魏公様、私の名まで帳に載せないでくださいませんか?
劉明珠でございます。
名を記せ――
たいへん短い言葉です。
けれど、短い刃物ほどよく切れるものでございます。
魏公様の内礼に際し、曹休家奥方の名を帳に記す。
そう命じられました。
曹休文烈夫人、劉氏明珠――
ずいぶん整った呼び名です。
劉備玄徳の娘であることも、曹休家の奥方であることも、どちらも消さず、どちらも逃がさない。
まことに魏公様らしい書き方でございます。
褒めておりません。
もっとも、この帳は史官の前に出るものではございません。
礼が終われば閉じられ、奥へ収められる紙です。
つまり私は、後世に残るためではなく、その場で使われるために名を書かれるのです。
たいへん分かりやすい扱いですね。
腹が立つほどに……
その横で、玉珠は夏侯家へ行く支度をしております。
菓子を包みに忍ばせようとし、鼻の扱いについて真剣に悩んでおります。
魏公様の地図は広がり、玉珠の指は鼻の前で止まり、寧珠は何も知らずに泣いております。
そして、私の名が帳に記された直後――
魏公様より、今度は私個人へ文が届きました。
表には、こうありました。
益州の劉備玄徳について――
父上――
あなたのお名前は、どうしていつも、私が逃げ場を失ったところへ届くのでしょうか?
名を記せ――
その言葉は、刃物に似ております。
紙の上に置かれているだけなら大人しい。
けれど一度こちらへ向けられると、よく切れます。
魏公府から届いた文には、確かにそうありました。
魏公就任の内礼に際し、曹休家奥方の名を記し、備えを整えよ。
私はその一文を、しばらく見つめておりました。
曹休家奥方――
便利な呼び名でございます。
そこには、劉備玄徳の娘という厄介な血も、長坂で捕らえられた十三歳の娘も、父に置いていかれた記憶も見えません。
ただ、曹休家の奥方――
たいへん整っております。
整いすぎて、紙の裏側から笑い声が聞こえそうです。
「姉上、名前を書くの?」
玉珠が横から覗き込みました。
指は鼻の近くです。
近すぎます。
「書くことになるでしょうね……」
「どこに?」
「帳です」
「地図じゃないの?」
「帳と呼ばれている地図です」
玉珠は納得したように頷きました。
納得しないでください。
私も、言ってから少し嫌になっております。
「玉珠の名前も書く?」
「今は私の話です」
「鼻は?」
「書きません」
「でも、夏侯家の文には書かれてたよ?」
「忘れてください」
「忘れたいけど、鼻についてる」
「ついているのは鼻であって、文ではありません」
玉珠は真剣な顔で鼻を押さえました。
押さえるだけなら構いません。
入れなければ……
本日の私の気力は、そこを境に保たれております。
家令を呼び、帳へどう記すのかを確かめさせました。
ほどなく戻ってきた家令は、たいへん言いにくそうな顔をしておりました。
最近、この屋敷では誰もがその顔をいたします。
私の周りに、言いにくいことばかり集まってくるせいでしょう。
「奥方様」
「申してください」
「魏公府よりのご指示では、曹休文烈夫人、劉氏明珠と記すようにとのことでございます」
劉氏明珠――
私は小さく息を吐きました。
消すのではないのですね。
隠すのでもない。
劉氏と書く。
明珠と書く。
曹休文烈夫人と並べる。
たいへん見事です。
私が劉備の娘であることを、帳の上で逃がさない。
同時に、曹休の妻であることも疑わせない。
魏公様は、本当に紙の上で人を縛るのがお上手です。
褒めておりません。
「劉氏、と書くのですか」
「はい」
「……曖昧にはなさらないのですね」
「魏公府のお言葉では、名を曖昧にするな、と」
私は笑いそうになりました。
曖昧にするな。
何という力強いご配慮でしょう。
曖昧にしていただいた方が、こちらとしては少し息がしやすいのですが。
「姉上、劉氏って書くの?」
玉珠が首を傾げました。
「ええ」
「父上と同じ?」
「そうです」
「でも、曹休家の奥方なんでしょう?」
「そうです」
「二つあるね」
「ありますね」
「鼻の穴と同じ?」
「そこへ戻らないでください」
「でも二つあるものは、二つだよ」
「世の中の二つを、すべて鼻の穴で受け止めない」
玉珠は少し考えました。
そして、たいへん申し訳なさそうに言いました。
「じゃあ、姉上は鼻より難しい」
「当然です」
当然、と答えてよいのでしょうか?
よいことにします。
曹肇様が帳の写しをじっと見ておられました。
幼い眉間に、皺が寄っています。
「明珠殿の名を隠さないのですね?」
「そのようです」
「なぜですか?」
「隠せば、後ろ暗いものになります」
そう言ってから、私は自分の言葉に苦くなりました。
魏公様は、私を隠さない。
劉備の娘が曹休家にいることを、奥の帳に記す。
それは親切ではありません。
宣言です。
危険物は、外へ置かない。
内に入れたなら、内のものとして名を付け、場所を与え、他人に触らせない。
火種は炉に――
この間の文が、また胸の中で燃えました。
「明珠殿は、曹休家の方です」
曹肇様が言いました。
「ありがとうございます」
「でも、劉氏なのですね」
「ええ」
「では、二つとも書けばよいのです」
簡単に言ってくださいます。
子供は時々、難しいものをまっすぐ持ち上げます。
大人が両手で抱えても重いものを、どうしてそんな顔で……
私は少しだけ、救われました。
同時に、少しだけ傷つきました。
救いと傷が同じ場所に入ることは、珍しくありません。
たいへん不便な作りです、人の胸は……
昼過ぎ、魏公就任に伴う内礼の支度が本格的に始まりました。
女房たちは衣を広げ、香を選び、文箱を整えます。
寧珠は乳母の腕で眠っております。
何も知らない顔です。
この子の名も、いずれ帳に載るのでしょう。
曹家の姫として……
よき婿を考える、と書かれた子として……
母としては、寝返りより先に地図へ置かれるのを見せられるなど、たいへん不愉快でございます。
けれど、帳に載らねば守られないこともある。
それがまた腹立たしい。
人は、牢に名札を掛けて、それを庇護と呼ぶことがあるようです。
「奥方様、お衣はこれで」
女房が差し出した衣は、祝いにふさわしく、けれど派手すぎないものでした。
よく選んであります。
つまり、私が喜んでいるようにも、嫌がっているようにも見えない。
たいへん都合のよい衣です。
「これにします」
「髪飾りは……」
「重すぎぬものを」
「魏公様の内礼でございますので、あまり軽くは……」
「では、重く見えて軽いものを」
女房が困りました。
無茶を言っている自覚はあります。
ですが、本日、私自身がそのようなものです。
曹休家奥方として重く見え、劉備の娘としては扱いにくく、母としてはただ赤子を起こしたくないだけ……
身に付けるものくらい、似せてもよいでしょう。
玉珠も夏侯家へ数日預けられる支度をしておりました。
小さな包みに衣を入れ、菓子を忍ばせようとして、女房に止められております。
「向こうで用意されます」
「でも、途中でお腹が空くかも……」
「近いです」
「鼻がむずむずしたら?」
「手巾をお持ちください」
「ほじっていい?」
「よくありません」
「見張るって書いてあったよね?」
玉珠は真剣です。
たいへん真剣に、間違った方向へ進んでおります。
私は近づいて、玉珠の包みから余計な菓子を一つ取り出しました。
「これは置いていきなさい」
「なぜ?」
「蟻が来ます」
「蟻も夏侯家に行きたいの?」
「行かせません」
「蟻は地図に載ってない?」
「載せなくてよろしいです」
玉珠は残念そうにしました。
この子の頭の中では、すでに蟻まで政略の中に入りかけております。
魏公様のせいです。
たぶん――
私はそういうことにしておきます。
夕刻前、内礼に関わる女官が曹休家へ入りました。
丁寧な礼。
整った声。
余計な情を見せない顔。
仕事のできる方です。
つまり、こちらの逃げ道をきちんと塞ぐ方でもあります。
「曹休文烈夫人、劉氏明珠様にございますね?」
その呼び方が、部屋の中へ響きました。
私は立っていました。
産後の身体はもういくらか戻っておりますが、長く立つとまだ重い。
けれど、その名を座ったまま聞くのは嫌でした。
私は礼を返しました。
「はい」
一言で済みました。
たった一言。
それだけで、私は帳の中へ入りました。
劉備玄徳の娘としてではなく……
いえ、その血を消さぬまま……
曹休文烈の夫人として……
女官は帳を開き、筆を持つ者へ頷きました。
墨が紙へ落ちます。
曹休文烈夫人、劉氏明珠――
文字が並ぶ音など、本来聞こえるはずがありません。
けれどその時、私は確かに聞きました。
細い鎖が、紙の上で鳴る音を……
この帳は、史官の前へ出るものではございません。
内礼が終われば閉じられ、魏公府の奥へ収められるだけです。
後世へ名を残すためではない。
その場で礼を整え、人の立ち位置を間違えぬための紙。
つまり私は、残るためではなく、使われるために名を書かれたのでございます。
たいへん分かりやすい。
分かりやすすぎて、腹が立ちます。
「姉上」
玉珠が小さく呼びました。
「今は静かに」
「鼻が」
「今は、なおさら静かに」
「でも、姉上の名前が書かれた」
「ええ」
「痛い?」
私は答えられませんでした。
玉珠は、どうしてそういう時だけ正しい場所を突くのでしょう。
普段は鼻ばかり突いているくせに……
「少し」
私がそう答えると、玉珠は真面目な顔で手巾を差し出しました。
「鼻?」
「違います」
「涙?」
「違います」
「じゃあ、何を拭くの?」
「あなたの手を拭きなさい。鼻へ行く前に」
玉珠は素直に手を拭きました。
本当に、素直です。
方向さえ合っていれば、よい子なのです。
方向が、よく鼻へ行くのが問題なだけで……
女官は帳を閉じました。
「内礼の折、御名はこの通りに読み上げられます」
「読み上げられるのですか?」
「はい、魏公様の一門に連なる奥方方の名として」
魏公様の一門――
また新しい重ね着です。
私は劉備の娘です。
曹休の妻です。
曹家の奥方です。
そして今度は、魏公様の一門に連なる女。
どれだけ着せれば気が済むのでしょう。
夏なら暑くて倒れます。
冬でも息が詰まります。
「承知しました」
私はそう答えました。
承知したからといって、納得したわけではございません。
大人の返事とは、便利ですね。
心を隠すためにあります。
女官が去ると、部屋の空気が少し緩みました。
玉珠はすぐに鼻へ指を近づけました。
「玉珠」
「緊張が終わったから」
「終わっていません」
「まだ続くの?」
「続きます」
「じゃあ、鼻はいつ?」
「永遠に来なくてよろしい」
玉珠はたいへん困った顔をしました。
私も困っております。
主にあなたに……
そこへ、夏侯家の迎えが来ました。
思っていたより早い。
元譲様の差配は、相変わらず無駄がありません。
無駄がないというのは、別れの猶予も少ないということです。
「玉珠殿をお迎えに上がりました」
使いの女性は穏やかに言いました。
手には、小さな包み。
中には菓子が入っているのでしょう。
玉珠の目がすぐに動きました。
正直です。
「姉上」
「はい」
「玉珠、行くね」
「ええ」
「寧珠ちゃんに、鼻ほじらないように言っておいて」
「寧珠はまだできません」
「できるようになったら?」
「ならせません」
「姉上なら、できるね」
信頼が重い。
方向がおかしい。
それでも、私は頷きました。
玉珠は一歩進み、戻ってきて、私の袖を握りました。
「姉上の名前、書かれたけど……」
「ええ」
「姉上は、ここにいる?」
私は玉珠を見ました。
ここにいる。
なんと難しい言葉でしょう。
長坂では、いたくても置かれました。
曹家では、連れてこられて残りました。
今は、自分で残っているつもりです。
けれど、帳に名が載れば、残ることさえ誰かの地図に見えてしまう。
「おります」
私は答えました。
「玉珠が戻る場所に、おります」
玉珠は安心したように笑いました。
そして、鼻へ指を伸ばしかけました。
「玉珠」
「安心したから」
「安心で鼻をほじらない」
「じゃあ、不安でも?」
「どちらでも駄目です」
「難しいね」
「簡単です」
玉珠は夏侯家の使いに手を引かれて出ていきました。
小さな背が門へ向かいます。
私の手から、また一つ重さが抜けました。
軽くなったはずなのに、胸は重い。
たいへん不合理です。
寧珠が泣き出しました。
乳母が抱き上げます。
その声を聞いた瞬間、私は奥へ戻ろうとしました。
その時です。
門の方から、もう一人の使いが駆け込んできました。
今度は曹休家の者ではありません。
魏公府の印を帯びた者です。
息を整える間も惜しむように、使いは深く頭を下げました。
「劉氏明珠様へ、魏公様より内々のお文にございます」
劉氏明珠――
今度は、奥方ではありませんでした。
曹休夫人でもありませんでした。
私の名で呼ばれました。
帳に記されたばかりの名で。
背筋が冷えました。
使いの手には、封じられた文。
その表に、短くこうありました。
益州の劉備玄徳について――
劉氏明珠、文烈とともに参れ。
私は泣き出した寧珠の声を背に聞きながら、その文を受け取りました。
魏公様――
どうやら地図は、私の名を書いただけでは終わらないようでございます。
劉玉珠です。
今日は、姉上の名前が帳に書かれました。
帳は紙です。
でも、姉上は紙を見る時、紙ではないものを見る顔をします。
地図とか、刃物とか、鎖とか……
玉珠には少し難しいです。
でも、姉上の名前が書かれた時、姉上の顔が痛そうだったので、玉珠は手巾を出しました。
鼻かな、と思いました。
涙かな、とも思いました。
どちらでもありませんでした。
姉上は、玉珠の手を拭けと言いました。
鼻へ行く前に、だそうです。
玉珠は拭きました。
えらいです!
姉上が隣にいないので、自分で言います。
それから、玉珠は夏侯家へ行くことになりました。
お菓子があります。
手を洗う場所もあります。
でも、鼻は見張られます。
これは少し困ります。
元譲様は片目なのに、たぶん両目の人より見ています。
若い人も、きっと見ます。
玉珠は、鼻の前で指を止める練習をしなければなりません。
でも、姉上が大変なら、玉珠は行きます。
姉上は「玉珠が戻る場所におります」と言いました。
だから、玉珠は戻れます。
戻れる場所があるなら、少し遠くへ行っても大丈夫です。
たぶん――
そう思って門を出ようとしたら、また文が来ました。
今度は、姉上の名前で呼ばれていました。
劉氏明珠様――
姉上は、少し冷たい顔になりました。
文の表には、父上のお名前があったそうです。
益州の劉備玄徳について――
父上は遠いのに、文になると急に近くへ来ます。
姉上が困る時に来ます。
たいへん不思議です。
玉珠は、鼻がむずむずしました。
でも今は、ほじらない方がいい気がします。
姉上の顔が、紙より白く見えたからです。




