「なぜだ?」
「私がますます、文烈様なしでは紙も片づけられない女になります」
「紙くらい、共に片づければよい」
「紙くらい、とおっしゃいますが、その紙は父上の面の皮でできております。丈夫です。燃え残るかもしれません」
「ならば、さらに丈夫な箱へ入れよう」
「文烈様、真面目に返さないでください。私の皮肉が迷子になります」
「迷子なら、ここに戻ればよい」
本当に、この方は困ります。
私の言葉を、逃げ道ではなく、帰り道にしてしまうのです。
その頃、玉珠は箱の中をのぞき込もうとしておりました。
「お菓子じゃないの?」
「違います」
「紙?」
「紙です」
「食べられる?」
「食べません」
「鼻をかむ?」
「かみません」
「じゃあ、何に使うの?」
私は答えに詰まりました。
父上を刺すため。
私を測るため。
寧珠の未来へ毒を残すため。
どれを言っても、十三歳の妹に聞かせるには適しておりません。
もっとも玉珠は、十三歳にして父上を刺す文を書いた子です。
油断はできません。
「残すためです」
私がそう言うと、玉珠はますます首を傾げました。
「残すなら、お菓子の方がいいです」
「お菓子は腐ります」
「だから早く食べます」
「その早さを、鼻にも使ってください」
「鼻は腐らないよ」
「腐る前に怒られます」
玉珠はしばらく考え、納得したように頷きました。
そして指を鼻へ持っていきました。
「玉珠」
「納得したから」
「納得と鼻は別です」
「紙も別?」
「別です」
「大人は、何でも別にするね」
その言葉だけは、少し刺さりました。
父上と劉備玄徳。
娘と劉氏明珠。
妻と札。
紙と刃。
大人は何でも別にいたします。
別にすれば扱いやすいからです。
血も涙も、名前を変えれば政事になります。
たいへん便利です。
たいへん最低です。
文烈様は家令を呼び、箱を用意させました。
最初に運ばれてきたのは、寧珠の祝いの布や、小さな産着をしまっておくための木箱でした。
それを見た瞬間、私は顔をしかめたらしいです。
「別の箱にしよう」
文烈様が、すぐに言われました。
「なぜ分かるのですか?」
「そなたが嫌そうな顔をした」
「私はそんなに顔に出ておりますか?」
「私には分かる」
また困ることをおっしゃいます。
他の者には分からなくても、文烈様には分かる。
それが恐ろしいようで、救いのようで、腹立たしいほど嬉しい。
寧珠の物と父上の紙を同じ箱に入れるなど、絶対に嫌でした。
この子の小さな産着の隣に、父上の偽りの返事が眠る。
考えただけで、箱ごと井戸に放り込みたくなります。
もちろん、しません。
井戸水が迷惑です。
次に運ばれてきたのは、何の飾りもない小ぶりな箱でした。
黒塗りでもなく、立派すぎもせず、奥の記録を入れるにはちょうどよい大きさです。
ちょうどよい、という言葉が腹立たしい。
父上の面の皮をしまうのに、ちょうどよい箱がこの世に存在すること自体、間違っております。
「これにする」
文烈様が言われました。
「鍵は私が持つ」
「では私は何を持てばよろしいのでしょう」
「もう一つ、紐をつける。そなたが持て」
「二人でなければ開けられないように、でございますか」
「ああ」
文烈様は、当然のように頷かれました。
「一人で抱えさせぬ」
またそれです……
この方は、何度も同じことを言います。
同じ言葉なのに、毎回こちらの胸の違う場所へ入ってくるのですから、たいへん悪質です。
「文烈様」
「何だ」
「そういうことを繰り返されると、私は本当に戻れなくなります」
「どこへ?」
私は黙りました。
父上のもとへ――
劉備玄徳の娘という名へ――
長坂で止まったままの、置いていかれた子供へ――
どれも、もう私の居場所ではありません。
「文烈様の隣以外へ、です」
文烈様は少しだけ目を細められました。
「戻らなくてよい」
簡単に言わないでください。
その簡単さが、どれだけ人を駄目にするか、ご存じないのですか?
この方は、きっとご存じありません。
真面目な顔で、人を沼へ沈める方です。
たいへん危険です。
箱を整えるため、文烈様は一度、家令とともに部屋を出られました。
ほんの短い間です。
戸が閉まっただけ……
足音が少し遠ざかっただけ……
それだけなのに、部屋の空気が薄くなったように感じました。
おかしな話です。
寧珠は腕の中におります。
玉珠は、油断すると鼻をほじろうとしております。
曹肇様は、曹纂様が紙に手を伸ばさぬよう真面目に見張っております。
曹休家の奥は、ちゃんとここにあります。
それなのに、文烈様がいないだけで、私はまず戸口を見てしまう。
戻られるか?
すぐ戻られるか?
父上がいなくても立っていたはずの私が……
長坂で泣かずに歩いたはずの私が……
今は、夫が少し席を外しただけで、紙に押しつぶされそうになっております。
たいへん情けない。
たいへん不本意。
「姉上」
玉珠が私を見上げました。
「文烈様、すぐ戻るよ」
「分かっています」
「姉上、今、文烈様いない顔してた」
「どんな顔ですか?」
「鼻がさみしい顔」
「私の鼻で心を読むのをやめなさい」
「鼻は正直です」
「あなたの鼻だけです」
玉珠は自分の鼻を指で示しました。
その指が、ついでのように穴へ向かいます。
「玉珠」
「説明です」
「説明に鼻の中は不要です」
「難しいです」
曹肇様が横から真剣に申されました。
「奥方様、文烈様はすぐ戻られます」
「ありがとうございます、曹肇様」
「戻られるまで、私が紙を見張ります」
七つか八つの子に父上の面の皮を見張らせる曹休家。
いよいよ何の家なのか分からなくなってまいりました。
文烈様は、本当にすぐ戻られました。
短い時間です。
短いはずでした。
それなのに、戻られた姿を見た瞬間、私は息がしやすくなりました。
そのことが、さらに腹立たしい。
私は、文烈様がいないと駄目な心になりつつあるのでしょうか?
敵方の一門の男です。
曹操に信頼される武人です。
私の父を敵として見る側の人です。
その人が部屋に戻っただけで、私の胸は落ち着く。
なんということでしょう。
父上――
あなたの娘は、たいへん立派に育ちました。
敵方の家で、敵方の夫がいないと不安になる女になりました。
褒めてくださいませ……
褒められたら、たぶん怒ります。
「明珠」
文烈様が、私のそばへ来られました。
「顔色が悪い」
「文烈様のせいです」
「私の?」
「出ていかれました」
「すぐ戻った」
「それが分かっていても、嫌だったのです」
言ってしまいました……
またです。
皮肉を探す前に、本音が出ました。
たいへん重症です……
文烈様は、何も言わず、私の手に触れました。
寧珠を抱いていない方の手です。
「これからは、声をかけてから出る」
「そこまでしなくて結構です」
「する」
「私がますます駄目になります」
「駄目ではない」
「駄目です。文烈様がいないと、紙一枚で息が詰まる女になっております」
「それなら、私がいる」
「簡単に言わないでください」
「簡単ではない」
文烈様は、静かに続けられました。
「そなたが、私を必要としてくれることを、軽く思ったことはない」
困りました。
本当に困りました。
この方は、こちらが恥じていることを、恥ではない形にしてしまう。
依存を、弱さではなく、夫婦の間へ置いてしまう。
「文烈様」
「うん」
「私は、こんな女ではなかったはずです」
「どんな女だ」
「一人でも立っているふりくらいは上手な女です」
「ふりなら、やめてもよい」
「やめたら、私は何になりますか?」
「私の妻だ」
また、逃げ道が消えました。
たいへん乱暴です。
たいへん優しい。
私は、寧珠を抱く腕に少し力を込めました。
寧珠が小さく身じろぎします。
まだ何も知らない娘。
いつか、この子が字を読む。
魏公様は、その日まで紙を残せと言いました。
私はその命に腹を立てました。
けれど、同時に思ってしまったのです。
その日、この子の隣に文烈様がいてくださるなら……
私も、まだ息ができるかもしれない。
ひどい依存です。
たいへん不本意です。
けれど私は、もう認めるしかございません。
私は曹休文烈の妻です。
曹休家の奥方です。
寧珠の母です。
そして、文烈様がそばにいないと、父上の紙一枚にも腹の底から立ち向かえない女になりつつあります。
たいへん情けない。
たいへん幸せです。
この二つは、どうして同じ胸の中に入るのでしょう。
箱は奥の棚へ置かれました。
文烈様が鍵を持ち、私は結び紐を預かりました。
二人でなければ開けられない箱。
つまり、父上の返事ですら、もう私一人のものではないのです。
劉備玄徳へ向けて書いたはずの文が、曹休家の夫婦の箱へ入る。
たいへん見事な迷子でございます。
褒めておりません。
玉珠は、少し離れたところからその様子を見ていました。
「姉上、その箱、鼻で開く?」
「開きません」
「手で?」
「鍵で」
「鍵は鼻に入る?」
「入れません」
「入るかどうかだけ」
「試しません」
玉珠は残念そうにしました。
この子はどうして毎回、天下の毒を鼻へ近づけようとするのでしょう。
昼過ぎ、魏公府へ箱を受け取った旨の返事を出しました。
文烈様が書き、私が確認しました。
曹休家の奥に置いた。
命の通り、寧珠が字を読む年まで残す。
短い文です。
それだけの文なのに、私にはひどく重く見えました。
使者が出ていくと、玉珠が庭の方から走ってきました。
「姉上、大変」
「鼻ですか?」
「違います」
珍しいこともございます。
「魏公府の人が、もう一つ言っていました」
嫌な予感がしました。
魏公府の人が言い残すことに、良い予感などあったためしがございません。
「何をですか?」
玉珠は息を整え、私を見上げました。
「その箱を開ける時は、文烈様も一緒にって」
私は文烈様を見ました。
文烈様も、私を見ました。
魏公様――
あなたは本当に、紙の置き場所だけでなく、私の逃げ道までよくご覧になっておられる。
私は文烈様がいないと駄目な心になりつつある。
そのことに、私自身がようやく気づいたばかりだというのに……
どうやら魏公様は、もうそこまで書き込んでおられたようでございます。
劉玉珠です。
魏公様から箱が届きました。
玉珠は、お菓子だと思いました。
違いました。
紙でした。
とても残念です。
紙は甘くありません。
噛んでもたぶん、おいしくありません。
姉上に聞いたら、食べてはいけないと言われました。
鼻をかむのも駄目だそうです。
では何に使うのかと思ったら、残すためだそうです。
大人は不思議です。
お菓子は残すと腐ります。
紙は残すと怖くなります。
なら、早く食べた方がよいと思います。
紙ではなく、お菓子の話です。
紙は食べません。
姉上に怒られます。
今回の紙は、父上の返事だそうです。
でも、父上から来た返事ではありません。
姉上が書いた返事です。
父上はまだ読んでいません。
魏公様が読んで、写して、曹休家へ戻しました。
玉珠は少し考えました。
父上への返事なのに、父上へ行かず、曹休家へ帰ってくる。
紙は、父上より帰るのが上手です。
たぶん、父上より迷子になりません。
褒めているのかは、よく分かりません。
姉上は、その紙を燃やしたい顔をしていました。
文烈様が言いました。
燃やしたい顔をしている、と……
玉珠も見ました。
姉上の鼻が、燃やしたい形でした。
人の鼻は、やっぱり正直です。
玉珠の鼻も正直です。
正直すぎて、指が呼ばれます。
でも姉上に止められました。
今日も難しいです。
姉上は、文烈様が少し部屋を出ただけで、戸口を見ていました。
玉珠は見ました。
姉上は、文烈様がいない顔をしていました。
鼻がさみしい顔です。
姉上は、私の鼻で心を読むなと言いました。
でも、姉上の鼻もけっこうしゃべります。
たぶん、姉上は文烈様がいないと困ります。
前は、玉珠の手を引いて歩いてくれました。
長坂でも、曹休家でも、姉上はいつも前にいました。
でも今は、文烈様がいないと少し息がしにくそうです。
玉珠は、それを悪いことだとは思いません。
一人で立つのは偉いです。
でも、倒れそうな時に誰かがいるのも、たぶん偉いです。
文烈様は、姉上の紙を一人で抱えさせないと言いました。
姉上は困っていました。
困っているのに、少し安心していました。
玉珠には分かります。
なぜなら、姉上の鼻が怒っているのに、目が少し休んでいたからです。
鼻と目で違うことを言うのは、少しずるいです。
それから、紙は箱に入りました。
寧珠の産着と同じ箱ではありません。
姉上は、それをとても嫌がりました。
玉珠も少し分かります。
赤ちゃんのものの隣に、父上の返事が入るのは変です。
赤ちゃんは乳が好きです。
父上の返事は乳ではありません。
泣いても出ません。
たぶん、とても役に立ちません。
箱には鍵と紐がつきました。
文烈様が鍵を持ち、姉上が紐を持ちます。
二人でなければ開けられないそうです。
玉珠は、鼻で開くか聞きました。
駄目でした。
鍵を鼻に入れるのも駄目でした。
入るかどうか聞いただけなのに、姉上はとても怖い顔をしました。
やっぱり今日の姉上の鼻は忙しいです。
魏公府の人は、帰る時にもう一つ言いました。
その箱を開ける時は、文烈様も一緒に、と……
玉珠は、それを姉上に伝えました。
姉上は文烈様を見ました。
文烈様も姉上を見ました。
二人とも、少しだけ黙りました。
玉珠は思いました。
魏公様は、紙を箱に入れたのではありません。
姉上と文烈様を、同じ箱の前に立たせたのです。
大人は怖いです。
箱より怖いです。
紙より怖いです。
でも、鼻よりは怖くありません。
鼻は、油断するとすぐ動きます。
父上――
玉珠たちは、まだ生きています。
姉上は、文烈様がいないと少し困るようになりました。
寧珠は、まだ字が読めません。
でも、寧珠が字を読む日まで、父上の返事は箱の中で待つそうです。
父上より先に、箱の方が待っています。
父上より先に、文烈様が姉上の隣にいます。
父上より先に、玉珠の指が鼻へ行きそうです。
……元譲様。
今のは、考え事です。
鼻ではありません。
まだ箱は開けていません。




