表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
27/41

魏公様、私の名まで帳に載せないでくださいませんか?

劉明珠でございます。


名を記せ――

たいへん短い言葉です。

けれど、短い刃物ほどよく切れるものでございます。

魏公様の内礼に際し、曹休家奥方の名を帳に記す。

そう命じられました。

曹休文烈夫人、劉氏明珠――

ずいぶん整った呼び名です。

劉備玄徳の娘であることも、曹休家の奥方であることも、どちらも消さず、どちらも逃がさない。

まことに魏公様らしい書き方でございます。

褒めておりません。


もっとも、この帳は史官の前に出るものではございません。

礼が終われば閉じられ、奥へ収められる紙です。

つまり私は、後世に残るためではなく、その場で使われるために名を書かれるのです。

たいへん分かりやすい扱いですね。

腹が立つほどに……


その横で、玉珠は夏侯家へ行く支度をしております。

菓子を包みに忍ばせようとし、鼻の扱いについて真剣に悩んでおります。

魏公様の地図は広がり、玉珠の指は鼻の前で止まり、寧珠は何も知らずに泣いております。


そして、私の名が帳に記された直後――

魏公様より、今度は私個人へ文が届きました。

表には、こうありました。

益州の劉備玄徳について――


父上――


あなたのお名前は、どうしていつも、私が逃げ場を失ったところへ届くのでしょうか?

名を記せ――

その言葉は、刃物に似ております。

紙の上に置かれているだけなら大人しい。

けれど一度こちらへ向けられると、よく切れます。

魏公府から届いた文には、確かにそうありました。

魏公就任の内礼に際し、曹休家奥方の名を記し、備えを整えよ。

私はその一文を、しばらく見つめておりました。

曹休家奥方――

便利な呼び名でございます。

そこには、劉備玄徳の娘という厄介な血も、長坂で捕らえられた十三歳の娘も、父に置いていかれた記憶も見えません。

ただ、曹休家の奥方――

たいへん整っております。

整いすぎて、紙の裏側から笑い声が聞こえそうです。

「姉上、名前を書くの?」

玉珠が横から覗き込みました。

指は鼻の近くです。

近すぎます。

「書くことになるでしょうね……」

「どこに?」

「帳です」

「地図じゃないの?」

「帳と呼ばれている地図です」

玉珠は納得したように頷きました。

納得しないでください。

私も、言ってから少し嫌になっております。

「玉珠の名前も書く?」

「今は私の話です」

「鼻は?」

「書きません」

「でも、夏侯家の文には書かれてたよ?」

「忘れてください」

「忘れたいけど、鼻についてる」

「ついているのは鼻であって、文ではありません」

玉珠は真剣な顔で鼻を押さえました。

押さえるだけなら構いません。

入れなければ……

本日の私の気力は、そこを境に保たれております。

家令を呼び、帳へどう記すのかを確かめさせました。

ほどなく戻ってきた家令は、たいへん言いにくそうな顔をしておりました。

最近、この屋敷では誰もがその顔をいたします。

私の周りに、言いにくいことばかり集まってくるせいでしょう。

「奥方様」

「申してください」

「魏公府よりのご指示では、曹休文烈夫人、劉氏明珠と記すようにとのことでございます」

劉氏明珠――

私は小さく息を吐きました。

消すのではないのですね。

隠すのでもない。

劉氏と書く。

明珠と書く。

曹休文烈夫人と並べる。

たいへん見事です。

私が劉備の娘であることを、帳の上で逃がさない。

同時に、曹休の妻であることも疑わせない。

魏公様は、本当に紙の上で人を縛るのがお上手です。

褒めておりません。

「劉氏、と書くのですか」

「はい」

「……曖昧にはなさらないのですね」

「魏公府のお言葉では、名を曖昧にするな、と」

私は笑いそうになりました。

曖昧にするな。

何という力強いご配慮でしょう。

曖昧にしていただいた方が、こちらとしては少し息がしやすいのですが。

「姉上、劉氏って書くの?」

玉珠が首を傾げました。

「ええ」

「父上と同じ?」

「そうです」

「でも、曹休家の奥方なんでしょう?」

「そうです」

「二つあるね」

「ありますね」

「鼻の穴と同じ?」

「そこへ戻らないでください」

「でも二つあるものは、二つだよ」

「世の中の二つを、すべて鼻の穴で受け止めない」

玉珠は少し考えました。

そして、たいへん申し訳なさそうに言いました。

「じゃあ、姉上は鼻より難しい」

「当然です」

当然、と答えてよいのでしょうか?

よいことにします。

曹肇様が帳の写しをじっと見ておられました。

幼い眉間に、皺が寄っています。

「明珠殿の名を隠さないのですね?」

「そのようです」

「なぜですか?」

「隠せば、後ろ暗いものになります」

そう言ってから、私は自分の言葉に苦くなりました。

魏公様は、私を隠さない。

劉備の娘が曹休家にいることを、奥の帳に記す。

それは親切ではありません。

宣言です。

危険物は、外へ置かない。

内に入れたなら、内のものとして名を付け、場所を与え、他人に触らせない。

火種は炉に――

この間の文が、また胸の中で燃えました。

「明珠殿は、曹休家の方です」

曹肇様が言いました。

「ありがとうございます」

「でも、劉氏なのですね」

「ええ」

「では、二つとも書けばよいのです」

簡単に言ってくださいます。

子供は時々、難しいものをまっすぐ持ち上げます。

大人が両手で抱えても重いものを、どうしてそんな顔で……

私は少しだけ、救われました。

同時に、少しだけ傷つきました。

救いと傷が同じ場所に入ることは、珍しくありません。

たいへん不便な作りです、人の胸は……

昼過ぎ、魏公就任に伴う内礼の支度が本格的に始まりました。

女房たちは衣を広げ、香を選び、文箱を整えます。

寧珠は乳母の腕で眠っております。

何も知らない顔です。

この子の名も、いずれ帳に載るのでしょう。

曹家の姫として……

よき婿を考える、と書かれた子として……

母としては、寝返りより先に地図へ置かれるのを見せられるなど、たいへん不愉快でございます。

けれど、帳に載らねば守られないこともある。

それがまた腹立たしい。

人は、牢に名札を掛けて、それを庇護と呼ぶことがあるようです。

「奥方様、お衣はこれで」

女房が差し出した衣は、祝いにふさわしく、けれど派手すぎないものでした。

よく選んであります。

つまり、私が喜んでいるようにも、嫌がっているようにも見えない。

たいへん都合のよい衣です。

「これにします」

「髪飾りは……」

「重すぎぬものを」

「魏公様の内礼でございますので、あまり軽くは……」

「では、重く見えて軽いものを」

女房が困りました。

無茶を言っている自覚はあります。

ですが、本日、私自身がそのようなものです。

曹休家奥方として重く見え、劉備の娘としては扱いにくく、母としてはただ赤子を起こしたくないだけ……

身に付けるものくらい、似せてもよいでしょう。

玉珠も夏侯家へ数日預けられる支度をしておりました。

小さな包みに衣を入れ、菓子を忍ばせようとして、女房に止められております。

「向こうで用意されます」

「でも、途中でお腹が空くかも……」

「近いです」

「鼻がむずむずしたら?」

「手巾をお持ちください」

「ほじっていい?」

「よくありません」

「見張るって書いてあったよね?」

玉珠は真剣です。

たいへん真剣に、間違った方向へ進んでおります。

私は近づいて、玉珠の包みから余計な菓子を一つ取り出しました。

「これは置いていきなさい」

「なぜ?」

「蟻が来ます」

「蟻も夏侯家に行きたいの?」

「行かせません」

「蟻は地図に載ってない?」

「載せなくてよろしいです」

玉珠は残念そうにしました。

この子の頭の中では、すでに蟻まで政略の中に入りかけております。

魏公様のせいです。

たぶん――

私はそういうことにしておきます。

夕刻前、内礼に関わる女官が曹休家へ入りました。

丁寧な礼。

整った声。

余計な情を見せない顔。

仕事のできる方です。

つまり、こちらの逃げ道をきちんと塞ぐ方でもあります。

「曹休文烈夫人、劉氏明珠様にございますね?」

その呼び方が、部屋の中へ響きました。

私は立っていました。

産後の身体はもういくらか戻っておりますが、長く立つとまだ重い。

けれど、その名を座ったまま聞くのは嫌でした。

私は礼を返しました。

「はい」

一言で済みました。

たった一言。

それだけで、私は帳の中へ入りました。

劉備玄徳の娘としてではなく……

いえ、その血を消さぬまま……

曹休文烈の夫人として……

女官は帳を開き、筆を持つ者へ頷きました。

墨が紙へ落ちます。

曹休文烈夫人、劉氏明珠――

文字が並ぶ音など、本来聞こえるはずがありません。

けれどその時、私は確かに聞きました。

細い鎖が、紙の上で鳴る音を……

この帳は、史官の前へ出るものではございません。

内礼が終われば閉じられ、魏公府の奥へ収められるだけです。

後世へ名を残すためではない。

その場で礼を整え、人の立ち位置を間違えぬための紙。

つまり私は、残るためではなく、使われるために名を書かれたのでございます。

たいへん分かりやすい。

分かりやすすぎて、腹が立ちます。

「姉上」

玉珠が小さく呼びました。

「今は静かに」

「鼻が」

「今は、なおさら静かに」

「でも、姉上の名前が書かれた」

「ええ」

「痛い?」

私は答えられませんでした。

玉珠は、どうしてそういう時だけ正しい場所を突くのでしょう。

普段は鼻ばかり突いているくせに……

「少し」

私がそう答えると、玉珠は真面目な顔で手巾を差し出しました。

「鼻?」

「違います」

「涙?」

「違います」

「じゃあ、何を拭くの?」

「あなたの手を拭きなさい。鼻へ行く前に」

玉珠は素直に手を拭きました。

本当に、素直です。

方向さえ合っていれば、よい子なのです。

方向が、よく鼻へ行くのが問題なだけで……

女官は帳を閉じました。

「内礼の折、御名はこの通りに読み上げられます」

「読み上げられるのですか?」

「はい、魏公様の一門に連なる奥方方の名として」

魏公様の一門――

また新しい重ね着です。

私は劉備の娘です。

曹休の妻です。

曹家の奥方です。

そして今度は、魏公様の一門に連なる女。

どれだけ着せれば気が済むのでしょう。

夏なら暑くて倒れます。

冬でも息が詰まります。

「承知しました」

私はそう答えました。

承知したからといって、納得したわけではございません。

大人の返事とは、便利ですね。

心を隠すためにあります。

女官が去ると、部屋の空気が少し緩みました。

玉珠はすぐに鼻へ指を近づけました。

「玉珠」

「緊張が終わったから」

「終わっていません」

「まだ続くの?」

「続きます」

「じゃあ、鼻はいつ?」

「永遠に来なくてよろしい」

玉珠はたいへん困った顔をしました。

私も困っております。

主にあなたに……

そこへ、夏侯家の迎えが来ました。

思っていたより早い。

元譲様の差配は、相変わらず無駄がありません。

無駄がないというのは、別れの猶予も少ないということです。

「玉珠殿をお迎えに上がりました」

使いの女性は穏やかに言いました。

手には、小さな包み。

中には菓子が入っているのでしょう。

玉珠の目がすぐに動きました。

正直です。

「姉上」

「はい」

「玉珠、行くね」

「ええ」

「寧珠ちゃんに、鼻ほじらないように言っておいて」

「寧珠はまだできません」

「できるようになったら?」

「ならせません」

「姉上なら、できるね」

信頼が重い。

方向がおかしい。

それでも、私は頷きました。

玉珠は一歩進み、戻ってきて、私の袖を握りました。

「姉上の名前、書かれたけど……」

「ええ」

「姉上は、ここにいる?」

私は玉珠を見ました。

ここにいる。

なんと難しい言葉でしょう。

長坂では、いたくても置かれました。

曹家では、連れてこられて残りました。

今は、自分で残っているつもりです。

けれど、帳に名が載れば、残ることさえ誰かの地図に見えてしまう。

「おります」

私は答えました。

「玉珠が戻る場所に、おります」

玉珠は安心したように笑いました。

そして、鼻へ指を伸ばしかけました。

「玉珠」

「安心したから」

「安心で鼻をほじらない」

「じゃあ、不安でも?」

「どちらでも駄目です」

「難しいね」

「簡単です」

玉珠は夏侯家の使いに手を引かれて出ていきました。

小さな背が門へ向かいます。

私の手から、また一つ重さが抜けました。

軽くなったはずなのに、胸は重い。

たいへん不合理です。

寧珠が泣き出しました。

乳母が抱き上げます。

その声を聞いた瞬間、私は奥へ戻ろうとしました。

その時です。

門の方から、もう一人の使いが駆け込んできました。

今度は曹休家の者ではありません。

魏公府の印を帯びた者です。

息を整える間も惜しむように、使いは深く頭を下げました。

「劉氏明珠様へ、魏公様より内々のお文にございます」

劉氏明珠――

今度は、奥方ではありませんでした。

曹休夫人でもありませんでした。

私の名で呼ばれました。

帳に記されたばかりの名で。

背筋が冷えました。

使いの手には、封じられた文。

その表に、短くこうありました。

益州の劉備玄徳について――

劉氏明珠、文烈とともに参れ。

私は泣き出した寧珠の声を背に聞きながら、その文を受け取りました。

魏公様――

どうやら地図は、私の名を書いただけでは終わらないようでございます。

劉玉珠です。


今日は、姉上の名前が帳に書かれました。

帳は紙です。

でも、姉上は紙を見る時、紙ではないものを見る顔をします。

地図とか、刃物とか、鎖とか……

玉珠には少し難しいです。


でも、姉上の名前が書かれた時、姉上の顔が痛そうだったので、玉珠は手巾を出しました。

鼻かな、と思いました。

涙かな、とも思いました。

どちらでもありませんでした。

姉上は、玉珠の手を拭けと言いました。

鼻へ行く前に、だそうです。

玉珠は拭きました。

えらいです!

姉上が隣にいないので、自分で言います。


それから、玉珠は夏侯家へ行くことになりました。

お菓子があります。

手を洗う場所もあります。

でも、鼻は見張られます。

これは少し困ります。

元譲様は片目なのに、たぶん両目の人より見ています。

若い人も、きっと見ます。

玉珠は、鼻の前で指を止める練習をしなければなりません。

でも、姉上が大変なら、玉珠は行きます。

姉上は「玉珠が戻る場所におります」と言いました。

だから、玉珠は戻れます。

戻れる場所があるなら、少し遠くへ行っても大丈夫です。

たぶん――


そう思って門を出ようとしたら、また文が来ました。

今度は、姉上の名前で呼ばれていました。

劉氏明珠様――

姉上は、少し冷たい顔になりました。

文の表には、父上のお名前があったそうです。


益州の劉備玄徳について――

父上は遠いのに、文になると急に近くへ来ます。

姉上が困る時に来ます。

たいへん不思議です。

玉珠は、鼻がむずむずしました。


でも今は、ほじらない方がいい気がします。

姉上の顔が、紙より白く見えたからです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ