丞相様、魏公になられても奥まで揺らさないでくださいませんか?
劉明珠でございます。
奥は乱すな――
そう言われたばかりでございます。
ところが今度は、奥方にも備えよ、とのこと。
たいへん不思議です。
水をこぼした方が、床を濡らすなと申されているようなものでございます。
もちろん、こぼしたのは丞相様です。
朝廷の議は定まり、丞相様は魏公となられます。
九錫という、たいへん重そうなものまで賜るそうです。
重いものは、受け取る方だけが重いのではございません。
周りの者も、礼を整え、香を選び、衣を選び、余計な口を塞ぎます。
史書には残らない仕事です。
たいへん便利ですね。
誰かがやらねば困るのに、誰がやったかは消えるのですから。
私は劉備玄徳の娘です。
その私が、曹休家の奥方として、魏公就任の内礼を整えることになります。
よくできた冗談でございます。
笑えばよいのか、香炉を投げればよいのか、判断に迷います。
投げません。
寧珠が起きますので……
玉珠は九錫をお菓子か何かだと思い、鼻の穴の数と比べ始めました。
曹家の礼も、妹の鼻も、どちらも本日は目が離せません。
そして最後に届いた文には、こうありました。
曹休家奥方の名を記し、備えを整えよ。
丞相様――
どうやら今度は、私自身を地図に書き込むおつもりのようでございます。
奥方にも備えよ。
その一言を聞いた時、私は寧珠を抱いたまま、しばらく動けませんでした。
奥は乱すな――
そう書かれたばかりでございます。
それなのに、今度は奥方も備えよ。
たいへん不思議なご命令です。
水をこぼした方が、床を濡らすなと申されているようなものでございます。
申し上げにくいのですが、こぼしたのは丞相様です。
「詳しく申せ」
文烈様の声が低くなりました。
家令は床へ額を近づけるようにして、慎重に言葉を選びます。
「朝廷の議が定まったとのことにございます。丞相様は魏公に封ぜられ、九錫を賜る運びに……」
部屋の空気が変わりました。
魏公――
九錫――
これまでにも、その言葉は廊下の端で囁かれ、文の端に滲み、香の煙の向こうに揺れておりました。
けれど、噂として聞くのと、使者の口から落ちるのとでは重さが違います。
噂は風です。
決まったことは石です。
そしてその石は、曹休家の奥へまで転がり込んでまいりました。
「文烈様には、ただちに丞相府へお出ましを……警固と諸家の取りまとめについて、改めてご沙汰があるとのことにございます」
「分かった」
文烈様は短く答えられました。
その顔は、政を動かす者の顔ではありません。
命じられた場に立ち、門を守り、乱れを抑える者の顔です。
中央の暗い水底で糸を引く方ではない。
けれど、水底から伸びてきた糸が足に絡めば、立つ場所は選べません。
文烈様は曹家一門の将です。
その妻である私は曹家の奥方です。
そして、劉備玄徳の娘です。
たいへん面倒な重ね着でございます。
どれか一枚、脱がせていただけませんでしょうか。
「奥方様には、曹家一門の内礼を整えよとのことにございます。女眷への通達、祝いの香、衣、訪いの順、屋敷内の噂の始末。奥が乱れぬように、と」
「奥が乱れぬように……」
私は思わず復唱しました。
「はい」
「今、奥が乱れる材料をお持ちになったばかりですが?」
家令はたいへん困った顔をしました。
悪いのは家令ではありません。
火を近づけておきながら、煙の立つのを不作法と言う方でございます。
「明珠」
文烈様がこちらを見ました。
「無理はするな」
「無理をせずに済む話には聞こえません」
「人を付ける」
「人を付けていただいても、私の父は変わりません」
自分で言って、少しだけ嫌になりました。
父――
劉備玄徳。
漢の臣を名乗る御方。
その漢の朝廷が、いま丞相様を魏公に押し上げようとしております。
そして私は、その魏公となられる方の一門の奥方として、祝いの香を用意する。
たいへんよくできた冗談です。
笑えばよいのでしょうか?
それとも、香炉ごと投げればよいのでしょうか?
寧珠が腕の中で小さく身じろぎしました。
投げません。
赤子が起きますので……
私は大人です。
不便です。
玉珠が、そっと手を上げました。
「姉上」
「何ですか?」
「九錫って、九つもらうの?」
「そうです」
「お菓子?」
「違います」
「じゃあ、何?」
説明に困りました。
玉珠に礼制を教えるのは、井戸へ絹を投げ込むのに似ております。
沈むだけです。
「偉い方が、さらに大きな立場になる時に賜るものです」
「丞相様、今でも大きいよ?」
「それは正しいです」
「もっと大きくなるの?」
「そのようです」
「じゃあ、門から入れる?」
「身体の話ではありません」
「名札が増えるの?」
私は黙りました。
時々、この妹は鼻のこと以外で妙に核心を突きます。
「そうですね。名札が増えるようなものです」
「丞相様と魏公様、二つ?」
「場によって、呼び方が変わります」
「玉珠の鼻の穴も二つあるよ?」
「そこで並べないでください」
「でも、二つなら同じだよ?」
「丞相様の御位と、あなたの鼻の穴を同じ数で考えない」
「じゃあ、九錫は九つだから、鼻より多いね」
「鼻を基準に天下を量らないでください」
玉珠は真面目な顔で鼻のあたりを押さえました。
押さえるだけならよろしい。
入れなければ……
最近の私の礼法は、たいへん低い線で保たれております。
その時、曹肇様が入口に姿を見せられました。
幼い顔に、無理に整えた表情を乗せておられます。
「父上は、お出ましになるのですか?」
「そうだ」
文烈様が答えられると、曹肇様は少しだけ唇を結びました。
「では、私は屋敷におります」
「肇」
「明珠殿と寧珠と纂と玉珠殿を見ます」
玉珠が目を丸くしました。
「玉珠も?」
「曹休家におられる方です」
曹肇様は、当然のようにそう言われました。
亡き母君の文を読んだ日から、この子は時々、大人の胸に刃物を入れてきます。
もちろん悪意はありません。
だから余計に痛いのです。
「ありがとうございます、曹肇様」
「明珠殿は、立ちすぎないでください」
「最近、皆様の私への扱いが少し厳しくありませんか」
「倒れるからです」
正論です――
正論は時に、礼儀より容赦がございません。
文烈様は曹肇様の頭に手を置かれました。
「頼む」
「はい」
曹肇様の目が揺れました。
泣きません。
泣かない顔をしているだけです。
私は見ないふりをしました。
子供が耐えている時、大人が覗き込むのは残酷です。
玉珠は覗き込みました。
「肇様、泣くの?」
「泣かぬ」
「鼻むずむずする?」
「しない」
「すごいね!」
「玉珠殿と一緒にするな」
返しが早くなっております。
成長とは、こういう低い場所にも現れるのですね。
文烈様は支度を整え、すぐ屋敷を出られました。
鎧の音が遠ざかります。
私は奥に残ります。
残るというのは、動かないことではございません。
人を呼び、香を選び、衣を整え、余計な口を塞ぎ、必要な文だけ通す。
やることは多い。
ただし、史書には残りません。
たいへん便利な仕事です。
誰かがやらねば困るのに、誰がやったかは残らない。
女の仕事とは、こういう形で消えるものなのでしょう。
私は女房たちに命じました。
祝いの香は強すぎぬもの。
衣は華やかすぎず、喪の色にも見えぬもの。
廊下で荀令君の名を軽く口にせぬこと。
魏公の祝いを、奥で声高に語らぬこと。
言いながら、自分で嫌になりました。
荀令君の死を悼んだ香の匂いは、まだ記憶の底に残っております。
その同じ屋敷で、今度は魏公就任のための香を焚く。
人が死んでも、地図は畳まれません。
畳まれないどころか、死んだ人の空いた場所へ、新しい称号が置かれる。
たいへん丈夫な紙です。
破れてしまえばよいのに……
そう思った直後、寧珠の小さな寝息が聞こえました。
この子が生きていくには、その丈夫な紙が必要になる日もあるのでしょう。
母とは不便です。
憎いものの役に立つ可能性まで考えねばならない。
昼を過ぎる頃、遠くから鐘の音が聞こえました。
朝廷の使者が正式に入った知らせでしょう。
屋敷の者たちが一斉に背筋を伸ばしました。
姿も見えぬ音が、人を動かします。
名も同じです。
丞相。
魏公。
漢。
曹家。
劉備。
大きな名は、赤子の寝息よりずっと乱暴です。
玉珠は、私の袖を引きました。
「姉上」
「今度は何ですか?」
「魏公様になったら、丞相様は怖くなるの?」
「今でも十分怖いです」
「もっと?」
「おそらく、怖さの種類が増えます」
玉珠は少し考えました。
「九つも増える?」
「九錫をそう数えないでください」
「じゃあ、鼻は?」
「なぜそこで鼻が出るのですか?」
「緊張すると出そうになるから」
「出さないでください」
玉珠の指が鼻の前で止まりました。
止まりました。
本日は大事な日です。
丞相様が魏公になられる日。
曹家の礼が変わる日。
妹の指が、鼻の入口で辛うじて止まっている日。
史書に残るのは、おそらく最初の一つだけでございます。
夕刻、文烈様から短い伝言が戻りました。
詔は下った。
丞相様は魏公となられる。
九錫の礼は順に整えられる。
曹休家は乱れるな。
またです。
乱れるな。
もう十分乱れております。
顔に出さないだけです。
私は伝言を畳み、香炉のそばへ置きました。
その紙の横で、香の煙が細く上がります。
曹家にとっては祝いです。
文烈様にとっても、そうでなければなりません。
では、私にとっては何か?
父の敵方の栄達。
夫の家の栄誉。
娘の未来を守るかもしれない大きな屋根。
同じ出来事が、見る場所によって顔を変えます。
たいへん器用です。
褒めておりません。
「姉上、香、いい匂い」
玉珠が鼻をひくつかせました。
「嗅ぐだけにしてください」
「分かってるよ」
「本当に?」
「今は、お祝いの鼻だから」
「そのような鼻はありません」
「じゃあ、我慢の鼻」
「黙ってください」
玉珠は口を閉じました。
しかし指は動きました。
「玉珠」
「まだ!」
「今日は何度その言葉を聞いたでしょうか?」
「でも、まだだもん」
確かにまだです。
まだ、という言葉にここまで救われる日が来るとは思いませんでした。
その時、門の方が再び騒がしくなりました。
今度は夏侯家からの使いでございました。
私は嫌な予感がしました。
たいへん当たります。
当たらなくてよい時ほど、よく当たります。
使いは丁寧に拝礼し、夏侯元譲様の文を差し出しました。
玉珠が後ろで小さく跳ねます。
「お菓子?」
「文です」
「お菓子の文かも?」
「そのような文があってたまりますか!」
封を切ると、端的な文が現れました。
魏公就任の諸礼で、曹家一門はしばらく慌ただしくなる。
曹休家の奥も多忙となろう。
その間、玉珠殿を一泊ではなく、数日、夏侯家で預かってもよい。
嫌がれば返す。
菓子は用意する。
鼻は見張る。
私は最後の一行で、ゆっくり文を閉じました。
遅かった……
読んでしまいました。
「姉上?」
玉珠が目を輝かせます。
「お菓子、ある?」
「あります」
「行っていいの?」
「鼻を見張るそうです」
玉珠は真剣に考えました。
「元譲様が?」
「おそらく」
「若い人も?」
「知りません」
「手を洗う場所、増えるかな?」
「そこではありません」
頭が痛い……
魏公。
九錫。
曹家一門の礼。
劉備の娘である私の立場。
寧珠の未来。
そのすべてが重なった日に、妹の鼻の見張りまで正式な文書に載りました。
人は越えてはならない線を、時々あっさり越えます。
しかも達筆で……
曹肇様が文を見て、少し考えました。
「玉珠殿を夏侯家へ?」
「そのようです」
「今だから、ですか?」
「ええ」
「曹休家の奥を軽くするためですね」
幼いのに、よく見ておられます。
「そうでしょう」
「でも、明珠殿は寂しくなりますね」
その言葉に、私は返事ができませんでした。
子供は時々、大人が隠したものを素手で掴みます。
痛いので、やめていただきたい。
玉珠は私の袖を握りました。
「姉上、玉珠、行くの?」
私は妹を見ました。
鼻の前で止まっている指。
不安そうな目。
けれど、その奥に少しだけある期待。
夏侯家には席があります。
菓子があります。
手を洗う場所があります。
あまり笑わない若い人がいます。
玉珠の道が、また一歩、私から離れていく。
曹操が魏公となる日。
曹家の地図が大きく広がる日。
妹の小さな足元にも、線が引かれております。
「行くかどうかは、玉珠が決めなさい」
そう言うと、玉珠は目を丸くしました。
「玉珠が?」
「ええ」
「鼻も?」
「鼻は相談しなくて結構です」
「でも、顔についてる」
「それは知っています」
玉珠はしばらく黙りました。
そして、小さな声で言いました。
「姉上が大変なら、行く」
私は息を呑みました。
この妹は、何も分かっていないようで、時々分かってしまう。
だから困るのです。
だから、手放せなくなるのです。
「玉珠」
私が呼んだ時、廊下を走る足音が近づいてきました。
今度は家令ではありません。
若い侍女です。
顔色が変わっておりました。
「奥方様」
「何ですか?」
「丞相府より、さらに急ぎのお文が……」
また文ですか?
今日だけで、どれほど地図を広げれば気が済むのでしょう。
侍女は震える手で文を差し出しました。
封には、丞相府の印。
添えられた言葉は短いものでした。
魏公就任の内礼に際し、曹休家奥方の名を記し、備えを整えよ。
私は、その文字を見つめました。
名を記す。
備えを整える。
私の名を。
劉明珠。
劉備玄徳の娘。
曹休文烈の妻。
魏公曹操の一門の奥方。
笑うところでしょうか?
泣くところでしょうか?
判断に迷っていると、玉珠が隣でそっと呟きました。
「姉上」
「何ですか?」
「今は、鼻をほじらない方がいい?」
私は文を握りしめました。
丞相様――
どうやら地図の上に、とうとう私の名までお書きになるおつもりのようでございます。
劉玉珠です。
今日は、丞相様が魏公様になりました。
丞相様は丞相様で、魏公様は魏公様だそうです。
同じ人なのに、呼び方が増えます。
大人は不思議です。
玉珠の鼻の穴も二つありますが、姉上に「一緒にしない」と怒られました。
でも、二つは二つです。
九錫は九つだそうです。
九つもあるなら、お菓子かと思いました。
違うそうです。
たいへん残念です。
姉上は、香を選んだり、衣を選んだり、女房たちに静かにするよう言ったりしていました。
姉上は静かに怒るので、少し怖いです。
大きな声で怒るより、静かな方が怖い時があります。
玉珠は鼻がむずむずしました。
でも、まだです。
まだ、入れていません。
姉上が隣で見ています。
本当です。
それから、元譲様のお家から文が来ました。
玉珠を数日預かってもよい、と書いてあったそうです。
お菓子は用意する。
鼻は見張る。
……鼻は、見張られるそうです。
玉珠は少し考えました。
見張られるのは困ります。
でも、お菓子はあります。
手を洗う場所もあります。
あまり笑わない若い人もいます。
姉上が大変なら、玉珠は行ってもいいと思いました。
そう言ったら、姉上が少し変な顔をしました。
泣く顔ではありません。
怒る顔でもありません。
でも、胸が痛そうな顔でした。
それから、また丞相府から文が来ました。
姉上の名前を記すそうです。
名前を書くのは、大事なことです。
でも、姉上は嬉しそうではありません。
地図に書かれるのは、嬉しいことばかりではないそうです。
玉珠はよく分かりません。
でも、姉上の名前が書かれるなら、姉上もどこかへ行ってしまうのでしょうか?
そう思ったら、鼻がむずむずしました。
今は、ほじらない方がいい気がします。
姉上が、もう一度こちらを見ました。




