元譲様、妹だけ連れていかれるのは困るのですが?
劉明珠でございます。
前回、夏侯元譲様が曹休家へお越しになりました。
玉珠の縁談についてでございます。
急ぎ奪うつもりはない。
少しずつ夏侯家へ通わせる。
家の空気を覚えさせる。
たいへん丁寧なお話でした。
丁寧すぎて、かえって断りにくいのです。
しかも元譲様は、玉珠が鼻へ指を持っていったところを見ても、怒るどころか真似なさいました。
私は、それを見て、産後の身で死にかけました。
今回は、玉珠が初めて夏侯家へ向かいます。
当然、姉である私も同行するつもりでおりました。
ところが、体というものは実に無礼です。
持ち主の意地も、姉としての責任も、曹休家の奥方としての面子も、まったく考えてくれません。
私は行けません。
見届けられません。
妹が夏侯家の門をくぐる日、私は名もない娘を抱いて、曹休家で待つことになります。
長坂で、私たちは置かれました。
今度は、私が玉珠を送り出す側になります。
似ているようで、違う。
そう信じたいところでございます。
ただ、世の中は信じたい形にはなかなかなってくれません。
玉珠は帰ってきます。
菓子を抱えて。
鼻の話を抱えて。
そして、夏侯家で出会った若い方の話まで持って……
妹の道は、文の上だけではなくなりました。
門をくぐり、菓子を受け取り、手を洗う場所を教わる。
地図の線とは、案外そういう形で引かれるものなのかもしれません。
さらに、文烈様の帰還の報せも届きます。
娘に名が付く。
ようやく、そう思いました。
けれど帰ってくる方は、時に別のものも連れてまいります。
寿春より、重い報せがあるそうです。
本当に、曹休家の奥は、息をつく隙を与えてくれません。
夏侯家へ玉珠を連れていく日、私は当然のように衣を整えようといたしました。
当然です。
玉珠は私の妹です。
私が見届けずに、誰が見届けるというのでしょう。
そう思って立ち上がった瞬間、目の前が少し白くなりました。
たいへん不本意です。
体というものは、持ち主の誇りをまったく考慮してくれません。
「奥方様!」
侍女が悲鳴を上げ、乳母が娘を抱いたままこちらを振り返り、家令が戸口で固まりました。
その騒ぎを聞きつけて、曹肇様まで走ってこられます。
走ってこられるほどのことではありません。
少し立っただけです。
少し、世界が傾いただけです。
「明珠殿、座ってください」
「私は座っております」
「座らされております」
曹肇様は冷静でした。
たいへん困ります。
最近、この若君は私の言い逃れを覚えてしまいました。
「玉珠が夏侯家へ行くのです。姉である私が行かずにどうします」
「産後です」
「存じております」
「昨日も医師に叱られました」
「医師は大げさでございます」
「乳母も叱っていました」
「乳母も大げさです」
「父上がいれば、もっと叱ります」
それは効きました――
文烈様の名を出されると、少し黙らざるを得ません。
まったく、誰がこの子にそのような言い方を教えたのでしょう。
おそらく私です。
自分の言葉が戻ってくるのは、たいへん面倒でございます。
玉珠は部屋の隅で、出かける支度をされていました。
髪を整えられ、衣を直され、いつもより少しだけ賢そうに見えます。
見えるだけです。
指は鼻の近くをうろうろしておりました。
「玉珠」
「まだ」
「本日は、その返事を禁じます」
「まだ入れてないのに……」
「入れる前に止めているのです」
玉珠は不満そうに唇を尖らせました。
夏侯家へ向かう支度をしている妹の第一の問題が鼻であることに、私は深く頭を抱えたくなりました。
抱える頭も、産後には重いのですけれど……
そこへ、夏侯元譲様がお越しになりました。
まさかご本人が迎えに来るとは思っておりませんでした。
思っていなかったことばかり起こるのが、私の人生でございます。
元譲様は広間へ通される前に、私の部屋の前で足を止められました。
「明珠殿は来なくてよい」
開口一番、それでした。
たいへん腹立たしい。
「まだ何も申し上げておりません」
「顔に書いてある」
「産後の女の顔を勝手に読まないでください」
「読まずとも分かる。無理をする顔だ」
失礼なことに、正しい。
私は黙りました。
元譲様は、片目でこちらを見ておられます。
片目なのに、逃げ道が二つほど塞がれる感じがいたします。
「妹のことです」
「だから残れ」
「意味が通りません」
「倒れた姉を見て、玉珠が落ち着くと思うか?」
私は返す言葉を失いました。
元譲様はさらに続けられます。
「文烈に顔向けできぬ。産後の妻を連れ回したなどと言われてはな」
文烈様の名を出すのは卑怯です。
曹肇様といい、元譲様といい、なぜ皆そこを突くのでしょう。
私の弱点が屋敷中に掲げられている気がいたします。
「では、玉珠をお願いします」
ようやくそう言うと、元譲様は短くうなずかれました。
「預かる。連れ去るのではない」
その言い方が、また困ります。
奪う、と言われれば怒れます。
渡せ、と言われれば拒めます。
預かる、と言われると、こちらは礼を尽くさねばならない。
世の中、乱暴より丁寧の方が厄介なことがございます。
玉珠は元譲様を見上げました。
「元譲様のお家、お菓子ある?」
「ある」
「鼻は?」
「我慢しろ」
玉珠の顔が曇りました。
お菓子と鼻を同じ重さで考えているらしい妹を見て、私は少しめまいがいたしました。
産後のせいではないと思います。
「玉珠」
私は妹を呼びました。
玉珠は私のそばへ来ます。
いつもなら走ってくるところですが、今日は衣を汚すなと侍女に言われているので、そろりそろりと歩いておりました。
「姉上も行かないの?」
「行きません」
「どうして?」
「私は、この家で待ちます」
言いながら、胸の奥が少し痛みました。
長坂で、私たちは置かれました。
今日は、私が玉珠を送り出します。
似ているようで、まったく違う。
そう信じたい。
信じなければ、息ができません。
「帰ってくる道を忘れないように」
「うん」
「鼻をほじらないように」
「……うん」
今、間がございました。
たいへん不安です……
元譲様が玉珠へ手を差し出されました。
玉珠は少し迷い、それからその大きな手をつかみ、幼い手が武人の手に包まれます。
その光景は、恐ろしいようで、少しだけ安心するものでもありました。
「行ってくるね!」
玉珠が言いました。
私は笑おうとしました。
うまくできたかは分かりません。
「行ってらっしゃいませ」
門が閉まりました。
私は立ち上がれませんでした。
立ち上がれば、また皆に叱られます。
何より、体が言うことを聞きません。
妹が初めて夏侯家へ行く日に、私は寝台の上で娘を抱くしかない。
母になった途端、姉である手が届かなくなる。
たいへんよくできた皮肉です。
考えた者がいるなら、顔を見てみたい。
おそらく丞相様の地図の上にでもいるのでしょう。
娘は私の腕の中で眠っておりました。
まだ名もない。
小さな口が、時々かすかに動きます。
この子もいつか、私の腕の外へ出るのでしょう。
玉珠のように……
私のように……
女子に生まれるとは、腕の中にいる時間より、どこかへ向かう道の方を早く用意されることなのかもしれません。
私は娘の額へそっと触れました。
「あなたは、まだここにいなさい」
赤子は返事をしません。
それでよろしい。
今だけは、何も知らずにいてください。
昼を過ぎても、玉珠は戻りませんでした。
夏侯家は玉珠を丁寧にもてなしているのでしょう。
それは分かります。
分かるからこそ、落ち着きません。
粗略にされれば怒れる。
笑われれば連れ戻せる。
けれど大事にされているなら、私は何を理由に不安がればよいのでしょう。
理由がなくても不安は育ちます。
人の心とは、たいへん勝手な畑でございます。
曹肇様が時折、様子を見に来られました。
「まだお戻りではありません」
「分かっています」
「門に人を置いております」
「ありがとうございます」
「明珠殿、寝てください」
「寝られるなら寝ております」
曹肇様は少し考えました。
「玉珠殿は戻ります」
その言葉は、幼い慰めではありませんでした。
きちんとした約束の形をしておりました。
私はこの若君に、いつの間にか頼るようになっている自分に気づきました。
困ります。
血のつながらぬ子に支えられるとは、曹休家の奥は本当に油断なりません。
夕方近くになって、ようやく玉珠が戻りました。
元譲様の家の者に付き添われ、両手に包みを抱えております。
無事――
まず、それだけを見ました。
髪も乱れていない。
衣も大きくは汚れていない。
鼻の下も、たぶん大丈夫。
たぶんです。
「姉上!」
玉珠は部屋へ入るなり、嬉しそうに包みを掲げました。
「お菓子もらった!」
「まずそこですか……」
「大事だよ!」
「分かりました。それで、夏侯家はどうでしたか」
玉珠は座り、包みを大切そうに膝へ置きました。
「広かった!」
「はい」
「元譲様のお家の人、玉珠を見ても笑わなかった!」
私は息を止めました。
「そうですか……」
「お菓子くれた!」
「そこへ戻るのですね」
「あと、手を洗う場所を教えてくれた!」
「なぜでしょうね……」
「鼻の前に洗えって」
私は天井を見上げました。
夏侯家は、玉珠を直すつもりではないのかもしれません。
玉珠が玉珠のままでも、家の中で困りすぎないよう、先に水を用意するつもりなのでしょう。
たいへん実務的です。
そして、たいへん逃げ場がない。
「ほじったのですか?」
「少し」
「少し……」
「門の前では我慢したよ!」
「そこは褒めるべきなのでしょうか?」
「元譲様が、中で手を洗えばいいって!」
あの方は、どこまで豪胆なのでしょう。
鼻をほじる妹を叱るのではなく、洗う場所を教える。
これでは、玉珠は夏侯家を怖がりません。
そして怖がらない道は、歩きやすくなります。
歩きやすい道ほど、遠くへ行ってしまうものです。
「誰か、嫌なことを言いましたか?」
「言わなかった」
「じろじろ見られましたか?」
「見られたけど、元譲様がいたから、みんな静かだった」
「怖かったですか?」
玉珠は少し考えました。
今度は鼻へ指を持っていきかけ、私の視線に気づいて止めました。
成長です。
たいへん低い位置からの成長ですが、成長は成長です。
「ちょっと怖かった。でも、お菓子あったし、元譲様がいた」
「そうですか……」
「あと、若い人がいた」
私は眉を動かしました。
「若い人?」
「元譲様のお家の人。玉珠より少し大きい。あんまり笑わない」
「何か言われましたか?」
「鼻をほじる前に、手を洗う場所はあっちだって」
私は目を閉じました。
夏侯家、徹底しております。
「それで?」
「玉珠が、まだほじってないって言ったら、じゃあ覚えておけって」
「……実務的な方ですね」
「うん。あと、お菓子を半分くれた!」
玉珠の中では、それで評価がかなり上がったようです。
若い人――
元譲様の家の者。
玉珠より少し大きい。
あまり笑わず、手を洗う場所を教え、菓子を分ける。
私はその輪郭を、心の中でそっと見ました。
まだ名は出ません。
けれど、おそらく――
おそらく、玉珠の道の先にいる子なのでしょう。
私は娘を抱き寄せました。
妹の道は、もう文の上だけではありません。
門をくぐり、菓子を受け取り、手を洗う場所まで教わってしまいました。
たいへん生活感のある政治でございます。
地図の線というものは、実際にはこうして引かれるのかもしれません。
菓子の包みと、手水の場所と、幼い会話で。
玉珠は包みを開け、菓子を一つ私へ差し出しました。
「姉上も食べる?」
「いただきます」
甘いものは、少しだけ心を落ち着けます。
少しだけです。
食べ終えた頃、家令が慌ただしく入ってまいりました。
「奥方様」
その声で、私は菓子を飲み込む前から嫌な予感を覚えました。
最近、家令の声だけで胃が重くなります。
「文烈様より、先触れにございます」
私は立ち上がりかけ、曹肇様に手で制されました。
本当にこの若君は抜け目がありません。
「文烈様が……?」
「間もなくご帰還とのこと」
胸の奥が、一瞬明るくなりました。
娘に名が付く。
文烈様が戻る。
ようやく、曹休家の奥に少し息が戻る。
そう思いました。
けれど家令の顔は、明るいだけではありませんでした。
「ただ……」
ただ――
その一言は、たいてい碌なものを連れてきません。
私は娘を抱き直しました。
玉珠は菓子を持ったまま、きょとんとしています。
「寿春より、重い報せも伴っておいでとのことにございます」
寿春――
その地名が、部屋の空気を冷やしました。
呉へ向かった道。
文烈様が戻る道。
そして今、まだ名のない娘と、夏侯家の菓子を抱えた妹の前に置かれた、新しい影。
私は娘の小さな背を撫でました。
文烈様は帰ってくる。
けれど帰ってくる方は、時に訃報も連れてくるのです。
劉玉珠です。
今回は、玉珠が元譲様のお家へ行きました。
姉上も一緒に来ると思っていました。
でも、姉上は来ませんでした。
来ないのではなく、来られないのだそうです。
赤ちゃんを産んだばかりだから、立つだけでも大変なのです。
姉上は大丈夫な顔をしていました。
でも、あれは大丈夫ではない時の顔です。
玉珠は分かります。
姉上は、怒っている時と、悲しい時と、無理をしている時の顔が少し似ています。
全部こわいです。
元譲様は、玉珠を連れていく時、姉上に「預かる」と言いました。
連れ去るのではないそうです。
玉珠は少し安心しました。
預かるなら、返してもらえるからです。
たぶん――
元譲様のお家は広かったです。
人も多かったです。
玉珠を見る人もいました。
でも、笑う人はいませんでした。
元譲様がいたからかもしれません。
元譲様は片目なのに、周りの人がちゃんと静かになります。
目は数ではないのかもしれません。
お菓子もありました。
これは大事です。
とても大事です。
あと、手を洗う場所を教えてもらいました。
鼻の前に洗え、と言われました。
玉珠は、まだほじっていないと言いました。
すると、若い人が「なら覚えておけ」と言いました。
その人は、玉珠より少し大きいです。
あまり笑いません。
でも、お菓子を半分くれました。
だから、悪い人ではないと思います。
手を洗う場所も教えてくれました。
だから、たぶん、かなり実用的な人です。
姉上に話したら、難しい顔をしていました。
玉珠はお菓子を持って帰ったのに、姉上はお菓子より若い人の話を気にしていました。
大人は見るところが違います。
玉珠は、ちゃんと頑張りました。
門の前では鼻をほじりませんでした。
中では少しだけです。
少しです……
本当に少しです……
元譲様は、中で手を洗えばいいと言いました。
姉上は天井を見ていました。
天井に何かあったのでしょうか?
帰ってきたら、文烈様が戻ってくるという知らせがありました。
赤ちゃんに名前がつきます。
玉珠は楽しみです。
でも、家令さんの顔は明るいだけではありませんでした。
寿春から、重い知らせもあるそうです。
重い知らせとは何でしょう。
お菓子より重いのでしょうか。
赤ちゃんより重いのでしょうか。
姉上の顔を見ると、たぶん、もっと重いものです。
文烈様は帰ってきます。
でも、帰ってくる人が、よい知らせだけを持ってくるとは限らないようです。
玉珠は鼻をほじらないようにします。
たぶん――
重い知らせの時は、特に……
……でも、緊張すると、指が勝手に動くのです。




