魏公様、父上をそこまで笑わないでくださいませんか?
劉明珠でございます。
短い文ほど、逃げ場がございません。
長い文なら、途中で腹を立てることもできます。
読み飛ばすこともできます。
紙を裏返して、見なかったことにする余地もございます。
けれど、魏公様から届いた文は、たいへん短うございました。
益州の劉備玄徳について――
劉氏明珠、文烈とともに参れ。
これだけでございます。
これだけで、私は曹休家奥方から、劉備玄徳の娘へ引きずり戻されました。
たいへん器用です。
褒めておりません。
父上は、また遠くで人に迎えられ、また迎えた方と裂け、また戦を始めておられるそうです。
仁君とは便利な言葉ですね。
家が焼けても、土地が変わっても、娘が置いていかれても、後からきれいな布を掛けられます。
私はその布を、少しめくってしまいました。
魏公様の前で……
文烈様の隣で……
たいへんまずいことを申しました。
けれど、魏公様はお笑いになりました。
劉備玄徳の娘が、劉備玄徳をこきおろしたのです。
笑い話としては、かなり黒うございます。
そして魏公様は、笑ったあとで、私におっしゃいました。
父としてではない。
劉備玄徳へ書け、と……
父上――
あなたは、どうして娘にまで、こういう役を回されるのでしょうか……
益州の劉備玄徳について――
劉氏明珠、文烈とともに参れ。
文というものは、短いほど逃げ場がございません。
長ければ、途中で腹を立てたり、読み飛ばしたり、紙を裏返して知らぬ顔をしたりもできます。
短い文は、刃物と同じです。
すっと入って、抜くころには血が出ております。
たいへん効率的ですね。
褒めておりません。
「行かずともよい」
文烈様は、そう言われました。
文を読んだ直後の声です。
怒っておられるわけではありません。
ただ、私を魏公様の前へ出したくないのだと分かりました。
「魏公様のお召しでございます」
「俺が行く」
「文烈とともに参れ、とございます」
「明珠」
「劉氏明珠、と名まで書かれております。逃げたところで、帳の中から引きずり出されます」
文烈様は黙られました。
私は支度を命じました。
女房たちは、私の顔色を見て、いつもより早く動きます。
寧珠は泣いております。
乳母があやしておりますが、なかなか泣きやみません。
赤子は正直です。
家の空気が悪いと、きちんと泣いて知らせてくれます。
大人にも、その機能が残っていればよろしいのに。
大人は泣く前に、衣を選ばねばなりません。
重すぎず、軽すぎず……
喜んでいるようにも、怯えているようにも見えないもの。
劉備玄徳の娘として呼ばれ、曹休文烈夫人として同伴する女にふさわしい衣。
たいへん面倒です。
私はただ、寧珠を抱いて部屋の奥に座っていたかっただけなのですが……
その時、夏侯家から報せが届きました。
玉珠殿、無事到着――
菓子を二つ食べ、手を洗い、寝所を確認。
鼻は一度ほじりかけたが、夏侯元譲様が見ておられたため未遂。
私は文を閉じました。
「玉珠は無事だそうです」
「よかった」
「鼻は未遂とのことです」
文烈様は、ほんの少しだけ目を伏せました。
笑いをこらえたのだと思います。
この状況で笑える話が鼻しかないのも、どうなのでしょうか?
益州では父上が動き、夏侯家では妹の指が動きかけている。
天下も鼻も、誰かが見張っております。
ただし、後世に残るのは天下の方だけでしょう。
玉珠の鼻も、なかなかの大事でございますのに……
魏公府へ向かう車の中で、文烈様はずっと私の手を取っておられました。
「言いたくないことは言うな」
「魏公様は、言いたくないところをお聞きになる方です」
「ならば俺が止める」
「止まらなかった場合は?」
「俺が責めを負う」
私は文烈様を見ました。
この方は、本気でそうなさるつもりです。
曹家のためではなく……
政治のためでもなく……
ただ、私が妻だから……
たいへん困ります。
腹を立てる相手が、少し減ってしまいます。
「文烈様」
「何だ?」
「私に政治は無理でございます」
「知っている」
即答でございました。
少しは迷ってください……
「やる気もございません」
「それも知っている」
「曹休家の奥を整え、寧珠を寝かせ、曹肇様と曹纂様を見て、玉珠の鼻を止めるだけで手一杯です」
「最後は特に急を要するな」
「そこにだけ真顔で同意なさらないでください」
文烈様の口元が、わずかに緩みました。
そのわずかな緩みで、私の胸も少しだけ緩みました。
けれど、魏公様の前へ出ると、そうはいきません。
部屋には地図が広げられておりました。
当然のように……
魏公様のそばには、いつも地図があります。
人を呼ぶにも地図。
笑うにも地図。
おそらく眠る時も、まぶたの裏に地図があるのでしょう。
たいへん寝つきが悪そうです。
「来たか……文烈、劉氏明珠」
魏公様は、私をその名で呼ばれました。
曹休家奥方ではなく。
曹休文烈夫人でもなく。
劉氏明珠――
帳に記されたばかりの、残るためではなく使われるための名。
私は礼を取りました。
「お召しにより、参りました」
魏公様は私を眺め、少しだけ笑われました。
「名を記された気分はどうだ」
いきなりそこですか。
「整った縄で縛られた気分でございます」
文烈様の手が、わずかに動きました。
止めたいのでしょう。
申し訳ございません。
まだ入口です。
「縄か」
「はい、後世へ残すためではなく、その場で間違えぬための縄です。便利でございますね」
「腹を立てておるな」
「立ててよい場所を探しております」
魏公様の口元が深くなりました。
「やはり面白い」
面白がられても困ります。
私は芸人ではございません。
曹休家の奥方です。
乳飲み子の母で、鼻をほじる妹の姉です。
役目の説明として、後半が妙に弱い気もいたしますが、事実なので仕方ありません。
魏公様は地図の西を指しました。
「劉備玄徳、劉璋と裂けた」
部屋の空気が変わりました。
「迎えられて益州へ入り、その主と兵を交えておる。あの地を得れば、玄徳はただの流浪人ではなくなる」
父上――
またでございますか。
人に迎えられるのは、お上手です。
困った顔をして、仁義を語り、困っている人の懐へ入る。
そして、いつの間にか周りが戦場になる。
「そなたには知らせておくべきと思った」
「なぜでございましょう?」
「劉備玄徳の娘だからだ!」
答えが早すぎます。
逃げ道の扉を開ける前に、壁ごと塞がれた気分です。
「同時に、曹休文烈夫人でございます」
「ゆえに文烈と呼んだ」
「たいへん行き届いておられます」
「褒めておらぬな?」
「よくお分かりで」
文烈様が横で小さく息を吐かれました。
魏公様は、私の顔を見ておられます。
怒る顔ではありません。
珍しい品を見つけた方の顔です。
たいへん失礼です。
「玄徳をどう思う」
来ました――
それを、娘に聞きますか?
魏公様は本当に性格が悪い。
たいへん大物です。
やはり両立しております。
私はしばらく黙りました。
父上――
仁君と呼ばれる方。
漢室のために立つ方。
人に慕われる方。
そして、長坂で娘を置いていった方。
劉表殿の地に身を寄せ、劉璋殿に迎えられ、今度は益州で刃を交える方。
言ってはならない――
分かっております。
分かっているのに、口が動きました。
玉珠の指が鼻へ向かうのと、たいして変わりません。
姉妹とは嫌なところで似るものです。
「父上は、人に迎えられるのがお上手です」
魏公様の目が細くなりました。
「ほう?」
「そして、迎えた方の家を、いつの間にかご自分の戦場になさるのもお上手です」
文烈様の息が止まりました。
私は止まりませんでした。
一度出た毒は、途中で瓶に戻せません。
「どなたかの善意に入り、どなたかの土地に座り、どなたかの兵を借り、気づけば周りが死にます。家が焼けます。土地の名が変わります」
魏公様は黙って聞いておられます。
「たいへん仁徳のある御方でございます」
「褒めておるのか?」
「まさか」
「であろうな」
私はそこで、ほんの少しだけ息を吸いました。
止めるなら、ここでした。
ですが、私の中の何かは、もう止まる気がなかったようです。
「父上は……なんだかんだ言って、裏切ることが多い方ですね」
空気が、完全に止まりました。
文烈様の顔色が変わりました。
しまった、と思いました。
遅うございます。
鼻なら押さえれば止まります。
言葉は出たら終わりです。
玉珠を叱ってきた年月が、何の役にも立ちません。
次の瞬間――
魏公様が、声を上げて笑われました。
本当に笑われました。
机を叩き、肩を揺らし、地図の益州まで震えたように見えました。
「玄徳の娘にそれを言われては、あやつも形無しよ!」
文烈様が静かな声で言われました。
「魏公様」
「よい、文烈……よいではないか」
魏公様はまだ笑っておられます。
「実に面白い女を娶ったな?」
「……私の妻です」
文烈様の声は静かでした。
けれど、そこには硬さがありました。
魏公様は笑みを残したまま、文烈様を見ました。
「分かっておる。だから粗略には扱わぬ」
その一言で、私の胸が少しだけ痛みました。
魏公様は知っておられます。
文烈様が私を大事にしていることを。
私が文烈様を信じていることを……
劉備玄徳の娘である私が、今は曹休の妻として息をしていることを……
全部、分かった上で地図へ載せてくる。
分かっているなら、放っておいてくださいませ。
心より申し上げます。
「玄徳をこきおろす口は見事だがな、劉氏明珠」
魏公様は、まだ少し笑っておられました。
「そなた、思うておるより玄徳に似ておるぞ!」
「本日一番の悪口でございます」
「褒めておる」
「なお悪うございます」
魏公様はまた笑われました。
「人の中へ入り、生き残り、居場所を作る。そなたも同じことをしておる」
「私は天下を取りに行っておりません」
「奥を取った」
「言い方が悪うございます」
「だが事実だ」
否定したかったのに、言葉が詰まりました。
私は曹家の中で生き残りました。
曹純様の家を経て、文烈様の妻となり、曹肇様と曹纂様に受け入れられ、寧珠を産み、玉珠の居場所までつないでおります。
父上のように旗は立てていません。
けれど、敵地に家を作りました。
認めたくありません。
たいへん認めたくありません。
「では、玉珠はどこが似たのでございましょう」
つい、言い返してしまいました。
魏公様は即座に答えられました。
「あれは、玄徳の阿呆ができるところに似た」
文烈様が咳き込みました。
私は否定しようとしましたが、できませんでした。
できないのが腹立たしゅうございます。
「玉珠を父上と並べないでくださいませ」
「人の懐へ入る。場を壊す。妙に憎めぬ。似ておる」
「鼻は違います」
「そこは違うな」
真顔で返さないでください。
私の父上の評価が、妹の鼻と並びました。
歴史とは、記録されないところで案外ひどいものです。
魏公様は笑いを収め、ふと静かになりました。
「処世は玄徳。腹の据わり方は、糜氏か」
母上の名が出た瞬間、私は言葉を失いました。
父上はこきおろせます。
いくらでも……
ですが、母上は違います。
長坂で阿斗を守った母。
そして、私たちを残して消えた母。
母上に似ていると言われる方が、父上に似ていると言われるより痛うございました。
魏公様は、その痛みに気づいておられます。
本当に嫌な方です。
「劉氏明珠」
「はい」
「玄徳が益州を得れば、あやつの名はさらに大きくなる」
魏公様の指が地図を押さえました。
「その時、そなたは何者として立つ」
曹休文烈夫人か?
劉備玄徳の娘か?
問われた瞬間、私は文烈様の袖を握っていることに気づきました。
礼としては離すべきです。
魏公様の前で、夫の袖を握るなど、幼い娘のすることでしょう。
けれど、私は離しませんでした。
離したくありませんでした。
「劉備玄徳の娘であることは、消えません」
私は言いました。
「消せるものなら、とっくに消しております」
魏公様は黙っておられます。
「ですが、私が帰る場所は、父上のもとではございません」
文烈様の袖を、もう少し強く握りました。
「私は、文烈様の妻でございます」
文烈様が息を呑まれました。
「曹家の政治を選ぶのではありません。魏公様に忠義を誓う言葉でもございません」
「では、何だ?」
「私が選ぶのは、文烈様の隣です」
部屋が静まりました。
魏公様はすぐには笑われませんでした。
ただ、私と文烈様を見比べておられます。
やがて、口元だけを少し上げられました。
「そうか」
その一言は、先ほどの笑い声より重うございました。
「文烈」
「はい」
「そなたの妻は、玄徳よりそなたを選んだぞ」
「……魏公様」
「大事にせよ。粗略にすれば、次にこきおろされるのはそなたであろう」
こきおろす予定はございません。
今のところは……
将来の保証までは、少し難しゅうございます。
文烈様は深く頭を下げられました。
「粗略にはいたしません」
その声を聞いて、私はようやく少し息ができました。
父上――
私はあなたの娘です。
それは消えません。
ですが、あなたのもとへは戻りません。
そもそも、迎えに来られませんでしたので……
その事実だけは、どれほど仁徳で飾っても、帳の奥へしまっても、消えないのでございます。
魏公様は机の上から新しい紙を一枚取りました。
嫌な予感がしました。
こういう予感は、よく当たります。
当たらなくてよい時ほど、よく当たります。
「では、劉氏明珠」
「……はい」
「その名で、一筆書け」
文烈様が顔を上げました。
私は、紙を見ました。
まだ白い紙です。
何も書かれていないのに、すでに重い。
「誰に、でございましょう?」
魏公様は静かに笑われました。
笑い声はありません。
だから余計に怖うございます。
「父としてではない」
魏公様の指が、白い紙の上を軽く叩きました。
「劉備玄徳へだ」
劉玉珠です。
今日は、姉上が魏公様に呼ばれました。
玉珠は夏侯家におりました。
お菓子が二つ出ました。
一つは甘くて、もう一つも甘かったです。
とてもよい家です。
でも、鼻は見張られていました。
元譲様は片目なのに、どうしてあんなに見えるのでしょうか?
玉珠が少しだけ指を上げたら、元譲様がこちらを見ました。
まだ入れていません。
本当です。
手も洗いました。
姉上がいないところでも、玉珠はやればできます。
たぶん――
あとで聞いたのですが、姉上は魏公様の前で父上のことを言ったそうです。
父上は、なんだかんだ言って、裏切ることが多い方ですね、と。
玉珠は少し考えました。
父上は、玉珠たちを迎えに来ませんでした。
でも、よその人のところへはよく行きます。
行った先で、また大変なことになるそうです。
父上は忙しいのですね。
忙しいなら、娘を置いていってもよいのでしょうか?
姉上に聞いたら、たぶん怒ります。
だから聞きません。
玉珠は賢いです。
それから、魏公様は笑ったそうです。
劉備玄徳の娘が、劉備玄徳をこきおろしたからです。
これは笑ってよいところなのでしょうか?
玉珠には少し難しいです。
でも、魏公様が笑うと、たぶん周りの人はもっと難しい顔になります。
文烈様は、きっと姉上を守ろうとしたと思います。
姉上は、文烈様の隣を選んだそうです。
玉珠は、それを聞いて少し安心しました。
姉上が帰る場所は、父上のところではありません。
文烈様のところです。
それなら、玉珠も帰る場所を間違えずに済みます。
でも、最後がよくありません。
魏公様は、姉上に文を書けと言ったそうです。
父としてではない。
劉備玄徳へだ、と。
父上なのに、父としてではない。
では、誰なのでしょう?
父上は父上で、劉備玄徳は劉備玄徳。
同じ人なのに、呼び方が二つあります。
玉珠の鼻の穴も二つあります。
姉上がいれば、ここで怒られます。
でも姉上はいません。
だから玉珠は、少しだけ鼻に指を――
元譲様が見ています。
やめました。
父上――
姉上に、また難しい文を書かせるのですか?
玉珠は字があまり上手に書けません。
でも、一つだけ書ける気がします。
迎えに来なかった人へ、娘が文を書くのは、少し変です。
これは、ほじってよいくらい変です。
……元譲様。
今のは、未遂です……




