文烈様、父上の紙を寝所に持ち込まないでくださいませんか?
劉明珠でございます。
父上の返事を書いた夜、私は文烈様の腕の中で眠りました。
たいへん親不孝でございますね。
けれど、置いていかれた娘にも、帰る寝所くらいは必要でございます。
魏公様は、私を劉氏明珠と呼びます。
劉備玄徳の娘として見ます。
父上の返事を書かせ、父上の過去を掘り返し、しまいには益州の主として読めとおっしゃいました。
紙一枚で、人の名も、血も、居場所も、好きなように並べ替えてくださいます。
本当にご器用です。
褒めておりません。
ですが、文烈様は違いました。
私が父上のもとへ帰りたくないと言った時、文烈様は、曹休の妻がここにいると言ってくださいました。
それは、たいへん困る言葉でございます。
皮肉を返す隙がございません。
私はもう、父上の荷車に戻る娘ではありません。
劉備玄徳のもとへ帰っても、幸せにはなれないでしょう。
私は曹休文烈の妻で、寧珠の母で、玉珠の鼻を止める姉です。
最後だけ少々不本意ですが、現実とはそういうものです。
今回、私は文烈様に申します。
私の居場所は、もう文烈様の隣しかございません、と……
皮肉でも、駆け引きでもございません。
たいへん不覚です。
ただし、夫婦の夜まで紙に残すほど、私は後世の皆様へ親切ではございません。
紙というものは油断なりません。
書けば刃物。
残せば証拠。
届けば政治。
そして届かなくても、なぜか娘の未来へ回り込んでまいります。
魏公様――
お願いですから、父上の返事を私の寝所から遠ざけてくださいませ。
せめて一晩くらいは、私は劉備玄徳の娘ではなく、文烈様の妻でいたいのでございます……
父上の面の皮でできた紙を寝所へ入れるほど、私は親孝行ではございません。
そもそも、私はもう、たいして親孝行な娘でもございません。
魏公府から戻ったその夜、曹休家の奥は、いつもより静かでございました。
寧珠は乳母の腕の中で眠っております。
曹肇様は曹纂様に、紙を破ってよい時と悪い時の違いを教えておられました。
たいへん立派です。
けれど、できればその講義は、もう少し早く曹纂様へ届いてほしゅうございました。
曹纂様は、昼間、文烈様の書斎に置かれた紙の端をつまみました。
父上の返事を書いた紙ではございません。
別の何も書いていない紙です。
それでも私の心臓にはよくありません。
紙というものは、何も書いていなくても油断なりません。
書けば刃物。
書かなくても罠。
燃やせば証拠隠滅。
残せば後世の迷惑。
たいへん面倒な道具でございます。
玉珠は、今日から私の寝所ではなく、別の部屋で休むことになっております。
もう幼い子ではございません。
……と言いたいところですが、鼻に指を運ぶ速度だけは、三歳の頃からあまり変わっていない気がいたします……
夕餉のあと、玉珠は真顔で申しました。
「姉上、今日は文烈様と寝るの?」
「その言い方をやめなさい」
「では、文烈様の隣で寝るの?」
「……それも、声を小さくなさい」
「仲直り?」
「喧嘩しておりません」
「じゃあ、なかよし?」
「寝なさい」
玉珠は納得したような、していないような顔で頷きました。
そして、指を鼻へ持っていきかけます。
「玉珠」
「寝る前だから」
「寝る前でも駄目です」
「夢の中なら?」
「夢の中なら、私には止められません。ですが、現実の指を動かすのはやめなさい」
「難しいです」
本当に難しそうな顔をしないでください……
その後、夏侯元譲様から届いた菓子を抱えたまま、玉珠は別室へ連れていかれました。
菓子には短い札が添えられておりました。
鼻を見張れ――
それだけでございます。
元譲様は、筆数の少ないところに強さがございます。
魏公様とは別の意味で、紙の使い方がお上手です。
寧珠が眠り、玉珠の声も遠のき、奥の灯が落ち着く頃、私は文烈様の部屋へ参りました。
正確には、夫婦の部屋でございます。
けれど私は、いまだにそこへ入るたび、少しだけ息を整えてしまいます。
長坂から始まった私の道は、誰かの後ろに隠れ、誰かの屋敷に預けられ、誰かの帳に名を書かれ、ようやくここへたどり着きました。
逃げ込んだのか。
置かれたのか。
選んだのか。
その区別は、時々たいへん曖昧です。
けれど、今夜だけは分かっておりました。
私は、ここへ来たのです。
文烈様の隣へ……
文烈様は、鎧を解き、簡素な衣に着替えておられました。
武人の顔ではなく、夫の顔です。
その顔を見ると、私は少しだけ腹が立ちました。
優しすぎるのです……
こちらが皮肉を構える前に、逃げ道を作ってくださる。
そういう方は、たいへん困ります……
「明珠」
「はい」
「疲れただろう?」
「疲れました」
正直に答えてしまいました。
これはいけません……
私はもっと、平然とした顔で、魏公様の悪趣味について三つほど皮肉を並べるつもりでした。
「父上の返事を書かされ、父上の過去を掘り返され、父上の面の皮を紙に見立て、最後には益州の主として読めと言われました。疲れない方がおかしゅうございます」
「そうだな」
文烈様は、ただ頷かれました。
笑いも、慰めも、すぐにはくださいません。
だから私は、余計なことまで言ってしまいます。
「文烈様」
「何だ?」
「私は今日、魏公様の前で、父上のもとへ帰りたいとは思わないと申しました」
「聞いていた」
「たいへん親不孝な娘でございますね」
「私には、たいへんありがたい妻だ」
胸の奥で、何かが止まりました。
ひどい方です……
そういう言葉を、そんな普通の顔でおっしゃらないでいただきたい。
こちらは皮肉を用意しているのです。
受け止められると、使い道がなくなります。
「ありがたい、でございますか……」
「ああ」
「劉備玄徳の娘が、父のもとへ戻らぬと言ったのですよ?」
「曹休の妻が、ここにいると言ったのだ」
文烈様は静かに言われました。
「私は、そちらを聞いた」
私は、すぐには返せませんでした。
魏公様は、私を劉氏明珠と呼びました。
劉備玄徳の娘として、父の返事を書かせました。
益州の主として、父を読めと言われました。
けれど文烈様は、私を曹休の妻として聞いてくださった。
それだけのことが、どうしてこんなに苦しいのでしょう……
「文烈様……私は、もう父上の娘として帰る場所を失ったようです」
「失ったのではない」
文烈様が、一歩近づかれました。
「ここを選んだのだ」
「選んだ、などと綺麗に言ってよろしいのでしょうか」
「よい」
「置いていかれ、捕らえられ、嫁がされ、ようやく慣れただけかもしれません」
「それでも、今そなたがここにいることは、誰かが勝手に決めただけではない」
その言葉は、やさしくありませんでした。
甘くもありません。
けれど、私を憐れな荷物にしない言葉でした。
私は、父上の荷車に積み忘れられた娘ではない。
魏公様の帳に置かれた札だけでもない。
曹休家の奥で、寧珠を抱く母で……
文烈様の隣に立つ妻で……
玉珠の鼻を止める姉です。
最後の一つは、できればもう少し立派な役目がよろしゅうございました。
「私の居場所は、もう文烈様の隣しかございません」
言ってから、私は自分で驚きました。
あまりにも、そのままの言葉でした。
皮肉がありません……
逃げ道もありません……
たいへん不覚です……
「……重い言葉を申し上げました」
「受け取る」
「軽くしておきましょうか?」
「そのままでよい」
「文烈様は、時々たいへん無茶をおっしゃいます」
「そなたほどではない」
少しだけ笑ってしまいました。
笑うと、ようやく息ができました。
「魏公様は、私を炉の中の火のようにおっしゃいました」
「聞いた」
「外へ出せば火になる。炉の中なら家を温める、と」
「不快だったか?」
「私は薪でも炭でもございません」
「そうだ」
文烈様の手が、私の手に触れました。
「そなたは明珠だ」
困りました。
本当に困りました。
それは、曹休家の奥で呼ばれる私の名です。
劉氏明珠ではなく。
劉備玄徳の娘でもなく。
文烈様の声の中にいる、ただの明珠です。
「文烈様」
「うん」
「もし、魏公様が私を父上のもとへ戻すと言ったら?」
文烈様の手に、力が入りました。
痛いほどではございません。
けれど、答えはそれで十分でした。
「戻さぬ」
「魏公様の命でも?」
「戻さぬ」
「天下のためでも?」
「そなたが望まぬなら、戻さぬ」
「父上が、娘を返せと言ったら?」
文烈様の目が、まっすぐ私を見ました。
「私の妻だと言う」
胸の奥が、熱くなりました。
怒りとは違います。
恨みとも違います。
もっと始末の悪いものです。
泣けばよいのか、笑えばよいのか、皮肉を言えばよいのか分かりません。
ですので、皮肉を選びました。
「文烈様……今のお言葉は、魏公様に聞かれていないでしょうね?」
「聞かれていない」
「本当でしょうか? あの方、紙の隙間からでも聞いていそうです」
「では、紙を遠ざけよう」
文烈様は本当に立ち上がりかけました。
「そこまで真面目になさらないでください」
「あの紙を寝所に置くのは、私も嫌だ」
「それは大変よろしゅうございます。文烈様の懐が父上臭くなっては困ります」
「玄徳の匂いは困るな」
「たいへん困ります。今夜は近寄れなくなります」
「では、必ず遠ざける」
「……そこまでは申しておりません」
私は、言ってから目を伏せました。
敗北でございます……
何に負けたのかは、申し上げたくありません。
文烈様は、少しだけ笑われました。
その笑い方が優しくて、また腹が立ちました。
私は怒ってばかりです。
父上に怒り、紙に怒り、墨に怒り、魏公様に怒り、文烈様の優しさにも怒る。
たいへん忙しい女でございます。
文烈様の手が、私の肩に触れました。
逃げる理由は、もうございませんでした。
玉珠は別室です。
寧珠は乳母の腕の中です。
父上の紙は書斎に置いてあります。
魏公様の笑い声も、今夜だけは戸の外へ追いやりました。
私は顔を上げました。
「文烈様」
「何だ?」
「私は、もう父上のもとへは帰れません」
「うん」
「帰りたいとも、思えません」
「うん」
「それでも、たまに腹は立ちます」
「立てればよい」
「玉珠は、まだ父上を待っております」
「それも、そなた一人で背負わなくてよい」
「文烈様は、本当に厄介なほど優しい方ですね」
「そなたは、本当に厄介なほど強情だ」
「似合いの夫婦でございますね」
「そうだな」
そんなふうに、あまりにも簡単に認められると、困ります……
私は、少しだけ文烈様の胸に額を寄せました。
戦場の匂いではなく、家の匂いがしました。
父上の返事を書いた夜に、私は父上の娘ではなく、文烈様の妻として息をしておりました。
たいへん親不孝でございます。
けれど、置いていかれた娘にも、帰る寝所くらいは必要です。
その夜のことを、細かく書くつもりはございません。
紙というものは、すぐ余計なところまで残したがります。
魏公様に見られては困ります。
後世の皆様にも、そこまで親切にして差し上げる義理はございません。
ただ一つだけ申すなら――
私は、文烈様の隣で眠りました。
それだけで十分でございます。
翌朝、玉珠はにこにこしながら私を見ました。
「姉上、なかよしだった?」
私は湯呑を落としかけました。
「玉珠」
「喧嘩してない顔です」
「何を見て判断しているのですか?」
「姉上が文烈様を見る時、昨日より鼻が怒ってない」
「私の鼻で夫婦仲を測らないでください」
「鼻は正直です」
「あなたの鼻は特に正直すぎます」
玉珠は満足そうに頷きました。
そして自分の鼻へ指を近づけます。
「正直だから」
「ほじってよい理由にはなりません」
「では、不正直なら?」
「もっと駄目です」
曹肇様が横で真面目に申されました。
「玉珠殿、鼻にも礼があります」
曹休家の教育は、どこへ向かっているのでしょう……
寧珠は、そんな騒ぎの中で小さな声で泣きました。
私はすぐに抱き上げます。
柔らかい頬。
小さな手。
まだ何も知らない目。
この子から離されることだけは、絶対に嫌でした。
父上に知られないことより――
父上が返事をくれないことより――
私が劉備玄徳の娘として、どこかへ戻されることの方が、ずっと恐ろしい。
私は寧珠の手に指を握らせました。
小さな力です。
けれど、私をここへ繋ぎ止めるには十分でした。
文烈様が、少し離れたところからこちらを見ておられます。
その目を見て、私は思いました。
もう、ここしかない。
この家しかない。
この腕しかない。
この隣しかない。
たいへん狭い天下でございます。
けれど、父上の広すぎる仁義より、私にはずっと息がしやすいのです。
昼前、魏公府から使いが参りました。
その知らせを聞いた瞬間、私の中の平穏は、たいへん短い寿命だったと知りました。
文烈様が使者を迎え、戻ってこられます。
手には、小さな箱がありました。
「魏公様より」
嫌な予感しかしません。
箱を開けると、中には折り畳まれた紙がございました。
見覚えのある紙です。
私が父上の返事を書いた、あの文の写しでした。
添えられた札には、魏公様の筆で、こうありました。
曹休家の奥に置け。
寧珠が字を読む年まで、残せ。
私は、寧珠を抱いたまま固まりました。
父上――
あなたの返事は、まだあなたへ送られてもいないのに……
どうやら、私の娘の未来へだけは、先に届いてしまったようでございます。
劉玉珠です。
今日は、姉上が文烈様となかよしでした。
たぶん、なかよしです。
玉珠は見ました。
姉上が文烈様を見る時、昨日より鼻が怒っていませんでした。
人の鼻は、けっこう正直です。
玉珠の鼻も正直です。
正直すぎて、すぐ指を呼びます。
でも姉上に止められます。
難しいです。
昨日から、玉珠は姉上と同じ部屋ではありませんでした。
もう玉珠は小さな子ではないそうです。
でも、元譲様からお菓子が届きました。
札には、鼻を見張れ、と書いてありました。
玉珠は少し考えました。
お菓子を見張るのか、鼻を見張るのか……
たぶん、両方です。
お菓子は勝手に逃げません。
鼻も逃げません。
でも指は勝手に動きます。
だから、見張るなら指の方がよいと思います。
姉上は、文烈様の隣しか居場所がないと言ったそうです。
居場所――
玉珠にもあります。
姉上の近くです。
お菓子の近くです。
元譲様の咳払いが届かないくらいの近くです。
でも、だいたい届きます。
元譲様はすごいです!
文烈様は、姉上を父上のところへ戻さないと言いました。
父上が娘を返せと言っても、私の妻だと言うそうです。
玉珠は、それを聞いて少し安心しました。
姉上がいなくなるのは困ります。
鼻を止める人がいなくなります。
それは大きな問題です。
でも、それよりもっと困るのは、姉上が泣きそうな顔になることです。
姉上はあまり泣きません。
怒ります。
皮肉を言います。
魏公様のことを褒めていないと言います。
でも、文烈様の前では、少し違います。
姉上は、文烈様の前だと、皮肉を出す前に受け止められてしまうそうです。
それは困るそうです。
玉珠には、あまり困ることに見えません。
受け止めてもらえるなら、落ちなくてよいからです。
父上は、よく人を置いていくそうです。
文烈様は、姉上を戻さないそうです。
たぶん、反対です。
反対の人同士なら、姉上は文烈様の隣がよいと思います。
朝、姉上は少しぼんやりしていました。
なかよしだったのか聞いたら、湯呑を落としかけました。
落とさなくてよかったです。
湯呑は割れます。
姉上は割れません。
たぶん……
でも、たまにひびが入った顔をします。
そういう時は、文烈様がそばにいます。
玉珠は鼻をほじらずに見ています。
かなり偉いです!
それから、魏公府から箱が来ました。
玉珠はお菓子だと思いました。
違いました……
紙でした……
残念です……
紙は食べられません。
しかも中には、姉上が書いた父上の返事の写しが入っていました。
まだ父上に送っていない返事です。
来ていない返事を姉上が書いて、それを魏公様が写して、また曹休家へ戻しました。
大人は、本当に紙をぐるぐる回すのが好きです。
玉珠なら、お菓子を回します。
でもお菓子は途中でなくなります。
紙はなくなりません。
だから怖いのかもしれません。
魏公様の札には、寧珠が字を読む年まで残せ、とありました。
寧珠はまだ赤ちゃんです。
今は字を読みません。
泣きます。
手を握ります。
たまに姉上の指を離しません。
でも、いつか字を読むそうです。
その時、寧珠はあの紙を見るのでしょうか?
父上がまだ読んでいない返事を、寧珠が先に読むのでしょうか?
それは、少し変です。
父上への返事なのに、父上より先に寧珠が読む……
大人は変です。
紙はもっと変です。
父上――
玉珠たちは、まだ生きています。
姉上は、文烈様の隣にいます。
寧珠は、まだ字が読めません。
でも魏公様は、寧珠が読む日まで紙を残せと言いました。
父上が知らない間に、父上の返事だけが、姉上の娘のところへ先に行くみたいです。
それは、迎えに来るより早いのでしょうか。
それとも、置いていくより早いのでしょうか。
玉珠には、よく分かりません。
ただ、寧珠が字を読めるようになる頃までには、玉珠も鼻をほじらないでいられるようになっているかもしれません。
……たぶん。
元譲様――
今の「たぶん」は、かなり大きめのたぶんです……




