丞相様、人が死んでも地図を広げないでくださいませんか?
劉明珠でございます。
前回、文烈様が戻られました。
娘には、寧珠という名が付きました。
寧かなる珠――
生まれる前から丞相様の地図に載せられていた子に、たいへん無茶な願いを込めた名でございます。
父親とは、時にずいぶん勝手な夢を子に贈るものですね。
その同じ日に、荀令君の訃報も届きました。
許へ護送されてきたばかりの私と玉珠を、ただの札としてだけは扱わなかった方です。
けれど、人が一人亡くなっても、年は改まります。
朝は来ます。
朝廷は動きます。
丞相様は、止まりません。
むしろ地図を畳むどころか、さらに広げていかれるようでございます。
たいへん働き者です。
褒めておりません。
今回は、年が改まった曹休家の奥でございます。
寧珠は少しずつ重くなり、曹肇様と曹纂様は妹を可愛がり、文烈様は曹家一門として朝廷まわりの警固に呼ばれることが増えます。
そして玉珠は、夏侯家へ定期的に通っております。
菓子をもらい、手を洗う場所を覚え、あまり笑わない若い方に褒められ、ついには夏侯家に自分の席まで用意されるようになりました。
たいへん結構なことです。
ええ――
結構なはずなのです。
ただ、席があるということは、そこに居場所ができているということでもございます。
玉珠の夏侯家入りは、もう文の上だけの話ではなくなってまいりました。
外では、丞相様が魏公へ近づいていく。
内では、玉珠が夏侯家へ近づいていく。
私の腕の中では、寧珠が何も知らずに眠っている。
動かぬ赤子ですら、いつか地図の上に置かれるのでしょう。
本当に、女というものは、本人が知らぬうちから行き先を用意されるようでございます。
そのうえ、丞相様からまた文が届きます。
朝廷の話。
玉珠の泊まり。
寧珠の未来。
どうやら全部、曹休家の奥へまとめて運ばれてくるようです。
せめて妹の鼻くらいは地図に載せないでいただきたいところですが――
相変わらず玉珠は緊張すると、まず鼻へ指が向かいます。
年が改まりました。
たいへん不思議なものでございます。
人が亡くなっても、年は改まります。
香の匂いが胸に残っていても、朝は来ます。
荀令君の名を聞いた夜、私は眠れませんでした。
寧珠は乳母の腕の中で眠り、曹肇様と曹纂様は久しぶりに帰られた父上のそばで安心したように休み、玉珠は寝ぼけながら鼻へ指を運ぼうとして、私に止められました。
曹休家の奥は、たいへん忙しい。
死者を悼み、赤子をあやし、幼子を寝かせ、妹の鼻を見張らねばなりません。
史書に残らぬ仕事ほど、手間がかかるようでございます。
年が改まってしばらくしても、荀令君の死が世の中を止めることはありませんでした。
止まるはずがない。
分かっております……
分かっておりますが、分かっていることと、腹が立たないことは別でございます。
丞相様は止まりません。
朝廷も止まりません。
地図も畳まれません。
むしろ、人が一人消えた場所へ、新しい線を引くようでございました。
文烈様は、以前よりも屋敷を空けることが増えました。
戦へ出るというより、曹家一門として呼ばれ、朝廷や丞相様の周りの警固に当たることが増えたのです。
「策を練っておられるのですか?」
そう尋ねると、文烈様は首を振られました。
「俺は命じられた場を守るだけだ」
「たいへん文烈様らしいお答えです」
「不満か?」
「いいえ。策を練る文烈様など、私の体に悪うございます」
文烈様は少し笑われました。
この方は、中央の暗い水底で糸を引く人ではありません。
門を守り、場を整え、乱れぬように立つ人です。
けれど、門を守る者がいるということは、その奥で何かが動いているということでもございます。
世の中は本当に嫌な作りをしております。
寧珠は少しずつ重くなりました。
名が付けば、人は急にこの世に根を下ろすのかもしれません。
乳母は寧珠を「寧児」と呼び、曹纂様は「ねいじゅ」と言うたびに少し得意げな顔をし、曹肇様は妹を抱く時だけ、年よりずっと慎重になります。
玉珠は毎回、寧珠の鼻を確認します。
「あります」
私は先に言うことにしました。
「まだ何も聞いてないよ?」
「聞く顔をしていました」
「姉上、すごい!」
すごくありません……
長年あなたの姉をしていれば、嫌でも分かるのです……
玉珠は夏侯家へ定期的に通うようになっておりました。
最初のうちは、帰ってくるたび菓子の数を報告しました。
次に、手を洗う場所を報告しました。
その次には、あまり笑わない若い方が、菓子を半分ではなく一つ丸ごとくれた、と報告しました。
その報告を聞いた時、私はたいへん嫌なことに気づきました。
玉珠の居場所が、夏侯家にもでき始めております。
ある日、玉珠は帰ってくるなり、たいへん嬉しそうに言いました。
「姉上、玉珠の席があったよ!」
私はその場で、寧珠を抱く腕に力が入りました。
「席、ですか?」
「うん、いつも座るところ。お菓子もそこにあった」
「そうですか……」
「あと、手を洗う場所ももう迷わない」
「それはたいへん結構ですね」
結構です。
結構なはずです。
妹が他家で粗略にされていない。
笑われず、追い払われず、席を用意され、菓子を置かれ、手を洗う場所まで覚えている。
喜ぶべきことです。
ええ、喜ぶべきことでございます。
ただし、怖がらない道ほど、人は遠くへ歩いてしまうものです。
「若い方は?」
私はなるべく何気なく尋ねました。
玉珠は首を傾げます。
「あんまり笑わない人?」
「その方です」
「今日は、玉珠が鼻をほじる前に手を洗ったら、よしって言った」
「嫁入り前の娘が、何を褒められているのですか……」
「手を洗ったこと」
「そうでしょうね……」
玉珠は真剣でした。
父上――
娘は、たいへん真剣に、たいへん低い場所で成長しております。
「あとね、その人が言ったの」
「何と?」
「玉珠が来る日は、菓子を余分に置くって」
私は目を閉じました。
外堀が菓子で埋められていく――
この世の政治は、時に甘い匂いがいたします。
だから余計に始末が悪い。
その日の夕刻、夏侯元譲様から文が届きました。
玉珠殿は家の空気に慣れてきた。
夏侯家の女たちも心得てきた。
春のうちに何度か泊まりを試させたい。
無理に留めるつもりはない。
嫌がるなら戻す。
菓子は用意する。
鼻は、なるべくほじらせぬ。
私は文を読み終え、静かに息を吐きました。
丁寧です。
礼もあります。
逃げ場だけがありません。
「姉上、何て書いてあるの?」
玉珠が寧珠の顔を覗き込みながら尋ねました。
「夏侯家へ泊まりに行く話です」
「泊まり?」
玉珠の目が丸くなりました。
「夜のお菓子もあるかな?」
「まずそこですか……」
「大事だよ!」
「もっと大事なことがあります」
「鼻?」
「違います……」
違う、と言い切りたいところですが、夏侯家の文にも鼻のことが書かれている以上、完全には違いません。
たいへん腹立たしい。
私は文烈様へ、その文を見せました。
文烈様は黙って読み、しばらく考えました。
「元譲殿らしい」
「どこがですか?」
「急がぬ。だが、戻りもしない」
まさにその通りでございます。
夏侯家は玉珠を奪いません。
ただ、玉珠の席を置き、菓子を置き、手水の場所を教え、若い方に慣れさせ、泊まりの話を出す。
気づけば、玉珠が夏侯家にいても不思議ではなくなっていく。
乱暴な者より、礼儀正しい者の方が恐ろしいことがございます。
季節が春から初夏へ移る頃、朝廷の話もはっきり届くようになりました。
丞相様へ、さらに大きな位を与える。
魏公――
九錫――
そのような言葉が、屋敷の奥にまで流れ込んできます。
私は寧珠を抱きながら聞きました。
寧珠は何も知りません。
ただ眠り、泣き、乳を求めます。
その小さな口の動きだけが、この世で一番まっすぐなものに見えました。
「荀令君が亡くなられて、まだどれほども経っておりませんね」
私は言いました。
文烈様は答えませんでした。
答えられることではないのでしょう。
丞相様は止まりません。
止まらないからこそ、ここまで来た方です。
それを否定するほど、私は夢見がちな女ではございません。
けれど、茶を出してくれた人の死の後に、位の話が進む。
人の名が消えた場所に、新しい称号が置かれる。
たいへんよくできた仕組みです。
褒めておりません。
その夜、私は寧珠の寝顔を見ていました。
外では、丞相様が魏公へ近づいていく。
内では、玉珠が夏侯家へ近づいていく。
そして私の腕の中では、寧珠が何も知らずに眠っている。
動いていないのは赤子だけです。
けれど、その赤子ですら、いつか地図の上に置かれるのでしょう。
女に生まれるとは、どこかへ置かれる準備を、本人が知らぬうちから始められることなのかもしれません。
たいへん不愉快です。
その不愉快を、私は誰にぶつければよいのでしょう。
丞相様でしょうか。
父上でしょうか。
朝廷でしょうか。
地図でしょうか。
あるいは、妹の鼻でしょうか。
「姉上!」
玉珠が声をかけてきました。
見ると、彼女はたいへん深刻な顔をしております。
「何ですか?」
「泊まりに行く時、鼻も行くの?」
私はしばらく黙りました。
文烈様が横を向きました。
笑わないでください……
「玉珠」
「うん」
「あなたが行くなら、鼻も行きます」
「よかった」
「よくありません……」
「置いていけって言われたら困ると思って」
「できるなら置いていきなさい」
「無理だよ。顔についてる!」
玉珠は本気で言いました。
本気で言われると、こちらが負けたような気になります。
「でもね、夏侯家には手を洗う場所があるから大丈夫!」
「嫁入りの安心材料がそこなのですか……」
「うん」
玉珠は少し考え、それから鼻へ指を近づけました。
「玉珠」
「まだ」
「泊まりの話をしている時に、やめなさい」
「緊張すると、鼻が考えるの」
「鼻に考えさせないでください」
「でも、朝廷も動くんでしょう?」
「あなたの鼻とは関係ありません」
「大きいものが動くと、鼻もむずむずする」
私は寧珠を起こさないよう、深く息を吐きました。
朝廷が動く。
夏侯家が動く。
玉珠の指も動く。
たいへん困った連動でございます。
その時、戸の向こうから家令の声がしました。
「奥方様」
私は嫌な予感とともに顔を上げました。
最近、家令の声は不吉の鈴のようです。
「丞相様より、お文にございます」
文烈様の表情が引き締まりました。
私は寧珠を抱き直します。
玉珠は鼻の前で指を止めたまま、きょとんとしていました。
朝廷の話。
玉珠の泊まり。
寧珠の未来。
それらが一つの文の上に乗って、曹休家の奥へ届こうとしております。
私はまだ封も切っていない文を見つめました。
丞相様――
人が死んでも、地図を畳まない方。
どうかせめて、妹の鼻まで地図に載せるのはおやめください。
まあ、載せるのでしょうけれど……
劉玉珠です。
今回は、年が改まりました。
年は勝手に改まります。
荀令君様が亡くなっても、朝になります。
姉上は眠れなかったそうです。
玉珠は少し寝ました。
でも、寝ぼけて鼻に指が行きました。
姉上に止められました。
姉上は、寝ていても玉珠の鼻を見ています。
すごいです!
でも、少し怖いです……
寧珠ちゃんは大きくなってきました。
まだ小さいけれど、前より重くなりました。
玉珠は毎回、鼻があるか確認しています。
姉上は先に「あります」と言います。
なぜ分かるのでしょう?
姉上は、玉珠のことをよく見ています。
やっぱり怖いです……
夏侯家にも通っています。
お菓子があります。
手を洗う場所も覚えました。
あまり笑わない若い人もいます。
その人は、玉珠が鼻をほじる前に手を洗ったら、よし、と言いました。
玉珠は褒められました。
たぶん――
姉上は、嫁入り前の娘が何を褒められているのか、と言いました。
手を洗ったことです。
大事です。
夏侯家には、玉珠の席もありました。
いつも座るところです。
そこにお菓子もありました。
玉珠は嬉しかったです。
でも姉上は、少し怖い顔をしました。
席があるのは、良いことではないのでしょうか。
座る場所がないと困ります。
立ったままお菓子を食べるのは大変です。
でも、姉上はたぶん、別のことを考えています。
大人は、席を見ると遠くを見るようです。
元譲様から文も来ました。
玉珠が夏侯家へ泊まりに行く話です。
泊まり――
夜のお菓子があるかもしれません。
でも、姉上はそこではないと言いました。
では鼻でしょうか?
それも違うと言われました。
でも文には、鼻はなるべくほじらせぬ、と書いてあったそうです。
やっぱり鼻も大事なのではないでしょうか。
玉珠が泊まりに行くなら、鼻も行きます。
顔についているからです。
置いていけと言われたら困ります。
姉上は、できるなら置いていきなさいと言いました。
できません。
無理です。
玉珠にも限界があります。
外では、丞相様が魏公という大きなものへ近づいているそうです。
九錫という言葉も出てきました。
玉珠にはよく分かりません。
でも、姉上の顔を見ると、あまり甘いお菓子の話ではなさそうです。
地図も広がるそうです。
地図は嫌な紙です。
人の行き先を勝手に決めます。
玉珠の席も、寧珠ちゃんの未来も、姉上の顔も、紙の上で動かされるのかもしれません。
紙なのに強いです。
最後に、丞相様から文が来ました。
姉上はまだ開けていません。
でも、もう嫌な顔をしていました。
文烈様も少し怖い顔です。
玉珠は鼻の前で指を止めました。
止めました。
これは大事です。
朝廷が動く。
夏侯家も動く。
丞相様の文も来る。
そうなると、玉珠の鼻もむずむずします。
でも、まだです。
まだ、ほじっていません。
……たぶん。




