丞相様、その文は地図でございますか?
劉明珠でございます。
文というものは、紙に墨を落としただけのはずでございます。
ところが丞相様のお文は、どうにも紙では済みません。
朝廷が動き、文烈様が呼ばれ、玉珠が夏侯家へ近づき、寧珠の将来まで線を引かれる。
一枚の文に、なぜここまで詰め込めるのでしょうか。
たいへん器用です。
褒めておりません。
寧珠はまだ、乳を飲んで眠るだけの赤子です。
それなのに、曹家の姫として大事に育てよ、いずれよき婿を考える――などと書かれてしまえば、母としては腹も立ちます。
しかも玉珠の泊まりの件まで、丞相様の耳に入っております。
妹の鼻までご存じなのではないかと思うと、曹家の情報網に深い不安を覚えます。
外では、魏公、九錫という言葉が近づいております。
内では、寧珠が眠り、玉珠が鼻の前で指を止めております。
そして私は、丞相様の文を前に思うのです。
これは文でございましょうか。
――それとも、また一枚、広げられた地図でございましょうか。
丞相様、その文は地図でございますか?
封を切る前から腹の立つ文というものがございます。
たいへん便利です。
読まずとも、こちらの心構えができますので……
丞相様より届いた文は、机の上に置かれておりました。
まだ封は切っておりません。
けれど、その一枚が部屋の空気を重くしております。
文烈様は黙っております。
寧珠は私の腕の中で眠っております。
玉珠は、鼻の前で指を止めたまま、こちらを見ております。
たいへん珍しいことに、止めております。
止めているだけで褒めねばならないのでしょうか?
曹休家の礼儀は、どんどん低い場所へ降りております。
「姉上、開けないの?」
「開けます」
「怖いの?」
「怖くはありません」
「じゃあ、嫌なの?」
「それは正しいです」
玉珠は納得した顔をしました。
納得しないでください……
私は封を切りました。
丞相様の文は、いつも短い。
短いくせに、こちらの逃げ道をきちんと塞いできます。
長文で責められるより、よほど始末が悪い。
文には、まず朝廷のことが書かれておりました。
近く、朝廷の議は定まる。
文烈は警固を怠るな。
曹休家の奥を乱すな。
いつものことでございます。
外で何が動こうと、奥は乱すな。
それはもっともです。
もっともですが、外で地面を揺らしておいて、奥だけ静かにしていろとは、たいへん都合のよいご命令でございます。
私は続きを読みました。
玉珠の件、元譲に任せよ。
泊まりも試させよ。
急がず、戻さず、家に慣れさせよ。
私はそこで、文を持つ手に少し力が入りました。
急がず――
戻さず――
なんと嫌な言葉でしょう。
奪わない。
急がない。
けれど、戻す気もない。
夏侯元譲様の文と同じです。
丁寧で、礼があって、逃げ場がありません。
玉珠が私を見上げました。
「何て書いてあるの?」
「夏侯家へ泊まりに行く話を、丞相様もご存じだそうです」
「丞相様も?」
「ええ」
「鼻のことも?」
私は文の続きを見ました。
鼻のことは書かれておりません。
書かれておりませんが、これまでの文を思えば、知られていないと考える方が難しい。
「おそらく」
「玉珠、有名?」
「悪い意味で……」
玉珠は少し考えてから、誇らしげな顔をしかけました。
「誇らないでください」
「まだ何もしてないよ?」
「しそうな顔でした」
「姉上、すごい!」
すごくありません。
たいへん嫌な経験値が積まれているだけです。
私はさらに文を読み進めました。
そして、そこで息が止まりました。
寧珠、よき名。
曹家の姫として大事に育てよ。
女子なればこそ、粗略にするな。
いずれ、よき婿を考える。
文烈にも伝えよ。
私は文から目を離し、腕の中の寧珠を見ました。
寧珠は眠っております。
何も知りません。
乳の匂いをまとい、小さな手を握り、ただこの世にいるだけです。
その子の上に、見えない線が一本引かれました。
曹家の姫――
よき婿――
たいへん結構な言葉です。
結構すぎて、腹が立ちます。
「明珠」
文烈様が、穏やかな声で呼ばれました。
私が文を渡しますと、文烈様は静かに目を通されます。
その顔が少しだけ固くなりました。
「丞相様らしい」
「らしい、で済ませるには、寧珠はまだ小さすぎます」
「分かっている」
「本当に?」
「分かっている」
文烈様は寧珠を見ました。
その目は父親のものでした。
けれど、文を読む目は曹家一門のものでした。
この方の中にも、家と子が同時にある。
だからこそ、私は腹が立ちます。
どちらも本物だからです。
「まだ寝返りもできません」
「そうだな」
「乳を飲み、眠り、泣くのが仕事です」
「そうだ」
「その子に婿ですか?」
「早い」
「早すぎます」
「だが、丞相様は先を見る」
その通りです。
丞相様は赤子を赤子としてだけは見ておられません。
曹休の娘。
曹家の姫。
劉備玄徳の外孫。
いずれどこかへ嫁ぐ女子。
そのすべてを、一枚の文の中で見ておられる。
たいへん大きな方です。
大きすぎて、こちらの息が詰まります。
玉珠がそろそろと近づきました。
「寧珠ちゃん、もうお婿さんいるの?」
「いません」
「考えるって書いてあるんでしょう?」
「あなたは聞かなくてよいところだけよく聞きますね……」
「お婿さんって、お菓子くれる人?」
「違います」
「若い人はお菓子くれるよ?」
「玉珠」
「でも、あんまり笑わない」
「その話は今しなくてよろしい」
玉珠は納得していない顔をしました。
そして、緊張したように鼻へ指を近づけます。
「玉珠!」
「寧珠ちゃんの話が重いから……」
「鼻で支えようとしないでください」
「でも、玉珠の鼻も夏侯家に行くし、寧珠ちゃんもいつかどこかに行くんでしょう?」
私は黙りました。
玉珠は時々、恐ろしいほど真っ直ぐなことを言います。
本人は何も分かっていない顔をして……
いえ――
もしかすると、分かっていないからこそ、余計な飾りを付けずに言えるのかもしれません。
私は寧珠を抱き直しました。
「まだ行きません」
「いつか?」
「……いつかです」
「姉上も、いつか来たの?」
その問いは、細い針のように胸へ刺さりました。
私は長坂の土埃を思い出しました。
荷車。
逃げる人々。
泣く玉珠。
見えなくなった父の背。
そして、曹家へ運ばれた私たち……
「私は、来たのではありません」
「連れてこられた?」
「ええ」
「でも、今はここにいるよ」
玉珠はそう言いました。
私は返事ができませんでした。
本当に、厄介な妹です。
鼻さえほじらなければ、かなり鋭いのかもしれません。
いえ、鼻をほじるから油断してしまうだけなのでしょう。
丞相様の文は、まだ続いておりました。
火種は、外に置けば火事となる。
内に置けば、炉ともなる。
扱いを誤るな。
私はその一文を見た時、笑いそうになりました。
笑える話ではありません。
けれど、笑うしかないほど、丞相様らしいお言葉でした。
劉備の娘。
危険物です。
後に何かの旗になり得る血です。
外に置けば、敵の札になる。
殺せば終わる。
逃がせば父上のもとへ戻る。
ならば、取り込めばよい。
曹家の屋敷に置き、曹家の男に嫁がせ、曹家の子を産ませ、夏侯家にもつなぎ、次の代までこちらの炉の中へ入れてしまう。
火は消されませんでした。
ただ、炉へ入れられました。
たいへん合理的です。
たいへん黒いです。
そして腹立たしいことに、私はその炉の中で生きております。
「文烈様」
「何だ?」
「丞相様は、私たちを危険物だと思っておられたのでしょうね」
「……否定はできぬ」
「でしょうね」
「だが、粗略にはなさらなかった」
「それがまた始末に悪いのです」
私は寧珠を見ました。
この子もまた、血を引いております。
曹休の娘であり、劉備の外孫。
丞相様が軽んじるはずがありません。
軽んじないということは、大事にされるということです。
大事にされるということは、置かれる場所を考えられるということです。
女にとって、これほど面倒な守られ方はありません。
「父上は私を置いて行かれました」
文烈様は黙っております。
「丞相様は、私を置き直されました」
言ってから、私は自分の言葉の重さに少しだけ疲れました。
どちらも、私をどこかへ置いた男です。
ただし後者は、置いた後の面倒まで見る。
たいへん黒く、たいへん大きく、たいへん腹立たしい。
玉珠が不思議そうに首を傾げました。
「置き直すって、荷物みたい」
「ええ」
「玉珠も?」
「ええ」
「寧珠ちゃんも?」
私はすぐには答えられませんでした。
寧珠の小さな息が、私の腕に触れております。
「そうならないようにしたいものです」
「でも、丞相様の文に書いてあるんでしょう?」
玉珠はそう言って、今度こそ鼻へ指を入れかけました。
「玉珠!」
「まだ!」
「今のは、かなり危険でした」
「重すぎたから!」
「重い話を鼻で軽くしようとしないでください」
「だって、鼻は顔についてるから、すぐ届くよ!」
「理屈にしない」
文烈様が今度こそ横を向いて肩を震わせました。
笑わないでください……
私は本気で曹休家の礼儀を守っているのです。
たいへん低い場所で……
その時、外から慌ただしい足音が近づいてきました。
家令です。
最近、この音を聞くたび、私は心の中で机をひっくり返したくなります。
実際にはいたしません。
寧珠が起きますので……
「文烈様、奥方様」
家令の声は硬いものでした。
文烈様が立ち上がります。
「何だ」
「朝廷より使者が入ったとのことにございます」
部屋の空気が変わりました。
とうとう来たのです。
魏公――
九錫――
丞相様の地図が、また一枚広げられる時が……
私は寧珠を抱きしめました。
玉珠は、鼻の前で指を止めたまま固まっております。
今度は、止まっています。
たいへん珍しく、場に合った緊張でございました。
家令は、さらに言いました。
「また、丞相様より、曹休家の奥方様にも備えよとのお言葉が……」
「私にも?」
思わず聞き返しました。
奥は乱すな――
そう書かれていたはずです。
それなのに、奥方にも備えよ。
たいへん嫌な響きです。
文烈様の顔が険しくなりました。
私はまだ開ききられていない地図の音を、耳の奥で聞いた気がいたしました。
そして玉珠が、小さく呟きました。
「姉上」
「何ですか?」
「備える時、鼻はどうするの?」
私は目を閉じました。
丞相様――
やはり妹の鼻まで、地図に載せるおつもりなのですね……
劉玉珠です。
丞相様のお文は、紙なのに重いです。
姉上が読むと、お部屋の空気まで重くなります。
玉珠は少しだけ鼻がむずむずしました。
少しだけです。
姉上が隣で、ものすごく見ています。
まだ入れていません。
本当です!
今回は、寧珠ちゃんのお名前が丞相様のお文に出ました。
曹家の姫として大事に育てよ、と書いてあったそうです。
よいことのような気もします。
でも、姉上はあまり嬉しそうではありませんでした。
お婿さんの話まで出たからです。
寧珠ちゃんは、まだ赤ちゃんなのに……
お菓子も食べられないのに……
お婿さんより、まずお菓子ではないでしょうか?
姉上が横で怒っています。
違うそうです。
玉珠の夏侯家へのお泊まりも、丞相様は知っていました。
もしかすると、玉珠の鼻のことも知っているかもしれません。
それは少し困ります。
でも、丞相様なら知っていそうです。
片目を戦場に置いてきた元譲様も知っています。
若い人も、手を洗う場所を教えてくれます。
大人は、玉珠が思っているより、玉珠の鼻を見ているのかもしれません。
怖いです……
でも、手を洗えばよいのです。
姉上がまた怒っています。
そういう問題ではないそうです。
最後に、朝廷から使者が来ました。
魏公とか、九錫とか、難しい言葉が出ました。
玉珠にはよく分かりません。
けれど、姉上の顔がたいへん険しくなりました。
だから玉珠も、鼻の前で指を止めました。
止めました!
これは大事です。
備える時、鼻はどうするのか?
玉珠はまじめに聞いたのです。
姉上が、いま隣で頭を抱えています。




