文烈様、娘に名を付けた日に訃報を置かないでくださいませんか?
劉明珠でございます。
前回、玉珠が初めて夏侯家へ行きました。
菓子をいただき、手を洗う場所を教わり、若い方に「なら覚えておけ」と言われて帰ってまいりました。
何を覚えるのかと申しますと、鼻をほじる前に手を洗う場所でございます。
夏侯家はたいへん実務的です。
妹の嫁ぎ先として安心すべきなのか、鼻をほじる妹が受け入れられつつあることに頭を抱えるべきなのか、姉として判断に迷うところでございます。
さて、今回は文烈様がお戻りになります。
娘が生まれてから、まだ名がありません。
父親が帰ってくるまで待つ。
たいへん美しい話でございます。
美しいだけで済めば、どれほど楽だったことでしょう。
娘には、ようやく名が付きます。
生まれる前から丞相様の地図に載せられていた子が、曹休家の子として、父の口から名を与えられます。
それだけなら、少しは穏やかな回になったかもしれません。
けれど、文烈様は寿春から戻ってこられました。
そして寿春には、重い報せがございました。
荀令君――
許へ護送されてきたばかりの私と玉珠を、ただの札としてだけは扱わなかった方です。
少なくとも、震えている娘二人へ茶を出す程度には、人として見てくださった方でした。
その名が、死者の名として曹休家の奥へ届きます。
娘は名を得ます。
荀令君は、死してなお名を残します。
では、名も残らぬ女たちは、どこに置かれるのでしょうか?
ちなみに玉珠は、悲しい時も緊張した時も、鼻へ指が向かいます。
今回ばかりは本当にやめていただきたい。
香を焚く場で鼻をほじる妹を止める姉の気持ちなど、史書には残らないでしょうから……
それでは、文烈様の帰還でございます。
帰ってくる方が、よい知らせだけを連れてくるとは限りませんけれど……
帰ってくる――
その言葉は、たいへん便利でございます。
口にした者は希望を残したつもりになり、待つ者はその希望に縛られます。
そして本当に帰ってこられると、待っていた側は喜ばねばならない。
たいへん忙しい。
私は産後の体で、娘を抱いておりました。
娘、と呼びながら、まだ名はありません。
曹休家の姫君。
文烈様の娘。
劉備玄徳の外孫。
丞相様の地図に載った女子。
呼び名だけなら、いくらでもございます。
けれど、それはこの子の名ではありません。
「文烈様、間もなくお戻りにございます」
家令の言葉に、屋敷の空気が一斉に動きました。
曹肇様は背筋を伸ばされ、曹纂様は「ちちうえ」と繰り返し、玉珠は菓子の包みを抱えたまま、なぜか鼻へ指を近づけております。
「玉珠!」
「まだ」
「その返事は禁じたはずです!」
「帰ってくるから緊張して」
「帰還祝いに鼻をほじる妹を持つ姉の気持ちを考えてください」
玉珠は真剣に考えました。
そして言いました。
「たいへん?」
「たいへんです」
言葉が通じたようで、通じておりません。
私は娘を抱き直しました。
立ち上がろうとしたところで、曹肇様がすっと前に出られます。
「明珠殿は、座ってお迎えください」
「私はそこまで弱っておりません」
「昨日、立とうとして世界が傾いたと仰いました」
「世界の方が悪いのです」
「父上に申し上げます」
私は黙りました。
この若君は、近頃本当に容赦がありません。
誰に似たのでしょう……
おそらく文烈様です……
いえ、少し私にも似てきた気がします。
たいへん困ります。
やがて門の方から声が上がりました。
文烈様が戻られたのです。
長く留守にされたわけではない。
けれど、出陣した方が無事に帰るたび、屋敷は少しだけ息を吹き返します。
文烈様は戦の埃をまとっておられました。
疲れもあります。
それでも、私を見る目は以前と同じでした。
「明珠」
「お帰りなさいませ」
私は座ったまま礼を取りました。
立てないのではありません。
立たせていただけないだけです。
念のため申し上げておきます。
文烈様はそのことを見抜いたように、少し眉を上げました。
「無理はしておらぬな?」
「しておりません」
「本当か?」
「今は座らされておりますので」
文烈様の視線が曹肇様へ移りました。
曹肇様はきちんと頭を下げます。
「父上のお言葉を守りました」
「よくやった」
「文烈様」
私は抗議しました。
「私は病人ではございません」
「産後だ」
「それを皆で盾にしすぎでは?」
「盾になるなら使う」
武人の発想です。
たいへん合理的で、たいへん腹立たしい。
曹纂様が文烈様へ飛びつき、玉珠はその横で菓子の包みを掲げました。
「文烈様! 夏侯家のお菓子!」
「土産をもらったのか」
「うん! あと手を洗う場所も教えてもらった!」
文烈様は一瞬だけ黙りました。
それから私を見ます。
「何があった?」
「お察しください」
「鼻か……」
「お察しが早すぎます」
玉珠は胸を張りました。
「門の前では我慢したよ!」
「中では?」
「少し……」
文烈様は咳払いをなさいました。
笑いを隠したのです。
隠しきれておりません。
曹休家の男たちは、なぜ玉珠の鼻に対して妙に寛容なのでしょう。
私だけが礼儀の最後の砦のようになっております。
たいへん荷が重い。
やがて文烈様は、乳母から娘を受け取られました。
その瞬間、いつも戦場の土をまとって見える方の腕が、別のものになりました。
武器を持つ腕ではなく、子を抱く腕です。
娘は小さく身じろぎをしました。
まだ何も知らぬ顔で、父の腕の中におります。
文烈様はしばらく黙って娘を見つめておられました。
私はその横顔を見て、胸の奥が妙に静かになるのを感じました。
静かになるなど、私らしくありません。
ですから、少し腹を立てておきます。
「文烈様」
「何だ?」
「名を……」
文烈様は頷かれました。
「考えていた」
「戦の途中で、ですか」
「帰る理由が増えたからな」
そういう言い方をされると、こちらが返しに困ります。
本当にこの方は、ときどき卑怯です。
文烈様は娘の頬へ目を落としたまま、静かに仰いました。
「寧珠」
その名が、部屋の中に落ちました。
寧珠――
寧かなる珠。
あまりにも無茶な名です。
この子は生まれる前から丞相様の地図に載せられました。
女子であるがゆえに、いつかどこへでも置ける札として見られるでしょう。
その子に、寧かであれ、と……
父親とは、ずいぶん勝手な願いを子に贈るものです。
「寧珠、でございますか?」
「そうだ」
「たいへん難しい名ですね」
「だから付ける」
文烈様は、そう仰いました。
私は少し目を伏せました。
難しいから付ける。
無理だから願う。
それは、たいへん愚かで、たいへん父親らしい。
私は娘を見ました。
いえ、もう娘ではありません。
寧珠です。
曹寧珠――
私の娘が、初めて名で呼ばれました。
玉珠がそろそろと近づきます。
「寧珠ちゃん?」
「そうです」
「鼻あるね」
「そこはもう確認済みです」
「寧珠ちゃんは、鼻ほじる?」
「まだです」
「いつから?」
「一生しなくてよろしい」
玉珠は不思議そうな顔をしました。
本気で疑問なのが怖いところです。
文烈様はついに小さく笑われました。
曹肇様も目元を緩め、曹纂様は「ねいじゅ」と覚えたばかりの音を繰り返します。
その時だけ、屋敷は本当に家のようでした。
戦も、地図も、父上も、丞相様も、少し遠くに退いた気がいたしました。
もちろん、そう都合よく退いたままでいてくださる世の中ではございません。
文烈様が寧珠を乳母へ返された後、表情を少し改められました。
私はそれを見て、先ほど家令が口にした言葉を思い出します。
寿春より、重い報せ。
胸の中に、冷たいものが落ちました。
「明珠」
「はい」
「寿春で、荀令君が亡くなられた」
部屋の音が遠のきました。
荀令君――
荀彧。
その名は、私にとって遠い朝廷の名ではありません。
許へ護送されてきたばかりの頃、私と玉珠を見た方です。
震える娘二人を、ただの札としてだけは扱わなかった方です。
少なくとも、茶を出し、座る場所を示し、玉珠の妙な問いにも顔を崩さなかった方でした。
「……寿春で」
「そうだ」
文烈様の声は低く、短い。
戦場で多くの死を見てきた方の声です。
けれどそこには、ただの報告ではない重さがありました。
「ご病気で?」
私はそう尋ねました。
尋ねながら、自分でも分かっておりました。
人の死は、いつも一つの理由だけで済むとは限りません。
病。
疲れ。
政。
沈黙。
言葉にされなかった何か。
それらが重なって、人を連れていくことがございます。
文烈様はしばらく黙りました。
「詳しくは、言えぬ」
「言えぬのですね」
「俺も、すべてを知る身ではない」
曹休文烈――
曹家の一門。
戦場に立つ武人。
けれど、中央の暗闇で何が沈んだのかを、すべて語る方ではありません。
語れない方でもあります。
私はそのことを分かっております。
分かっているから、なお嫌になります。
「丞相様と荀令君の間に何があったのか、奥にいる私が知るはずもございませんね」
「明珠」
「分かっております。分かっていることにしたいだけでございます」
玉珠が、ぽつりと言いました。
「荀令君様、死んじゃったの?」
その声は、いつもの玉珠より少し小さく聞こえました。
「そうです」
「許で、お茶くれた人?」
私は息を止めました。
玉珠は覚えておりました。
菓子ほど鮮明ではないでしょう。
夏侯元譲様の片目ほど面白くもないでしょう。
けれど、あの時の茶を覚えていたのです。
「はい」
「怒らなかった人?」
「はい」
「玉珠が、目は二つある方が便利? って聞いた時も?」
「それは元譲様への無礼です」
「荀令君様も聞いてた」
やめてください。
過去の私の胃まで痛くなります。
けれど、文烈様は静かに聞いておられました。
「香を」
私は乳母へ寧珠を預け、侍女へ指示を出しました。
大げさな葬儀など、曹休家の奥で勝手にできるものではありません。
けれど、香を焚くことはできます。
名を覚えていることはできます。
それくらいは、奥にいる女にも許されてよいでしょう。
香炉が用意され、細い煙が上がりました。
曹肇様と曹纂様も手を合わせます。
玉珠はじっと香を見つめていました。
珍しく静かです。
静かすぎると思った時には、もう遅い。
玉珠の指が、鼻へ向かっておりました。
「玉珠」
「泣くと鼻が……」
「分かります」
「むずむずする」
「それも分かります」
「じゃあ」
「今は違います」
玉珠は悲しそうな顔をしました。
鼻をほじれない悲しみなのか、荀令君の死への悲しみなのか、判断に困ります。
たぶん両方です。
それが玉珠という子です。
文烈様は軽く目を伏せておられました。
笑いませんでした。
怒りもしませんでした。
曹肇様がそっと手巾を玉珠へ差し出します。
玉珠はそれで鼻を押さえました。
成長です。
やはり低い位置からの成長ですが、今日はそれで十分でしょう。
香の煙が細く上がります。
寧珠は乳母の腕の中で眠っています。
名を得たばかりの子。
名を残して亡くなった方。
史書に大きく記される者。
奥の片隅で、名も残らぬまま生きる者。
今日は、それらが同じ屋敷の中におりました。
たいへん混雑しております。
「荀令君は、名を残されますね」
私は小さな声で言いました。
文烈様がこちらを見ます。
「残る」
「では、私たちは?」
「明珠」
「いえ、戯言です。お気になさらず」
気にするなと言って、気にしない方ではありません。
だから言うのです。
私は香の煙を見つめました。
荀令君は、死しても名を残します。
寧珠は、今ようやく名を得ました。
玉珠は、これから夏侯家の道を歩き始めます。
私は、劉備玄徳の娘として史書の端にも残らないかもしれません。
それでも、誰かの記憶には残るのでしょうか?
曹休家の奥で、文を読み、返書を書き、子を産み、妹の鼻を止めていた女として……
たいへん不本意な形ではありますが……
その夜、文烈様は遅くまで起きておられました。
寧珠の寝息を聞き、曹肇様と曹纂様の様子を確かめ、玉珠が鼻をほじっていないか私と一緒に見張り、そして最後に、低い声で仰いました。
「明珠」
「はい」
「丞相様は、次へ進まれる」
その言葉に、私は顔を上げました。
「次?」
「荀令君の死で、止まる方ではない」
知っております。
丞相様は止まりません。
人が死んでも、地図は畳まれません。
むしろ空いた場所へ、次の線が引かれるのでしょう。
文烈様は少し迷い、それから言いました。
「年が改まれば、朝廷の話も動く」
朝廷――
私は寧珠の寝顔を見ました。
娘に名が付いた日。
荀令君の死を聞いた日。
その最後に、また朝廷の話ですか。
本当に、女の腕の中にある小さな平穏へ、世の中はよく土足で上がり込んでくるものです。
私は静かに答えました。
「承知いたしました」
文烈様は私を見ました。
「まだ何も言っておらぬ」
「良い知らせではないことくらい、分かります」
その時、廊下の向こうで小さな声がしました。
「姉上……」
玉珠です。
振り返ると、妹が寝ぼけた顔で立っておりました。
そして、鼻に指を入れかけております。
「玉珠」
「重い話の夢を見た」
「鼻から出そうとしないでください」
玉珠は慌てて手を下ろしました。
私は寧珠の寝息を聞きながら、胸の奥で思いました。
名を得た娘。
死した荀令君。
夏侯家へ向かう妹。
そして、年が改まれば動く朝廷。
曹休家の奥は、どうやら次の年も、静かにはさせていただけないようでございます。
劉玉珠です。
今回は、文烈様が帰ってきました。
ちゃんと帰ってきました。
帰ってくると言った人が本当に帰ってくるのは、すごいことです。
姉上は座って待っていました。
立とうとすると、曹肇様が止めます。
曹肇様は小さいのに、最近とても強いです。
姉上の言い訳を先にふさぎます。
たぶん、姉上から学んだのだと思います。
文烈様は、赤ちゃんを抱きました。
赤ちゃんはまだ小さくて、何も知らない顔をしています。
そして、名前がつきました。
寧珠ちゃんです。
寧珠ちゃん。
玉珠と似ています。
明珠姉上、玉珠、寧珠ちゃん。
珠が三つです。
お菓子なら三つあると嬉しいですが、人の名前だと、何だか大事な感じがします。
寧珠ちゃんは、まだ鼻をほじりません。
姉上は、一生しなくてよいと言いました。
それは少し難しいと思います。
鼻は顔についています。
顔についているものを、ずっと気にしないのは大変です。
でも寧珠ちゃんは赤ちゃんなので、今は何も知らなくてよいです。
そのあと、荀令君様が亡くなったと聞きました。
許で、お茶をくれた人です。
玉珠が変なことを言っても、怒らなかった人です。
姉上は、覚えていたのか、という顔をしました。
覚えています。
お菓子だけ覚えているわけではありません。
お茶をくれた人も覚えています。
怖い時に座ってよい場所を教えてくれた人も、覚えています。
香を焚きました。
煙が細く上がりました。
玉珠は泣きそうになりました。
泣くと鼻がむずむずします。
これは玉珠が悪いのではありません。
鼻も悲しいのです。
でも姉上に止められました。
曹肇様が手巾をくれました。
手巾は便利です。
夏侯家では手を洗う場所を教わりました。
曹休家では手巾を渡されました。
玉珠の鼻は、いろいろな家に気を遣われています。
これは良いことなのでしょうか?
たぶん、姉上に聞くと違うと言われます。
文烈様は、丞相様は止まらないと言いました。
人が死んでも、地図は畳まれないそうです。
地図は冷たいです。
お茶も出してくれません。
お菓子もくれません。
でも、人の行き先を勝手に決めます。
嫌な紙です。
年が改まると、朝廷の話も動くそうです。
朝廷は大きいところです。
そんな大きいものが動いたら、誰かが踏まれそうです。
姉上の顔を見ると、踏まれるのはたぶん、女の人です。
寧珠ちゃんは眠っています。
姉上は起きています。
文烈様も起きています。
玉珠は、鼻をほじらないようにします。
たぶん――
でも、朝廷まで動くなら、玉珠の指も少し動くかもしれません。




