魏公様、父上と書いてはならないのですね?
劉明珠でございます。
父としてではない。
劉備玄徳へだ。
魏公様は、そうおっしゃいました。
たいへん短い言葉です。
そして、たいへん嫌な言葉です。
父上へ――
そう書いてはならない。
筆を取る前に、私は分かってしまいました。
父上と書いた瞬間、その文は娘の文になります。
長坂で置いていかれた娘が、迎えに来なかった父へ送る文になるのです。
そうなれば、魏公様はその一枚を、きっと地図の上へ置かれるでしょう。
娘の恨みも、涙も、近況も、寧珠の名も、玉珠の鼻も、すべて政治の札になります。
玉珠の鼻まで札にされては困ります。
いえ、そこではございません。
今回は、父上へ文を書きます。
ただし、父上としてではなく――
劉備玄徳殿へ。
仁君と呼ばれる方へ。
人に迎えられるのはお上手なのに、娘を迎えに来るのはお上手ではなかった方へ。
たいへん丁寧に書くつもりです。
丁寧な刃物ほど、よく切れますので……
そして、私がようやく書き終えたところで、魏公様はまた余計なことをおっしゃいました。
今度は、玉珠にも一行書かせる、と……
魏公様――
お願いですから、天下と父上と妹の鼻を、同じ紙の上へ載せないでくださいませ……
父としてではない。
劉備玄徳へだ。
魏公様は、たいへん静かにそうおっしゃいました。
静かな言葉ほど、部屋の中でよく響きます。
怒鳴られた方が、まだ腹も立てやすいのです。
静かに言われると、こちらは怒る前に意味を考えてしまいます。
たいへん不利です。
褒めておりません。
私は、白い紙を見ました。
まだ何も書かれていない紙です。
けれど、その紙はもう私を縛っておりました。
父上へ――
そう書いてはならない。
筆を取る前に、私は分かってしまいました。
父上、と書いた瞬間、この文は娘の文になります。
長坂で置いていかれた娘が、父へ送る文になる。
そうなれば、魏公様はその一枚を、地図の上へ置かれるでしょう。
娘の涙も、恨みも、近況も、寧珠の名も、玉珠の鼻も、全部まとめて政治の札になります。
玉珠の鼻まで札にされては困ります。
いえ、そこではございません。
「父上、と書いてはならないのですね?」
私が言うと、魏公様は満足そうに目を細められました。
「察しがよい」
察したくなどございませんでした。
察しのよさとは、時に不幸の早道です。
「これは父への文ではない」
「存じました」
「玄徳へ書け」
「劉備玄徳殿、と」
「そうだ」
文烈様が一歩、私の側へ寄られました。
「魏公様。明珠に無理をさせることは――」
「文烈様」
私は、文烈様の言葉を遮ってしまいました……
申し訳ございません……
けれど、ここで止めていただくと、私はもっと惨めになります。
「これは、私が書きます」
「明珠」
「父上と書かずに済むのなら、まだましでございます」
まし――
自分で言って、ずいぶんひどい言葉だと思いました。
父を父と呼ばずに済む方がまし。
そのような娘を作ったのは、父上です。
そして、それを紙の上で試すのが、魏公様です。
世の中には、親切な方が多うございますね。
どなたも私に逃げ道をくださいません。
私は筆を取りました。
墨の匂いがしました。
昔、父上の陣で見た文机を思い出しそうになって、すぐに追い払いました。
思い出は危険です。
勝手に美化されます。
美化されたものほど、後で腐ります。
紙の右端に、私はゆっくりと書きました。
劉備玄徳殿――
その五文字を書いただけで、手が少し冷えました。
父上ではない。
劉備玄徳殿。
私は、また一つ長坂から遠ざかった気がいたしました。
けれど、長坂は遠ざかってくれません。
こちらが何歩離れても、あの日の土埃は足首に絡んできます。
「続けよ」
魏公様の声が落ちました。
私は、筆先を見ました。
何を書けばよいのでしょう?
お元気でいらっしゃいますか。
違います。
益州でご活躍のことと存じます。
違います。
娘は無事に暮らしております。
これも違う。
文烈様の隣で生きております。
それは本当です。
けれど、最初に書くべきことではありません。
私は息を吸いました。
そして、書きました。
貴方は、本当に不義な方ですね。
文烈様の気配が固まりました。
魏公様は笑いませんでした。
先ほどのようには……
ただ、口元だけが少し上がりました。
続けろ、という顔です。
たいへん嫌な顔です。
私は続けました。
迎えられた家を安堵させ、困った顔で門をくぐり、仁義を語り、信を預かり、兵を借り、土地に座り、やがてその地を戦場になさる。
徐州でも。
荊州でも。
そして今、益州でも。
父上――
いえ、劉備玄徳殿。
貴方は、いつも誰かの善意の中へお入りになります。
そして出ていく時には、そこにいた者の名が減っております。
たいへん見事な仁徳でございます。
褒めておりません。
筆が止まりました。
部屋の中は静かです。
外で誰かの足音がしましたが、すぐに遠ざかりました。
魏公府の者は、こういう空気を読むのが上手うございます。
玉珠なら、ここで鼻をほじるでしょう。
想像しただけで、少しだけ呼吸が戻りました。
その時、まるで狙ったように、外から小さな報せが入りました。
魏公様が目で許すと、侍従が進み出ました。
「夏侯元譲様より、曹休家奥方様へ」
今ですか?
今、夏侯家ですか?
私は嫌な予感と、少しの救いを同時に覚えました。
侍従は淡々と読み上げました。
「玉珠殿、昼寝の前に鼻へ指を近づける。元譲様が咳払い。未遂。なお、劉備玄徳とは菓子の名かと問う。違うと伝えたところ、しばし考え、手を洗ったとのこと」
私は目を閉じました。
玉珠――
あなたはなぜ、父上の名を菓子にするのですか?
そして、なぜ最後に手を洗うのですか?
「よい妹だ」
魏公様が低い声で笑われました。
「よくございません」
「玄徳の名を菓子と思う娘か。あやつが聞けば、どんな顔をするか」
「聞かせないでくださいませ」
「さてな」
さてな、ではございません。
本当にこの方は油断なりません。
文烈様が、少しだけ私の方を見ました。
大丈夫か、と目で問うておられます。
大丈夫ではありません。
けれど、玉珠の鼻と父上の不義を同じ部屋に置かれると、妙に腹が据わります。
世がここまで馬鹿馬鹿しいなら、少し書いても罰は当たらぬでしょう。
私は筆を戻しました。
なお、長坂で置いていかれた娘は、まだ生きております。
玉珠も生きております。
私たちは、貴方が迎えに来なかった場所で、貴方ではない者たちに守られました。
曹純様の家で息をし、曹休文烈の家で居場所を得ました。
私は娘を産みました。
寧珠と名づけられた子でございます。
その子は、貴方を祖父と呼ぶことはないでしょう。
その方がよろしいかもしれません。
貴方は迎えられるのはお上手ですが、迎えに来るのはお上手ではないようですので。
書いてしまいました。
書いてから、私はようやく気づきました。
これは、政治の文ではありません。
いえ、政治の形はしております。
劉備玄徳殿と書き、益州の件に触れ、曹休文烈夫人としての立場を示している。
けれど、墨の奥から出てきたものは、娘の声でした。
父上と書かなかったのに……
父上と呼ばなかったのに……
どうして滲むのでしょうか?
血とは、本当に始末が悪い。
「止めてもよい」
文烈様が、低く言われました。
私は首を横に振りました。
「ここで止めたら、最後の一行だけが残ります」
「それでもよい」
「よくございません。私の文が、父上への嫌味と玉珠の鼻だけで終わってしまいます」
「鼻は書いていない」
「心には書きました」
文烈様は、今度こそ少し笑いかけました。
この場で笑いかける文烈様も、なかなか肝が据わっておられます。
魏公様が言った通り、私は母上にも似ているのかもしれません。
嫌ですが……
私は最後の段へ移りました。
益州を得るおつもりなら、得ればよろしいでしょう。
貴方は、そうして生きてこられた方です。
けれど、どうかお忘れなきよう。
貴方が仁君と呼ばれるたび、その仁の陰で置かれた者もおります。
守られた者の物語は美しく残ります。
置かれた娘の名は、帳の奥にも残りません。
それでも、生きております。
私は曹休文烈の妻として、ここにおります。
帰る場所は、貴方のもとではございません。
どうぞご安心くださいませ。
今さら娘を取り戻す手間は、省けました。
筆が止まりました。
最後の一文は、明らかに余計でした。
分かっております。
分かっていて書きました。
たいへんよくありません。
ですが、よい娘であった覚えもございません。
よい娘なら、父を不義とは書かないでしょう。
よい父なら、娘にそう書かれないでしょう。
どちらも残念でございますね。
私は筆を置きました。
指先が少し震えておりました。
文烈様が、そっと私の手元へ視線を落とされます。
触れたいけれど、魏公様の前だから触れられない。
その我慢まで見えてしまって、胸が痛みました。
魏公様は文を取られました。
声に出しては読まれません。
目だけで追われます。
とても静かでした。
先ほどまで笑っていた方と同じ人とは思えません。
笑う時は豪快で、読む時は刃物のようです。
最後まで読み終えた魏公様は、文を机に置きました。
「よい」
その一言だけでした。
よい、ではございません。
私は今、父上を紙の上で刺しました。
しかも、父上と書かずに刺しました。
「魏公様」
文烈様が声を出されました。
「これをどうなさるおつもりですか?」
「文は文だ」
「送られるのですか?」
魏公様はすぐには答えられませんでした。
その沈黙が、たいへん嫌でした。
「送れば、玄徳は笑うかもしれぬ」
「笑いますか?」
「笑わねば、玄徳ではない」
魏公様はそう言って、少しだけ楽しそうな顔をされました。
「だが、効かぬわけではない」
父上――
効くそうです。
娘から不義と書かれた文は、効くそうです。
よろしゅうございましたね。
仁徳の評判に、新しい飾りが増えます。
「送らないでください」
気づくと、私は言っておりました。
「ほう」
「書けとおっしゃったから、書きました。ですが、これを送れば、私は本当に父上へ文を出したことになります」
「父ではないと言ったはずだ」
「だからこそです」
私は魏公様を見ました。
怖くないわけではありません。
けれど、ここで目を伏せたら、文烈様の隣を選んだ意味が薄くなります。
「劉備玄徳殿へ出すなら、それは魏公様の刃です。けれど筆を握ったのは私です。刃の柄だけ、私に残ります」
魏公様は目を細められました。
「よく分かっておる」
「分かりたくありませんでした」
「であろうな」
魏公様は文を畳まれました。
封はしませんでした。
私は少しだけ息を吐きかけました。
しかし、甘うございました。
世の中は、私が吐く息をそう簡単には許してくれません。
「写しを取れ」
魏公様が言われました。
侍従が進み出ます。
文烈様の眉が動きました。
私は、吐きかけた息を止めました。
「魏公様」
「原本は、ひとまず余の手元に置く」
ひとまず――
嫌な言葉です。
とても嫌な言葉です。
「写しは二つ」
魏公様は、白い指で文を押さえました。
「一つは魏公府に。もう一つは曹休家に置け」
「曹休家に、でございますか?」
「そうだ」
魏公様は、私を見ました。
「劉氏明珠。そなたが今日、何を書いたか忘れぬためだ」
忘れられるわけがございません。
それでも、紙に残されると逃げ場が減ります。
文は本当に刃物です。
刺した方の手にも、血が残ります。
魏公様は、そこでようやく笑みを戻されました。
「そして、もう一枚用意せよ」
部屋の空気が、また変わりました。
私は嫌な予感がしました。
本日、何度目ですか?
そして何度当たるのですか?
「今度は、玉珠にも一行書かせる」
「玉珠に?」
文烈様の声が、私より先に出ました。
魏公様は愉快そうに言われました。
「劉備玄徳へ、姉妹で文を出すのも悪くあるまい」
やめてください。
悪趣味です。
心の底から、そう思いました。
玉珠に筆を持たせる危険をご存じないのですか。
あの子は、劉備玄徳殿へ、と書く前に、鼻をほじるかもしれません。
いえ、もっと悪い。
父上へ、と書いてしまうかもしれません。
そして、その横に菓子の絵を描くかもしれません。
魏公様は、私の顔を見て笑われました。
「その顔だ。実に面白い」
面白くありません。
まったく面白くありません。
魏公様――
お願いですから、天下と父上と妹の鼻を、同じ紙の上へ載せないでくださいませ。
劉玉珠です。
今日は、姉上が文を書いたそうです。
父上へ、ではないそうです。
劉備玄徳へ、だそうです。
玉珠には、少し分かりません。
父上は父上です。
劉備玄徳も父上です。
同じ人なのに、呼び方を変えると別の人になるそうです。
大人は、名前で人を切り分けます。
玉珠は菓子を二つに割る方が好きです。
でも、劉備玄徳は菓子ではありませんでした。
元譲様に聞いたら、違う、と言われました。
それから、手を洗え、とも言われました。
まだ鼻へは入れていません。
本当です。
姉上は、父上のことを不義な方だと書いたそうです。
不義――
難しい言葉です。
でも、玉珠たちを迎えに来なかったことなら、玉珠にも分かります。
父上は、よその人のところへは行けるのに、玉珠たちのところへは来ませんでした。
不思議です。
道が違ったのでしょうか?
それとも、娘は地図に書いていなかったのでしょうか?
姉上に聞いたら、たぶん怒ります。
だから聞きません。
玉珠は賢いです。
それから、もっと大変なことを聞きました。
魏公様が、玉珠にも一行書かせるそうです。
一行――
一行なら、玉珠にも書ける気がします。
でも、劉備玄徳殿、と書くのでしょうか?
父上へ、と書いてはいけないのでしょうか?
姉上なら分かると思います。
玉珠には分かりません。
父上なのに、父上と書いてはいけない。
これは、かなり変です。
鼻をほじってよいくらい変です。
少しだけ指を上げました。
元譲様が見ているので、やめました。
元譲様は、本当に見ています。
片目なのに、父上よりずっと玉珠を見ています。
父上――
玉珠は字が上手ではありません。
でも、一行だけなら書けます。
ただし、父上へ、と書いてよいのか?
劉備玄徳へ、と書かなくてはいけないのか?
それが分かりません。
だから、最初の一字を書く前に、玉珠はたぶん止まります。
鼻ではありません。
筆です。
……たぶん。




